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第41回研究例会 加藤誠之氏発表要旨 [研究例会のお知らせ]

7月7日に開催される第41回研究例会(13 :30~ 立教大学 5号館5306教室)の、加藤誠之氏(高知大学)の発表要旨です。
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日本サルトル学会会報第55号 [会報]

研究例会のお知らせ
第41回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムを開催致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。
第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室
研究発表
13:30 ~ 14:45
発表者:加藤誠之(高知大学)
「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
司会:生方淳子(国士舘大学)

総会 17:40 ~

懇親会 18:30 ~

※ 発表要旨につきましては、後日サルトル学会のブログに掲載いたします。
                     http://ajes.blog.so-net.ne.jp/
サルトル関連文献
・ 中田光雄『意味と脱–意味: ソシュール、現代哲学、そして……』水声社、2018年
・ ジュリア・クリステヴァ『ボーヴォワール』栗脇永翔・中村彩訳、法政大学出版局、2018年
・ シモーヌ・ド ボーヴォワール『モスクワの誤解』井上たか子訳、人文書院、2018年
・ 川神傳弘「『歴史的なもの』と『歴史主義』の懸隔 : ベルジャーエフ、サルトル、カミュ、ポンティ、アロン」『仏語仏文学』(44), 1-32, 2018.
・ Hiroaki Seki “Sartre et la figure de Cassandre” Sartre Studies International 23(2) : 36-57, 2017.
・ 関大聡「大地への慎重な接近:サン=テグジュペリを読むサルトル」『年報地域文化研究』20 : 1-23, 2018.

講演会のご案内
法政大学言語・文化センター主催講演会
ジル・フィリップ氏 後援会

日時:6月7日(木)17:30より
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)
ボアソナードタワー3階 マルディメディア教室0300

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Entre édition scientifique et édition commerciale : dans les coulisses de la Pléiade »
司会:澤田直(立教大学文学部)

講演はフランス語・通訳なし
参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:鈴木正道(法政大学国際文化学部)
e-mail : masamiti[at]hosei.ac.jp

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。


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2018-06-04

研究例会のお知らせ
第41回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムを開催致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室

研究発表
13:30 ~ 14:45
発表者:加藤誠之(高知大学)
「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
司会:生方淳子(国士舘大学)

総会 17:40 ~
懇親会 18:30 ~

※ 発表要旨につきましては、後日サルトル学会のブログに掲載いたします。
                     http://ajes.blog.so-net.ne.jp/
サルトル関連文献
・ 中田光雄『意味と脱–意味: ソシュール、現代哲学、そして……』水声社、2018年
・ ジュリア・クリステヴァ『ボーヴォワール』栗脇永翔・中村彩訳、法政大学出版局、2018年
・ シモーヌ・ド ボーヴォワール『モスクワの誤解』井上たか子訳、人文書院、2018年
・ 川神傳弘「『歴史的なもの』と『歴史主義』の懸隔 : ベルジャーエフ、サルトル、カミュ、ポンティ、アロン」『仏語仏文学』(44), 1-32, 2018.
・ Hiroaki Seki “Sartre et la figure de Cassandre” Sartre Studies International 23(2) : 36-57, 2017.
・ 関大聡「大地への慎重な接近:サン=テグジュペリを読むサルトル」『年報地域文化研究』20 : 1-23, 2018.
講演会のご案内
法政大学言語・文化センター主催講演会
ジル・フィリップ氏 後援会

日時:6月7日(木)17:30より
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)
ボアソナードタワー3階 マルディメディア教室0300

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Entre édition scientifique et édition commerciale : dans les coulisses de la Pléiade »
司会:澤田直(立教大学文学部)

講演はフランス語・通訳なし
参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:鈴木正道(法政大学国際文化学部)
e-mail : masamiti@hosei.ac.jp

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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6月2日、6月7日Gilles Philippe氏講演会のお知らせ

Gilles Philippe氏の二つの講演会をお知らせします。
獨協大学(仏文学会)講演会.pdf
法政大学講演会.pdf

【講演1】
-----------------------------------------------------
獨協大学外国語学部フランス語学科講演会
[日本フランス語フランス文学会2018年度春季大会内での開催となります]

日時:6月2日(土)16:30-17:45
場所:
獨協大学(〒 340-0042 埼玉県草加市学園町1-1)
西棟1階W-102教室

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Style littéraire et norme langagière »
司会:根木昭英(獨協大学)

講演はフランス語・通訳なし

参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:
獨協大学外国語学部フランス語学科共同研究室
e-mail : labofre[at]ml.dokkyo.ac.jp


* 日本フランス語フランス文学会2018年度春季大会内での開催となります。以下の学会プログラムも合わせてご覧ください。

http://www.sjllf.org/taikai/?action=common_download_main&upload_id=1479
-----------------------------------------------------



【講演2】
-----------------------------------------------------
法政大学言語・文化センター主催講演会

日時:6月7日(木)17:30より
場所:
法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)
ボアソナードタワー3階 マルディメディア教室0300

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Entre édition scientifique et édition commerciale : dans les
coulisses de la Pléiade »
司会:澤田直(立教大学文学部)

講演はフランス語・通訳なし

参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:鈴木正道(法政大学国際文化学部)
e-mail : masamiti[at]hosei.ac.jp
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日本サルトル学会会報第54号 [会報]

研究例会のご報告
第40回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、南コニー氏、堀田新五郎氏による研究発表が行われました。

第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~17:00
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15
発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師)
「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)

 南氏の発表は1967年にストックホルム法廷、東京法廷、ロスキレ法廷と三回にわたって開催された民衆法廷、ラッセル法廷を材料にサルトルの思想面、とりわけ中期サルトルの倫理的思想を考察するものであった。
 南氏はまず「民衆法廷」という枠組みが要求された当時の社会・政治状況を説明した上で、民衆法廷の思想史的意義を考察した。従来、知識人・思想家が国家権力から裁かれる存在であったことをふまえると、民衆法廷とはそうした知識人・思想家が国家を裁く主体となったという点で画期的な転換点といえる、という南氏の主張は非常に興味深いものであった。
じっさい、民衆法廷という従来になかったシステムを立ち上げるに当たっては、数々の政治的・制度的困難があったという。そのとき、そうした困難を乗り越えるにあたって拠り所となった思想的指針は、「真実を民衆側から生成する」というものだった。刑の執行、法的意義などについては特に効力を持たない民衆裁判にとって、重要なのは、大衆側から真理を生成していくという点だったのである。
発表の後半では南氏は、その「真理の生成」という点からサルトルとキルケゴールの思想的近親性を指摘した。南氏のまとめによれば、キルケゴールのいう主体的真理とは、客観的真理と違い、「関わる対象が非真理であっても主体の関わり方が真理であるかが重要」なものである。キルケゴールは宗教的なものへの関わり方を、この「主体的真理」という概念で説明したのだった。さらに南氏は、サルトルの「キルケゴールは、単独者が歴史のうちに普遍者として自己を設定する限りにおいて、普遍者が単独者として歴史に入ってきたことを示したおそらく最初の人である」という文章を引きつつ、キルケゴールの「主体的真理」の概念を「単独的普遍者」概念と結びつけ、そこからラッセル法廷をサルトル的モラルの実践の場として読み解いた。ラッセル法廷とは人々が主体的に真理を生成しようとした社会的・倫理的実践の場だったのだ、というのが南氏の発表のひとつの結論である。
最後にいくつか申し添えておくと、全体として南氏の発表は、従来あまり内容が知られてなかったラッセル法廷の様子とその反響具合を、新聞記事、写真、映像等の各種資料とともに入念に紹介する、非常に資料的価値の高いものであった。さらに発表の最後に南氏は、現代の民衆法廷の事例を紹介しつつ、現在彼女が関わっている民衆法廷プロジェクトの様子も紹介していたが、彼女のこうしたプロジェクトへの関わりは、単なるリサーチを越えて彼女自身が行う一つの実践的活動でもある。資料的リサーチと社会運動を結びつける南氏の発表は、現代におけるアカデミシャンのひとつのあり方を示していた点で非常に刺激的であった。今後のさらなる成果に期待したい。(森功次)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか)

 サルトルは『倫理学ノート』で探求した倫理的要請から、倫理を裏切らないために倫理学を放棄し、そして、倫理学は政治思想と評伝に転化されねばならなかった。本報告において堀田氏はそう論じ、それによって、サルトルの政治思想を「主体の決断主義」とする解釈を批判する。サルトルの倫理・政治思想は「非主体的決断による主体の構成」として捉えなおされるが、しかし、それはなおもメシア主義の危険をはらんでいる、と氏は結論する。多くの示唆に富む刺激的な報告であった。
 堀田氏はまず、「倫理」と「倫理学」はどのように違うのか、そして「倫理学」はなぜ「倫理」を裏切るのか、ということを、聖書の「善きサマリア人の譬え」を用いて説明する。「私の隣人とはだれですか」とイエスに尋ねた律法学者は、「義人となる」ことを目的とし、事前に「愛すべき隣人」が誰かを同定しようとしている。同じく、「倫理学者」は、「倫理」それ自体を対象とし、事前に同定することを目的とすることで、かえって「倫理」を裏切ることになる。一方、旅人を「助けるがために助けた」サマリア人にとって、目的は「倫理」ではなく、今ここでの「具体的な苦しみの除去」でしかない。倫理は、「過去」の具体例を媒介に誘っていく事柄であり、その意味で倫理は「倫理学」ではなく、「評伝」で伝えられねばならない。サルトルが『倫理学ノート』冒頭で言うように「『倫理的であるために倫理を為す』という金言は毒にまみれている」のであり、「倫理は倫理以外の目的へと止揚されなければならない」のである。
 しかし、今ここでの具体的苦しみが継続的・構造的な暴力によって生み出されているとすれば、倫理においては、「この私」の単独的行為ではなく、暴力のメカニズムを暴き出し、他者たちに世界変革を呼びかけることが要請される。倫理は、構造的暴力を媒介に、政治思想へと止揚される。サルトルの「倫理とは、倫理の選択ではなく、世界の選択でなければならない」(CM)という言葉もその意味で理解されるべきであり、政治思想とは、「あるべき世界」を提示することとして「未来」形で倫理を語ることでもある。
 このように「倫理」そのもの、「être authentique」そのものをポジティヴに「事前に」提示することは不可能である。ところが、サルトルの倫理思想を「être authentique の探求」と捉えてしまうところから、「サルトル=無からの決断主義者」というサルトル像が生まれてしまうが、そうした解釈はサルトルの思想をとらえそこなっている。
 一方で、氏は『文学とは何か』、『倫理学ノート』を読み解くことで、その政治思想的帰結がウルトラ・ボルシェヴィズムとなってしまう点を指摘する。『文学とは何か』では、無からの価値の選択が提起されているが、ただしそこには羅針盤があり、存在的次元での具体的な自由が選択の価値基準なのである。その意味でそれは政治と不可分の関係を持つ。しかし、その「政治」とは、既存の秩序を前提に、価値の権威的配分をめぐる「技術的な政治」ではない。それは、既存の法秩序を無化し、新たなそれを構成する革命的な暴力violence(『倫理学ノート』では「一撃としての贈与」)に基づく政治である。『共産主義者と平和』においては、この主体的ないしは主権的自由は、〈党〉 (Parti)の自由として現れるのではないか。ここに、メルロ=ポンティが批判したウルトラ・ボルシェヴィズムの危険性を看取すべきではないか。
 その上で氏は、サルトルのアブラハム解釈の、「主体の決断主義」から「非主体的決断による主体の構成」への転回をたどり、また、デリダのアブラハム論を参照することによって、サルトルの立場を「非・主体の決断主義」として提示する(この観点から、メルロ=ポンティのウルトラ・ボルシェヴィズム解釈は批判される)。『実存主義とは何か』でのアブラハムの叙述においては、(単独者として無根拠に)「決断するのはつねに私」という形で「決断主体」としての〈私〉が召喚されているが、『聖ジュネ』においては、〈私〉が事後的にしか成立しえないことが強調されている。前者とは違い、『聖ジュネ』では「私はアブラハムだろうか?」という問いが否定され、「神のまなざしが、外部から彼を構成した」のであり「アブラハムは客体なのだ」と言われる(SG)。決断の瞬間にはアブラハムは決断主体の〈私〉ではなく〈客体〉にすぎない。これは、内在的他性としての〈それÇa〉に突き動かされる瞬間(狂気の瞬間)である。しかも、事後的に構成された主体は、一切の「責任」を引き受けて現れる。デリダがアブラハム論で言うように、決断は、「私の中における他者の決断」でありつつも、それは、無責任や受動性を意味しないのであり「『それが私にまなざしを向けるÇa me regarde』が『それは私の問題だ、私に関係することだ、私の責任事だ』と私に語らせる(『死を与える』)」のである。このように、サルトルとデリダはそのアブラハム論において邂逅する。ただし、こうした「非主体的な決断」は、デリダがいうように、シュミット流の主体的決断主義を批判するものだとしても、氏はそこにむしろメシア主義の完成を見る。メシア主義的な思想は、主体性ではなく他者性が強調されるとき、より強度を高めるのであり、『聖ジュネ』(『共産主義者と平和』と同時期に書かれている)末尾の「モラルが我々にとって不可避であると同時に不可能」に関しても「他律的な決断の否応なさ」が強調されているのではないか、と氏は考える。最後に、メシア主義をめぐるサルトルとデリダの相違が指摘されることで発表は締めくくられた。
 質疑応答では次のような指摘があった。「『実存主義とは何か』を見ると、主体の決断主義に見えるが、その立場が変わったともいえない。『存在と無』では、対自は自分が決めるわけではなく、常に前の自分と切られてしまっている。ただしそれを、Ça(それ)あるいはフロイト的エスに繋げるのはサルトル的ではない。むしろ〈私〉、自我自体が他者であるという、『自我の超越』で言われている非人称的意識のあり方ではないか。」「サルトルの主体性はデカルト的コギトではなく〈社会的主体性〉。そこには、無意識・歴史・身体が含まれている。それをサルトルは明確に60年代、後期になって明確にとらえた。」「最終的に第三の倫理まで含めた場合、サルトルがこだわっているのは、52年のころの〈党〉とは異なり、〈左翼gauche〉である。」「50年代にサルトルは過去の自分自身に逆らって『ジュネ論』を展開した。そこでは、他者性の引き受け、受動性をポジティブに方向転換することとして〈回心〉が論じられている。ところが(非主体的だとしても)〈決断〉、という言葉を使うと、やはり主体的なものが念頭に置かれているように感じられてしまう。」
 最後に、今回の発表における「他者のまなざしによる倫理的主体の構成」という議論と、前回の例会との関係についても指摘しておきたい。竹内芳郎もまた、他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」にサルトルの「実存的倫理」の根源を見ていたのである。(永野潤)

サルトル研究関連文献
・ J-P・サルトル『敗走と捕虜のサルトル 〔戯曲『バリオナ』「敗走・捕虜日記」「マチューの日記」〕』石崎晴己(編訳)、藤原書店、2018年
・ 鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』閏月社、2018年
・ 海老坂武『戦争文化と愛国心 非戦を考える』みすず書房、2018年
・ 澤田直編『異貌のパリ 1919-1939 シュルレアリスム、黒人芸術、大衆文化』水声社、2017年

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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研究例会のお知らせ(発表梗概) [研究例会のお知らせ]

12月9日の研究例会の発表梗概を公開します。
第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15 発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師) 「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)
世界で初めて行われた「民衆法廷」は、今年で50周年を迎える。この「民衆法廷」は、1966年にバートランド・ラッセルによって提唱されたことから別名「ラッセル法廷」とも呼ばれ、現在もなお世界各地で開かれている。民衆法廷とは国家や国際機関によって設置されている法廷とは異なり、主催者が公的機関ではないため法的拘束力は伴わないものの、国際的な人道問題が発生している地帯に関する情報を一般に広く知らしめるとともに、問題の所在を明らかにし、現状を糾弾することで和平を促す試みである。1967年に最初に開かれた「ラッセル法廷」は、ジャン=ポール・サルトルを裁判長に迎え、ベトナムに対するアメリカ合衆国の戦争犯罪を裁く目的で第一回をストックホルム、第二回は東京、第三回はデンマークのロスキレで開かれた。本発表では、この裁判において裁判長を務めたサルトルのグローバル・ジャスティスとしてのアンガージュマンに焦点を当てながら、「真理の生成」という思想学的な分析と市民社会におけるモラルの問題からラッセル法廷の意義とその展開について考察する。また、ラッセル法廷で発表された『ジェノサイド』にサルトルの後期思想における「単独的普遍」(l’universel singulier) の概念の展開と発展が見られることを検証、分析しつつ、『生けるキルケゴール』において課題として残されていた最後の問いに対する答えの一つが、この法廷の主催と参加、社会的呼びかけを通して示されたということを証明したい。また同様にこの民衆法廷の開催が、サルトルにおける倫理的課題に答える具現化としてのプロセスであることも、あわせて究明する。尚、社会学的アプローチから、ストックホルム、東京、ロスキレと三都市において開催された法廷の記録、とりわけロスキレ市立図書館所蔵の未公刊資料や証言集をもとにラッセル法廷に関してこれまで知られていなかった事実関係を明らかにするとともに、その同時代的な背景と時代精神をも分析したい。そして、現在もなお開催され続けている民衆法廷の今日的な役割について、サルトルの思想と関連付けつつ論じる予定である。       
南コニー(神戸大学非常勤講師)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授) 「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか(非))
 大戦後サルトルは、レジスタンスという「幸福な時代」の終焉を宣告した。確かに第四共和政の混迷した政治状況は、単独イシューの追求が可能であったレジスタンス期とは異なり、緊迫化する冷戦および激化する民族解放闘争への対応は、左翼・民主主義勢力の分裂を余儀なくしたのである。特に1952年、所謂「サルトル・カミュ論争」によって両者は袂を分かち、また同じ年に『レ・タン・モデルヌ』に掲載されたサルトルの「共産主義者と平和」は、メルロ=ポンティによって「ウルトラ・ボルシェヴィズム」として断罪されることとなった。本報告では、50年代初頭のサルトルが、何故これまでの立場を翻しマルクス主義へと接近したのか、その理由を思想内在的に探求したい。
 その際、本報告では「倫理学から政治思想へ」という視角を取ることとする。サルトルは『存在と無』の末尾で、自身の次の著作として倫理学を約束するが、その企図は結局放棄されることとなった。死後3年を経て膨大な草稿が『倫理学ノート』(執筆1947-8年)として刊行されるが、そこには倫理学という営為の自己矛盾が集約的に表現されているのである。では文学作品の他、サルトルは、倫理学を書く代わりに何を書いたのか。それは、「政治思想」と「評伝」である。多くの時事評論に加えて、「唯物論と革命」(46年)「共産主義者と平和」(52年)等で論じられた政治思想、就中マルクス主義との関係は、大著『弁証法的理性批判』(60年)として結実する。同時にサルトルは、ボードレール、マラルメ、ジュネ等のアンガージュマンを執拗に跡づけ、こちら側の歩みもまた大著『家の馬鹿息子』(ギュスターヴ・フロベール論)を形づくっていった。
 これは何故なのか。何故、倫理学は放棄され、政治思想と評伝が書かれたのか。思うにそれは、サルトル自身が『倫理学ノート』で探求した倫理的要請からである。倫理を裏切らないためには、倫理学を放棄し、政治思想ないし評伝が書かれなければならない。しかもそれらは、極端なボリュームの大著として現れるのである。
 こうした視角の下、本報告は次の3つの問題を考察する。①倫理と倫理学の違いはどこにあるのか。何故倫理学は、政治思想と評伝へと転化すべきなのか。②サルトルの政治思想がマルクス主義によって方向づけられるのは何故か。何故マルクス主義は、我々の時代の乗り越え不可能な哲学なのか。③サルトルの政治思想と評伝が、極端な大著となる理由は何か。そこには何らかの必然性が認められるのか。
 これらの問いを考察することによって、本報告では最後に、サルトル1952年の政治思想を「ウルトラ・ボルシェヴィズム」とする判断の妥当性について考察を加えたい。
堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
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日本サルトル学会会報第53号 [会報]

研究例会のご報告
第40回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、南コニー氏、堀田新五郎氏による研究発表が行われます。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15
発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師)
「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか(非))

※発表の梗概はブログhttp://blog.so-net.ne.jp/ajes/に掲載します。

事務連絡 16:50 ~
懇親会 17:30 ~

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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日本サルトル学会会報第52号 [会報]

研究例会のご報告
 第39回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムが開催されました。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われました。多くの方々にご来場頂き、感謝申し上げます。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)
16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Harvey  State University of New York Stony Brook, Distinguished University Professor
ロバート・ハーヴェイ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授)
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
   通訳:黒木秀房(立教大学兼任講師)
司会:澤田直(立教大学)

シンポジウム「竹内芳郎に応える」
 2017年7月15日、日本サルトル学会の第39回研究例会にて、シンポジウム「竹内芳郎に応える」が開かれた。
 ここで、シンポジウム開催に至るまでの経緯などを少し記してみようと思う。
昨年11月竹内芳郎が亡くなった。それは私(小林)にとって、衝撃だった。その理由は様々あるが、そのうちで最も大きなものは、近いうちに竹内芳郎に会いにいこうと思っていたからだった。結局、実際に竹内芳郎と会うことは出来なかった。
 今年の2月から、本シンポジウムの企画を練り始め、企画に賛同し、発表を行ってくれる人を探し始めた。発表者が決定してからは、何度もメールして意見交換を行い、また実際に会合をして合計十時間以上に及ぶ意見交換会を行った。
 私は竹内芳郎の全著作を読み込む作業を行った。そのうちに、竹内の個人史的側面にも関心を抱くようになり、討論塾のかつてのメンバーだった人や、討論塾の中核を担っていた人たちに取材を行った。また、竹内が生まれた岐阜県の資料を漁り、生い立ちなどが徐々に明らかになった。竹内自身は著作で個人史的なことをほとんど書くことがなかったので分からなかったのだ。なお、シンポジウム後のことになるが、親族の方にも取材を行うことも出来て、より立体的に竹内の姿が分かるようになった。また、取材を進めていくうちに、興味深い遺稿の存在することも明らかとなった。今回のシンポジウムで活用することはほとんど出来なかったが、将来に向けて、それは日本におけるサルトル受容史を解明する上でも極めて重要なものとなるだろうと思う。

 さて、今回のシンポジウムでは、はじめに小林が、以上の取材などを元にして、竹内芳郎の生涯を紹介し、現代において竹内芳郎を読むことの意味について、また本シンポジウムの意義について説明した。
 それに続いて、三つの発表が行われた。以下にそれぞれ発表者自身による詳細な報告文があるが、私なりにまとめると、(1)永野氏はサルトルから影響を受けた竹内芳郎の倫理思想を解明することで、そこから逆照射するようにしてサルトルの新しい読解を提示しようと試みた。(2)小林は、竹内芳郎のサルトル受容を日本哲学史の文脈から再構成することで戦後思想としてのサルトルの斬新さを明らかにしようとした。(3)鈴木氏は実際に長年に渡る討論塾の参加の経験をもとにして、竹内芳郎が「討論塾」という営為をもとに問題提起したことを要約的に提示しつつ、現代のアカデミズムに対する鋭い問いを突き付けた、というものであっただろう。
 当日は、会場を含めて活発な議論が行われた。だが、生方氏の報告文にもあるように、「あまりに時間が不足していた」。だが、どれほど時間があっても足りなかったであろう。議論が「実を結ぶ」ことはなかったかもしれないが、様々な思考の「種」を私は貰うことが出来たように思う。今後、それを育てていきたい。
 最後に、このような企画を受け入れてくださったサルトル学会、それから度重なる議論に付き合い、また発表を行ってくださった永野潤氏、鈴木一郎氏、また司会を引き受けてくださった生方淳子氏に、大きな謝意を表したい。(文責:小林成彬)

1) 「竹内芳郎とサルトル哲学」(永野潤)
 かつて「サルトルを再評価するならば竹内芳郎的な読解とは違う新たなサルトルの読み方を提示しなければ」というようなことを言われたことがある。このように、竹内芳郎は、かつて主流だったが今は古くなってしまったサルトル読解の典型、としてしばしばとらえられている。しかし、はたして竹内、あるいは竹内的サルトル読解は、そもそも「古くなる」前に「主流」だった時代があるのだろうか。むしろ、竹内思想の本質的部分は、一度も受け止められることなく「黙殺」されてきたのではないのか。本発表では、サルトル哲学の影響を受けた、竹内の思想の核となる倫理思想の枠組みをとらえなおし、それが、どのように現代と「出会う」のか、ということを考察した。
 竹内によると、サルトルの他者論は、私の自由を否定する他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」を秘めている。竹内は、「相剋」を「善用」し、「相剋」を通じて自由を獲得するというこの逆転劇に「実存的倫理」の根拠の一つを認めるのだが、ただし彼は、こうした実存的倫理が真に確立されるためには『存在と無』における他者論だけでは不十分である、と考える。「相剋」を引き起こすためには、実は「他者もまた私と同じまなざし得る主体なのだ」という「相互性」の認知が必要なのであり、それを自覚するところに真の実存的倫理が(サルトルの場合は『弁証法的理性批判』の段階に至って)成立する、と竹内は考える。
 とはいえ、ここで竹内が倫理の根底にとらえる「相互性」とは、「相剋」を隠蔽するところに成り立つ自己欺瞞的な人間関係、すなわち「馴れ合い的」な「共生」とはまったく異なったものである。竹内は、実存的倫理が「裸形の人間」から出発するものであることを繰り返し強調するが、裸形の人間とは、単なる「個人」ということではなく、共同体から排除された「構造からの食み出し者」(『文化の理論のために』)でもある。そして竹内は、近代的な人権思想の原点には、裸形の人間=食み出し者を救済する「普遍宗教」の成立と、その中で確立した「超越性原理」がある、と考える。竹内は、後年の討論塾における発言の中で、「構造からの食み出し者」に立脚した、ラディカルな労働運動、ラディカルなヒューマニズムの展望をしめしているが、その意味でそれは人権思想のはるかな原点に帰ることでもある。一方で竹内は、「裸形の個人」と対立するものとしての日本の伝統的な人間関係である「集団同調主義」を「天皇教」と呼んで一貫して激しく批判し続けた。それは、対立や矛盾を隠蔽する「欺瞞の体系」であり「無責任の体系」である。天皇教的なものが、権力側も反権力側も共通に支配する「日本的現実」と竹内は格闘し続けた。2000年に発表した文章の中で、竹内は、「ヴェ平連」系の団体が1991年に「この憲法のもとにあった45年間、日本はただの一人も軍隊によって人間を殺したことはありませんでした」という米紙への意見広告を出したことを例に、日本の市民運動の「自己矛盾への鈍感さ」を痛烈に批判している。ところで、例えばデモにこれだけの人数が集まった、と運動が誇り、また逆にこれだけしか集まっていない、とそれを批判するような状況がある。しかし、主流から食み出し、食み出した孤独の中でかえって普遍につながっていくという竹内の思想は、そうした発想の対局にある。(文責:永野潤)

2) 「竹内芳郎と「戦後」」(小林成彬)
 戦後日本にサルトルは大きな影響を与えた、と言われる。だが、それは具体的にどのような影響であったのだろうか。あるいは、サルトル受容は実際どのようなものであったのだろうか。このような問いを立てた時、私は呆然とせざるをえない。第一に、その受容はあまりに広汎に渡っているからであり、第二に、それがゆえに、その「大きな影響」の具体的な内実については暗闇の中にあるように思えるからだ。
 しかし、戦後思想、とりわけ丸山眞男などを代表とする、いわゆる「戦後民主主義」との緊張関係においてサルトルの影響を考察してみると、サルトルが戦後日本に与えた影響の意味が明らかになってくるように私には思われた。例えば、竹内芳郎は「日本的現実との闘い」としてサルトルの思想を受け止めたが、この「日本的現実」の内実を見てみると、「戦後民主主義」思想家たちが徹底して分析し批判しようとした対象とほとんど同じように思われたからである。しかし、竹内芳郎は「戦後民主主義者」からも一定の距離を置いていた。この「距離」を分析することで、サルトル受容を先鋭的に提示することは出来ないだろうかと最初私は考えた。
 しかし、歩みを進めていくうちに、「戦後思想」そのものが、彼らの「戦争体験」に根差し、また、戦前の思想たちへの対立のうちで育まれているということが明らかになった。「戦後思想」の成立の条件には、「戦争体験」と「戦前思想」があったのではないか。
 「竹内芳郎の「戦後」」と題した本発表で扱ったのは、竹内芳郎にとっての「戦後」が可能となった条件を明らかにすることである。それを明らかにすることで、「戦後日本におけるサルトル受容」の生産的側面を明確化できるのではないかと私は期待した。探究を進めていくうちに、竹内芳郎においても、「戦前思想」と「戦争体験」の二つの軸から「戦後」の意味を明らかにできるように思われた。戦前の京都学派の思索に竹内芳郎は大きな影響を受けていた。だが、自身の「戦争体験」を基盤として、それを徹底的に批判しようとし、「戦後」にサルトルを発見し、受容したことが明らかになった。竹内芳郎は「戦争体験」についてほとんど公で語ることはなかったが、晩年の『討論塾』などでの述懐や遺稿をもとに「戦争体験」の再構成を試みた。京都学派と竹内芳郎の関係も極めて複雑なものである。図式的に言えば、竹内芳郎は和辻哲郎の思索に対するラディカルな批判意識を持ち、それへの批判としてサルトルを武器としたと言えるだろうが、竹内のサルトルの受容には九鬼周造への大きな依拠が認められる。根底に横たわっている問題とは、一言でいえば、「他者」をどのように考えればよいか、「根源的社会性」をどのように考えればよいのか、というものであっただろう。
 日本の「哲学」界において、サルトルには厳しい判定がこれまで様々な形で下されてきた。竹内芳郎はその法廷でサルトルの要求を護ってきた。サルトルの要求に異議を唱える、反対側の席には誰がいるのだろうか。その暗闇の席に光を当ててみると、そこに座している最も大きな人物として、西田幾多郎とハイデガーが見えてくるように思われる。私は再審請求を行ってみたい。それによって、「日本におけるサルトル受容」の歴史的側面をより明らかにし得るであろう。また同時に、サルトル自身の哲学的生産性を新たに明らかにし得るのではないか。本発表を通して抱いた感想である。(文責:小林成彬)

3) 「竹内芳郎と討論塾の実践」(鈴木一郎)
 竹内芳郎は、1989年に討論塾を創設した。討論塾は、論争や討論がすっかり消滅してしまった日本の言論空間に抵抗して、討論を通じて日本社会独特の精神風土である集団同調主義=天皇教を克服することを目指した教育機関である。また、討論塾は、1960年代後半の我が国の大学闘争の挫折を教訓として踏まえたものである。この点で、大学闘争によって提起された課題を殆どすべて放置してきたため、昨今の所謂<大学問題>と称される様々な矛盾に直面せざるを得なくなっている大学アカデミズムの在り方と鋭く対立する。討論塾の目指す所は、<真理性>という基準を立て、異なる思想・意見を持つ者同士が、「相互吟味」(ソクラテス・林竹二)を通じて行う真理追求の営為である。この場合の真理とは絶対的なものではなく、あくまで、討論の過程で認識し得る根拠のある確からしさ(明証性)であり、何時でも検証によって更新され得る暫定的なものである。討論において、こうした真理性を基準として設けることによってプロタゴラス的な相対主義を克服することができる。さらに、真理に恭順であるためには、人類史の中で普遍宗教の成立とともに生まれた超越性原理に従う必要があり、この原理の徹底化による自己批判を通して我執を去ることが求められる。これによって、異質な他者との間で、暴力を回避しつつ、言論による共通認識を形成していくことが可能となる。討論では、専門家と非専門家の垣根を超えた対話を行うことによって脱タコツボ化を目指すとともに、明示性言語の行使によって、含意性言語に基づく<察しの文化>(昨今の言われるKYや忖度の文化)の排他性をも克服する。この営みを重ねることによって、公論形成と真の民主主義精神の確立を目指す。他方、大学闘争の経験から学ぶことを怠ってきた大学アカデミズムは、一般的には、このような討論塾の目指した理念とは逆の方向を辿った。即ち、研究者集団は、専門性を口実に、ひたすら市民社会の日常との関連を絶ち、ますます疎外された知の中に逃げ込み、その自信の無さから異質な他者との討論・論争を避けてきた(だから、異論に応える(répondre)責任(responsabilité)を放棄し黙殺を以て応じるのが慣例。この黙殺文化の根底には対他存在を希薄化してしまう天皇教の無責任文化がある。)。もし今後も、異質な他者や市民社会との相克の中で自らの営みを真摯に検証し、生きた知的営為を回復する契機を失するのであれば、少子化や財政難といった社会構造の変化の中で、市民社会での自らの立脚点を失い、政治権力側の圧力に抵抗する事もできずに、嘗て福沢諭吉が揶揄した幕末・開国時の卑屈な漢学者のように歴史の中で淘汰されていくことであろう。

【質疑応答】(鈴木に対するもの)
問:大学の研究会などに出てみても、海外の思想の紹介などはあっても研究者自身がどう考えているかが見えない事が多いし、現実の喫緊の課題を考えていることも少ない。 答:研究者と市民との対話の機会を創り出して行かなければ研究者集団の先行きはどん詰まりとなるだろう。 
問:絶対的真理は否定されるべきものだが、真理への意志が人間の中にあるからこそ討論が行われると理解した。真理への欲求をどう考えるか? 答:共同主観性の中で真理はその時点で見えている確からしさだ。その根拠が変われば真理は更新される。現象学的に言えば、真理への意志を成り立たせているのは<射映>という認識の構造だ。サルトルに従えば、現れていないものに向かっていく指向性とも言えるだろう。 
問:竹内の『言語・その解体と創造』における文学言語論は哲学・思想的には啓発的だが、象徴派などのフランス文学の流れの厚みの理解が足りない印象があるがどう思うか? 答:同著の第二論文「アンガージュマン文学の言語論的再検討」は、詩的言語をアンガージュマン文学から排除するサルトルを批判し、詩的言語の可能性を高く評価したもの。逆に文学に対する大きな理解を示すものだ。
問:現在、竹内の著作は読まれていないが、その思想が日本社会を変えていない理由は何か? 答:そもそもある思想が日本社会を変えるなどということは戦後日本の中では未だかつて無かったのではないか? それは竹内個人の思想云々ではなく、日本の思想風土全体の問題だ。他方、竹内の思想自体は現実変革に極めて有効だ(例えば直接民主主義による代議制批判等)。
(文責:鈴木一郎)
4) 司会者からの報告
 今回の例会は、サルトル学会の20年あまりに及ぶ活動の中でも稀に見る挑戦的な異色のシンポジウムとなった。大学院生による発案と準備のもと、在野で哲学思想を研究する人々をパネリストおよび聴衆の中に迎えて、戦後の日本思想から最新の時事問題に至るまで、サルトル研究の枠を超えて縦横に議論が交わされた。その中心に置かれたのが竹内芳郎の業績である。竹内は日本におけるサルトル哲学研究の先駆者のひとりで、『サルトル哲学序説』(1956年)や『サルトルとマルクス主義』(1965年)など本格的な研究書の著者であり、『自我の超越』、『情動論粗描』や『弁証法的理性批判』などの翻訳・注釈者であり、また戦後日本の「近代性」に辛辣な批判を向ける思想家でもあった。90歳を超えてなお健在ぶりが伝えられていたが、昨年11月に不慮の死を遂げられたことから、追悼とオマージュの意味も込めて、彼が提起した問題、今も決着がつくどころかさらに重みを増している問いに新たに向き合おうと試みたのである。
 最初に、発案者の小林成彬氏から、この会の趣旨、竹内芳郎の生涯、そして彼が取り組んだ問題について導入的な解説があり、続いて、サルトル研究者としてすでに多くの著作を公刊している永野潤氏から、存在論と倫理を踏まえて共同体からの「食み出し」や民主主義の欺瞞という問題をめぐってサルトルと竹内芳郎との接点を探る洞察に満ちた発表があった。続いて再び小林氏から、竹内がいかにサルトルを武器として戦後日本の現実の中にあった「愚劣さ」と戦おうとしたかということについて多くの貴重な指摘がなされ、そして最後に、竹内芳郎の主催する「討論塾」に、その発足時より長年にわたって参加してきた鈴木一郎氏から、考えの異なる者同士が討論をするということの意味について、サルトルの他者論やソクラテスの対話を引きつつ問いが発され、門外者との議論を避けようとする研究者の閉鎖性や外部へのコミュニケーションの意図を欠いたアカデミズムの不毛に対して忌憚ない批判が寄せられた。サルトル学会のあり方に対しても、質問状(「塾報」など)を送っても反応がなかったとして容赦ない批判が浴びせられた。この点、サルトル学会は大いに反省し、外部との対話のパイプを確保するため早急に検討をせねばなるまい。
 会場からは、竹内のサルトル論の不備も指摘されるとともに、竹内の思想に真に現実を変える力があったのか、といった疑問の声や、指導的思想が日本を大きく変えたことが一体あったのか、といった根本的問いかけも出された。論点は、発表内容を受けて安全保障関連法反対運動やいわゆる「共謀罪」をめぐるメディアのあり方や日本的精神風土と天皇制にまで及び、刺激的な「対話」が素描されかけたが、残念ながらそれが何らかの実を結ぶには、あまりに時間が不足していた。
 今回のシンポジウムは、サルトル学会に思いがけない風を吹き込み新しい地平を開いたものとして特記すべき「事件」でさえある。今回を単なる例外とせず、ぜひとも第2回、第3回のセッションを企画し、討論を深めていくことを切望する。(文責:生方淳子)

ロバート・ハーヴェイ 「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」

 ハーヴェイ氏は、サルトルの最も有名な概念の一つである「自己欺瞞」と、私たちの身近な現状との間にいかなるつながりがあるのか、というシンプルな問いを立てることから始めた。
 ハーヴェイ氏は、「自己欺瞞」概念の受容を辿り直すことで、この概念が古びてしまうどころか、神経解剖学等による新たな発見に裏打ちされる形で、その妥当性がより強く示されてきたことを指摘した。その「自己欺瞞」とは、「自分以外のものになる可能性」というポジティヴなものであるというよりは、むしろ「取るべき決定を退ける」というネガティブなものであり、「自由」と弁証法的な対立関係にあるものだった。
 このように「自己欺瞞」概念を再確認した上で、再び現実世界の方を見るならば、ポピュリズムやナショナリズム、外国人排斥等が世界中で蔓延する現状は、まさに自己欺瞞的状況であるとハーヴェイ氏は述べる。こうして「自己欺瞞」概念と現実的な状況を照らし合わせて見えてくるのは、「政治的判断の可能性の条件」という問題だった。すなわち、自らに嘘をつくことで、結果として他者への責任から逃れるということだ。しかし、だからといって「自己欺瞞」が私たちを存在論的に規定しているわけではないことをハーヴェイ氏は強調する。そこで今一度サルトル自身の「自己欺瞞」の例が取り上げられ、再検討された。
 そこから引き出されたのは、自分に対する嘘についていかにして意識的であるか、という逆説的な問いである。ハーヴェイ氏は、現代社会の政治リーダーのうちに、自己欺瞞の痕跡が見出されると述べるものの、彼らは自己欺瞞の例としてふさわしくないと断言する。というのも、彼らは自らの嘘に対して意識的だからだ。ハーヴェイ氏自身が自己欺瞞の例としてあげるのは、意外にも『タルチュフ』の登場人物オルゴンだった。彼は、好きな人には騙され、自惚れが強く、盲目的であり、政治的判断能力を奪われたものとして描かれているとハーヴェイ氏は指摘する。
 最後にハーヴェイ氏は、このオルゴンのような「自己欺瞞」の現代的な形を見出すことができるのは、平気で嘘をつくことのできる現代の政治的独裁者ではなく、SNS等を通じて他者の仮面をかぶって生き、政治的判断能力を奪われた現代人であると述べて締めくくった。
 以上のように、本講演は、概念とアクチュアルな問題を往還するようにして、概念が刷新される一方で、現状に対しても鋭い分析が加えられ、ダイナミックなものだった。じっさい、質疑の際には、自己欺瞞と無意識をめぐる精緻な質問が上がった一方で、アクチュアルな問題への哲学的アプローチに刺激を受けたという声が上がった。(黒木秀房)


サルトル関連文献
・植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編著、富山豊・森功次著『ワードマップ現代現象学 : 経験から始める哲学入門』新曜社、2017年
・水野浩二「サルトルにおける「非-知」の問題とその射程 : 一九六一年の講演をめぐって」『札幌国際大学紀要』 (48), 2017年, pp. 15-20.
・高橋由貴「大江健三郎「死者の奢り」におけるサルトル受容 : 粘つく死者の修辞」『昭和文学研究』(74), 2017年, pp. 102-115.
・梅﨑透「新左翼とサルトル/ニューレフトとカミュ : 日米の「一九六〇年代」と実存主義」『社会文学』(45), 2017年, pp. 78-90.
・伊藤氏貴「文学の敵たちをめぐる一考察 : 漱石、サルトルに抗して」『文芸研究 : 明治大学文学部紀要』(132), 2017年, pp. 11-18.
・竹本 研史「サディズムとマゾヒズム : ジャン=ポール・サルトルにおける性的態度について」『人間環境論集』17(1), 2016年, pp. 1-42.

次回例会のお知らせ
 次回の例会は12月9日(土)に大阪で開催の予定です。
 日時:12月9日(土)13:00 - 17:00

場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

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8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」開催 [サルトル関連情報]

このたび、新しい現象学の教科書
  植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝 編著
  富山 豊・森 功次 著
  『ワードマップ 現代現象学――経験から始める哲学入門』
  新曜社、2017年8月
  http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1532-1.htm
が刊行されました。

これを記念し、8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」を開催します。
フェアでは、総勢14名の選書者により、
 ・本書で紹介されている現代現象学の方向性に即した書籍
 ・それとゆるやかに共鳴する現象学の現代的な展開を体現する書籍
 ・本書で紹介されている様々な事柄・論題に対する現象学的なアプローチを示す書籍
 ・20世紀において現象学と並行に展開してきた分析哲学の伝統に属し、現代現象学にインスピレーションを与えたり、現代現象学のライヴァルとなりうる書籍200点以上を取り上げ、17項目にわたる解説文を加えました。

フェア会場では、これを掲載した36頁のブックレットも配布いたします。
以下に開催概要を記しますので、開催期間中に ぜひご訪問いただければ幸いです。
またお知り合いで興味関心を持たれそうな方がいらっしゃったら
フェア案内ページのURL(http://bit.ly/201708fair)をご紹介ください。

酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ!──現象学からはじめる書棚散策」紀伊國屋書店新宿本店ブックフェア(2017年8月14日~)
bit.ly


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  『ワードマップ 現代現象学』刊行記念ブックフェア
  いまこそ事象そのものへ!─現象学からはじめる書棚散策

・開催期間: 2017年8月14日(月)から一か月ほど
・開催会場: 紀伊國屋書店新宿本店 3階人文書レジ前
・選書と解説:
  植村玄輝、八重樫 徹、吉川 孝、富山 豊、森 功次、村田憲郎、小手川正二郎、
  佐藤 駿、武内 大、宮原克典、新川拓哉、池田 喬、前田泰樹、葛谷 潤
・企 画 : 酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)
・協 力 : 新曜社

※その他詳細はフェア紹介ページをご覧ください: http://bit.ly/201708fair
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2017年国際サルトル学会年次大会参加報告 [サルトル関連情報]

2017年国際サルトル学会年次大会 Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2017 参加報告


 2017年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月23日と24日の2日間にわたって高等師範学校(パリ)にて開催された。統一テーマは「遺稿」および「ラジオアーカイヴ」である。
 全体の構成としては、50年代から60年代にかけて取り組まれたいわゆる「第二の倫理学」の時期の遺稿を対象とした発表が5件と最も多く、関心の高さが伺えた。このほか、ル・アーヴル時代の講演「小説の技法と現代思想の大潮流」(『サルトル研究』誌第16号収録)を主題としたものが1件、イタリア旅行記『アルブマルル女王』と『奇妙な戦争の手帖』(以下『手帖』)を対象としたものが1件あった。また1日目にはサルトルのラジオ出演にかんする特別企画、2日目には『反逆は正しい』の英訳出版を記念したラウンドテーブルが組まれた。そのほかにVariaとして4件の発表があり、統一テーマ以外の題目も柔軟に受け入れられていることが伺われる。発表者の年齢・性別・出身国だけでなく専門分野も含めバラエティに富んでおり、多くの研究者に開かれた学会であるという印象を与えられた。また今回、日本からは北見秀司氏と関大聡氏がそれぞれ研究発表を行った。
 以下、発表順に内容を紹介する。プログラムはGESのウェブサイトから参照できる(http://ges-sartre.fr/colloque-annuel-2017.html 2017/07/26閲覧)。なお、この報告文の執筆に際して関氏から多くの有益な助言を得たことを言い添えておきたい。

6月23日
EVA ABOUAHI : Reliques et reliquats du rousseauisme dans les manuscrits « Liberté- Egalité » et « Joseph Le Bon »
 1970年代に端を発し『パンテオンの誕生』(1998)に集成されるジャン=クロード・ボネの研究以降、ルソーやヴォルテールのような作家=偉人への崇拝が共和国としてのフランスの成立に大きな役割を果たしたことは広く知られており、全体的知識人としてのサルトルはこの伝統の掉尾を飾る存在とも言える。では、ルソーという必ずしもサルトル研究において中心的主題とはならない人物の聖遺物(relique)はサルトルによってどのように批判的に受け継がれているのか。背景にこうした関心を抱かせつつ、Abouahi氏の発表は『弁証法的理性批判』を準備する50年代の3つの草稿(Mai-Juin 1789、Liberté-Egalité(いずれも『サルトル研究』誌第12号収録)、Joseph Le Bon(同誌第11号収録))を中心に、サルトルのルソー批判の骨子を分析するものであった。
 その際、同氏が鍵語として持ち出すreliqueは複数の意味のひろがりから提示された。第一にこの語は、革命以降すでに神聖な存在として捉えられるようになっていたルソーの偉人・聖人的性格を示唆するものであり、サルトルはその思想が抱える矛盾の脱神話化を試みる偶像破壊者として位置付けられる。たとえば、氏の指摘によれば、遺稿Liberté-Egalitéにおいてルソーはブルジョワ・イデオロギーやプロテスタンティズムの系譜に位置づけられ、一般意志をめぐる議論が持つ見せかけの平等性に批判が加えられる。その結果、ルソーの思想に潜む隠れた次元としての全面的疎外と、全体主義との近接性が明らかにされる。
 もう一つのreliqueの含意は、ルソーを文学的アンガジュマンとの対比において評価する際に理解される。氏の分析によれば、ルソーはあらゆる時代のための書物をのこし時代を超越したという意味において、書く現在において自己を聖化することを望んだ。一方、サルトルは「時代のために書く」ことを選択し、このことが一つの対立点を作っている。また自己の聖化と歴史をめぐる論点はサルトルによるカミュ批判にも部分的に流れ込んでいるという。
 ボーヴォワールの証言(『娘時代』)によれば、サルトルは青年時代からルソーについて特別な見方を有していた。その後この啓蒙の哲学者に対する言及は奇妙なまでに跡を消してしまうが、未整理であるがゆえに遺稿のなかではその影響が見えやすい。今回の発表はそこからサルトルのルソーへの関心を政治理論・文学的立場から再構成するもので、フランス思想の伝統に対するサルトルの批判とそれだけでは還元されない残りのもの(reliquat)を感じさせるものであった。

LAURE BARILLAS: L’avenir dans les manuscrits des conférences de Cornell : pour une théorie temporelle de l’éthique ?
 Barillas氏の発表はコーネル講演に見られる未来の概念を主題としたものである。「道徳と歴史」と題され、『現代』誌2005年7月から10月号に掲載されたこのテクストのなかで、とりわけ未来に焦点があてられるのは「倫理と時間性」と名付けられた一節である。この時期の弁証学的倫理の根幹をなすのが、倫理の時間的性格についての考察である。発表者がまとめるように、一方では純粋な未来(avenir pur)が無条件的命法(なさねばならない)として主体に倫理的契機としてあらわれるのに対して、これまでの過去の制度化/習慣化されてきた道徳の時間性として不純な/制限的な未来(avenir impur/limité)が現れる。そのうえで、倫理的行為が純粋未来の次元を要請するさまを明確化した。氏の読解によれば、われわれの倫理的な行いは常にこの二つの未来によって引き裂かれている。一方で、それは何ものにも条件付けられず、自由であらねばならない。しかし他方で、行為は時間のなかで、時間的なものとして、有限化されたものとして実現される。後者において行為は反復的未来(不純な未来)とかかわり、無条件的な未来は反復的道徳と緊張関係を持つこととなる。これが、純粋未来がそれ自体で実現されないという倫理的困難である。
 サルトルの60年代の倫理学については本邦でも水野浩二氏によるものをはじめ複数の研究があるが、倫理学において語られる時間的次元への注目によって、たとえば『存在と無』や『倫理学ノート』からの時間論の発展を検証してゆくこともできるだろう。

LAURENT HUSSON : Être tenu par l’impossible : la relecture sartrienne du « Tu dois, donc tu peux » dans la conférence de Rome (1964)
 ひとつ前の発表からもわかるように、この時期のサルトルの倫理学においてカント的定言命法は批判的な参照項となっている。その「なさねばならない」は純粋な未来として、実現不可能なものでありつつ、同時に目指さねばならないという、統制的理念のような役割を果たす。続くHusson氏の発表は、サルトルがしばしば取り上げるカント的命法「君はなさねばならない、ゆえになしうる(Tu dois, donc tu peux)」の意味とサルトルによる用法を、広範なテクスト、特に1964年のローマ講演原稿「倫理の根」(『サルトル研究』誌第19号収録)を精査し検討したものである。
 評伝『ボードレール』や講演『実存主義とはヒューマニズムである』等では定言命法としてこの定式への言及ないし示唆があるのだが、『聖ジュネ』では「裏切り」におけるカント的命法の逆転が語られる。「道徳と歴史」では、いかにして主観的なものないし日常的生に命法が介入するのか、という視点からこの命法は再度取り上げられる。さらに、『家の馬鹿息子』ではこの定式が親による子への条件付けとして働く点に言及され、内なる道徳律としてではなく、他者関係における〈命令すること〉の意義が捉え直される。講演「倫理の根」においてはこの点が道徳、規範的なもの、客観的なものの経験、すなわち道徳や命法についての現象学的な分析を行う際に持ち出される。
 翌日のMouillie氏の発表にも共通するが、サルトルの60年代の倫理学においては、道徳現象の主観的・現象学的分析が試みられており、『存在と無』の時期には明確に論じられていなかった社会的世界や歴史的形成物の経験と実践との関係があらたな観点から取り上げられ直されている点は注目に値するように思われた。

SHUJI KITAMI : Morale sartrienne en tant que force motrice de démocratie : sur Les Racines de l’Éthique
 北見氏の発表はマルクスとサルトルにおける「真の民主主義」および「全体的人間(homme intégral)」の概念について、共通点と差異を明らかにしつつ、サルトルにとってのこれらの概念の重要性を「倫理の根」に依拠しつつ強調するものであった。
 マルクスは「真の民主主義」を自由な個人のアソシエーションと捉え、生産手段が社会化された社会において実現されると考えた。この民主主義観は、明らかに、ソビエト型の官僚主義と異質なものである。北見氏によれば、「倫理の根」におけるサルトルはこの民主主義観を共有している。さらにサルトルはそれを発展させ、具体的人間を物象化し集列化する現行の間接民主主義に対して、直接民主主義をとなえる。
 「全体的人間」の概念についても双方に共通して用いられるものの、その含意は異なる。『ドイツ・イデオロギー』のマルクス、エンゲルスにとって、それは分業体制を乗り越えた先の自立した個人において完成されるが、「倫理の根」のサルトルでは、自律において人びとが結びつくところに実現される。そこで人びとの結合は、諸個人を包摂した上位の審級を意味するのではなく、あくまで北見氏が「万人の複数の自律」と名付けるものにおいて実現される。第二の差異は、マルクスにとってそれが生産様式の変化に応じて実現される上部構造にすぎず、道徳的含意を持っていない一方、サルトルにとってそれは倫理の目的であり、民主主義社会の自律性を獲得するための不可欠な動力因であるという点にある。
 発表後半では、「倫理の根」の記述に沿って「全体的人間」を回復することの必要性が強調された。かつてのソビエトにおいては、体制の一部をなし体制に服従する「疎外された道徳」が全面化していた。そこで人びとを解放し「複数の自律」を実現するためには、「全体的人間」の回復を目指した継続的な介入が求められる。こうした事態はソビエトに対してのみ有効なのではなく、あらゆる反抗運動とかかわっており、新自由主義が世界を席巻し、レイシズムがはびこる社会においてますます重要性を増しているという。
 質疑では、「倫理の根」では民主主義について直接言及されておらず、集団について語ることで間接的に問題化されている点の確認や、集団そのものがサルトルにおいて常に倫理的なものと考えられるのか否か、といった疑問が提出された。「全体的人間」の希求というマルクス/サルトル的な課題がまさに現代の問題であることを指摘する北見氏の発表は、サルトルの思想を今どのように読むか、という常につきまとう問題に正面から応えたものだといえよう。

ALEXANDRE COUTURE-MINGHERAS : La conscience et le monde. « L’idéalisme » de Sartre (1936-1943)
 Couture-Mingheras氏の発表は、しばしば実在論的と見なされるサルトルの初期の現象学的テクストについて、それが実在論的であるのか観念論的であるのかを問うた上で、観念論的な読解を試みた。発表は「志向性」論文、『エゴの超越』、『手帖』、『存在と無』を参照しつつ、それぞれについて長い注釈を与え、主にフッサール現象学と比較しながら進められた。発表者の意図は、いわゆる思弁的実在論における「相関主義」批判との関係からサルトルの実在論/観念論の問題に再び光を当て、初期哲学の意義を問い直すことにあった。
 たしかに、思弁的実在論の代表的な著作の一つに数え上げられるカンタン・メイヤスー『有限性の後で』には相関主義の哲学としてサルトルの名が見られ、博士論文である『神の非存在』でも『嘔吐』におけるマロニエの根の場面が(ごく簡潔に、自身の論じる不条理性との差異を示すためにだが)言及されている。事実性や偶然性といった鍵概念についての解釈等も含め、双方の突き合わせを通じてどれほど新しい展望が開かれてくるかは明らかではないが、未開拓分野という意味では検討される価値はあるだろう。

HIROAKI SEKI : La notion de mesure dans la première pensée de Sartre
 関氏の発表は、初期テクストにおけるmesure概念の多義性を研究したものであった。はじめに、小説『嘔吐』においてアニーがロカンタンを自分の尺度(mesure)だと見なす場面の分析が行われ、なぜこのようなロカンタン=尺度という同一視が生ずるのか、という問いが議論の導きの糸になった。それは、世界における理想的な価値尺度の欠如という事態を反映している、というのが氏の見立てであり、そのことを明らかにするために、『嘔吐』だけでなく様々なテクストが渉猟される。
 まず、『真理伝説』における「尺度」の位置づけから、理想的な価値尺度の欠如/危険で不十分な価値尺度の出現という対比が導入され、この対比を歴史的に解明するためにジャン=ジョゼフ・グーの『言語の金つかい』における「価値尺度としての貨幣の変遷」が分析される。さらに、同書の分析がサルトルのテクスト分析にも妥当であることを論じるため、ル・アーヴル講演及び『手帖』におけるジッド論が参照された。これらの分析を経た上で最後に再び『嘔吐』に立ち返り、小説末尾の音楽に見出される拍子(mesure)に対する言及がサルトルのmesureに対する関心のあらわれであり、単独者/芸術こそが真の価値尺度としての美を提示するというビジョンを明らかにしているのではないか、という仮説が提示された。
 内容は好評をもって迎えられ、質疑ではジッド研究との連携の可能性が示唆されたほか、初期サルトルにおける偶然性の理論との位置づけをめぐる質問があった。

SOIREE EXCEPTIONNELLE, organisée par Grégory Cormann et Jeremy Hamers : « On écrit peu à peu moins bien, puis on cesse d’écrire ». Sartre en radio, 1946-1973. Ecoute d’extraits & commentaires.
 夜にはCormann氏とHamers氏の進行による、サルトルの出演したラジオ番組を主題とした発表が行われた。Hamers氏は導入において、サルトルとラジオとの関係にあらわれた特性を脱同期化(désynchronisation)、脱モニュメント化(démonumentalisation)という語によって表現した。知識人によるメディア出演は、しばしばその作品の単純化、世俗的解釈を意図して行われる。その際、過去の作品の有名な一節がとりあげられ、過去を振り返り確認するよう促されることがしばしばである。しかしサルトルはラジオに出演するたびに、自分の年齢を訂正し、過去の作品との連続性を否認し、人口に膾炙したフレーズ(「地獄とは他者である」等)による単純化を拒否するしぐさを繰り返すことで、ジャーナリストが試みるモニュメント化を挫折させる。
 こうしてHamers氏がラジオ番組の内容面での分析を担った一方で、Cormann氏はより広い文脈のなかにラジオ、あるいは広く作品と対立するマスメディアを位置づけ、この問題の持つ多様性に光をあてた。特に氏は55年から57年頃をひとつの転換点と見なし、メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』への最初の応答が著作ではなくマスメディアに対して行われた点、アルジェリア戦争におけるレジスタンスのラジオが活用された点などを明らかにした。また『批判』における集列性の例としてマスメディアがつくる集団について批判的に言及される点を指摘しつつ、メディアがつくるある種の共同性・大衆といったものが当時のサルトルにおいては積極的に評価されない点が指摘された。その他にも、複数のディスクールの領域を横断するプロジェクトとして実存的精神分析を見なすならば、メディアを通じた活動をこの観点から取り上げ直すことができるのではないかという指摘、また、晩年のサルトルが作品を断念し次第にメディアへと進出してゆくことなど、サルトルとメディアについてのあらたな論点が多く提出されたように思われる。

6月24日
JEAN-MARC MOUILLIE : Sartre, penseur subversif de la norme
 Mouillie氏の発表は「道徳と歴史」および「倫理の根」に見られる規範的なもの(le normatif)についての考察を〈規範の現象学〉と捉えた上で、その考察の独自性を評価するものであった。
60年代の道徳を扱ったテクスト群において規範は、主体から独立して存在する、行為を外側から抑圧し規制する要因ではなく、実践そのもののなかに織り込まれ、行為の可能性を限定しつつ実現させる要因をなすものとして経験される。また規範は主観的側面にかかわるのみならず、それ自体客観的なものでもある。その意味で、規範は間主観的に共有されるものであり、それを通じて個人的な選択のみならず集団的な選択についての分析をも可能にする。こうした規範の両義性は『存在と無』の時期にはあらわれていなかったものであり、ここにサルトルの発展と一貫性を見て取ることができる。前日の発表と趣旨において通ずるものであるが、極めてクリアな見立てによって、サルトルの倫理観の特徴がより明らかになったように思われる。
 倫理そのもののなかに葛藤と差延を含むという点で、デリダの脱構築的な理論とのかかわりが指摘できるのではないかという質疑もあったが、これについてはさらに展開して検討されることも可能だろう。

PAOLA CODAZZI : Réflexions sur le roman : Jean-Paul Sartre et le « tragique moral » d’André Gide
 ジッドの著作における「ヨーロッパ」について博士論文を準備しているCodazzi氏の発表は、ジッド研究者としての観点からサルトルのル・アーヴル講演における『贋金つかい』論を検討するものであった。サルトルは同講演において、ジッドの小説の主題を登場人物の葛藤、道徳的悲劇のなかに見てとっている。現実と仮象、金と贋金といった二元性に引き裂かれた登場人物たちは、その葛藤を克服すべく物語を生きる。なかでもオリヴィエとヴァンサンの兄弟の命運は対照的で、発表者によれば、オリヴィエは葛藤を引き受け乗り越えることに成功するが、ヴァンサンはそれに失敗し悲劇的な死に至る。
 サルトルの考察のジッド論としての正確さと可能性を指摘する発表であったため、ここからサルトル研究/ジッド研究に何をもたらすかという点については聴き手に委ねられた感もある。しかし、質疑でも指摘されたように、サルトルのジッドに対する関心は恒常的なもので、両者の対比はさらにシステマティックに展開される必要がある。たとえば、人間主体の内的引き裂かれという主題は、後の本来性/非本来性にかんする考察にも連なるものであり、倫理にかんするサルトルの思索の大きな源泉をなしている。その萌芽をなすものがハイデガーの読書以前の比較的早い時期(1932-33年)に見いだされる点は興味深いといえよう。

ESTHER DEMOULIN : Sartre, « l’antipédéraste » ?
 Demoulin氏の発表はENSで行われたセミネール「文学と(複数の)同性愛」に基づいたものである。
 彼女はまず『聖ジュネ』と「対独協力者とは何か」を取り上げ、前者でのジュネの同性愛についての決めつけともとれる分析、後者での同性愛者と対独協力者を結びつける言説に言及した上で、サルトルは同性愛嫌悪者(アンチペデラスト)かと問いかける。ついで、この否定的判断には慎重さが必要であることがサルトルの文学作品における同性愛表象から分析される。サルトルの文学作品にはほぼ必ず同性愛者が登場するが(『嘔吐』の独学者、『自由への道』のダニエル、『出口なし』のイネス等)、その役割は一義的ではない。それはマゾヒズムや自己欺瞞、裏切りといった否定的価値に結び付けられることもあるが、『聖ジュネ』のパラテクストや他の作品(特に『出口なし』のイネス)においては明晰さという肯定的価値に結びつけられ、対独協力者で同性愛者のダニエルは作品の未完結部分ではレジスタンスとして真の自由を体現する人物に変身する。こうして数多くのテクストからサルトルの同性愛観の両義性を提示したあとで、先行する/同時代の同性愛言説として、ジッド、プルーストの同性愛観との対比が行われた。サルトルにおいて、同性愛は同性の同性に対する関係に固定化されず、女性化した男性、男性化した女性といった形式をとり、ジェンダーの二項関係を撹乱する多元的な側面をも持つ。最後に、ボーヴォワールの小説や『第二の性』における同性愛言説との対比が行われ、精神分析における同性愛観との対比から、サルトル/ボーヴォワールの同性愛についての考えの相違が明らかにされた。
 理論的にはディディエ・エリボンの『ゲイ問題の考察』(いうまでもなくサルトルの『ユダヤ人問題の考察』を意識したテクスト)も背景にあり、サルトルにおける同性愛表象の内的多義性と他の作家たちとの対比が展開される豊かな発表だったように思われる。

TABLE-RONDE On a raison de se révolter (A. van den Hoven & V. von Wroblewsky)
 『反逆は正しい』英訳刊行記念ラウンドテーブルでは、アメリカとドイツにおけるサルトルの翻訳者二人が『反逆は正しい』とリベラシオン紙創刊に至る歴史的・政治的・思想的文脈を語り直した。詳細は省くが、当時の熱気とこの書物の重要性を感じさせるものであった点は指摘しておきたい。ただ、このテクストを2017年に翻訳・刊行することの意義について質問があった際に明白な答えがなかった点はやや残念であった。

GIUSEPPE CRIVELLA : Quel imaginaire pour le roman? Sartre et Blanchot
 Crivella氏のサルトルとブランショにかんする発表は、『シチュアシオン』第1巻に収録された『アミナダブ』への書評に基づくものである。そこでサルトルはブランショの世界観について、日常の有用性が逆さまにされた世界、すなわちファンタスティックな世界を描いているという評価を下しているが、これがサルトルの『想像力の問題』結論部にあるイマージュの把握と現実把握の反転的関係とのかかわりのなかで論じられる。そこから、ブランショ自身のイマジネールと言語との関係、イマジネールと現実との接触との関係等が比較された。

ALEXIS CHABOT : Du mouvement et de l'immobilité de Poulou
 Chabot氏の発表は「運動性/不動性」を鍵語にしてサルトルのテクストを独自の観点から読み解いてゆくものであった。『手帖』における状況の硬直(不動)と「前進」の合図(動)、ブルジョワに特有の価値観の固定性、イデオロギーの保守性、土地持ち(不動)に対して、そこから逃れようと試み、自己自身と一致せず、ホテル暮らしをするサルトル(動)など、動/不動の対立はサルトルのテクストと生をつらぬいてあらわれる。さらに、『手帖』でその現場を見てとることができるように、サルトルの思考は多弁によって新規さと創造性を獲得しており、自己限定によってではなく絶え間ない創造によって、つまり動き続けることで成立している。その根底には運動へのオブセッションと同時に不動に対するオブセッションが存在する。ひと組みの概念によって複数のテクストを横断してゆく手つきは鮮やかであった。
 発表題目はイヴ・ボヌフォワの『ドゥーヴの動と不動』へのアリュージョンで、まず詩の一節(Hier régnant désert)の朗読からはじめられたが、発表日は奇しくもボヌフォワの誕生日であった。

CLAUDIA BOULIANE : Comment voyager comme un saumon. Sur trois métaphores du tourisme de masse dans La Reine Albemarle ou Le dernier touriste
 Bouliane氏は遺稿旅行記である『アルブマルル女王』を観光ツーリスムという観点から論じることを標題に掲げたものだが、そのなかで思いがけぬかたちで『手帖』の重要性が強調された。まず、サルトルの従軍当時の社会でツーリスム、ツーリストが持っていた両義性に光が当てられる。フランスでは資本主義の発展と1936年の人民戦線の勝利以降の法整備によって有給休暇、ヴァカンスの大衆化が進み、ブルジョワ以外にもひろく旅行の楽しみが可能となった。他方で、植民地への侵攻や戦争も旅行と同様に、世界中で、しばしばピトレスクな趣を持つものとして受け入れられた。『手帖』を紐解けば、サルトル自らもはじめは戦争を短期で終結するヴァカンスのように捉えていたことがうかがえるが、それは同時代の変容した旅行観を反映したものになっている。すなわち、一方では大衆的な動員としての旅行として、また他方では美と破壊の両面にかかわる旅行として。
 発表はこれらの有益な歴史的視座を含みながら旅行の問題系を論じるもので、サルトルの旅にかんする決して少なくないテクストを読むための道しるべとなるものであった。
(文責・赤阪辰太郎、協力・関大聡)

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