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ンポジウム サルトルのモラル論 人間・他者・歴史をめぐって(東北大学) [サルトル関連情報]

10月9日(金)に、東北大学において、会員の翠川博之さんが企画された、サルトルを主題とするシンポジウムが行われます。プログラムと要旨を転載します。
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シンポジウム サルトルのモラル論 人間・他者・歴史をめぐって
2009 年 10 月 9 日(金)
会場:東北大学川内北キャンパス マルチメディア教育研究棟 6F 大ホール右
主催:東北大学大学院文学研究科フランス語フランス文学研究室
TEL:022-795-5973
MAIL:himidori@sal.tohoku.ac.jp


プログラム
◎開会式 13 :00

◎研究発表 第 1 セッション 13 :10 15 :10
司会:島貫葉子(東北大学)
1. サルトルにおける homme の問題を考える ̶人間、男、そして女
澤田 直(立教大学)
2. 祈りから呼びかけへ ̶サルトルのモラル論における祈りをめぐって
竹本研史(東京大学大学院)

◎研究発表 第 2 セッション 15 :20 17 :20
1. サルトルの「具体的倫理」について
水野浩二(札幌国際大学)
2. 倫理のパラドクスと回転装置
翠川博之(東北大学)

◎ディスカッション 17 :20 17 :50

◎懇親会 18 :00


発表要旨
サルトルにおける homme の問題を考える——人間、男、そして女
澤田 直
サルトルは生涯、様々な形で homme について語っている。哲学的テクストにかぎれば、その
homme は人間と言えるだろう。しかし、文学作品に目を転じるときに、この言葉はしばしば曖
昧なものとなる。それは普遍的な意味での「人間」だけでなく、「男」、それも「大人の男」を
意味し、そこからは必然的に、女性や子どもは排除される場合も少なくない。サルトルにおい
て、モラルの主体は homme であるが、これはけっしてあらかじめ決められた本質をもったもの
ではないとされる。しかし、だとすれば、その本質なき人間、実存が先立つ人間とは、まった
く無規定のものなのだろうか? また、それは西洋哲学が思惟する主体として考えてきた「人
間」とどのようにちがうのだろうか。
この問題を哲学的著作のみにかぎらず、ジェンダーの問題などともからめて考察したいと思
う。

祈りから呼びかけへ
サルトルのモラル論における祈りをめぐって
竹本 研史
これまでの伝統的なサルトル研究からすれば、サルトルにおける「祈り(prière)」という主
題は驚くべきものだろう。だが、『存在と無』のときのような相剋論から、『道徳論ノート(倫
理学ノート)』のような相互承認論への対他関係の変化に注目する時、この「祈り」という概念
は相互承認論において、自己欺瞞へと容易に反転する危険を孕みながらも自由のために重要な
役割を果たしていることに気がつく。ところで、このサルトルにおける「祈り」は、他人への
要求のあり方の一形態としての「懇願」と、戯曲『悪魔と神』においても見られるような自然
や超越的な存在への「祈願」という二つの異なった位相が存在する。ちなみに哲学の伝統では、
これまで「祈り」という概念を「懇願」の意味で使用した例はほとんどないように思われる。
それに対して、彼は、この二つの位相を意図的に分節したのか、それとも単に混同しただけな
のか、一体どちらなのだろうか?
本発表では、サルトルにおける「祈り」が、彼のモラル論の中でどのように位置づけられる
か、「要請」や「呼びかけ」といった周辺概念も念頭に置きつつ、その意義を考察する予定であ
る。

サルトルの「具体的倫理」について
水野 浩二
第二次大戦後のサルトルは、他者との認識的関係よりも、他者との社会・政治的関係にもと
づいた倫理を模索し始めた。それが、抽象的、形式的倫理と、具体的、現実的歴史との二律背
反を超えた、「有効な行動の論理(logique de l’action effective)」としての「具体的倫理(morale
concrète)」である。具体的倫理は、倫理を観念論の産物と捉えた戦前のサルトルが、戦後にな
り、「倫理とは行動の理論である」と確信するようになった結果、提唱するようになったもので
ある。具体的倫理は、「具体的普遍(universel concret)」とともに『倫理学ノート』に登場し
てくる概念である。サルトルによれば、それぞれの時代において、人々はなにがしかの理念を
保持し、そうした理念を歴史の運動と合致させて状況を生き抜くしかない。それが、普遍的な
ものと歴史的なものの総合としての具体的倫理の立場である。このサルトルの具体的倫理の可
能性を考究するためには、1960 年代半ばのいわゆる「第二の倫理学」における「弁証法的倫理
学」(無条件的倫理と条件づけられた歴史との逆説的関係)をも射程に入れ、さらには遡って、
1930 年代のフランス哲学の運動にも目配りをしておかなければならないであろう。

倫理のパラドクスと回転装置
翠川 博之
劇作術の方法論であるサルトルの「回転装置(tourniquet)」を倫理的価値の創出装置として
考察してみたい。回転装置とは、否定を含む自己言及のシステムである。たとえば、「真実を語
る」ことこそ善であると考える主体が、「真実を語ることができない」具体的状況に直面すると
き、回転装置は作動する。「私は嘘をついている」という意識は否定を含む自己言及として、善
悪の価値判断をめぐる出口のない自問へと主体を導き、「私」の意識と行為を拘束してしまう。
敷衍すれば、「あるところのものであらぬ」対自の意識は、自己欺瞞的であり得ると同時に、回
転装置的であり得ると言えるだろう。
逡巡は主体を〈他者〉との対話へと導く。回転装置で構成されたサルトルの演劇作品におい
て、限界状況に置かれた人物たちが対話を通じて、いかに新たな価値を創出しているのか。そ
れが可能となる条件を含めて検討しようと思う。

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コメント 1

南

サルトル学会さま

留学中のため、残念ながら先月開催された東北大学でのシンポジウムに
参加させて頂くことができなかったのですが、
発表者の先生方が配られたレジュメを読ませて頂くことは
可能でしょうか?ご返答どうぞお宜しくお願い申し上げます。

南コニー (神戸大学・後期博士課程)
by 南 (2009-11-20 07:35) 

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