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日本サルトル学会会報第52号 [会報]

研究例会のご報告
 第39回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムが開催されました。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われました。多くの方々にご来場頂き、感謝申し上げます。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)
16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Harvey  State University of New York Stony Brook, Distinguished University Professor
ロバート・ハーヴェイ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授)
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
   通訳:黒木秀房(立教大学兼任講師)
司会:澤田直(立教大学)

シンポジウム「竹内芳郎に応える」
 2017年7月15日、日本サルトル学会の第39回研究例会にて、シンポジウム「竹内芳郎に応える」が開かれた。
 ここで、シンポジウム開催に至るまでの経緯などを少し記してみようと思う。
昨年11月竹内芳郎が亡くなった。それは私(小林)にとって、衝撃だった。その理由は様々あるが、そのうちで最も大きなものは、近いうちに竹内芳郎に会いにいこうと思っていたからだった。結局、実際に竹内芳郎と会うことは出来なかった。
 今年の2月から、本シンポジウムの企画を練り始め、企画に賛同し、発表を行ってくれる人を探し始めた。発表者が決定してからは、何度もメールして意見交換を行い、また実際に会合をして合計十時間以上に及ぶ意見交換会を行った。
 私は竹内芳郎の全著作を読み込む作業を行った。そのうちに、竹内の個人史的側面にも関心を抱くようになり、討論塾のかつてのメンバーだった人や、討論塾の中核を担っていた人たちに取材を行った。また、竹内が生まれた岐阜県の資料を漁り、生い立ちなどが徐々に明らかになった。竹内自身は著作で個人史的なことをほとんど書くことがなかったので分からなかったのだ。なお、シンポジウム後のことになるが、親族の方にも取材を行うことも出来て、より立体的に竹内の姿が分かるようになった。また、取材を進めていくうちに、興味深い遺稿の存在することも明らかとなった。今回のシンポジウムで活用することはほとんど出来なかったが、将来に向けて、それは日本におけるサルトル受容史を解明する上でも極めて重要なものとなるだろうと思う。

 さて、今回のシンポジウムでは、はじめに小林が、以上の取材などを元にして、竹内芳郎の生涯を紹介し、現代において竹内芳郎を読むことの意味について、また本シンポジウムの意義について説明した。
 それに続いて、三つの発表が行われた。以下にそれぞれ発表者自身による詳細な報告文があるが、私なりにまとめると、(1)永野氏はサルトルから影響を受けた竹内芳郎の倫理思想を解明することで、そこから逆照射するようにしてサルトルの新しい読解を提示しようと試みた。(2)小林は、竹内芳郎のサルトル受容を日本哲学史の文脈から再構成することで戦後思想としてのサルトルの斬新さを明らかにしようとした。(3)鈴木氏は実際に長年に渡る討論塾の参加の経験をもとにして、竹内芳郎が「討論塾」という営為をもとに問題提起したことを要約的に提示しつつ、現代のアカデミズムに対する鋭い問いを突き付けた、というものであっただろう。
 当日は、会場を含めて活発な議論が行われた。だが、生方氏の報告文にもあるように、「あまりに時間が不足していた」。だが、どれほど時間があっても足りなかったであろう。議論が「実を結ぶ」ことはなかったかもしれないが、様々な思考の「種」を私は貰うことが出来たように思う。今後、それを育てていきたい。
 最後に、このような企画を受け入れてくださったサルトル学会、それから度重なる議論に付き合い、また発表を行ってくださった永野潤氏、鈴木一郎氏、また司会を引き受けてくださった生方淳子氏に、大きな謝意を表したい。(文責:小林成彬)

1) 「竹内芳郎とサルトル哲学」(永野潤)
 かつて「サルトルを再評価するならば竹内芳郎的な読解とは違う新たなサルトルの読み方を提示しなければ」というようなことを言われたことがある。このように、竹内芳郎は、かつて主流だったが今は古くなってしまったサルトル読解の典型、としてしばしばとらえられている。しかし、はたして竹内、あるいは竹内的サルトル読解は、そもそも「古くなる」前に「主流」だった時代があるのだろうか。むしろ、竹内思想の本質的部分は、一度も受け止められることなく「黙殺」されてきたのではないのか。本発表では、サルトル哲学の影響を受けた、竹内の思想の核となる倫理思想の枠組みをとらえなおし、それが、どのように現代と「出会う」のか、ということを考察した。
 竹内によると、サルトルの他者論は、私の自由を否定する他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」を秘めている。竹内は、「相剋」を「善用」し、「相剋」を通じて自由を獲得するというこの逆転劇に「実存的倫理」の根拠の一つを認めるのだが、ただし彼は、こうした実存的倫理が真に確立されるためには『存在と無』における他者論だけでは不十分である、と考える。「相剋」を引き起こすためには、実は「他者もまた私と同じまなざし得る主体なのだ」という「相互性」の認知が必要なのであり、それを自覚するところに真の実存的倫理が(サルトルの場合は『弁証法的理性批判』の段階に至って)成立する、と竹内は考える。
 とはいえ、ここで竹内が倫理の根底にとらえる「相互性」とは、「相剋」を隠蔽するところに成り立つ自己欺瞞的な人間関係、すなわち「馴れ合い的」な「共生」とはまったく異なったものである。竹内は、実存的倫理が「裸形の人間」から出発するものであることを繰り返し強調するが、裸形の人間とは、単なる「個人」ということではなく、共同体から排除された「構造からの食み出し者」(『文化の理論のために』)でもある。そして竹内は、近代的な人権思想の原点には、裸形の人間=食み出し者を救済する「普遍宗教」の成立と、その中で確立した「超越性原理」がある、と考える。竹内は、後年の討論塾における発言の中で、「構造からの食み出し者」に立脚した、ラディカルな労働運動、ラディカルなヒューマニズムの展望をしめしているが、その意味でそれは人権思想のはるかな原点に帰ることでもある。一方で竹内は、「裸形の個人」と対立するものとしての日本の伝統的な人間関係である「集団同調主義」を「天皇教」と呼んで一貫して激しく批判し続けた。それは、対立や矛盾を隠蔽する「欺瞞の体系」であり「無責任の体系」である。天皇教的なものが、権力側も反権力側も共通に支配する「日本的現実」と竹内は格闘し続けた。2000年に発表した文章の中で、竹内は、「ヴェ平連」系の団体が1991年に「この憲法のもとにあった45年間、日本はただの一人も軍隊によって人間を殺したことはありませんでした」という米紙への意見広告を出したことを例に、日本の市民運動の「自己矛盾への鈍感さ」を痛烈に批判している。ところで、例えばデモにこれだけの人数が集まった、と運動が誇り、また逆にこれだけしか集まっていない、とそれを批判するような状況がある。しかし、主流から食み出し、食み出した孤独の中でかえって普遍につながっていくという竹内の思想は、そうした発想の対局にある。(文責:永野潤)

2) 「竹内芳郎と「戦後」」(小林成彬)
 戦後日本にサルトルは大きな影響を与えた、と言われる。だが、それは具体的にどのような影響であったのだろうか。あるいは、サルトル受容は実際どのようなものであったのだろうか。このような問いを立てた時、私は呆然とせざるをえない。第一に、その受容はあまりに広汎に渡っているからであり、第二に、それがゆえに、その「大きな影響」の具体的な内実については暗闇の中にあるように思えるからだ。
 しかし、戦後思想、とりわけ丸山眞男などを代表とする、いわゆる「戦後民主主義」との緊張関係においてサルトルの影響を考察してみると、サルトルが戦後日本に与えた影響の意味が明らかになってくるように私には思われた。例えば、竹内芳郎は「日本的現実との闘い」としてサルトルの思想を受け止めたが、この「日本的現実」の内実を見てみると、「戦後民主主義」思想家たちが徹底して分析し批判しようとした対象とほとんど同じように思われたからである。しかし、竹内芳郎は「戦後民主主義者」からも一定の距離を置いていた。この「距離」を分析することで、サルトル受容を先鋭的に提示することは出来ないだろうかと最初私は考えた。
 しかし、歩みを進めていくうちに、「戦後思想」そのものが、彼らの「戦争体験」に根差し、また、戦前の思想たちへの対立のうちで育まれているということが明らかになった。「戦後思想」の成立の条件には、「戦争体験」と「戦前思想」があったのではないか。
 「竹内芳郎の「戦後」」と題した本発表で扱ったのは、竹内芳郎にとっての「戦後」が可能となった条件を明らかにすることである。それを明らかにすることで、「戦後日本におけるサルトル受容」の生産的側面を明確化できるのではないかと私は期待した。探究を進めていくうちに、竹内芳郎においても、「戦前思想」と「戦争体験」の二つの軸から「戦後」の意味を明らかにできるように思われた。戦前の京都学派の思索に竹内芳郎は大きな影響を受けていた。だが、自身の「戦争体験」を基盤として、それを徹底的に批判しようとし、「戦後」にサルトルを発見し、受容したことが明らかになった。竹内芳郎は「戦争体験」についてほとんど公で語ることはなかったが、晩年の『討論塾』などでの述懐や遺稿をもとに「戦争体験」の再構成を試みた。京都学派と竹内芳郎の関係も極めて複雑なものである。図式的に言えば、竹内芳郎は和辻哲郎の思索に対するラディカルな批判意識を持ち、それへの批判としてサルトルを武器としたと言えるだろうが、竹内のサルトルの受容には九鬼周造への大きな依拠が認められる。根底に横たわっている問題とは、一言でいえば、「他者」をどのように考えればよいか、「根源的社会性」をどのように考えればよいのか、というものであっただろう。
 日本の「哲学」界において、サルトルには厳しい判定がこれまで様々な形で下されてきた。竹内芳郎はその法廷でサルトルの要求を護ってきた。サルトルの要求に異議を唱える、反対側の席には誰がいるのだろうか。その暗闇の席に光を当ててみると、そこに座している最も大きな人物として、西田幾多郎とハイデガーが見えてくるように思われる。私は再審請求を行ってみたい。それによって、「日本におけるサルトル受容」の歴史的側面をより明らかにし得るであろう。また同時に、サルトル自身の哲学的生産性を新たに明らかにし得るのではないか。本発表を通して抱いた感想である。(文責:小林成彬)

3) 「竹内芳郎と討論塾の実践」(鈴木一郎)
 竹内芳郎は、1989年に討論塾を創設した。討論塾は、論争や討論がすっかり消滅してしまった日本の言論空間に抵抗して、討論を通じて日本社会独特の精神風土である集団同調主義=天皇教を克服することを目指した教育機関である。また、討論塾は、1960年代後半の我が国の大学闘争の挫折を教訓として踏まえたものである。この点で、大学闘争によって提起された課題を殆どすべて放置してきたため、昨今の所謂<大学問題>と称される様々な矛盾に直面せざるを得なくなっている大学アカデミズムの在り方と鋭く対立する。討論塾の目指す所は、<真理性>という基準を立て、異なる思想・意見を持つ者同士が、「相互吟味」(ソクラテス・林竹二)を通じて行う真理追求の営為である。この場合の真理とは絶対的なものではなく、あくまで、討論の過程で認識し得る根拠のある確からしさ(明証性)であり、何時でも検証によって更新され得る暫定的なものである。討論において、こうした真理性を基準として設けることによってプロタゴラス的な相対主義を克服することができる。さらに、真理に恭順であるためには、人類史の中で普遍宗教の成立とともに生まれた超越性原理に従う必要があり、この原理の徹底化による自己批判を通して我執を去ることが求められる。これによって、異質な他者との間で、暴力を回避しつつ、言論による共通認識を形成していくことが可能となる。討論では、専門家と非専門家の垣根を超えた対話を行うことによって脱タコツボ化を目指すとともに、明示性言語の行使によって、含意性言語に基づく<察しの文化>(昨今の言われるKYや忖度の文化)の排他性をも克服する。この営みを重ねることによって、公論形成と真の民主主義精神の確立を目指す。他方、大学闘争の経験から学ぶことを怠ってきた大学アカデミズムは、一般的には、このような討論塾の目指した理念とは逆の方向を辿った。即ち、研究者集団は、専門性を口実に、ひたすら市民社会の日常との関連を絶ち、ますます疎外された知の中に逃げ込み、その自信の無さから異質な他者との討論・論争を避けてきた(だから、異論に応える(répondre)責任(responsabilité)を放棄し黙殺を以て応じるのが慣例。この黙殺文化の根底には対他存在を希薄化してしまう天皇教の無責任文化がある。)。もし今後も、異質な他者や市民社会との相克の中で自らの営みを真摯に検証し、生きた知的営為を回復する契機を失するのであれば、少子化や財政難といった社会構造の変化の中で、市民社会での自らの立脚点を失い、政治権力側の圧力に抵抗する事もできずに、嘗て福沢諭吉が揶揄した幕末・開国時の卑屈な漢学者のように歴史の中で淘汰されていくことであろう。

【質疑応答】(鈴木に対するもの)
問:大学の研究会などに出てみても、海外の思想の紹介などはあっても研究者自身がどう考えているかが見えない事が多いし、現実の喫緊の課題を考えていることも少ない。 答:研究者と市民との対話の機会を創り出して行かなければ研究者集団の先行きはどん詰まりとなるだろう。 
問:絶対的真理は否定されるべきものだが、真理への意志が人間の中にあるからこそ討論が行われると理解した。真理への欲求をどう考えるか? 答:共同主観性の中で真理はその時点で見えている確からしさだ。その根拠が変われば真理は更新される。現象学的に言えば、真理への意志を成り立たせているのは<射映>という認識の構造だ。サルトルに従えば、現れていないものに向かっていく指向性とも言えるだろう。 
問:竹内の『言語・その解体と創造』における文学言語論は哲学・思想的には啓発的だが、象徴派などのフランス文学の流れの厚みの理解が足りない印象があるがどう思うか? 答:同著の第二論文「アンガージュマン文学の言語論的再検討」は、詩的言語をアンガージュマン文学から排除するサルトルを批判し、詩的言語の可能性を高く評価したもの。逆に文学に対する大きな理解を示すものだ。
問:現在、竹内の著作は読まれていないが、その思想が日本社会を変えていない理由は何か? 答:そもそもある思想が日本社会を変えるなどということは戦後日本の中では未だかつて無かったのではないか? それは竹内個人の思想云々ではなく、日本の思想風土全体の問題だ。他方、竹内の思想自体は現実変革に極めて有効だ(例えば直接民主主義による代議制批判等)。
(文責:鈴木一郎)
4) 司会者からの報告
 今回の例会は、サルトル学会の20年あまりに及ぶ活動の中でも稀に見る挑戦的な異色のシンポジウムとなった。大学院生による発案と準備のもと、在野で哲学思想を研究する人々をパネリストおよび聴衆の中に迎えて、戦後の日本思想から最新の時事問題に至るまで、サルトル研究の枠を超えて縦横に議論が交わされた。その中心に置かれたのが竹内芳郎の業績である。竹内は日本におけるサルトル哲学研究の先駆者のひとりで、『サルトル哲学序説』(1956年)や『サルトルとマルクス主義』(1965年)など本格的な研究書の著者であり、『自我の超越』、『情動論粗描』や『弁証法的理性批判』などの翻訳・注釈者であり、また戦後日本の「近代性」に辛辣な批判を向ける思想家でもあった。90歳を超えてなお健在ぶりが伝えられていたが、昨年11月に不慮の死を遂げられたことから、追悼とオマージュの意味も込めて、彼が提起した問題、今も決着がつくどころかさらに重みを増している問いに新たに向き合おうと試みたのである。
 最初に、発案者の小林成彬氏から、この会の趣旨、竹内芳郎の生涯、そして彼が取り組んだ問題について導入的な解説があり、続いて、サルトル研究者としてすでに多くの著作を公刊している永野潤氏から、存在論と倫理を踏まえて共同体からの「食み出し」や民主主義の欺瞞という問題をめぐってサルトルと竹内芳郎との接点を探る洞察に満ちた発表があった。続いて再び小林氏から、竹内がいかにサルトルを武器として戦後日本の現実の中にあった「愚劣さ」と戦おうとしたかということについて多くの貴重な指摘がなされ、そして最後に、竹内芳郎の主催する「討論塾」に、その発足時より長年にわたって参加してきた鈴木一郎氏から、考えの異なる者同士が討論をするということの意味について、サルトルの他者論やソクラテスの対話を引きつつ問いが発され、門外者との議論を避けようとする研究者の閉鎖性や外部へのコミュニケーションの意図を欠いたアカデミズムの不毛に対して忌憚ない批判が寄せられた。サルトル学会のあり方に対しても、質問状(「塾報」など)を送っても反応がなかったとして容赦ない批判が浴びせられた。この点、サルトル学会は大いに反省し、外部との対話のパイプを確保するため早急に検討をせねばなるまい。
 会場からは、竹内のサルトル論の不備も指摘されるとともに、竹内の思想に真に現実を変える力があったのか、といった疑問の声や、指導的思想が日本を大きく変えたことが一体あったのか、といった根本的問いかけも出された。論点は、発表内容を受けて安全保障関連法反対運動やいわゆる「共謀罪」をめぐるメディアのあり方や日本的精神風土と天皇制にまで及び、刺激的な「対話」が素描されかけたが、残念ながらそれが何らかの実を結ぶには、あまりに時間が不足していた。
 今回のシンポジウムは、サルトル学会に思いがけない風を吹き込み新しい地平を開いたものとして特記すべき「事件」でさえある。今回を単なる例外とせず、ぜひとも第2回、第3回のセッションを企画し、討論を深めていくことを切望する。(文責:生方淳子)

ロバート・ハーヴェイ 「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」

 ハーヴェイ氏は、サルトルの最も有名な概念の一つである「自己欺瞞」と、私たちの身近な現状との間にいかなるつながりがあるのか、というシンプルな問いを立てることから始めた。
 ハーヴェイ氏は、「自己欺瞞」概念の受容を辿り直すことで、この概念が古びてしまうどころか、神経解剖学等による新たな発見に裏打ちされる形で、その妥当性がより強く示されてきたことを指摘した。その「自己欺瞞」とは、「自分以外のものになる可能性」というポジティヴなものであるというよりは、むしろ「取るべき決定を退ける」というネガティブなものであり、「自由」と弁証法的な対立関係にあるものだった。
 このように「自己欺瞞」概念を再確認した上で、再び現実世界の方を見るならば、ポピュリズムやナショナリズム、外国人排斥等が世界中で蔓延する現状は、まさに自己欺瞞的状況であるとハーヴェイ氏は述べる。こうして「自己欺瞞」概念と現実的な状況を照らし合わせて見えてくるのは、「政治的判断の可能性の条件」という問題だった。すなわち、自らに嘘をつくことで、結果として他者への責任から逃れるということだ。しかし、だからといって「自己欺瞞」が私たちを存在論的に規定しているわけではないことをハーヴェイ氏は強調する。そこで今一度サルトル自身の「自己欺瞞」の例が取り上げられ、再検討された。
 そこから引き出されたのは、自分に対する嘘についていかにして意識的であるか、という逆説的な問いである。ハーヴェイ氏は、現代社会の政治リーダーのうちに、自己欺瞞の痕跡が見出されると述べるものの、彼らは自己欺瞞の例としてふさわしくないと断言する。というのも、彼らは自らの嘘に対して意識的だからだ。ハーヴェイ氏自身が自己欺瞞の例としてあげるのは、意外にも『タルチュフ』の登場人物オルゴンだった。彼は、好きな人には騙され、自惚れが強く、盲目的であり、政治的判断能力を奪われたものとして描かれているとハーヴェイ氏は指摘する。
 最後にハーヴェイ氏は、このオルゴンのような「自己欺瞞」の現代的な形を見出すことができるのは、平気で嘘をつくことのできる現代の政治的独裁者ではなく、SNS等を通じて他者の仮面をかぶって生き、政治的判断能力を奪われた現代人であると述べて締めくくった。
 以上のように、本講演は、概念とアクチュアルな問題を往還するようにして、概念が刷新される一方で、現状に対しても鋭い分析が加えられ、ダイナミックなものだった。じっさい、質疑の際には、自己欺瞞と無意識をめぐる精緻な質問が上がった一方で、アクチュアルな問題への哲学的アプローチに刺激を受けたという声が上がった。(黒木秀房)


サルトル関連文献
・植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編著、富山豊・森功次著『ワードマップ現代現象学 : 経験から始める哲学入門』新曜社、2017年
・水野浩二「サルトルにおける「非-知」の問題とその射程 : 一九六一年の講演をめぐって」『札幌国際大学紀要』 (48), 2017年, pp. 15-20.
・高橋由貴「大江健三郎「死者の奢り」におけるサルトル受容 : 粘つく死者の修辞」『昭和文学研究』(74), 2017年, pp. 102-115.
・梅﨑透「新左翼とサルトル/ニューレフトとカミュ : 日米の「一九六〇年代」と実存主義」『社会文学』(45), 2017年, pp. 78-90.
・伊藤氏貴「文学の敵たちをめぐる一考察 : 漱石、サルトルに抗して」『文芸研究 : 明治大学文学部紀要』(132), 2017年, pp. 11-18.
・竹本 研史「サディズムとマゾヒズム : ジャン=ポール・サルトルにおける性的態度について」『人間環境論集』17(1), 2016年, pp. 1-42.

次回例会のお知らせ
 次回の例会は12月9日(土)に大阪で開催の予定です。
 日時:12月9日(土)13:00 - 17:00

場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

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8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」開催 [サルトル関連情報]

このたび、新しい現象学の教科書
  植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝 編著
  富山 豊・森 功次 著
  『ワードマップ 現代現象学――経験から始める哲学入門』
  新曜社、2017年8月
  http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1532-1.htm
が刊行されました。

これを記念し、8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」を開催します。
フェアでは、総勢14名の選書者により、
 ・本書で紹介されている現代現象学の方向性に即した書籍
 ・それとゆるやかに共鳴する現象学の現代的な展開を体現する書籍
 ・本書で紹介されている様々な事柄・論題に対する現象学的なアプローチを示す書籍
 ・20世紀において現象学と並行に展開してきた分析哲学の伝統に属し、現代現象学にインスピレーションを与えたり、現代現象学のライヴァルとなりうる書籍200点以上を取り上げ、17項目にわたる解説文を加えました。

フェア会場では、これを掲載した36頁のブックレットも配布いたします。
以下に開催概要を記しますので、開催期間中に ぜひご訪問いただければ幸いです。
またお知り合いで興味関心を持たれそうな方がいらっしゃったら
フェア案内ページのURL(http://bit.ly/201708fair)をご紹介ください。

酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ!──現象学からはじめる書棚散策」紀伊國屋書店新宿本店ブックフェア(2017年8月14日~)
bit.ly


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  『ワードマップ 現代現象学』刊行記念ブックフェア
  いまこそ事象そのものへ!─現象学からはじめる書棚散策

・開催期間: 2017年8月14日(月)から一か月ほど
・開催会場: 紀伊國屋書店新宿本店 3階人文書レジ前
・選書と解説:
  植村玄輝、八重樫 徹、吉川 孝、富山 豊、森 功次、村田憲郎、小手川正二郎、
  佐藤 駿、武内 大、宮原克典、新川拓哉、池田 喬、前田泰樹、葛谷 潤
・企 画 : 酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)
・協 力 : 新曜社

※その他詳細はフェア紹介ページをご覧ください: http://bit.ly/201708fair
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2017年国際サルトル学会年次大会参加報告 [サルトル関連情報]

2017年国際サルトル学会年次大会 Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2017 参加報告


 2017年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月23日と24日の2日間にわたって高等師範学校(パリ)にて開催された。統一テーマは「遺稿」および「ラジオアーカイヴ」である。
 全体の構成としては、50年代から60年代にかけて取り組まれたいわゆる「第二の倫理学」の時期の遺稿を対象とした発表が5件と最も多く、関心の高さが伺えた。このほか、ル・アーヴル時代の講演「小説の技法と現代思想の大潮流」(『サルトル研究』誌第16号収録)を主題としたものが1件、イタリア旅行記『アルブマルル女王』と『奇妙な戦争の手帖』(以下『手帖』)を対象としたものが1件あった。また1日目にはサルトルのラジオ出演にかんする特別企画、2日目には『反逆は正しい』の英訳出版を記念したラウンドテーブルが組まれた。そのほかにVariaとして4件の発表があり、統一テーマ以外の題目も柔軟に受け入れられていることが伺われる。発表者の年齢・性別・出身国だけでなく専門分野も含めバラエティに富んでおり、多くの研究者に開かれた学会であるという印象を与えられた。また今回、日本からは北見秀司氏と関大聡氏がそれぞれ研究発表を行った。
 以下、発表順に内容を紹介する。プログラムはGESのウェブサイトから参照できる(http://ges-sartre.fr/colloque-annuel-2017.html 2017/07/26閲覧)。なお、この報告文の執筆に際して関氏から多くの有益な助言を得たことを言い添えておきたい。

6月23日
EVA ABOUAHI : Reliques et reliquats du rousseauisme dans les manuscrits « Liberté- Egalité » et « Joseph Le Bon »
 1970年代に端を発し『パンテオンの誕生』(1998)に集成されるジャン=クロード・ボネの研究以降、ルソーやヴォルテールのような作家=偉人への崇拝が共和国としてのフランスの成立に大きな役割を果たしたことは広く知られており、全体的知識人としてのサルトルはこの伝統の掉尾を飾る存在とも言える。では、ルソーという必ずしもサルトル研究において中心的主題とはならない人物の聖遺物(relique)はサルトルによってどのように批判的に受け継がれているのか。背景にこうした関心を抱かせつつ、Abouahi氏の発表は『弁証法的理性批判』を準備する50年代の3つの草稿(Mai-Juin 1789、Liberté-Egalité(いずれも『サルトル研究』誌第12号収録)、Joseph Le Bon(同誌第11号収録))を中心に、サルトルのルソー批判の骨子を分析するものであった。
 その際、同氏が鍵語として持ち出すreliqueは複数の意味のひろがりから提示された。第一にこの語は、革命以降すでに神聖な存在として捉えられるようになっていたルソーの偉人・聖人的性格を示唆するものであり、サルトルはその思想が抱える矛盾の脱神話化を試みる偶像破壊者として位置付けられる。たとえば、氏の指摘によれば、遺稿Liberté-Egalitéにおいてルソーはブルジョワ・イデオロギーやプロテスタンティズムの系譜に位置づけられ、一般意志をめぐる議論が持つ見せかけの平等性に批判が加えられる。その結果、ルソーの思想に潜む隠れた次元としての全面的疎外と、全体主義との近接性が明らかにされる。
 もう一つのreliqueの含意は、ルソーを文学的アンガジュマンとの対比において評価する際に理解される。氏の分析によれば、ルソーはあらゆる時代のための書物をのこし時代を超越したという意味において、書く現在において自己を聖化することを望んだ。一方、サルトルは「時代のために書く」ことを選択し、このことが一つの対立点を作っている。また自己の聖化と歴史をめぐる論点はサルトルによるカミュ批判にも部分的に流れ込んでいるという。
 ボーヴォワールの証言(『娘時代』)によれば、サルトルは青年時代からルソーについて特別な見方を有していた。その後この啓蒙の哲学者に対する言及は奇妙なまでに跡を消してしまうが、未整理であるがゆえに遺稿のなかではその影響が見えやすい。今回の発表はそこからサルトルのルソーへの関心を政治理論・文学的立場から再構成するもので、フランス思想の伝統に対するサルトルの批判とそれだけでは還元されない残りのもの(reliquat)を感じさせるものであった。

LAURE BARILLAS: L’avenir dans les manuscrits des conférences de Cornell : pour une théorie temporelle de l’éthique ?
 Barillas氏の発表はコーネル講演に見られる未来の概念を主題としたものである。「道徳と歴史」と題され、『現代』誌2005年7月から10月号に掲載されたこのテクストのなかで、とりわけ未来に焦点があてられるのは「倫理と時間性」と名付けられた一節である。この時期の弁証学的倫理の根幹をなすのが、倫理の時間的性格についての考察である。発表者がまとめるように、一方では純粋な未来(avenir pur)が無条件的命法(なさねばならない)として主体に倫理的契機としてあらわれるのに対して、これまでの過去の制度化/習慣化されてきた道徳の時間性として不純な/制限的な未来(avenir impur/limité)が現れる。そのうえで、倫理的行為が純粋未来の次元を要請するさまを明確化した。氏の読解によれば、われわれの倫理的な行いは常にこの二つの未来によって引き裂かれている。一方で、それは何ものにも条件付けられず、自由であらねばならない。しかし他方で、行為は時間のなかで、時間的なものとして、有限化されたものとして実現される。後者において行為は反復的未来(不純な未来)とかかわり、無条件的な未来は反復的道徳と緊張関係を持つこととなる。これが、純粋未来がそれ自体で実現されないという倫理的困難である。
 サルトルの60年代の倫理学については本邦でも水野浩二氏によるものをはじめ複数の研究があるが、倫理学において語られる時間的次元への注目によって、たとえば『存在と無』や『倫理学ノート』からの時間論の発展を検証してゆくこともできるだろう。

LAURENT HUSSON : Être tenu par l’impossible : la relecture sartrienne du « Tu dois, donc tu peux » dans la conférence de Rome (1964)
 ひとつ前の発表からもわかるように、この時期のサルトルの倫理学においてカント的定言命法は批判的な参照項となっている。その「なさねばならない」は純粋な未来として、実現不可能なものでありつつ、同時に目指さねばならないという、統制的理念のような役割を果たす。続くHusson氏の発表は、サルトルがしばしば取り上げるカント的命法「君はなさねばならない、ゆえになしうる(Tu dois, donc tu peux)」の意味とサルトルによる用法を、広範なテクスト、特に1964年のローマ講演原稿「倫理の根」(『サルトル研究』誌第19号収録)を精査し検討したものである。
 評伝『ボードレール』や講演『実存主義とはヒューマニズムである』等では定言命法としてこの定式への言及ないし示唆があるのだが、『聖ジュネ』では「裏切り」におけるカント的命法の逆転が語られる。「道徳と歴史」では、いかにして主観的なものないし日常的生に命法が介入するのか、という視点からこの命法は再度取り上げられる。さらに、『家の馬鹿息子』ではこの定式が親による子への条件付けとして働く点に言及され、内なる道徳律としてではなく、他者関係における〈命令すること〉の意義が捉え直される。講演「倫理の根」においてはこの点が道徳、規範的なもの、客観的なものの経験、すなわち道徳や命法についての現象学的な分析を行う際に持ち出される。
 翌日のMouillie氏の発表にも共通するが、サルトルの60年代の倫理学においては、道徳現象の主観的・現象学的分析が試みられており、『存在と無』の時期には明確に論じられていなかった社会的世界や歴史的形成物の経験と実践との関係があらたな観点から取り上げられ直されている点は注目に値するように思われた。

SHUJI KITAMI : Morale sartrienne en tant que force motrice de démocratie : sur Les Racines de l’Éthique
 北見氏の発表はマルクスとサルトルにおける「真の民主主義」および「全体的人間(homme intégral)」の概念について、共通点と差異を明らかにしつつ、サルトルにとってのこれらの概念の重要性を「倫理の根」に依拠しつつ強調するものであった。
 マルクスは「真の民主主義」を自由な個人のアソシエーションと捉え、生産手段が社会化された社会において実現されると考えた。この民主主義観は、明らかに、ソビエト型の官僚主義と異質なものである。北見氏によれば、「倫理の根」におけるサルトルはこの民主主義観を共有している。さらにサルトルはそれを発展させ、具体的人間を物象化し集列化する現行の間接民主主義に対して、直接民主主義をとなえる。
 「全体的人間」の概念についても双方に共通して用いられるものの、その含意は異なる。『ドイツ・イデオロギー』のマルクス、エンゲルスにとって、それは分業体制を乗り越えた先の自立した個人において完成されるが、「倫理の根」のサルトルでは、自律において人びとが結びつくところに実現される。そこで人びとの結合は、諸個人を包摂した上位の審級を意味するのではなく、あくまで北見氏が「万人の複数の自律」と名付けるものにおいて実現される。第二の差異は、マルクスにとってそれが生産様式の変化に応じて実現される上部構造にすぎず、道徳的含意を持っていない一方、サルトルにとってそれは倫理の目的であり、民主主義社会の自律性を獲得するための不可欠な動力因であるという点にある。
 発表後半では、「倫理の根」の記述に沿って「全体的人間」を回復することの必要性が強調された。かつてのソビエトにおいては、体制の一部をなし体制に服従する「疎外された道徳」が全面化していた。そこで人びとを解放し「複数の自律」を実現するためには、「全体的人間」の回復を目指した継続的な介入が求められる。こうした事態はソビエトに対してのみ有効なのではなく、あらゆる反抗運動とかかわっており、新自由主義が世界を席巻し、レイシズムがはびこる社会においてますます重要性を増しているという。
 質疑では、「倫理の根」では民主主義について直接言及されておらず、集団について語ることで間接的に問題化されている点の確認や、集団そのものがサルトルにおいて常に倫理的なものと考えられるのか否か、といった疑問が提出された。「全体的人間」の希求というマルクス/サルトル的な課題がまさに現代の問題であることを指摘する北見氏の発表は、サルトルの思想を今どのように読むか、という常につきまとう問題に正面から応えたものだといえよう。

ALEXANDRE COUTURE-MINGHERAS : La conscience et le monde. « L’idéalisme » de Sartre (1936-1943)
 Couture-Mingheras氏の発表は、しばしば実在論的と見なされるサルトルの初期の現象学的テクストについて、それが実在論的であるのか観念論的であるのかを問うた上で、観念論的な読解を試みた。発表は「志向性」論文、『エゴの超越』、『手帖』、『存在と無』を参照しつつ、それぞれについて長い注釈を与え、主にフッサール現象学と比較しながら進められた。発表者の意図は、いわゆる思弁的実在論における「相関主義」批判との関係からサルトルの実在論/観念論の問題に再び光を当て、初期哲学の意義を問い直すことにあった。
 たしかに、思弁的実在論の代表的な著作の一つに数え上げられるカンタン・メイヤスー『有限性の後で』には相関主義の哲学としてサルトルの名が見られ、博士論文である『神の非存在』でも『嘔吐』におけるマロニエの根の場面が(ごく簡潔に、自身の論じる不条理性との差異を示すためにだが)言及されている。事実性や偶然性といった鍵概念についての解釈等も含め、双方の突き合わせを通じてどれほど新しい展望が開かれてくるかは明らかではないが、未開拓分野という意味では検討される価値はあるだろう。

HIROAKI SEKI : La notion de mesure dans la première pensée de Sartre
 関氏の発表は、初期テクストにおけるmesure概念の多義性を研究したものであった。はじめに、小説『嘔吐』においてアニーがロカンタンを自分の尺度(mesure)だと見なす場面の分析が行われ、なぜこのようなロカンタン=尺度という同一視が生ずるのか、という問いが議論の導きの糸になった。それは、世界における理想的な価値尺度の欠如という事態を反映している、というのが氏の見立てであり、そのことを明らかにするために、『嘔吐』だけでなく様々なテクストが渉猟される。
 まず、『真理伝説』における「尺度」の位置づけから、理想的な価値尺度の欠如/危険で不十分な価値尺度の出現という対比が導入され、この対比を歴史的に解明するためにジャン=ジョゼフ・グーの『言語の金つかい』における「価値尺度としての貨幣の変遷」が分析される。さらに、同書の分析がサルトルのテクスト分析にも妥当であることを論じるため、ル・アーヴル講演及び『手帖』におけるジッド論が参照された。これらの分析を経た上で最後に再び『嘔吐』に立ち返り、小説末尾の音楽に見出される拍子(mesure)に対する言及がサルトルのmesureに対する関心のあらわれであり、単独者/芸術こそが真の価値尺度としての美を提示するというビジョンを明らかにしているのではないか、という仮説が提示された。
 内容は好評をもって迎えられ、質疑ではジッド研究との連携の可能性が示唆されたほか、初期サルトルにおける偶然性の理論との位置づけをめぐる質問があった。

SOIREE EXCEPTIONNELLE, organisée par Grégory Cormann et Jeremy Hamers : « On écrit peu à peu moins bien, puis on cesse d’écrire ». Sartre en radio, 1946-1973. Ecoute d’extraits & commentaires.
 夜にはCormann氏とHamers氏の進行による、サルトルの出演したラジオ番組を主題とした発表が行われた。Hamers氏は導入において、サルトルとラジオとの関係にあらわれた特性を脱同期化(désynchronisation)、脱モニュメント化(démonumentalisation)という語によって表現した。知識人によるメディア出演は、しばしばその作品の単純化、世俗的解釈を意図して行われる。その際、過去の作品の有名な一節がとりあげられ、過去を振り返り確認するよう促されることがしばしばである。しかしサルトルはラジオに出演するたびに、自分の年齢を訂正し、過去の作品との連続性を否認し、人口に膾炙したフレーズ(「地獄とは他者である」等)による単純化を拒否するしぐさを繰り返すことで、ジャーナリストが試みるモニュメント化を挫折させる。
 こうしてHamers氏がラジオ番組の内容面での分析を担った一方で、Cormann氏はより広い文脈のなかにラジオ、あるいは広く作品と対立するマスメディアを位置づけ、この問題の持つ多様性に光をあてた。特に氏は55年から57年頃をひとつの転換点と見なし、メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』への最初の応答が著作ではなくマスメディアに対して行われた点、アルジェリア戦争におけるレジスタンスのラジオが活用された点などを明らかにした。また『批判』における集列性の例としてマスメディアがつくる集団について批判的に言及される点を指摘しつつ、メディアがつくるある種の共同性・大衆といったものが当時のサルトルにおいては積極的に評価されない点が指摘された。その他にも、複数のディスクールの領域を横断するプロジェクトとして実存的精神分析を見なすならば、メディアを通じた活動をこの観点から取り上げ直すことができるのではないかという指摘、また、晩年のサルトルが作品を断念し次第にメディアへと進出してゆくことなど、サルトルとメディアについてのあらたな論点が多く提出されたように思われる。

6月24日
JEAN-MARC MOUILLIE : Sartre, penseur subversif de la norme
 Mouillie氏の発表は「道徳と歴史」および「倫理の根」に見られる規範的なもの(le normatif)についての考察を〈規範の現象学〉と捉えた上で、その考察の独自性を評価するものであった。
60年代の道徳を扱ったテクスト群において規範は、主体から独立して存在する、行為を外側から抑圧し規制する要因ではなく、実践そのもののなかに織り込まれ、行為の可能性を限定しつつ実現させる要因をなすものとして経験される。また規範は主観的側面にかかわるのみならず、それ自体客観的なものでもある。その意味で、規範は間主観的に共有されるものであり、それを通じて個人的な選択のみならず集団的な選択についての分析をも可能にする。こうした規範の両義性は『存在と無』の時期にはあらわれていなかったものであり、ここにサルトルの発展と一貫性を見て取ることができる。前日の発表と趣旨において通ずるものであるが、極めてクリアな見立てによって、サルトルの倫理観の特徴がより明らかになったように思われる。
 倫理そのもののなかに葛藤と差延を含むという点で、デリダの脱構築的な理論とのかかわりが指摘できるのではないかという質疑もあったが、これについてはさらに展開して検討されることも可能だろう。

PAOLA CODAZZI : Réflexions sur le roman : Jean-Paul Sartre et le « tragique moral » d’André Gide
 ジッドの著作における「ヨーロッパ」について博士論文を準備しているCodazzi氏の発表は、ジッド研究者としての観点からサルトルのル・アーヴル講演における『贋金つかい』論を検討するものであった。サルトルは同講演において、ジッドの小説の主題を登場人物の葛藤、道徳的悲劇のなかに見てとっている。現実と仮象、金と贋金といった二元性に引き裂かれた登場人物たちは、その葛藤を克服すべく物語を生きる。なかでもオリヴィエとヴァンサンの兄弟の命運は対照的で、発表者によれば、オリヴィエは葛藤を引き受け乗り越えることに成功するが、ヴァンサンはそれに失敗し悲劇的な死に至る。
 サルトルの考察のジッド論としての正確さと可能性を指摘する発表であったため、ここからサルトル研究/ジッド研究に何をもたらすかという点については聴き手に委ねられた感もある。しかし、質疑でも指摘されたように、サルトルのジッドに対する関心は恒常的なもので、両者の対比はさらにシステマティックに展開される必要がある。たとえば、人間主体の内的引き裂かれという主題は、後の本来性/非本来性にかんする考察にも連なるものであり、倫理にかんするサルトルの思索の大きな源泉をなしている。その萌芽をなすものがハイデガーの読書以前の比較的早い時期(1932-33年)に見いだされる点は興味深いといえよう。

ESTHER DEMOULIN : Sartre, « l’antipédéraste » ?
 Demoulin氏の発表はENSで行われたセミネール「文学と(複数の)同性愛」に基づいたものである。
 彼女はまず『聖ジュネ』と「対独協力者とは何か」を取り上げ、前者でのジュネの同性愛についての決めつけともとれる分析、後者での同性愛者と対独協力者を結びつける言説に言及した上で、サルトルは同性愛嫌悪者(アンチペデラスト)かと問いかける。ついで、この否定的判断には慎重さが必要であることがサルトルの文学作品における同性愛表象から分析される。サルトルの文学作品にはほぼ必ず同性愛者が登場するが(『嘔吐』の独学者、『自由への道』のダニエル、『出口なし』のイネス等)、その役割は一義的ではない。それはマゾヒズムや自己欺瞞、裏切りといった否定的価値に結び付けられることもあるが、『聖ジュネ』のパラテクストや他の作品(特に『出口なし』のイネス)においては明晰さという肯定的価値に結びつけられ、対独協力者で同性愛者のダニエルは作品の未完結部分ではレジスタンスとして真の自由を体現する人物に変身する。こうして数多くのテクストからサルトルの同性愛観の両義性を提示したあとで、先行する/同時代の同性愛言説として、ジッド、プルーストの同性愛観との対比が行われた。サルトルにおいて、同性愛は同性の同性に対する関係に固定化されず、女性化した男性、男性化した女性といった形式をとり、ジェンダーの二項関係を撹乱する多元的な側面をも持つ。最後に、ボーヴォワールの小説や『第二の性』における同性愛言説との対比が行われ、精神分析における同性愛観との対比から、サルトル/ボーヴォワールの同性愛についての考えの相違が明らかにされた。
 理論的にはディディエ・エリボンの『ゲイ問題の考察』(いうまでもなくサルトルの『ユダヤ人問題の考察』を意識したテクスト)も背景にあり、サルトルにおける同性愛表象の内的多義性と他の作家たちとの対比が展開される豊かな発表だったように思われる。

TABLE-RONDE On a raison de se révolter (A. van den Hoven & V. von Wroblewsky)
 『反逆は正しい』英訳刊行記念ラウンドテーブルでは、アメリカとドイツにおけるサルトルの翻訳者二人が『反逆は正しい』とリベラシオン紙創刊に至る歴史的・政治的・思想的文脈を語り直した。詳細は省くが、当時の熱気とこの書物の重要性を感じさせるものであった点は指摘しておきたい。ただ、このテクストを2017年に翻訳・刊行することの意義について質問があった際に明白な答えがなかった点はやや残念であった。

GIUSEPPE CRIVELLA : Quel imaginaire pour le roman? Sartre et Blanchot
 Crivella氏のサルトルとブランショにかんする発表は、『シチュアシオン』第1巻に収録された『アミナダブ』への書評に基づくものである。そこでサルトルはブランショの世界観について、日常の有用性が逆さまにされた世界、すなわちファンタスティックな世界を描いているという評価を下しているが、これがサルトルの『想像力の問題』結論部にあるイマージュの把握と現実把握の反転的関係とのかかわりのなかで論じられる。そこから、ブランショ自身のイマジネールと言語との関係、イマジネールと現実との接触との関係等が比較された。

ALEXIS CHABOT : Du mouvement et de l'immobilité de Poulou
 Chabot氏の発表は「運動性/不動性」を鍵語にしてサルトルのテクストを独自の観点から読み解いてゆくものであった。『手帖』における状況の硬直(不動)と「前進」の合図(動)、ブルジョワに特有の価値観の固定性、イデオロギーの保守性、土地持ち(不動)に対して、そこから逃れようと試み、自己自身と一致せず、ホテル暮らしをするサルトル(動)など、動/不動の対立はサルトルのテクストと生をつらぬいてあらわれる。さらに、『手帖』でその現場を見てとることができるように、サルトルの思考は多弁によって新規さと創造性を獲得しており、自己限定によってではなく絶え間ない創造によって、つまり動き続けることで成立している。その根底には運動へのオブセッションと同時に不動に対するオブセッションが存在する。ひと組みの概念によって複数のテクストを横断してゆく手つきは鮮やかであった。
 発表題目はイヴ・ボヌフォワの『ドゥーヴの動と不動』へのアリュージョンで、まず詩の一節(Hier régnant désert)の朗読からはじめられたが、発表日は奇しくもボヌフォワの誕生日であった。

CLAUDIA BOULIANE : Comment voyager comme un saumon. Sur trois métaphores du tourisme de masse dans La Reine Albemarle ou Le dernier touriste
 Bouliane氏は遺稿旅行記である『アルブマルル女王』を観光ツーリスムという観点から論じることを標題に掲げたものだが、そのなかで思いがけぬかたちで『手帖』の重要性が強調された。まず、サルトルの従軍当時の社会でツーリスム、ツーリストが持っていた両義性に光が当てられる。フランスでは資本主義の発展と1936年の人民戦線の勝利以降の法整備によって有給休暇、ヴァカンスの大衆化が進み、ブルジョワ以外にもひろく旅行の楽しみが可能となった。他方で、植民地への侵攻や戦争も旅行と同様に、世界中で、しばしばピトレスクな趣を持つものとして受け入れられた。『手帖』を紐解けば、サルトル自らもはじめは戦争を短期で終結するヴァカンスのように捉えていたことがうかがえるが、それは同時代の変容した旅行観を反映したものになっている。すなわち、一方では大衆的な動員としての旅行として、また他方では美と破壊の両面にかかわる旅行として。
 発表はこれらの有益な歴史的視座を含みながら旅行の問題系を論じるもので、サルトルの旅にかんする決して少なくないテクストを読むための道しるべとなるものであった。
(文責・赤阪辰太郎、協力・関大聡)

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日本サルトル学会会報第51号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°51 juin 2017
日本サルトル学会会報              第51号 2017年 6月


研究例会のお知らせ
第39回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムを開催致します。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われます。当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)

(休憩 15分)

16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Hervey
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
(通訳つき)
司会:澤田直(立教大学)

17:30 終了

17:40 総会
18:00 終了
18:15 懇親会

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日本サルトル学会会報第50号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°50 mai 2017
日本サルトル学会会報              第50号 2017年 5月

研究例会のご報告
第38回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告申し上げます。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました根木昭英、森功次、両氏の博士論文合評会を行いました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。

第38回研究例会
日時:2016年12月3日(土) 14 :30~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)


14 :30 -16 :15  提題者:根木昭英 Akihide Negi (司会:北見秀司、特定質問者:水野浩二) 「La « Poésie de l’Échec » : la littérature et la morale chez Jean-Paul Sartre」(「挫折のポエジー」――ジャン=ポール・サルトルにおける文学とモラル)

根木昭英による発表は、博士論文について、最初に着想経緯や意義などについて説明を行ったあと、全三部の梗概を、順を追って説明してゆくという形でなされた。
根木は、博士論文における考察の中心コーパスであった批評群(『ボードレール』、『聖ジュネ』、『家の馬鹿息子』、『マラルメ』等)の多面性を指摘することから報告を始めた。これらの批評は、実在の作家や詩人たちの生涯をめぐる伝記的描写であると同時に、彼らの実存や作品、さらにはその背景をなす歴史状況の哲学的分析でもあるという混合的な性格を持っている。執筆年代的にも内容的にも、サルトルの知的営為のほとんどすべてと絡み合って展開しているこの批評群に、これまでのところ既成理論の個別的事例への適用という副次的な位置づけが与えられる傾向があったとすれば、それにはこうした一見曖昧な性格も与っていたはずだと発表者は指摘する。しかし根木の考えによれば、これらの批評においては、じっさいには芸術とその倫理的位相をめぐる思索が展開されており、しかもそれは、独立した著作としては理論化されずに終わった一貫した体系を形成している。それは、「詩的な世界内存在」としての「ポエジー(poésie)」をめぐる思索である。サルトルのテクストにしばしば現れる「ポエジー」の語には、世界内存在の一様態、すなわち「挫折(échec)」あるいは「不可能なもの(l’impossible)」の選択という意味が与えられており、芸術作品は、何よりもこの審美的な実存様態から生み出されるとされる。そしてこの芸術創造の過程は、普遍-特異両面における実存の自己意識化およびその「証言(témoignage)」としての倫理性と結び付けられていると根木は言う。美学と倫理とのこうした潜在的接続をサルトルの新たな思想軸、さらに言えば、書かれることなく終わった「第二の『文学とは何か』」として再構築することが、根木によれば博士論文の主目的であった。
続いて報告は、論文の具体的な内容説明に移った。根木の博士論文は、作品創造の前提となる芸術家の存在様態を扱った第一部、詩的な実存様態の客体化たる作品創造の問題を扱う第二部、そして、前二部で構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程を探る第三部によって構成されている。各部の詳細については、次のような説明がなされた。
第一部においては、「ポエジー」の語が持つ、詩的な世界内存在としての意味から出発して、その構造および存在論的含意の解明が行われている。まず「ポエジー」の意味に関しては、サルトルにおける「ポエジー」が、「詩」のみならず、先述のように「挫折」あるいは「不可能なもの」の選択を指すために用いられていること、そして、こうした実存様態が、行為の有効性の否定によって道具連関を逆転し、世界を審美的様相において開示する態度として定式化可能であることが指摘される。続いて、以上の分析を「実存的精神分析」(『存在と無』)の存在論的観点からあらためて考察する後半部では、詩的な世界内存在が、不可能な「即かつ対自」、つまりはサルトルの無神論哲学における「神」たらんとする試みに収斂することがまず示される。つぎに考察は、サルトルにおける神概念の検討に移り、「神」のもうひとつの定義である「自己原因」の概念を、聖トマスからデカルト、スピノザを経てライプニッツへといたる神学史へと位置付けることで、サルトルの「神」が、何よりもそのフォイエルバッハ的な人間化された性格によって特徴づけられることを明らかとした。そして最終部において、以上の分析から、「ポエジー」が、自己の「瞞着(mystification)」により世界の我有化を目指す実存様態であることが確認された。
第二部では、詩的世界内存在が現実的事物、すなわち芸術作品(とりわけ文学作品)へと客体化される過程をめぐるサルトルの思索が検討される。そこではまず、サルトルが、作品における詩的投企の客体化過程を考察するにあたり、言語の対象指示作用よりも、その非伝達的側面である物質性契機の重要性を強調していることが指摘された。論文はそのうえで、こうした議論の背景に、サルトルにおける「記号/イマージュ(散文/詩)」の二元論が孕む両義性があること、よって「ポエジー」の問題とは「文学」一般のそれに他ならないことを明らかとする。そして、こうした両義性の起源が、フッサール現象学における記号とイマージュの区別の両義性にまで遡ること、さらに、それが「志向の差異」と「程度/本性の差異」をめぐる現象学のより根本的な(そして生産的でもある)両義性に関わることもまた示された。続く考察は、文学言語をめぐる以上の議論が、対他関係の文脈においては「コミュニケーションのアポリア」、すなわち、他者の眼差しによる作品客体化の要請と、対他存在の相剋的性格に由来するその必然的挫折として再解釈可能であることを示し、サルトルがこの新たな文脈において「ポエジー」を「ナルシシスム」、つまりは他者に向けられた「瞞着」として再定義していることを確認した。
第三部においては、以上に構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程が検討される。論文はまず、これまでに見た「ポエジー」としての芸術創造に、(多少の振幅を伴いつつも)サルトルが自らの倫理論を重ね合わせている点を指摘する。そのうえで、明示的説明を与えられていないこうした美学と倫理との接続が、芸術的営為のもつ、「人間的実存」の「証言」を通じた「弁人論(anthropodicée)」としての倫理性――人間的条件を拒絶し神たろうとする企てである芸術創造が、人間的条件の不可能性(即自/対自、偶然性/自由、対自/対他の解決不可能な矛盾)ゆえに、拒否された当の人間的条件の自己意識化と表現、そしてその擁護へと反転すること――として、整合的に解釈されうることを明らかとした。続く考察は、以上に再構成された美学-倫理体系と『弁証法的理性批判』との対照を通じ、芸術創造における「自己意識化」の概念が、「批判的経験の批判」において弁証法的全体化の第一の可知性を形成するとされた「了解」概念と他のものではないこと、よって本体系における芸術の倫理性が、「〈歴史〉の運動」つまりは「弁証法的理性」の「批判」としてのそれへと延長されうることを示した。そして最後に、それまで言語芸術を中心に検討されてきた以上の思索が、『ネクラソフ』を始めとする戯曲作品、さらにはティントレット論などの美術批評にも見いだされること、したがって再構築された体系が、詩学のみならずサルトルの美学-倫理論一般として妥当することが示された。

発表後の質疑では、最初に特定質問者の水野浩二氏より報告者に質問が寄せられた。水野氏の質問は、「美」と「モラル」との関係をめぐるサルトルの様々な発言の関係、また、「総合なき矛盾」たる「回転装置(tourniquet)」の観念を踏まえたうえでの、サルトル哲学における「弁証法」の位置付け、さらには「瞞着」とサルトル思想との関係についてなど多岐にわたるものであり、発表者はそれぞれ、「モラル」という語がその時々に持つ意味を区別しつつサルトル思想の展開を通時的に整理する必要性(「美」と「モラル」の関係)、「全体化するものなき全体化」としての『批判』の弁証法と「回転装置」とを、ひとまずは区別して考えるところから出発する必要(「弁証法」について)、また、しばしばサルトルにおいて「瞞着」が「透明性」と表裏をなしているゆえ、それは必ずしもそのまま「非本来性」と同一視できるものではない(「瞞着」について)、といった観点から応答を行った。続く一般質疑では、本論考の鍵語のひとつである「挫折」を考察するにあたって、サルトルが1927-8年に翻訳に参加したヤスパース『精神病理学総論』が持つ重要性の指摘、さらに、サルトルにおける「救済(salut)」をめぐるデリダの論考(『パピエ・マシン』所収)についてどう考えるかといった質問が出た。発表者は後者の問いに対し、今回再構築された体系においても文学とその倫理的「機能」とが不可分とされている以上、そこにある種の「救済」思想の回帰を見て取ることは可能かもしれないが、他方サルトルの文学実践(とりわけ文体レベルの実践)は、こうした思想にのみ還元されるものではないはずだとの視点から応答を行った。
以上、質疑においては博士論文で直接に扱われたテーマには限定されない幅広い角度から活発に質問が寄せられ、議論は盛況であった。発表者としてはとりわけ、一か月弱という短い準備期間で論文の根幹に関わる貴重な数々の問いを準備してくださった水野先生に、この場を借り、あらためて深謝申し上げたい。(文責:根木昭英)


16 :30-18 :15 提題者:森功次 Norihide Mori(司会:生方淳子、特定質問者:永井玲衣) 「前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」

 例会の後半部では私の博士論文「前記サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」(東京大学、2015年)の合評会を開催して頂いた。まず冒頭で2-30分ほど私が博士論文の概要と要点を説明した。
私の博士論文は、サルトルの主に初期から『聖ジュネ』までの哲学的文献を読み解きつつ、そこから示されるサルトルの芸術論を読み解いていく、というものである。読解の中心となる著作は、第一章が『想像力の問題』、第二章が『存在と無』(とその前後の著作)、第三章が『文学とは何か』、第四章が『倫理学ノート』、第五章が『聖ジュネ』なっており、お分かりの通り、博論の章構成は、読み解く著作の時代順となっている。考察を通じてサルトル思想の年代ごとの変化を明らかにしていくというのも、本博論の副次的な狙いであった。
博論概要の説明の後、討論に移った。特定質問者は上智大学の永井玲衣氏にお引き受け頂いた。
永井氏からは、主に6点の質問を頂いた。私の理解した限りで(かなり雑駁に)質問をまとめると、質問は概ね以下の6点である。

1.『存在と無』から『倫理学ノート』にかけての思想の変化とはどのような変化だったのか
2.サルトルの文学観における「道徳」と「美的経験」との(やや複雑な)関係は結局どういうものなのか 
3.なぜ他者を個性的な人間として承認せねばならないのか
4.サルトルの倫理学と状況倫理とは何が違うのか
5.サルトルとアメリカ(プラグマティズム)の関係について。
6.(森の読解から出てくる)サルトルの文学は「公衆」の形成につながるものなのか

かなり予想外かつ良質な質問が続いたので、私もその場でいろいろと考えてしまい、あまりうまく受け答えができなかった。とりわけ4や5の質問については、ほとんど答えることはできず、反省点は多い。今後のための重要な検討課題を与えられたと思っている。
その後、質疑をフロアに開き、他の方々からも批判や意見を多数頂いた。とりわけここでも議論の中心になったのは、『道徳論ノート』の時期、サルトルの中にはどのような変化があったのか、という点だったかと思う。応答の中でわたしは、〈「純粋な反省」についてのサルトルの考え方が、瞬間的な反省から時間的なスパンのある反省へと大きく変化している〉というひとつの私見を述べたが、この点についても確固たるテクスト的証拠を出すことはできなかった。これも今後の課題として受け止めさせて頂きたい。
 今回の例会を機に、私の博論はResearchmap上で全文公開されている(https://goo.gl/BB7MKA)。今後も博論を書籍化するつもりは(少なくとも現時点では)ないので、私の考えが変わらないかぎり、ひとまず公開されつづけるだろう(そのうち東京大学のリポジトリにもupされると思う)。私が行った読解の妥当さはさておき、博論ではほぼすべての引用部分には原文を付してあるので、少なくとも資料的価値はあると思う。前記の哲学的著作を読み解く際の一材料として利用して頂ければ幸いだ。もちろん、厳しいご批判、ご意見はいつでも歓迎している。
 最後にひとつ謝辞を述べておきたい。この博論を仕上げるまでの数年間に、私はこの日本サルトル学会で幾度も発表の機会を与えて頂いた。その場で(もしくは打ち上げの場で)会員・来場者・パネリストの方々と行った討論は、この博論の様々なところで活かされている。この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。(森功次)


サルトル関連文献
・ 加藤誠之「定時制高校の実践に学ぶ生徒指導 : 自由と遊びに関するサルトルの思索を手掛かりとして」『人間関係学研究』21(1)、2016年12月、pp. 51-61.
・ 李先瑞「野間宏の文学におけるサルトルの実存主義思想の受容」『アジア・文化・歴史』(4)、2016年12月、pp. 19-34.
・ 北見秀司「サルトル(1905-1980)と戦後 (特集 戦後70年と世界文学)」『世界文学』(124)、2016年12月、pp. 18-28.
・ 翠川博之/生方淳子/澤田直「生誕111年 J.-P. サルトル再読  実存主義を遠く離れて」『Cahier』19号(日本フランス語フランス文学会)mars 2017

サルトル関連情報
 サルトルの養女、アルレット・エルカイム=サルトル(1935年生まれ)さんが2016年9月16日に亡くなりました。Cahiers pour une moraleを皮切りに、サルトルの遺稿の出版を一手に行ってきただけでなく、新たな校訂版なども手がけ、サルトル研究の新たなステージを可能にした彼女の貢献は長く記憶に留められるべきものでしょう。国際サルトル学会GESなどの公の場所に顔を見せることは稀でしたが、多くのサルトル研究者がさまざまな形でお世話になりました。ご逝去に関しては長いあいだ公開されていませんでしたが、現在ではネット上でもこの情報が出ています。遺体はモンパルナス墓地に埋葬されたとのことです(« Bataille à huis clos pour l'héritage de Sartre », Le Canard enchaîné, no 5036,‎ 3 mai 2017, p. 4.)
 アルレットさんが編集中のGallimard 社からの新しいSituations集は、今後も続けて刊行の予定だそうです。サルトルの遺稿をはじめ、その他の遺品の今後の行方についてはいまのところ分かっていません。
 アルレット・エルカイム=サルトルさんのご冥福を心よりお祈りします。


☆ 次回の例会は2017年7月15日を予定しています。

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2017-01-25 [サルトル関連情報]

 サルトル来日50周年にあたって、鈴木道彦会長の特別講座が開催されますので、お知らせいたします。講演についてのお問い合わせは獨協大学エクステンションセンターまでお願いいたします。

https://www.dokkyo.ac.jp/opencollege/oc02_02_j.html
サルトルと現代 -来日50周年にあたって-:
講義概要
 20世紀最大の知識人サルトルは、ボーヴォワールとともに1966年に来日して、熱狂的な歓迎を受けました。
そのときの様子を映像で振り返りながら、何度も直接会って議論を交わした者として、その人物像を伝えるとともに、50年後の今日の世界でサルトル思想の持つ意味を考えます。
 たしかに彼のような大知識人を求める時代は過ぎ、現在では彼の本が争って読まれることもなくなりました。
 しかし彼の提起した問題が解決されたわけではありません。たとえば「第三世界は郊外に始まる」と言ったのは、当時のサルトルでした。それはまるで移民や難民の問題で苦しんでいる今日の世界を予言しているように見えます。
 このような問題は、日本にとって無縁なことなのでしょうか。いったい半世紀前と何が変わり、何が変わらなかったのか。そのことも講座のなかで探っていきます。

日時 3月4日(土)14時~16時 (13時開場)
場所 獨協大学 天野貞祐記念館大講堂
講師 鈴木 道彦(すずき みちひこ)
獨協大学名誉教授
交通 東京メトロ日比谷線・半蔵門線直通 東武スカイツリーライン「松原団地駅」* 西口徒歩5分
*2017年春「獨協大学前<草加松原>」に改称予定  ※車でのご来校はご遠慮ください
受講 無料 定員500人 当日先着順 事前申込不要
共催 草加市
お問い合わせ 獨協大学エクステンションセンター
〒340-0042 草加市学園町1-1
電 話  048-946-1678
sartretogendai.jpg
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北米サルトル学会 第22回研究例会報告(関 大聡) [サルトル関連情報]

bearhall.jpgBear Hall
北米サルトル学会 第22回研究例会
The 22nd Meeting of the NASS (North American Sartre Society)

北米サルトル学会facebook
北米サルトル学会WEBサイト
プログラム(pdf)

参加報告 関 大聡


 11月4日(金)から6日(日)までの三日間、北米ノース・カロライナ州ノース・カロライナ大学ウィルミントン校で北米サルトル学会の第22回研究例会が催された。前回はペンシルベニア州(イースト・ストラウズバーグ大学)、前々回はカナダのオンタリオ州(ウィンザー大学)と、毎年この時期に北米の都市を開催地とする例会であるが、日本では必ずしも馴染みがないかもしれない。報告者は今回発表のために三日間通して参加する機会に恵まれたため、今後日米両会の参加・交流が進むことを期待して、この報告小文を寄せることにしたい。

参加まで:国際学会は参加自体のハードルが高いため、そこに至るプロセスから記述した方が良いだろう。大まかな情報はFacebookのNorth American Sartre Society (NASS)をフォローすることで確認されたいが、まず七月末日を目途に発表募集(CFP)がかけられ、主催側に2頁以内の要旨を提出する。それが受理されれば発表原稿を用意しつつ渡航の準備を進めることになるが、三日間の学会はやはり規模が大きい。参加登録がオンラインで行われるだけでなく、ホテルを学会側が押さえているため、空港からの無料シャトルバスも含めて、不慣れな海外であってもある程度安心することができる(例年のことか不明だが、大学院生は相部屋を選べば宿泊費補助も受けられた)。渡航費は無論自前であるが、報告者は所属する大学院の旅費補助プログラムに申し込む幸運を得ることができたため、同種の補助を探してみることもできるだろう。

学会当日:さて、北米のサルトル学会は三日間で50人以上の発表者に加え、基調講演、及び新刊書についての書評セッションも用意されており、規模で言えば世界でも最大のものである。今回の全体テーマはラッセル法廷の開廷50周年を記念して「実存主義とアンガジュマン:実存主義の歴史と未来Existentialism and Engagement: The History and Future of Existentialism」と題されたが、毎回あらゆる角度からのアプローチを受けいれている(一般的な傾向として哲学研究が主流ではあるとはいえ)。参加者は確認のかぎりでは、アメリカ、カナダ、イギリスを中心に、南米、イタリア、オーストリア等から来ていたようである(イランからカナダに移住した一人を除けばアジア系は私だけだったと思われる)。身分も、大学研究者、学生だけでなく在野の研究者、精神科医等を迎える等、研究を開こうとする姿勢には着目されよう。

発表:英語ないしフランス語を選択することができるが、後述するように仏語のパネルは報告者が参加した一つだけであったから、広いリアクションを期待するのであれば英語での発表を考えた方が得策かもしれない。コーヒー・ブレイクやランチを挟みながら全部で七つのセッションがもたれ、各回2-3のパネルが同時に進行することになる。全体の雰囲気を俯瞰するために各パネルのテーマを列挙してから、報告者が参加しえたものについては短く紹介したい。
1A「自由、決定論、行為体」、1B「本来性、自己欺瞞(Bad Faith and Self-Deception)」、1C「『弁証法的理性批判』への新たなアプローチ」
2A「文学とプラクシス」、2B「政治哲学I:大地へのアンガジュマン:惑星的危機へのサルトル的介入」、2C「コンフリクト、連帯、政治」
3A「政治哲学II:実存主義と社会的アンガジュマン」、3B「サルトルの実存主義におけるニヒリズム、不条理、オプティミズム」、3C「すべては許されているのか? サルトル倫理学の考察」
4A「精神分析、精神治療、情動」、4B「政治哲学III:拷問、テロリズム、中東」、4C「劇作家サルトル」
5A「政治哲学IV:人種とジェンダーへのサルトル的アプローチ」、5B「『弁証法的理性批判』と戦後政治」、5C「伝記、文学」
6A「書評セッション:ノレーン・カワージャ著『実存の宗教 哲学における禁欲主義 キルケゴールからサルトルまで』」、6B「瞑想、意識、エゴ」
基調講演(Sarah Bakewell)「如何にして心配するのを止めてサルトルを楽しむか」
7A「『反逆は正しい』についての鼎談」、7B「身体へのサルトル的アプローチ」

1B「本来性、自己欺瞞」
 まず、サルトルの初期の存在論と倫理を結ぶ鍵概念である「本来性authenticity」をめぐって三者三様の発表が繰り広げられた。本来性の自覚を社会の発展の契機として捉えようとするもの、『倫理学ノート』を取り上げて自己欺瞞から完全に解放された本来性は不可能であるとするもの、自己欺瞞における反省的意識の構造について再検討するものがあった。方法の点で興味深く思われたのは最後のもの(マイヤ・ジョルダン)で、分析哲学の方法を用いた議論の展開は印象的だった。

2C「コンフリクト、連帯、政治」(仏語)
 南米におけるサルトル受容を主題とした博士論文を用意しているというアンドレア・モッタの発表はラッセル法廷の争点を明らかにするもので、この民衆法廷への参加者にアレホ・カルペンティエルやフリオ・コルタサルのような作家も名を連ねていることを知られたことも、当時の知的シーンにおける南米作家のプレゼンスを考えるうえで興味深い。私の発表はサルトルのテクストにトロイアの伝説上の女性予言者カッサンドラの名が現れる幾つかの例からコミュニケーションの特殊な在り方としての予言について考察するもので、いささか意表を突くようなテーマだったと思うが、最終的にはサルトルにおけるペシミズム/オプティミズムという大きな問題系に着地したことで、会場から発表者の念頭にはなかった示唆を受けることができた。

3B「サルトルの実存主義におけるニヒリズム、不条理、オプティミズム」
 まさしく「実存主義的」と呼ぶべきテーマ群である。サルトルの議論において死は生の意味を奪うものではなく(剥奪説)、その意味を脅かすものである(脅威説)という主張を提示するもの、フォイエルバッハとの比較において、サルトルのヒューマニズムの無神論的ラディカリズムを強調するもの、『存在と無』のペシミスト的な存在論を敢えてオプティミズムの書として読もうとするもの、これら三つの発表が提示された。最後のものはテクスト的な裏付けは難しそうだったが、幸福や歓びと言ったテーマはRobert Misrahiによる一連のサルトル批判の主軸になっているだけでなく、2011年の仏語『サルトル研究』誌のテーマがBonheurs de Sartreでもあったことからも、展開可能な余地のある議論と思われた。

4B「政治哲学III:拷問、テロリズム、中東」
 本パネルは今回の学会のなかで最もアクチュアルなテーマを扱ったものだろう。最初の発表は、イラク戦争時の米軍による拷問行為の正当化において上層部が用いた理屈を具体的に取り上げつつ、拷問をめぐる論理そのものが歪められている(=拷問されている)ことを、自己欺瞞の概念を手掛かりに論じたもの。次の発表はイスラム過激派のテロを素材として、テロリズムは『倫理学ノート』に扱われる対抗暴力たりうるか? と問うもの。他者の自由の否定であるテロリズムは対抗暴力たりえないとする結論まで議論は導かれたが、しかしそれならば、どのような対抗暴力であればその批判から逃れ得るのか? これはサルトルの暴力論の射程を測る根本的な疑問として残るだろう。最後の発表は、中東における既存の価値観の崩壊が神の死という実存主義的な問いを引き起こすものであることを論じるものであった。同じ中東におけるサルトル受容については2010年の『サルトル研究』誌でも興味深い論文が読めるが、サルトルの徹底的な無神論的姿勢がイスラムの風土にどう受け入れられうるかという問いは、文明の対話の一側面として現代の関心に沿うものだろう。

5C「伝記、文学」
 発表は二つで(ボードレールについての発表者は欠席)、一つ目の発表はブラジルの作家クラリッセ・リスペクトールを実存主義の作家として検討するというもの。思想的文脈ではエレーヌ・シクスーとの関係が取り沙汰される作家ではあるが、彼女を読むための実存主義という新しい視座を与えられたのは発見であった。二つ目の発表は伝記作品における幾つかの争点と自伝に対する批判的距離を対照的に論じつつ、サルトルの議論に潜むマチズモの要素を、カストロ訪問のエピソードを交えつつ論じるものであった。質疑でサルトルのエクリチュールの一つのモデルとして読者を魅了する欲望が論じられたが、そこには発表者(ジョン・アイアランド氏)の著書であるSartre. Un art déloyal (Éditions Jean-Michel Place, 1994)の議論(特に第六章)からの一貫性を見出すこともできよう。

6A「書評セッション:ノレーン・カワージャ著『実存の宗教 哲学における禁欲主義 キルケゴールからサルトルまで』」
 近刊として同名書を上梓する著者を招いての書評セッション。この時点では肝心の著書が刊行されておらず、内容については登壇者の紹介から想像することを余儀なくされたが、実存主義と禁欲主義を結ぶ「精神的労働spiritual labour」としての側面をキルケゴール、ハイデガー、サルトルを中心に読み解くものであると言えば、その議論の背景にミシェル・フーコーの晩年の講義やピエール・アドの「霊操spiritual exercise」としての古代哲学という論点との近さを見出すことができよう。翌朝ビーチで偶然著者に会ったときにこのことを尋ねてみると、議論の方向が予断をもって受け入れられることを避けるためにむしろ差異化に努めたとのことだったが、宗教史のコンテクストから実存主義に新たな視座を与える試みとなれば、これは興味深いものであると期待される。

基調講演「如何にして心配するのを止めてサルトルを楽しむか」
 講演者のサラ・ベイクウェルは『実存主義者のカフェで:自由、存在、あんずのカクテルAt the Existentialist Café: Freedom, Being, and Apricot Cocktails』の著者。2016年に刊行されると間もなくオランダ語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語に翻訳された同書は、哲学と伝記を折り合わせたストーリー・テリングによって多くの読者を魅了した今年のベストセラーである。講演では、著者自らがいかにして『嘔吐』の著者に出会い、偶然性の思想を軸に、不安の思想という危なっかしいものに対する「不安」を解消するようになったかが語られた。

基調講演の会場.jpg基調講演の会場

7A「『反逆は正しい』についての鼎談」
 近いうちに『反逆は正しい』(1974)の英語訳が刊行されるらしく、それを期しての同書をめぐるパネル。当時の時代的コンテクストについての紹介や、サルトルにおける老齢の意味合い、フェミニズム的観点からの批判的検討、同書の中心をなすマオイズムの今日的争点など、多くの議論が交わされることとなった。年配のサルトリアンたちによる鼎談のため、じっさいに60-70年代のパリの空気を呼吸していたひとも少なくなく、現役のマオイストもそこにはいる。これほど幸福な時代錯誤も稀有なものだろう。

感想:以上、朝から夜まで三日間、休憩時間や会食も含めて濃密な時間を過ごすことができたが、毎年これほどの参加者の募ることができるのはアメリカという強い求心力を持つ土地ならではのことだろう。そこにはサルトルの著作全体を大胆に理解しようとする企図が感じられ、また少なからぬ発表はサルトルのテクストに即して読解すると言うよりはそこから出発して現代の事象を分析するツールとして用いるといったものであった(無論、その結果として議論がしばしば玉石混交となるのは避けがたいことではある)。そこには良し悪しもあろうし、日本のどちらかと言えばテクストを精緻に理解しようとする研究とは傾向の違いを見て取ることもできよう。とはいえ、なるべくテクストに寄り添うことを信条とする者にとっても、そこからさらに飛躍して何を語ることができるかを考えさせるという意味では、生産的な対話の場が用意されているように感じた。

 また限られた観測範囲での印象ではあるが、英語圏と仏語圏の研究の間にはかすかな溝があるようにも思われる。発表のなかで先行研究への言及が行われるときには、トマス・フリンやロナルド・アロンソンを筆頭とする英米の大家の著作が参照されることが多く、研究の蓄積において独自の発展を遂げているのではないか。それは英語圏における大学の研究動向(近年は分析哲学の影響が否みがたい)のみならず、政治状況とも関連していよう。とりわけ(今回のテーマの影響もあるとは思うが)『弁証法的理性批判』を中心とする政治哲学への関心は高く、それを現代の状況(環境問題、現代戦争、テロリズム、ジェンダー)に接合させようとする企てが多くみられた。地球規模で起きている変革はサルトルの時代のそれとは大きく異なるものとなりつつあるが、歴史を知解可能なものにしようとするサルトルの著作の「活用」に踏み出すことは益々重要な試みになっている(これは相部屋の博士の学生オースティンが断言していたことでもある)。私はとりわけ中東情勢に関する分析に興味を感じた。活字で読めるものとしてはジョン・アイアランド氏(その活躍は両大陸を跨ぐものであるが)の以前の論考(« Sartre and Scarry: Bodies and phantom pain »)を挙げておきたい。エレーヌ・スカリーによる身体的苦痛の現象学的分析を導きの糸として、サルトルの戯曲テクストにおける拷問の主題を扱う論考は多くの知見を含むものであり、この方向は今後さらに発展していくであろうし、特別の注意を払う必要があるように思われる。

 今回の滞在は、11月8日の合衆国大統領選挙直前に該当していた。空港からホテルに向かうシャトルバスの運転手と話していたとき、ノース・カロライナでトランプ氏は勝てないという予測を聞かされたが、蓋を開けてみれば同州は氏の圧勝。学会のなかで直接俎上に上ることはなかったものの、国の運命を大きく左右する選挙に対する関心と緊張は顕著なものであったように思われる。最終日、全パネルが終ったあとに若手の研究者たちと昼食をとる機会を持ったときには、11月にもかかわらずビーチを臨むホテルには夏のような陽光が注ぎ、そこでは彼らの忌憚なき意見をうかがうこともできた。そのあとすぐに帰国せねばならなかったのは残念だが、このタイミングのアメリカに行き、サルトリアンたちのリアクションに接することができたのは貴重なことである。世界の研究動向に刺激を受けつつ、日本の研究のありうべき方向について考えることができればと思う。

ビーチを臨むホテルにて.jpgビーチを臨むホテルにて




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日本サルトル学会会報 第49号

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°49 novembre 2016
日本サルトル学会会報 第49号 2016年 11月
次回の研究例会のお知らせ
第38回研究例会が下記の通り開催されますので、ご案内申し上げます。
次回の研究例会では、最近博士論文を提出されました根木昭英、森功次、両氏の博士論文合評会を行います。多くの方のご来場をお待ちしております。
第38回研究例会
日時:2016年12月3日(土) 14 :30~
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

 14 :30 -16 :15  提題者:根木昭英 Akihide Negi (司会:北見秀司、特定質問者:水野浩二)
       「La « Poésie de l’Échec » : la littérature et la morale chez Jean-Paul Sartre」(「挫折のポエジー」――ジャン=ポール・サルトルにおける文学とモラル)
   
(15分休憩)

 16 :30-18 :15 提題者:森功次 Norihide Mori  (司会:生方淳子、特定質問者:永井玲衣)
「前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」
  
 18:30    懇親会

今回の合評会のために、両氏の博士論文はweb上にて公開されております。各自事前にご参照下さい。
 根木昭英 博士論文 https://goo.gl/cPL6k4
 森功次 博士論文  https://goo.gl/BB7MKA
    ※どちらもResearchmap上の「資料公開」ページになります。


サルトル関連文献
・ 齋藤元紀・澤田 直・渡名喜庸哲・西山 雄二編『終わりなきデリダ: ハイデガー、サルトル、レヴィナスとの対話』法政大学出版局、2016
・ 赤阪辰太郎「理想と現実の彼方にある倫理――サルトル『文学とは何か』における承認論の意義」、『フランス哲学・思想研究』、第21号、日仏哲学会、2016年9月、pp. 194-205.
・ 赤阪辰太郎「書評:澤田直編『サルトル読本』」『フランス哲学・思想研究』、第21号、日仏哲学会、2016年9月、pp. 274-277

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日本サルトル学会会報第48号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°48 Octobre 2016
日本サルトル学会会報              第48号 2016年 10月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形式で開催となりました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。発表・質疑はすべてフランス語で行われました。

第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

吳銀河氏の発表「「ある指導者の幼年時代」における“籐の杖”の二場面(サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか)」は、短編小説の分析を通じて、サルトルによる精神分析の批判的活用を論じたものである。この短編は、これまでにもGeneviève IdtやJean-François Louetteによる優れた研究が明らかにしてきたように、フロイトの精神分析理論及びその当時流布していたイメージを作品のなかに取り入れており、サルトルが如何に精神分析に関心を抱き、かつ批判的な視点を持っていたかを明らかにするものである。吳氏の発表では、一貫して他者に対する受動的態度を示している本作の主人公リュシアン・フルーリエが(表題の示すように)「指導者」へと成長を遂げてゆく過程において、エディプス・コンプレックスが活用されていることが指摘される。とりわけ、(精神分析においてしばしば男性性の象徴とされる)杖が登場する二場面を詳細に分析しながら、リュシアンが自らを「男」とし「父」に同一化することがコンプレックスを克服するプロセスと同期していることが明示された。このように精神分析的テーマを巧みに取り込みながら、精神分析そのものが家族制度を基本単位とする社会・階級構造の再生産に寄与するものであることを露わにすることで、サルトルはライヒ、ドゥルーズ、ラカン、ジジェク等に先立って欲望と政治の関係性を浮かび上がらせているのだと吳氏は結論付ける。まさしく、コンプレックスの克服がファシズムの誕生と結び付けられるのが本短編の「不気味さ」であり、近年もこれを原作とする映画("The childfood of a leader” 邦題『シークレット・オブ・モンスター』)が製作されたことからも、そのアクチュアリティは見逃されるべきではない。本発表は、その作品の内的構造を詳らかに解きほぐしたものとして、大勢の関心を惹くものであろう。(関大聡)


Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)

本発表は、根木氏がパリ第4大学に提出した博士論文の一部に基づく。無神論的実存主義を展開したと言われるサルトルの議論の道筋を『存在と無』、『倫理学ノート』など複数の著作から明らかにしようとする試みである。
 神は「存在論的」かつ「認識論的」な意味ですべての「根拠」であり、「自己原因」である。ただし意識存在として何かの原因であるには、すでにある偶然の存在を無化することによらなければならないが、すべての存在に先立つべき存在がすでにある存在を無化するというのは矛盾である。これがサルトルによる、神の概念批判である。根木氏が指摘するに、自己原因としての神という概念は、多分に伝統的なキリスト教の考えに沿ったものであるが、サルトルはあくまでもこれを、偶然の存在が意識存在よりも以前に存在するという自分の考えに結びつけて扱う。そもそもサルトルは自己原因という言葉を、神にも自由である人間意識にも使っている。こうしてサルトルの考える意識存在としての神はいかにも人間的な概念であると言える。
 あまり扱われていないが重要なテーマを分かりやすくまとめた好発表だった。会場からは昨年オクスフォードで同様の発表があったので参考にしてはどうかとの提案があった。「神たらんとする」人間という、確かにサルトルの要となる問題系の解明を支えるはずの主題である。(鈴木正道)


Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)

今や日常生活に浸透したSNS。そのユビキタス的性格と利用者の相互性を『弁証法的理性批判』で描かれる溶融集団の特性と比較して論じるという意表を突く発表だったが、精緻な論証に裏付けられ説得的で刺激的だった。
氏はまず、サルトルを「メディアの哲学者」と呼べるかという問いを立て、彼が大戦直後から常にマスコミの目にさらされ、またそれを利用してきたことに着目する。しかし、メディアの哲学者と言えるとすればこのような意味においてではないと明言、考察を『批判』の集団論へと進めていく。集列と溶融集団との区別を確認した後、この理論ではラジオ・テレビの視聴者が互いに隔てられ間接的な集列をなすとされているものの、現代においてSNSの利用者は相互性で結ばれた溶融集団へと変貌し共同実践によって社会の流れを変えうると指摘する。韓国におけるその実例に依拠しつつ、現代のメディア環境にも適用可能な概念を提供したサルトルは「メディアの哲学者」であると氏は結論づける。
安易な比較にとどまらず、用意周到に議論した点には感心させられたが、より多くの具体例を挙げて、『批判』で語られる「友愛=テロル」同様の危険がSNSにも潜むことまで踏み込む時間がなかったのが少々惜しまれた。(生方淳子)


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」

サルトルにとってイタリアとは、旅行の行き先であっただけでなく、現地の知識人と交流する場であり、そこで作品を生み出す場でもあった。サルトル自身が個人的に深くかかわった場所として、イタリアは伝記的著作の生成において重要な役割を果たしたのではないか、というのが澤田直氏による発表の出発点となる問いかけである。
 澤田氏はまずティントレットに関するテキスト「ヴェニスの幽閉者」に注目し、画家の人生の転換点となるできごとや家族との関係性が特筆される点において、のちの著作である『家の馬鹿息子』と共通する伝記的側面への関心が見いだされることを指摘する。その上で、サルトルはティントレットの作品を単に画家の人生の投影されたものとしてではなく、その中で画家の人生が全体化されるものとして捉えていたと論じている。
 続いて『主体性とは何か』というタイトルで邦訳も刊行された1961年のローマでの講演に焦点が当てられる。この講演においてサルトルは、主体性の形成において伝記的な「できごと」の果たす役割の重要性を論じるために、ミシェル・レリスをめぐる挿話を紹介、分析している。サルトルの論によると、主体性は個人がある「できごと」を全体化・再全体化する過程を繰り返す中で形成されるものである。サルトルが作家や芸術家の伝記的側面を重視するのは、そのためであると澤田氏は強調する。
 以上を踏まえ、サルトルの重視する伝記性の意義は以下の3点に要約されると結論づける。①動的な主体と静的な環境をつなぐ ②作品と人生を仲介し解釈を促す ③新しい人文社会的な分析方法になりうる
 本発表は、サルトルの一連の伝記的な著作の背景を探るだけでなく、作家あるいは芸術家の伝記的要素に関するアプローチとしてサルトルの方法の有用性を示した点において、興味深いものであった。(中田麻理)


Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)

池英來氏の発表では、『嘔吐』におけるexistenceの問題が真正面から論じられた。氏は、まずサルトル最初の哲学的探求である「偶然性」が形作られていく過程をミディ手帳のメモ、アロンとボーヴォワールの証言、デュピュイ手帳などから丁寧にたどった後、偶然性/必然性の対立に、existence/êtreの対立を重ねていく。もちろんマロニエの根を前にしてのexistenceの開示は、偶然性の発見でもある。一方この書でのêtre は、プラトン的イデア界に属するものを意味する。必然的存在である音楽、「冒険の気持ち」というテーマは『イマジネール』における美の非現実性の議論に繋がっていくことが示される。さらに、ロカンタンが生きる、持続を欠いた瞬間は、『存在と無』における対自の時間性の議論へと繋がっていくことが指摘された。
全てにわたって『嘔吐』を織りなす諸テーマに通暁した氏の学識の深さが示された発表であったが、最後にサプライズが用意されていた。『嘔吐』の邦訳書の一節が比較検討され、exister, existenceの日本語訳として「現存」が提案されたのである。会場からは、当日お見えであった新訳『嘔吐』の訳者、鈴木道彦会長の応対もあり、発表者にとってもこれ以上はありえない交流の実現になったと思われる。 (黒川学)

総会報告
例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。(句点)
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の任期更新について議論され、現在の役員がそのまま留任することが承認されました。
     会長:鈴木道彦
     代表理事:澤田直
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次、翠川博之
     会計監査:竹本研史、水野浩二

サルトル関連文献
・ 中田平『サルトル・ボーヴォワール論』kindle、2016(1976-1981年の論文を集めたもの)
・ 森功次「戦後の実存主義と芸術」『ベルナール・ビュフェ美術館館報』2016, 5-7.

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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TBS『報道の魂』「みんなサルトルの弟子だった」放送時間・放送エリアについて

TBS『報道の魂』「みんなサルトルの弟子だった」
2016年9月18日(日)25時55分~26時25分
関東ローカル放送で1都6県でのみの放送、とのことです。

番組ホームページは以下です。
http://www.tbs.co.jp/houtama/

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'16年9月18日「みんなサルトルの弟子だった・・・」
50年前の1966年9月18日、フランスの哲学者サルトルが、パートナーのボーヴォワールとともに来日した。
あの時の熱狂と衝撃・・・ふたりの来日は、日本社会を大きく揺さぶった。
いったい、当時日本に何が起き、何故、彼らの日本訪問は、あれほどまでのインパクトをもたらしたのか・・・
知識人の役割とは?
大学紛争とは?
原子力と人類との関係は?
当時、縁のあった方々を訪ね、サルトルとボーヴォワールが投げかけた問いを、50年を経た今、もう一度受け止めて、ふたりの来日の意味を考える。
ディレクター:秋山浩之(TBSテレビ報道局)
---------------以上番組ホームページよりの引用
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