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日本サルトル学会会報第51号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°51 juin 2017
日本サルトル学会会報              第51号 2017年 6月


研究例会のお知らせ
第39回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムを開催致します。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われます。当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)

(休憩 15分)

16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Hervey
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
通訳つき)
司会:澤田直(立教大学)

17:30 終了

17:40 総会
18:00 終了
18:15 懇親会

日本サルトル学会会報第50号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°50 mai 2017
日本サルトル学会会報              第50号 2017年 5月

研究例会のご報告
第38回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告申し上げます。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました根木昭英、森功次、両氏の博士論文合評会を行いました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。

第38回研究例会
日時:2016年12月3日(土) 14 :30~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)


14 :30 -16 :15  提題者:根木昭英 Akihide Negi (司会:北見秀司、特定質問者:水野浩二) 「La « Poésie de l’Échec » : la littérature et la morale chez Jean-Paul Sartre」(「挫折のポエジー」――ジャン=ポール・サルトルにおける文学とモラル)

根木昭英による発表は、博士論文について、最初に着想経緯や意義などについて説明を行ったあと、全三部の梗概を、順を追って説明してゆくという形でなされた。
根木は、博士論文における考察の中心コーパスであった批評群(『ボードレール』、『聖ジュネ』、『家の馬鹿息子』、『マラルメ』等)の多面性を指摘することから報告を始めた。これらの批評は、実在の作家や詩人たちの生涯をめぐる伝記的描写であると同時に、彼らの実存や作品、さらにはその背景をなす歴史状況の哲学的分析でもあるという混合的な性格を持っている。執筆年代的にも内容的にも、サルトルの知的営為のほとんどすべてと絡み合って展開しているこの批評群に、これまでのところ既成理論の個別的事例への適用という副次的な位置づけが与えられる傾向があったとすれば、それにはこうした一見曖昧な性格も与っていたはずだと発表者は指摘する。しかし根木の考えによれば、これらの批評においては、じっさいには芸術とその倫理的位相をめぐる思索が展開されており、しかもそれは、独立した著作としては理論化されずに終わった一貫した体系を形成している。それは、「詩的な世界内存在」としての「ポエジー(poésie)」をめぐる思索である。サルトルのテクストにしばしば現れる「ポエジー」の語には、世界内存在の一様態、すなわち「挫折(échec)」あるいは「不可能なもの(l’impossible)」の選択という意味が与えられており、芸術作品は、何よりもこの審美的な実存様態から生み出されるとされる。そしてこの芸術創造の過程は、普遍-特異両面における実存の自己意識化およびその「証言(témoignage)」としての倫理性と結び付けられていると根木は言う。美学と倫理とのこうした潜在的接続をサルトルの新たな思想軸、さらに言えば、書かれることなく終わった「第二の『文学とは何か』」として再構築することが、根木によれば博士論文の主目的であった。
続いて報告は、論文の具体的な内容説明に移った。根木の博士論文は、作品創造の前提となる芸術家の存在様態を扱った第一部、詩的な実存様態の客体化たる作品創造の問題を扱う第二部、そして、前二部で構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程を探る第三部によって構成されている。各部の詳細については、次のような説明がなされた。
第一部においては、「ポエジー」の語が持つ、詩的な世界内存在としての意味から出発して、その構造および存在論的含意の解明が行われている。まず「ポエジー」の意味に関しては、サルトルにおける「ポエジー」が、「詩」のみならず、先述のように「挫折」あるいは「不可能なもの」の選択を指すために用いられていること、そして、こうした実存様態が、行為の有効性の否定によって道具連関を逆転し、世界を審美的様相において開示する態度として定式化可能であることが指摘される。続いて、以上の分析を「実存的精神分析」(『存在と無』)の存在論的観点からあらためて考察する後半部では、詩的な世界内存在が、不可能な「即かつ対自」、つまりはサルトルの無神論哲学における「神」たらんとする試みに収斂することがまず示される。つぎに考察は、サルトルにおける神概念の検討に移り、「神」のもうひとつの定義である「自己原因」の概念を、聖トマスからデカルト、スピノザを経てライプニッツへといたる神学史へと位置付けることで、サルトルの「神」が、何よりもそのフォイエルバッハ的な人間化された性格によって特徴づけられることを明らかとした。そして最終部において、以上の分析から、「ポエジー」が、自己の「瞞着(mystification)」により世界の我有化を目指す実存様態であることが確認された。
第二部では、詩的世界内存在が現実的事物、すなわち芸術作品(とりわけ文学作品)へと客体化される過程をめぐるサルトルの思索が検討される。そこではまず、サルトルが、作品における詩的投企の客体化過程を考察するにあたり、言語の対象指示作用よりも、その非伝達的側面である物質性契機の重要性を強調していることが指摘された。論文はそのうえで、こうした議論の背景に、サルトルにおける「記号/イマージュ(散文/詩)」の二元論が孕む両義性があること、よって「ポエジー」の問題とは「文学」一般のそれに他ならないことを明らかとする。そして、こうした両義性の起源が、フッサール現象学における記号とイマージュの区別の両義性にまで遡ること、さらに、それが「志向の差異」と「程度/本性の差異」をめぐる現象学のより根本的な(そして生産的でもある)両義性に関わることもまた示された。続く考察は、文学言語をめぐる以上の議論が、対他関係の文脈においては「コミュニケーションのアポリア」、すなわち、他者の眼差しによる作品客体化の要請と、対他存在の相剋的性格に由来するその必然的挫折として再解釈可能であることを示し、サルトルがこの新たな文脈において「ポエジー」を「ナルシシスム」、つまりは他者に向けられた「瞞着」として再定義していることを確認した。
第三部においては、以上に構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程が検討される。論文はまず、これまでに見た「ポエジー」としての芸術創造に、(多少の振幅を伴いつつも)サルトルが自らの倫理論を重ね合わせている点を指摘する。そのうえで、明示的説明を与えられていないこうした美学と倫理との接続が、芸術的営為のもつ、「人間的実存」の「証言」を通じた「弁人論(anthropodicée)」としての倫理性――人間的条件を拒絶し神たろうとする企てである芸術創造が、人間的条件の不可能性(即自/対自、偶然性/自由、対自/対他の解決不可能な矛盾)ゆえに、拒否された当の人間的条件の自己意識化と表現、そしてその擁護へと反転すること――として、整合的に解釈されうることを明らかとした。続く考察は、以上に再構成された美学-倫理体系と『弁証法的理性批判』との対照を通じ、芸術創造における「自己意識化」の概念が、「批判的経験の批判」において弁証法的全体化の第一の可知性を形成するとされた「了解」概念と他のものではないこと、よって本体系における芸術の倫理性が、「〈歴史〉の運動」つまりは「弁証法的理性」の「批判」としてのそれへと延長されうることを示した。そして最後に、それまで言語芸術を中心に検討されてきた以上の思索が、『ネクラソフ』を始めとする戯曲作品、さらにはティントレット論などの美術批評にも見いだされること、したがって再構築された体系が、詩学のみならずサルトルの美学-倫理論一般として妥当することが示された。

発表後の質疑では、最初に特定質問者の水野浩二氏より報告者に質問が寄せられた。水野氏の質問は、「美」と「モラル」との関係をめぐるサルトルの様々な発言の関係、また、「総合なき矛盾」たる「回転装置(tourniquet)」の観念を踏まえたうえでの、サルトル哲学における「弁証法」の位置付け、さらには「瞞着」とサルトル思想との関係についてなど多岐にわたるものであり、発表者はそれぞれ、「モラル」という語がその時々に持つ意味を区別しつつサルトル思想の展開を通時的に整理する必要性(「美」と「モラル」の関係)、「全体化するものなき全体化」としての『批判』の弁証法と「回転装置」とを、ひとまずは区別して考えるところから出発する必要(「弁証法」について)、また、しばしばサルトルにおいて「瞞着」が「透明性」と表裏をなしているゆえ、それは必ずしもそのまま「非本来性」と同一視できるものではない(「瞞着」について)、といった観点から応答を行った。続く一般質疑では、本論考の鍵語のひとつである「挫折」を考察するにあたって、サルトルが1927-8年に翻訳に参加したヤスパース『精神病理学総論』が持つ重要性の指摘、さらに、サルトルにおける「救済(salut)」をめぐるデリダの論考(『パピエ・マシン』所収)についてどう考えるかといった質問が出た。発表者は後者の問いに対し、今回再構築された体系においても文学とその倫理的「機能」とが不可分とされている以上、そこにある種の「救済」思想の回帰を見て取ることは可能かもしれないが、他方サルトルの文学実践(とりわけ文体レベルの実践)は、こうした思想にのみ還元されるものではないはずだとの視点から応答を行った。
以上、質疑においては博士論文で直接に扱われたテーマには限定されない幅広い角度から活発に質問が寄せられ、議論は盛況であった。発表者としてはとりわけ、一か月弱という短い準備期間で論文の根幹に関わる貴重な数々の問いを準備してくださった水野先生に、この場を借り、あらためて深謝申し上げたい。(文責:根木昭英)


16 :30-18 :15 提題者:森功次 Norihide Mori(司会:生方淳子、特定質問者:永井玲衣) 「前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」

 例会の後半部では私の博士論文「前記サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」(東京大学、2015年)の合評会を開催して頂いた。まず冒頭で2-30分ほど私が博士論文の概要と要点を説明した。
私の博士論文は、サルトルの主に初期から『聖ジュネ』までの哲学的文献を読み解きつつ、そこから示されるサルトルの芸術論を読み解いていく、というものである。読解の中心となる著作は、第一章が『想像力の問題』、第二章が『存在と無』(とその前後の著作)、第三章が『文学とは何か』、第四章が『倫理学ノート』、第五章が『聖ジュネ』なっており、お分かりの通り、博論の章構成は、読み解く著作の時代順となっている。考察を通じてサルトル思想の年代ごとの変化を明らかにしていくというのも、本博論の副次的な狙いであった。
博論概要の説明の後、討論に移った。特定質問者は上智大学の永井玲衣氏にお引き受け頂いた。
永井氏からは、主に6点の質問を頂いた。私の理解した限りで(かなり雑駁に)質問をまとめると、質問は概ね以下の6点である。

1.『存在と無』から『倫理学ノート』にかけての思想の変化とはどのような変化だったのか
2.サルトルの文学観における「道徳」と「美的経験」との(やや複雑な)関係は結局どういうものなのか 
3.なぜ他者を個性的な人間として承認せねばならないのか
4.サルトルの倫理学と状況倫理とは何が違うのか
5.サルトルとアメリカ(プラグマティズム)の関係について。
6.(森の読解から出てくる)サルトルの文学は「公衆」の形成につながるものなのか

かなり予想外かつ良質な質問が続いたので、私もその場でいろいろと考えてしまい、あまりうまく受け答えができなかった。とりわけ4や5の質問については、ほとんど答えることはできず、反省点は多い。今後のための重要な検討課題を与えられたと思っている。
その後、質疑をフロアに開き、他の方々からも批判や意見を多数頂いた。とりわけここでも議論の中心になったのは、『道徳論ノート』の時期、サルトルの中にはどのような変化があったのか、という点だったかと思う。応答の中でわたしは、〈「純粋な反省」についてのサルトルの考え方が、瞬間的な反省から時間的なスパンのある反省へと大きく変化している〉というひとつの私見を述べたが、この点についても確固たるテクスト的証拠を出すことはできなかった。これも今後の課題として受け止めさせて頂きたい。
 今回の例会を機に、私の博論はResearchmap上で全文公開されている(https://goo.gl/BB7MKA)。今後も博論を書籍化するつもりは(少なくとも現時点では)ないので、私の考えが変わらないかぎり、ひとまず公開されつづけるだろう(そのうち東京大学のリポジトリにもupされると思う)。私が行った読解の妥当さはさておき、博論ではほぼすべての引用部分には原文を付してあるので、少なくとも資料的価値はあると思う。前記の哲学的著作を読み解く際の一材料として利用して頂ければ幸いだ。もちろん、厳しいご批判、ご意見はいつでも歓迎している。
 最後にひとつ謝辞を述べておきたい。この博論を仕上げるまでの数年間に、私はこの日本サルトル学会で幾度も発表の機会を与えて頂いた。その場で(もしくは打ち上げの場で)会員・来場者・パネリストの方々と行った討論は、この博論の様々なところで活かされている。この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。(森功次)


サルトル関連文献
・ 加藤誠之「定時制高校の実践に学ぶ生徒指導 : 自由と遊びに関するサルトルの思索を手掛かりとして」『人間関係学研究』21(1)、2016年12月、pp. 51-61.
・ 李先瑞「野間宏の文学におけるサルトルの実存主義思想の受容」『アジア・文化・歴史』(4)、2016年12月、pp. 19-34.
・ 北見秀司「サルトル(1905-1980)と戦後 (特集 戦後70年と世界文学)」『世界文学』(124)、2016年12月、pp. 18-28.
・ 翠川博之/生方淳子/澤田直「生誕111年 J.-P. サルトル再読  実存主義を遠く離れて」『Cahier』19号(日本フランス語フランス文学会)mars 2017

サルトル関連情報
 サルトルの養女、アルレット・エルカイム=サルトル(1935年生まれ)さんが2016年9月16日に亡くなりました。Cahiers pour une moraleを皮切りに、サルトルの遺稿の出版を一手に行ってきただけでなく、新たな校訂版なども手がけ、サルトル研究の新たなステージを可能にした彼女の貢献は長く記憶に留められるべきものでしょう。国際サルトル学会GESなどの公の場所に顔を見せることは稀でしたが、多くのサルトル研究者がさまざまな形でお世話になりました。ご逝去に関しては長いあいだ公開されていませんでしたが、現在ではネット上でもこの情報が出ています。遺体はモンパルナス墓地に埋葬されたとのことです(« Bataille à huis clos pour l'héritage de Sartre », Le Canard enchaîné, no 5036,‎ 3 mai 2017, p. 4.)
 アルレットさんが編集中のGallimard 社からの新しいSituations集は、今後も続けて刊行の予定だそうです。サルトルの遺稿をはじめ、その他の遺品の今後の行方についてはいまのところ分かっていません。
 アルレット・エルカイム=サルトルさんのご冥福を心よりお祈りします。


☆ 次回の例会は2017年7月15日を予定しています。

2017-01-25 [サルトル関連情報]

 サルトル来日50周年にあたって、鈴木道彦会長の特別講座が開催されますので、お知らせいたします。講演についてのお問い合わせは獨協大学エクステンションセンターまでお願いいたします。

https://www.dokkyo.ac.jp/opencollege/oc02_02_j.html
サルトルと現代 -来日50周年にあたって-:
講義概要
 20世紀最大の知識人サルトルは、ボーヴォワールとともに1966年に来日して、熱狂的な歓迎を受けました。
そのときの様子を映像で振り返りながら、何度も直接会って議論を交わした者として、その人物像を伝えるとともに、50年後の今日の世界でサルトル思想の持つ意味を考えます。
 たしかに彼のような大知識人を求める時代は過ぎ、現在では彼の本が争って読まれることもなくなりました。
 しかし彼の提起した問題が解決されたわけではありません。たとえば「第三世界は郊外に始まる」と言ったのは、当時のサルトルでした。それはまるで移民や難民の問題で苦しんでいる今日の世界を予言しているように見えます。
 このような問題は、日本にとって無縁なことなのでしょうか。いったい半世紀前と何が変わり、何が変わらなかったのか。そのことも講座のなかで探っていきます。

日時 3月4日(土)14時~16時 (13時開場)
場所 獨協大学 天野貞祐記念館大講堂
講師 鈴木 道彦(すずき みちひこ)
獨協大学名誉教授
交通 東京メトロ日比谷線半蔵門線直通 東武スカイツリーライン「松原団地駅」* 西口徒歩5分
*2017年春「獨協大学前<草加松原>」に改称予定  ※車でのご来校はご遠慮ください
受講 無料 定員500人 当日先着順 事前申込不要
共催 草加市
お問い合わせ 獨協大学エクステンションセンター
〒340-0042 草加市学園町1-1
電 話  048-946-1678
sartretogendai.jpg

北米サルトル学会 第22回研究例会報告(関 大聡) [サルトル関連情報]

bearhall.jpgBear Hall
北米サルトル学会 第22回研究例会
The 22nd Meeting of the NASS (North American Sartre Society)

北米サルトル学会facebook
北米サルトル学会WEBサイト
プログラム(pdf)

参加報告 関 大聡


 11月4日(金)から6日(日)までの三日間、北米ノース・カロライナ州ノース・カロライナ大学ウィルミントン校で北米サルトル学会の第22回研究例会が催された。前回はペンシルベニア州(イースト・ストラウズバーグ大学)、前々回はカナダのオンタリオ州(ウィンザー大学)と、毎年この時期に北米の都市を開催地とする例会であるが、日本では必ずしも馴染みがないかもしれない。報告者は今回発表のために三日間通して参加する機会に恵まれたため、今後日米両会の参加・交流が進むことを期待して、この報告小文を寄せることにしたい。

参加まで:国際学会は参加自体のハードルが高いため、そこに至るプロセスから記述した方が良いだろう。大まかな情報はFacebookのNorth American Sartre Society (NASS)をフォローすることで確認されたいが、まず七月末日を目途に発表募集(CFP)がかけられ、主催側に2頁以内の要旨を提出する。それが受理されれば発表原稿を用意しつつ渡航の準備を進めることになるが、三日間の学会はやはり規模が大きい。参加登録がオンラインで行われるだけでなく、ホテルを学会側が押さえているため、空港からの無料シャトルバスも含めて、不慣れな海外であってもある程度安心することができる(例年のことか不明だが、大学院生は相部屋を選べば宿泊費補助も受けられた)。渡航費は無論自前であるが、報告者は所属する大学院の旅費補助プログラムに申し込む幸運を得ることができたため、同種の補助を探してみることもできるだろう。

学会当日:さて、北米のサルトル学会は三日間で50人以上の発表者に加え、基調講演、及び新刊書についての書評セッションも用意されており、規模で言えば世界でも最大のものである。今回の全体テーマはラッセル法廷の開廷50周年を記念して「実存主義とアンガジュマン:実存主義の歴史と未来Existentialism and Engagement: The History and Future of Existentialism」と題されたが、毎回あらゆる角度からのアプローチを受けいれている(一般的な傾向として哲学研究が主流ではあるとはいえ)。参加者は確認のかぎりでは、アメリカ、カナダ、イギリスを中心に、南米、イタリア、オーストリア等から来ていたようである(イランからカナダに移住した一人を除けばアジア系は私だけだったと思われる)。身分も、大学研究者、学生だけでなく在野の研究者、精神科医等を迎える等、研究を開こうとする姿勢には着目されよう。

発表英語ないしフランス語を選択することができるが、後述するように仏語のパネルは報告者が参加した一つだけであったから、広いリアクションを期待するのであれば英語での発表を考えた方が得策かもしれない。コーヒー・ブレイクやランチを挟みながら全部で七つのセッションがもたれ、各回2-3のパネルが同時に進行することになる。全体の雰囲気を俯瞰するために各パネルのテーマを列挙してから、報告者が参加しえたものについては短く紹介したい。
1A「自由、決定論、行為体」、1B「本来性、自己欺瞞(Bad Faith and Self-Deception)」、1C「『弁証法的理性批判』への新たなアプローチ」
2A「文学とプラクシス」、2B「政治哲学I:大地へのアンガジュマン:惑星的危機へのサルトル的介入」、2C「コンフリクト、連帯、政治」
3A「政治哲学II:実存主義と社会的アンガジュマン」、3B「サルトルの実存主義におけるニヒリズム、不条理、オプティミズム」、3C「すべては許されているのか? サルトル倫理学の考察」
4A「精神分析、精神治療、情動」、4B「政治哲学III:拷問、テロリズム、中東」、4C「劇作家サルトル」
5A「政治哲学IV:人種とジェンダーへのサルトル的アプローチ」、5B「『弁証法的理性批判』と戦後政治」、5C「伝記、文学」
6A「書評セッション:ノレーン・カワージャ著『実存の宗教 哲学における禁欲主義 キルケゴールからサルトルまで』」、6B「瞑想、意識、エゴ」
基調講演(Sarah Bakewell)「如何にして心配するのを止めてサルトルを楽しむか」
7A「『反逆は正しい』についての鼎談」、7B「身体へのサルトル的アプローチ」

1B「本来性、自己欺瞞」
 まず、サルトルの初期の存在論と倫理を結ぶ鍵概念である「本来性authenticity」をめぐって三者三様の発表が繰り広げられた。本来性の自覚を社会の発展の契機として捉えようとするもの、『倫理学ノート』を取り上げて自己欺瞞から完全に解放された本来性は不可能であるとするもの、自己欺瞞における反省的意識の構造について再検討するものがあった。方法の点で興味深く思われたのは最後のもの(マイヤ・ジョルダン)で、分析哲学の方法を用いた議論の展開は印象的だった。

2C「コンフリクト、連帯、政治」(仏語)
 南米におけるサルトル受容を主題とした博士論文を用意しているというアンドレア・モッタの発表はラッセル法廷の争点を明らかにするもので、この民衆法廷への参加者にアレホ・カルペンティエルやフリオ・コルタサルのような作家も名を連ねていることを知られたことも、当時の知的シーンにおける南米作家のプレゼンスを考えるうえで興味深い。私の発表はサルトルのテクストにトロイアの伝説上の女性予言者カッサンドラの名が現れる幾つかの例からコミュニケーションの特殊な在り方としての予言について考察するもので、いささか意表を突くようなテーマだったと思うが、最終的にはサルトルにおけるペシミズム/オプティミズムという大きな問題系に着地したことで、会場から発表者の念頭にはなかった示唆を受けることができた。

3B「サルトルの実存主義におけるニヒリズム、不条理、オプティミズム」
 まさしく「実存主義的」と呼ぶべきテーマ群である。サルトルの議論において死は生の意味を奪うものではなく(剥奪説)、その意味を脅かすものである(脅威説)という主張を提示するもの、フォイエルバッハとの比較において、サルトルのヒューマニズムの無神論的ラディカリズムを強調するもの、『存在と無』のペシミスト的な存在論を敢えてオプティミズムの書として読もうとするもの、これら三つの発表が提示された。最後のものはテクスト的な裏付けは難しそうだったが、幸福や歓びと言ったテーマはRobert Misrahiによる一連のサルトル批判の主軸になっているだけでなく、2011年の仏語『サルトル研究』誌のテーマがBonheurs de Sartreでもあったことからも、展開可能な余地のある議論と思われた。

4B「政治哲学III:拷問、テロリズム、中東」
 本パネルは今回の学会のなかで最もアクチュアルなテーマを扱ったものだろう。最初の発表は、イラク戦争時の米軍による拷問行為の正当化において上層部が用いた理屈を具体的に取り上げつつ、拷問をめぐる論理そのものが歪められている(=拷問されている)ことを、自己欺瞞の概念を手掛かりに論じたもの。次の発表はイスラム過激派のテロを素材として、テロリズムは『倫理学ノート』に扱われる対抗暴力たりうるか? と問うもの。他者の自由の否定であるテロリズムは対抗暴力たりえないとする結論まで議論は導かれたが、しかしそれならば、どのような対抗暴力であればその批判から逃れ得るのか? これはサルトルの暴力論の射程を測る根本的な疑問として残るだろう。最後の発表は、中東における既存の価値観の崩壊が神の死という実存主義的な問いを引き起こすものであることを論じるものであった。同じ中東におけるサルトル受容については2010年の『サルトル研究』誌でも興味深い論文が読めるが、サルトルの徹底的な無神論的姿勢がイスラムの風土にどう受け入れられうるかという問いは、文明の対話の一側面として現代の関心に沿うものだろう。

5C「伝記、文学」
 発表は二つで(ボードレールについての発表者は欠席)、一つ目の発表はブラジルの作家クラリッセ・リスペクトールを実存主義の作家として検討するというもの。思想的文脈ではエレーヌ・シクスーとの関係が取り沙汰される作家ではあるが、彼女を読むための実存主義という新しい視座を与えられたのは発見であった。二つ目の発表は伝記作品における幾つかの争点と自伝に対する批判的距離を対照的に論じつつ、サルトルの議論に潜むマチズモの要素を、カストロ訪問のエピソードを交えつつ論じるものであった。質疑でサルトルのエクリチュールの一つのモデルとして読者を魅了する欲望が論じられたが、そこには発表者(ジョン・アイアランド氏)の著書であるSartre. Un art déloyal (Éditions Jean-Michel Place, 1994)の議論(特に第六章)からの一貫性を見出すこともできよう。

6A「書評セッション:ノレーン・カワージャ著『実存の宗教 哲学における禁欲主義 キルケゴールからサルトルまで』」
 近刊として同名書を上梓する著者を招いての書評セッション。この時点では肝心の著書が刊行されておらず、内容については登壇者の紹介から想像することを余儀なくされたが、実存主義と禁欲主義を結ぶ「精神的労働spiritual labour」としての側面をキルケゴール、ハイデガー、サルトルを中心に読み解くものであると言えば、その議論の背景にミシェル・フーコーの晩年の講義やピエール・アドの「霊操spiritual exercise」としての古代哲学という論点との近さを見出すことができよう。翌朝ビーチで偶然著者に会ったときにこのことを尋ねてみると、議論の方向が予断をもって受け入れられることを避けるためにむしろ差異化に努めたとのことだったが、宗教史のコンテクストから実存主義に新たな視座を与える試みとなれば、これは興味深いものであると期待される。

基調講演「如何にして心配するのを止めてサルトルを楽しむか」
 講演者のサラ・ベイクウェルは『実存主義者のカフェで:自由、存在、あんずのカクテルAt the Existentialist Café: Freedom, Being, and Apricot Cocktails』の著者。2016年に刊行されると間もなくオランダ語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語に翻訳された同書は、哲学と伝記を折り合わせたストーリー・テリングによって多くの読者を魅了した今年のベストセラーである。講演では、著者自らがいかにして『嘔吐』の著者に出会い、偶然性の思想を軸に、不安の思想という危なっかしいものに対する「不安」を解消するようになったかが語られた。

基調講演の会場.jpg基調講演の会場

7A「『反逆は正しい』についての鼎談」
 近いうちに『反逆は正しい』(1974)の英語訳が刊行されるらしく、それを期しての同書をめぐるパネル。当時の時代的コンテクストについての紹介や、サルトルにおける老齢の意味合い、フェミニズム的観点からの批判的検討、同書の中心をなすマオイズムの今日的争点など、多くの議論が交わされることとなった。年配のサルトリアンたちによる鼎談のため、じっさいに60-70年代のパリの空気を呼吸していたひとも少なくなく、現役のマオイストもそこにはいる。これほど幸福な時代錯誤も稀有なものだろう。

感想:以上、朝から夜まで三日間、休憩時間や会食も含めて濃密な時間を過ごすことができたが、毎年これほどの参加者の募ることができるのはアメリカという強い求心力を持つ土地ならではのことだろう。そこにはサルトルの著作全体を大胆に理解しようとする企図が感じられ、また少なからぬ発表はサルトルのテクストに即して読解すると言うよりはそこから出発して現代の事象を分析するツールとして用いるといったものであった(無論、その結果として議論がしばしば玉石混交となるのは避けがたいことではある)。そこには良し悪しもあろうし、日本のどちらかと言えばテクストを精緻に理解しようとする研究とは傾向の違いを見て取ることもできよう。とはいえ、なるべくテクストに寄り添うことを信条とする者にとっても、そこからさらに飛躍して何を語ることができるかを考えさせるという意味では、生産的な対話の場が用意されているように感じた。

 また限られた観測範囲での印象ではあるが、英語圏と仏語圏の研究の間にはかすかな溝があるようにも思われる。発表のなかで先行研究への言及が行われるときには、トマス・フリンやロナルド・アロンソンを筆頭とする英米の大家の著作が参照されることが多く、研究の蓄積において独自の発展を遂げているのではないか。それは英語圏における大学の研究動向(近年は分析哲学の影響が否みがたい)のみならず、政治状況とも関連していよう。とりわけ(今回のテーマの影響もあるとは思うが)『弁証法的理性批判』を中心とする政治哲学への関心は高く、それを現代の状況(環境問題、現代戦争、テロリズム、ジェンダー)に接合させようとする企てが多くみられた。地球規模で起きている変革はサルトルの時代のそれとは大きく異なるものとなりつつあるが、歴史を知解可能なものにしようとするサルトルの著作の「活用」に踏み出すことは益々重要な試みになっている(これは相部屋の博士の学生オースティンが断言していたことでもある)。私はとりわけ中東情勢に関する分析に興味を感じた。活字で読めるものとしてはジョン・アイアランド氏(その活躍は両大陸を跨ぐものであるが)の以前の論考(« Sartre and Scarry: Bodies and phantom pain »)を挙げておきたい。エレーヌ・スカリーによる身体的苦痛の現象学的分析を導きの糸として、サルトルの戯曲テクストにおける拷問の主題を扱う論考は多くの知見を含むものであり、この方向は今後さらに発展していくであろうし、特別の注意を払う必要があるように思われる。

 今回の滞在は、11月8日の合衆国大統領選挙直前に該当していた。空港からホテルに向かうシャトルバスの運転手と話していたとき、ノース・カロライナでトランプ氏は勝てないという予測を聞かされたが、蓋を開けてみれば同州は氏の圧勝。学会のなかで直接俎上に上ることはなかったものの、国の運命を大きく左右する選挙に対する関心と緊張は顕著なものであったように思われる。最終日、全パネルが終ったあとに若手の研究者たちと昼食をとる機会を持ったときには、11月にもかかわらずビーチを臨むホテルには夏のような陽光が注ぎ、そこでは彼らの忌憚なき意見をうかがうこともできた。そのあとすぐに帰国せねばならなかったのは残念だが、このタイミングのアメリカに行き、サルトリアンたちのリアクションに接することができたのは貴重なことである。世界の研究動向に刺激を受けつつ、日本の研究のありうべき方向について考えることができればと思う。

ビーチを臨むホテルにて.jpgビーチを臨むホテルにて




日本サルトル学会会報 第49号

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°49 novembre 2016
日本サルトル学会会報 第49号 2016年 11月
次回の研究例会のお知らせ
第38回研究例会が下記の通り開催されますので、ご案内申し上げます。
次回の研究例会では、最近博士論文を提出されました根木昭英、森功次、両氏の博士論文合評会を行います。多くの方のご来場をお待ちしております。
第38回研究例会
日時:2016年12月3日(土) 14 :30~
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

 14 :30 -16 :15  提題者:根木昭英 Akihide Negi (司会:北見秀司、特定質問者:水野浩二)
       「La « Poésie de l’Échec » : la littérature et la morale chez Jean-Paul Sartre」(「挫折のポエジー」――ジャン=ポール・サルトルにおける文学とモラル)
   
(15分休憩)

 16 :30-18 :15 提題者:森功次 Norihide Mori  (司会:生方淳子、特定質問者:永井玲衣)
「前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」
  
 18:30    懇親会

今回の合評会のために、両氏の博士論文はweb上にて公開されております。各自事前にご参照下さい。
 根木昭英 博士論文 https://goo.gl/cPL6k4
 森功次 博士論文  https://goo.gl/BB7MKA
    ※どちらもResearchmap上の「資料公開」ページになります。


サルトル関連文献
・ 齋藤元紀・澤田 直・渡名喜庸哲・西山 雄二編『終わりなきデリダ: ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話』法政大学出版局、2016
・ 赤阪辰太郎「理想と現実の彼方にある倫理――サルトル『文学とは何か』における承認論の意義」、『フランス哲学・思想研究』、第21号、日仏哲学会、2016年9月、pp. 194-205.
・ 赤阪辰太郎「書評:澤田直編『サルトル読本』」『フランス哲学・思想研究』、第21号、日仏哲学会、2016年9月、pp. 274-277

日本サルトル学会会報第48号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°48 Octobre 2016
日本サルトル学会会報              第48号 2016年 10月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形式で開催となりました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。発表・質疑はすべてフランス語で行われました。

第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

吳銀河氏の発表「「ある指導者の幼年時代」における“籐の杖”の二場面(サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか)」は、短編小説の分析を通じて、サルトルによる精神分析の批判的活用を論じたものである。この短編は、これまでにもGeneviève IdtやJean-François Louetteによる優れた研究が明らかにしてきたように、フロイトの精神分析理論及びその当時流布していたイメージを作品のなかに取り入れており、サルトルが如何に精神分析に関心を抱き、かつ批判的な視点を持っていたかを明らかにするものである。吳氏の発表では、一貫して他者に対する受動的態度を示している本作の主人公リュシアン・フルーリエが(表題の示すように)「指導者」へと成長を遂げてゆく過程において、エディプス・コンプレックスが活用されていることが指摘される。とりわけ、(精神分析においてしばしば男性性の象徴とされる)杖が登場する二場面を詳細に分析しながら、リュシアンが自らを「男」とし「父」に同一化することがコンプレックスを克服するプロセスと同期していることが明示された。このように精神分析的テーマを巧みに取り込みながら、精神分析そのものが家族制度を基本単位とする社会・階級構造の再生産に寄与するものであることを露わにすることで、サルトルはライヒ、ドゥルーズ、ラカン、ジジェク等に先立って欲望と政治の関係性を浮かび上がらせているのだと吳氏は結論付ける。まさしく、コンプレックスの克服がファシズムの誕生と結び付けられるのが本短編の「不気味さ」であり、近年もこれを原作とする映画("The childfood of a leader” 邦題『シークレット・オブ・モンスター』)が製作されたことからも、そのアクチュアリティは見逃されるべきではない。本発表は、その作品の内的構造を詳らかに解きほぐしたものとして、大勢の関心を惹くものであろう。(関大聡)


Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)

本発表は、根木氏がパリ第4大学に提出した博士論文の一部に基づく。無神論的実存主義を展開したと言われるサルトルの議論の道筋を『存在と無』、『倫理学ノート』など複数の著作から明らかにしようとする試みである。
 神は「存在論的」かつ「認識論的」な意味ですべての「根拠」であり、「自己原因」である。ただし意識存在として何かの原因であるには、すでにある偶然の存在を無化することによらなければならないが、すべての存在に先立つべき存在がすでにある存在を無化するというのは矛盾である。これがサルトルによる、神の概念批判である。根木氏が指摘するに、自己原因としての神という概念は、多分に伝統的なキリスト教の考えに沿ったものであるが、サルトルはあくまでもこれを、偶然の存在が意識存在よりも以前に存在するという自分の考えに結びつけて扱う。そもそもサルトルは自己原因という言葉を、神にも自由である人間意識にも使っている。こうしてサルトルの考える意識存在としての神はいかにも人間的な概念であると言える。
 あまり扱われていないが重要なテーマを分かりやすくまとめた好発表だった。会場からは昨年オクスフォードで同様の発表があったので参考にしてはどうかとの提案があった。「神たらんとする」人間という、確かにサルトルの要となる問題系の解明を支えるはずの主題である。(鈴木正道)


Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)

今や日常生活に浸透したSNS。そのユビキタス的性格と利用者の相互性を『弁証法的理性批判』で描かれる溶融集団の特性と比較して論じるという意表を突く発表だったが、精緻な論証に裏付けられ説得的で刺激的だった。
氏はまず、サルトルを「メディアの哲学者」と呼べるかという問いを立て、彼が大戦直後から常にマスコミの目にさらされ、またそれを利用してきたことに着目する。しかし、メディアの哲学者と言えるとすればこのような意味においてではないと明言、考察を『批判』の集団論へと進めていく。集列と溶融集団との区別を確認した後、この理論ではラジオ・テレビの視聴者が互いに隔てられ間接的な集列をなすとされているものの、現代においてSNSの利用者は相互性で結ばれた溶融集団へと変貌し共同実践によって社会の流れを変えうると指摘する。韓国におけるその実例に依拠しつつ、現代のメディア環境にも適用可能な概念を提供したサルトルは「メディアの哲学者」であると氏は結論づける。
安易な比較にとどまらず、用意周到に議論した点には感心させられたが、より多くの具体例を挙げて、『批判』で語られる「友愛=テロル」同様の危険がSNSにも潜むことまで踏み込む時間がなかったのが少々惜しまれた。(生方淳子)


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」

サルトルにとってイタリアとは、旅行の行き先であっただけでなく、現地の知識人と交流する場であり、そこで作品を生み出す場でもあった。サルトル自身が個人的に深くかかわった場所として、イタリアは伝記的著作の生成において重要な役割を果たしたのではないか、というのが澤田直氏による発表の出発点となる問いかけである。
 澤田氏はまずティントレットに関するテキスト「ヴェニスの幽閉者」に注目し、画家の人生の転換点となるできごとや家族との関係性が特筆される点において、のちの著作である『家の馬鹿息子』と共通する伝記的側面への関心が見いだされることを指摘する。その上で、サルトルはティントレットの作品を単に画家の人生の投影されたものとしてではなく、その中で画家の人生が全体化されるものとして捉えていたと論じている。
 続いて『主体性とは何か』というタイトルで邦訳も刊行された1961年のローマでの講演に焦点が当てられる。この講演においてサルトルは、主体性の形成において伝記的な「できごと」の果たす役割の重要性を論じるために、ミシェル・レリスをめぐる挿話を紹介、分析している。サルトルの論によると、主体性は個人がある「できごと」を全体化・再全体化する過程を繰り返す中で形成されるものである。サルトルが作家や芸術家の伝記的側面を重視するのは、そのためであると澤田氏は強調する。
 以上を踏まえ、サルトルの重視する伝記性の意義は以下の3点に要約されると結論づける。①動的な主体と静的な環境をつなぐ ②作品と人生を仲介し解釈を促す ③新しい人文社会的な分析方法になりうる
 本発表は、サルトルの一連の伝記的な著作の背景を探るだけでなく、作家あるいは芸術家の伝記的要素に関するアプローチとしてサルトルの方法の有用性を示した点において、興味深いものであった。(中田麻理)


Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)

池英來氏の発表では、『嘔吐』におけるexistenceの問題が真正面から論じられた。氏は、まずサルトル最初の哲学的探求である「偶然性」が形作られていく過程をミディ手帳のメモ、アロンとボーヴォワールの証言、デュピュイ手帳などから丁寧にたどった後、偶然性/必然性の対立に、existence/êtreの対立を重ねていく。もちろんマロニエの根を前にしてのexistenceの開示は、偶然性の発見でもある。一方この書でのêtre は、プラトン的イデア界に属するものを意味する。必然的存在である音楽、「冒険の気持ち」というテーマは『イマジネール』における美の非現実性の議論に繋がっていくことが示される。さらに、ロカンタンが生きる、持続を欠いた瞬間は、『存在と無』における対自の時間性の議論へと繋がっていくことが指摘された。
全てにわたって『嘔吐』を織りなす諸テーマに通暁した氏の学識の深さが示された発表であったが、最後にサプライズが用意されていた。『嘔吐』の邦訳書の一節が比較検討され、exister, existenceの日本語訳として「現存」が提案されたのである。会場からは、当日お見えであった新訳『嘔吐』の訳者、鈴木道彦会長の応対もあり、発表者にとってもこれ以上はありえない交流の実現になったと思われる。 (黒川学)

総会報告
例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。(句点)
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の任期更新について議論され、現在の役員がそのまま留任することが承認されました。
     会長:鈴木道彦
     代表理事:澤田直
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次、翠川博之
     会計監査:竹本研史、水野浩二

サルトル関連文献
・ 中田平『サルトル・ボーヴォワール論』kindle、2016(1976-1981年の論文を集めたもの)
・ 森功次「戦後の実存主義と芸術」『ベルナール・ビュフェ美術館館報』2016, 5-7.

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

TBS『報道の魂』「みんなサルトルの弟子だった」放送時間・放送エリアについて

TBS『報道の魂』「みんなサルトルの弟子だった」
2016年9月18日(日)25時55分~26時25分
関東ローカル放送で1都6県でのみの放送、とのことです。

番組ホームページは以下です。
http://www.tbs.co.jp/houtama/

----------------------
'16年9月18日「みんなサルトルの弟子だった・・・」
50年前の1966年9月18日、フランスの哲学者サルトルが、パートナーのボーヴォワールとともに来日した。
あの時の熱狂と衝撃・・・ふたりの来日は、日本社会を大きく揺さぶった。
いったい、当時日本に何が起き、何故、彼らの日本訪問は、あれほどまでのインパクトをもたらしたのか・・・
知識人の役割とは?
大学紛争とは?
原子力と人類との関係は?
当時、縁のあった方々を訪ね、サルトルとボーヴォワールが投げかけた問いを、50年を経た今、もう一度受け止めて、ふたりの来日の意味を考える。
ディレクター:秋山浩之(TBSテレビ報道局)
---------------以上番組ホームページよりの引用

サルトル来日50周年記念番組放映のお知らせ [サルトル関連情報]

9月18日(日)深夜[19日午前1時頃]放映 TBS『報道の魂』ーみんなサルトルの弟子だった(仮題)

50年前に来日したちょうどその日の放送となります。
当時サルトルと会われた鈴木道彦先生や海老坂武先生のインタビューに加えて、
7月16日立教大学でのシンポジウムの様子や最も若い世代の研究者の声も伝える予定とのことです。

日本サルトル学会会報第47号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°47 juin 2016
日本サルトル学会会報              第47号 2016年 6月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されますのでご案内申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形をとります。多くの方のご来場をお待ちしております。なお、発表はすべてフランス語で、通訳はありません。
懇親会に関しては、準備の都合上、ご出席を希望の方はあらかじめ事務局のメールのほうにご連絡いただけるとたいへん助かります。


第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)
Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)


15:45-16 :00 Pause café 休憩


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」
Débatteur : Fabien Arribert-Narce (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:ファビアン・アリベール・ナルス(青山学院大学)

Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)


17 :30-18 :00 Assemblée générale総会

18 : 30 Pot amical 懇親会




今年のパリのサルトル学会のプログラムは以下の通りです。

日本からは栗脇さんが発表されます。
GESのBulletinを希望される方は、6月20日までに事務局までメールでご連絡ください。



サルトル関連文献
・ 赤阪辰太郎、2016、「新たな仕方で世界を描くこと : 前期サルトルの哲学的企図についての試論」『年報人間科学』37巻、87-103.
・ 赤阪辰太郎、2016、「サルトルを読むメルロ=ポンティ:『文学とは何か』をめぐって」『メルロ=ポンティ研究 』19(0)、 45-57.
・ 朝吹亮二、2016、「義塾を訪れた外国人(第1回)サルトル、ボーヴォワール」『三田評論』 (1196)、56-59.
・ 伊勢美里、2015、「サルトル『存在と無』における「共同存在」の実現可能性について」『上智哲学誌』(特集 共同体) (27)、59-70.
・ 表三郎、2015、「サルトル自我論の先駆者としてのランボー : 弁証法を甦らせるために(第6回)」『情況』4(3), 143-153.
・ 片山洋之助、2016、『日常と偶然』、理想社.
・ 加藤誠之、2015、「非行の臨床哲学 : サルトルから考える (特集 教育・臨床・哲学のアクチュアリティ)」『理想』694、42-52.
・ 栗脇永翔、2015、「可傷性・吐き気・肉体嫌悪――前期サルトルにおける身体の問題」、『Résonances』第9号、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、100-107.
・ 小手川正二郎、2014、「恥の現象学 : サルトルとウィリアムズを手がかりに」『國學院雜誌』115(12)、1-11.
・ 澤田直、2016、「サルトルとイタリア(1)」『立教大学フランス文学』45号、51-74.
・ 澤田直、2016、「共同体、そしてアイデンティティのことなど サルトルとナンシーを出発点として」岩野卓司編『共にあることの哲学』、書肆心水、19-51.
・ Nao Sawada (2016) « Comment vivre ensemble ? Barthes et Sartre : communauté et rythmes » , Littera (Societé japonaise de Langue et Littérature françaises), n° 1, pp. 20-30.
・ 重見晋也、2015、『コレージュ・スピリチュエル』としての『ボードレール』」『名古屋大学文学部研究論集 (文学61)』 (加藤國安教授 退職記念) 、113-126.
・ 柴田健志、2015、「時間の総合における「無」の機能 : サルトルの哲学と認知神経科学」『鹿児島大学法文学部紀要』(81)、19-28.
・ 中敬夫、2015、「サルトルと20世紀の古典的他者論の問題構制」『愛知県立芸術大学紀要』(45)、 3-16.
・ 中田光雄、2015、『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論—カント、ハイデガー、三木清、サルトル、…から、現代情報理論まで』、創文社.
・ 永井玲衣、2015、「サルトルにおける「目的の都市」」『上智哲学誌』(特集 共同体) (27)、83-93.
・ 永野潤、2015、「革命的サンディカリスムとサルトルの思想 」『人文学報(実川敏夫教授 退職記念論集) 』(504)、65-88.
・ 中村彩、2016、「『別れの儀式』における(脱)神話化――ボーヴォワールから見たサルトルの老い」(英語)、『共生のための障害の哲学Ⅱ』、UTCP.
・ 沼田千恵2016、「事物への問い : 初期サルトルをめぐって (工藤和男先生 竹居明男先生 退職記念論文集)」『文化学年報』65号、195-216.
・ デイヴィッド・エドモンズ、ナイジェル・ウォーバートン編、2015、『哲学と対決する!』菅靖彦訳、柏書房. (第24章が「ジャン=ポール・サルトルの実存主義」)
・ ペトルマン シモーヌ、2016、「デカルトの自由とサルトルの自由」丸山真幸訳、『津田塾大学紀要 』(48)、1-23.

日本サルトル学会会報第46号 [会報]

研究例会報告
 第36回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催致しました。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」
日時:2015年12月5日(土)
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   14:00〜18 :00
 オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師
 登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
 司会:北見秀司(津田塾大学)

以下、ワークショップの報告文を掲載します。

 今例会では、『弁証法的理性批判』第一巻刊行55周年を記念して、ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」が行われた。ワークショップは、北見秀司氏の司会のもと、短い個別質疑を挿みながら、竹本、澤田、角田の各氏がそれぞれの視角から『批判』に関する提題を行ったのち、三氏の発表すべてを主題とする全体討議の時間を設けるという仕方で進行した。

 竹本研史氏による発表は、「環境」という概念に着目しつつ、『批判』の議論を再整理する試みであった。具体的分析に入る前に、竹本氏はまず、先行研究の概観を行った。それによれば、「稀少性」をめぐるサルトルの思索と論点を共有する研究として、1)稀少性を闘争の根底に置いたホッブズをはじめとした、「稀少性」に関する思想的系譜、2)W. マクブライドのような環境倫理学的観点からの示唆、3)A. ゴルツのエコロジー思想、そして、4)『批判』をのちのフローベール論との関連において読む可能性などが挙げられる。この概観に続けて、竹本氏は『批判』の具体的分析に入り、そこでの議論の基礎が、何よりも環境としての「稀少性」に置かれていることを確認した。竹本氏によれば、『存在と無』いらい、人間的現実を「欠如」の観点から考えようとするサルトルの姿勢は一貫したものであり、『批判』もまた「欲求(besoin)」の概念を起点として、第三者を媒介とした人間的諸関係の形成を考察している。この人間関係を条件づけているのが無機的物質性であり、そしてサルトル自身が述べているように、この物質性が諸個人に対して持ってきた、偶然的だが根源的な、一義的(univoque)関係(つまりは、万人にとって十分な物質が存在しないという量的事実)こそが「稀少性」であった。この点を見たのち、竹本氏は、稀少性の環境における人間関係の形成が、各人による各人の破壊の可能性、つまりは「余計者(excédentaire)」排除の可能性という形をとること、そしてこのとき、人間性は、〈他者〉化された非人間性として、すなわち、量化された交換可能性において現れることを指摘する。
 以上の整理を踏まえ、竹本氏が着目するのが、「労働」の概念である。「労働」、すなわち人間的有機体が、惰性へと働きかけ欲求を満足させるために自己を惰性化することとは、稀少性の観点から言い換えるならば、まさしくこの稀少性の乗り越えを目指す実践に他ならないことを竹本氏は指摘する。そして、「労働」によって生み出された「加工された物質」をめぐるサルトルの考察へとさらに分析を進めつつ、竹本氏は、この稀少性乗り越えの試みが、『批判』において、つぎのような逆説的帰結に導くとされていることを明らかにした。すなわち、加工された物質は、惰性化した人間的実践に他ならないゆえに、今度はそれが、逆に自らの使用法を指示し、人間に自己を課する存在へと転ずるのである。ここにおいて人間の活動は、自己の「欲求」から直接派生するのではなく、加工された物質が引き起こす、〈他者〉の「要求(exigence)」によって支配されることとなる。竹本氏によれば、稀少性に起因する他者性乗り越えの試みであったはずの労働は、こうして結局のところ、他者性すなわち疎外へと行きつくことになる。
 以上の逆転を確認したのち、発表は「階級存在」の形成をめぐる『批判』の議論の再検討へと移り、「階級存在」の持つ両義的性格――階級存在は一方で、それが「加工された物質」を通じて人間へと到来した実践的惰性態であるかぎりにおいて、人間を運命づけるものであるが、他方でそれは、物質を媒介とした人間自身による自らの否定であるかぎりにおいて、あくまで個人的実践にその基礎を置いている――が明らかにされた。
 そして最後に竹本氏は、以上の分析から三つの論点を導き、提題の締めくくりとした。1)物質の稀少性により、各個人が交換可能な存在となること。2)その乗り越えとしての労働により加工された物質が生み出されるが、それは疎外へと転じること。さらにそこから、両義的な「階級存在」の形成が説明されること。3)「環境」は、サルトルにおいては何よりも「乗り越えるべきもの」と捉えられている。そうであるとすると、この「環境」との共生の可能性はありうるのか、この点を明らかとすることが、今後の課題であること。
 発表後の個別質疑では、ヘーゲル、マルクス的な語彙である「欲求」と、『存在と無』いらいの用語である「欲望(désir)」、さらに「要求(exigence)」との関係をどのように切り分けるか、また、『批判』とこれに先立つ「共産主義者と平和」(1952)における階級論との差異をどう考えるか、といった質問が挙げられた。

 続く澤田哲生氏による提題は、専門であるメルロー=ポンティのサルトル批判から出発し、それに対する『批判』の応答(あるいはその不在)を探った発表であった。澤田氏によれば、メルロー=ポンティの著作は、多かれ少なかれサルトル哲学との対峙という色彩を帯びている。だがそのなかでも、「サルトルとウルトラ・ボルシェヴィスム」(『弁証法の冒険』(1955))における批判は、特権的な位置を占めていると澤田氏は言う。澤田氏はまず、この著作が書かれるにいたった歴史的背景――反リッジウェイ・デモと共産党書記J. デュクロの逮捕、それに続くサルトル「共産主義者と平和」における共産党の意義の擁護――を確認したのち、『冒険』におけるサルトル批判を参照する。澤田氏によれば、そこでメルロー=ポンティは、サルトルが『情緒論素描』(1939)において用いた語彙(「魔術的(magique)」、「魔法使い(sorcier)」など)をそのままサルトルの姿勢に適用し、これをひとつの「病理」として批判している。『情緒論』は、『知覚の現象学』幻影肢論において「魔術的行為」という語彙が用いられていたことからも分かるように、サルトル思想のうちメルロー=ポンティが肯定的に受け入れた部分であったと考えられるだけに、こうした批判方法は、象徴的というべき重要性を持つものだと澤田氏は指摘した。
 この点を確認したのち、発表は『弁証法的理性批判』の検討へと移った。澤田氏は、『批判』に見られる情緒論の語彙を拾い出しながら、以上の批判にもかかわらず、そこで「魔術」、あるいはその背景をなす「想像」の契機はけっして手放されておらず、そこにメルロー=ポンティへの応答は見出せないように見える点をまずは明らかにする。だがつづいて澤田氏は、『批判』にはこうした魔術性が解消される場面もまた見いだされることに注意を喚起した。「溶解集団」をめぐる記述がそれであり、そこでサルトルは溶解集団の発生を、それ自体としては魔術的なものを何ら持たない、共同的個人の各人への受肉として提示しているのである。この点を見たうえで澤田氏は、こうした魔術の解消が、(その極限においては虐殺にいたるような)「外部からの」可能的否定を出発点とするとされていることも指摘し、そこに党の大衆指導性を強調する「共産主義者と平和」からの変化、つまりはメルロー=ポンティによる批判への応答を見ることも可能なのではないかと述べた。
 以上の分析を踏まえて、最後に澤田氏は、『一指導者の幼年時代』や『蠅』といった文学作品に目を転じ、そこに見られる自由の突発性あるいは「回心」といった断絶のモチーフが、媒介の契機を重視するメルロー=ポンティにはもっとも縁遠いものであったこと、そしてそこに、今回の提題で分析されたような対立の背景をなす、両思想家の決定的な差異が見いだされるのではないかとの提起を行って発表の結論とした。
 発表後の個別質疑では、澤田氏の着目する「魔術」の語が、「疎外」という文脈を共有しつつも、それぞれの箇所によって微妙に異なった意味を与えられているのではないかという指摘、他方では、「外部の絶対的な他者性」というサルトルの視点が、『存在と無』の「われわれ」の形成をめぐる議論とも通底しており興味深いとのコメント、さらには、サルトルが直接批判に答えたC. ルフォールとの論争を以上の文脈においてどう位置付けるかという質問などが寄せられた。

 最後の角田延之氏の提題は、専門であるフランス革命史の観点から、『批判』における革命史理解の妥当性と現代性とを吟味する論考であった。氏は初めに、近年の革命研究において、『批判』への言及がほとんど見られない点を示した。と同時に、歴史学の立場から『批判』を扱った研究が存在しないわけではない点も指摘し、それらの研究の紹介を行った。第一は、サルトルが同時代の歴史研究者から受けた影響について分析しつつ、彼の考察の現代性を探るマゾリクの論考である。マゾリクは、近年公刊されたサルトルの手稿(「1789年5月-6月」、「〈自由〉-〈平等〉」、「シナリオ『ジョゼフ・ル・ボン』断片」)を中心に検討しつつ、サルトルが同時代のフランス革命研究についてたしかな知識を有していたこと、なかでもG. ルフェーヴルのブルジョワ革命論にもっとも影響を受けたと見られる点を指摘している。第二は、「方法の問題」(1957)と『批判』におけるゲラン批判、および両者の論争を取り扱うデュカンジュの研究である。それによれば、サルトルは、恐怖政治に関するゲランの考察の影響を受けているものの、これを還元主義的であるとして批判的に扱っている。また両者の論争は、そもそもの問題意識の違い(マルクス主義の方法/恐怖政治の問題)からすれ違いの様相を呈している。最後に、ヴァニシュのセミナー記録においては、ムーニエを同時に自由でありかつ歴史的な主体として提示するサルトルの分析が評価されるとともに、サルトルの考察を、「アラブの春」といった当時の情勢分析に役立てることができるという結論が導かれているとのことである。
 角田氏は、以上の先行研究において、革命研究におけるサルトルの分析の有用性が必ずしも正面からは問われていないことを指摘し、「方法の問題」および『批判』におけるフランス革命分析の妥当性について、直接検討することを試みた。角田氏は、サルトルによるゲラン批判(革命戦争は、当時の経済状況には還元されない)にあらためて立ち返るとともに、現在の革命研究においては、経済的利害を代表する人物が実在したことも一方では明らかにされていることを指摘した。また、「ジロンド派」の定義、およびその存在そのものに関する歴史家の論争が起こったことに触れ、ジロンド派をプチブル階級の観点から語ろうとするサルトルの叙述に対する一定の懸念を示した。さらに、サルトルがルフェーヴルの解釈に依拠しつつ、他方でジロンド派と連邦主義者を同一視しているように見えることには、ルフェーヴルが両者を区別していたことを考え合わせるならば、若干の疑義があるとした。このようにサルトルの革命理解にいくつかの留保を加えつつも、角田氏は、革命期の民衆の心性に「保守性」を見出すサルトルの見解は、すでに農民の保守性を指摘していたルフェーヴルの立場と通じるものであるだけでなく、今日の革命研究から見ても、斬新とも言える視点を含んでいる点を指摘した。連邦主義者の反乱を直接民主主義によって説明する研究があり、それによれば、じっさい、反乱において要求された直接民主主義的「自治」は保守性によって特徴づけられるとされているのだと角田氏は言う。そして角田氏はさらに、この保守性の論点を、愛国主義とジャコバン主義を「反政治」の観点から説明しようとする研究と接続することも可能であるかもしれないとの展望を示すことで、提題の締めくくりとした。
個別質疑では、ルフェーヴルによる四つの革命論(貴族/ブルジョワ/民衆/農民)との関連をどのように考えるか、また、『批判』がフランス革命を主要な分析対象の一つとしていることの妥当性について、歴史学の立場からどう考えるか、といった質問が出た。

 個別提題に続く全体討議では、個別質疑で寄せられた質問に加え、三氏の発表を踏まえた質疑応答と議論が行われた。討議の要点は、おおむねつぎのようなものであった。[稀少性概念の位置づけ]。マルクスにおいては主題化されなかったこの概念が、なぜ『批判』の出発点に置かれたのかという点が問題とされた。それに対し、何よりも論理的要請によるものであろうとの意見も出されたが、最終的には、「稀少性」の位置づけを確定するには、『批判』の錯綜した記述のより踏み込んだ解釈が必要になるだろうとの点が確かめられるにとどまった。[メルロー=ポンティとの関係]サルトル自身の問題意識によって書かれた『批判』が、メルローポンティの批判に対する回答(の不在)であったと考える必要はそもそもないのではないかとの指摘がなされた。その一方で、追悼文「メルロー=ポンティ」第一稿から伺われるように、サルトルがメルロー=ポンティの立場を深く意識していたこともまた事実であろうという意見も出された。両者においては、フッサール受容に関して決定的差異(前期/後期)があるという点も、あらためて確認された。/[階級存在の概念について]「自らを組織する(ça s’organise)」といった表現に見られるように、「階級」が所与ではなく、あくまで主体的「自発性」によって説明される点に、客観主義的な傾向を残すルカーチといった思想家とは異なる、サルトルの独自性があるとの指摘がなされた。と同時に、この自発性が、「自然発生性」と同一視されるわけではない点が興味深いとの見解も示された。/[『批判』と歴史学との関係]『批判』を歴史書として読むことをどのように考えるかという問題が提起され、それが可能であるにもかかわらず、歴史学の領域において、『批判』が過小評価されているかもしれないといった意見が出された。

 以上、提題は三者三様であったが、その後の討議において、「稀少性」の位置づけや歴史学との関係といった、『批判』の本質に関わる論点が浮かび上がってきた点が、たいへん印象的であった。各発表者の独自な視点と、聴衆の質疑とがしっかり噛み合った、まことに意義深いワークショップであったと言えよう。(文責:根木昭英)

サルトル関連文献
・フィリップ・フォレスト「文学は(いまなお)何ができるか──サルトルの五〇年後に」、澤田直訳、『すばる』2016年1月号
・森功次「「サルトルの芸術作品とは非現実的な存在である」という主張をどのように受け止めるべきか」、小熊正久・清塚邦彦編著『画像と知覚の哲学――現象学と分析哲学からの接近』東信堂、2015年12月

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