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日本サルトル学会会報第46号 [会報]

研究例会報告
 第36回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催致しました。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」
日時:2015年12月5日(土)
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   14:00〜18 :00
 オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師
 登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
 司会:北見秀司(津田塾大学)

以下、ワークショップの報告文を掲載します。

 今例会では、『弁証法的理性批判』第一巻刊行55周年を記念して、ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」が行われた。ワークショップは、北見秀司氏の司会のもと、短い個別質疑を挿みながら、竹本、澤田、角田の各氏がそれぞれの視角から『批判』に関する提題を行ったのち、三氏の発表すべてを主題とする全体討議の時間を設けるという仕方で進行した。

 竹本研史氏による発表は、「環境」という概念に着目しつつ、『批判』の議論を再整理する試みであった。具体的分析に入る前に、竹本氏はまず、先行研究の概観を行った。それによれば、「稀少性」をめぐるサルトルの思索と論点を共有する研究として、1)稀少性を闘争の根底に置いたホッブズをはじめとした、「稀少性」に関する思想的系譜、2)W. マクブライドのような環境倫理学的観点からの示唆、3)A. ゴルツのエコロジー思想、そして、4)『批判』をのちのフローベール論との関連において読む可能性などが挙げられる。この概観に続けて、竹本氏は『批判』の具体的分析に入り、そこでの議論の基礎が、何よりも環境としての「稀少性」に置かれていることを確認した。竹本氏によれば、『存在と無』いらい、人間的現実を「欠如」の観点から考えようとするサルトルの姿勢は一貫したものであり、『批判』もまた「欲求(besoin)」の概念を起点として、第三者を媒介とした人間的諸関係の形成を考察している。この人間関係を条件づけているのが無機的物質性であり、そしてサルトル自身が述べているように、この物質性が諸個人に対して持ってきた、偶然的だが根源的な、一義的(univoque)関係(つまりは、万人にとって十分な物質が存在しないという量的事実)こそが「稀少性」であった。この点を見たのち、竹本氏は、稀少性の環境における人間関係の形成が、各人による各人の破壊の可能性、つまりは「余計者(excédentaire)」排除の可能性という形をとること、そしてこのとき、人間性は、〈他者〉化された非人間性として、すなわち、量化された交換可能性において現れることを指摘する。
 以上の整理を踏まえ、竹本氏が着目するのが、「労働」の概念である。「労働」、すなわち人間的有機体が、惰性へと働きかけ欲求を満足させるために自己を惰性化することとは、稀少性の観点から言い換えるならば、まさしくこの稀少性の乗り越えを目指す実践に他ならないことを竹本氏は指摘する。そして、「労働」によって生み出された「加工された物質」をめぐるサルトルの考察へとさらに分析を進めつつ、竹本氏は、この稀少性乗り越えの試みが、『批判』において、つぎのような逆説的帰結に導くとされていることを明らかにした。すなわち、加工された物質は、惰性化した人間的実践に他ならないゆえに、今度はそれが、逆に自らの使用法を指示し、人間に自己を課する存在へと転ずるのである。ここにおいて人間の活動は、自己の「欲求」から直接派生するのではなく、加工された物質が引き起こす、〈他者〉の「要求(exigence)」によって支配されることとなる。竹本氏によれば、稀少性に起因する他者性乗り越えの試みであったはずの労働は、こうして結局のところ、他者性すなわち疎外へと行きつくことになる。
 以上の逆転を確認したのち、発表は「階級存在」の形成をめぐる『批判』の議論の再検討へと移り、「階級存在」の持つ両義的性格――階級存在は一方で、それが「加工された物質」を通じて人間へと到来した実践的惰性態であるかぎりにおいて、人間を運命づけるものであるが、他方でそれは、物質を媒介とした人間自身による自らの否定であるかぎりにおいて、あくまで個人的実践にその基礎を置いている――が明らかにされた。
 そして最後に竹本氏は、以上の分析から三つの論点を導き、提題の締めくくりとした。1)物質の稀少性により、各個人が交換可能な存在となること。2)その乗り越えとしての労働により加工された物質が生み出されるが、それは疎外へと転じること。さらにそこから、両義的な「階級存在」の形成が説明されること。3)「環境」は、サルトルにおいては何よりも「乗り越えるべきもの」と捉えられている。そうであるとすると、この「環境」との共生の可能性はありうるのか、この点を明らかとすることが、今後の課題であること。
 発表後の個別質疑では、ヘーゲル、マルクス的な語彙である「欲求」と、『存在と無』いらいの用語である「欲望(désir)」、さらに「要求(exigence)」との関係をどのように切り分けるか、また、『批判』とこれに先立つ「共産主義者と平和」(1952)における階級論との差異をどう考えるか、といった質問が挙げられた。

 続く澤田哲生氏による提題は、専門であるメルロー=ポンティのサルトル批判から出発し、それに対する『批判』の応答(あるいはその不在)を探った発表であった。澤田氏によれば、メルロー=ポンティの著作は、多かれ少なかれサルトル哲学との対峙という色彩を帯びている。だがそのなかでも、「サルトルとウルトラ・ボルシェヴィスム」(『弁証法の冒険』(1955))における批判は、特権的な位置を占めていると澤田氏は言う。澤田氏はまず、この著作が書かれるにいたった歴史的背景――反リッジウェイ・デモと共産党書記J. デュクロの逮捕、それに続くサルトル「共産主義者と平和」における共産党の意義の擁護――を確認したのち、『冒険』におけるサルトル批判を参照する。澤田氏によれば、そこでメルロー=ポンティは、サルトルが『情緒論素描』(1939)において用いた語彙(「魔術的(magique)」、「魔法使い(sorcier)」など)をそのままサルトルの姿勢に適用し、これをひとつの「病理」として批判している。『情緒論』は、『知覚の現象学』幻影肢論において「魔術的行為」という語彙が用いられていたことからも分かるように、サルトル思想のうちメルロー=ポンティが肯定的に受け入れた部分であったと考えられるだけに、こうした批判方法は、象徴的というべき重要性を持つものだと澤田氏は指摘した。
 この点を確認したのち、発表は『弁証法的理性批判』の検討へと移った。澤田氏は、『批判』に見られる情緒論の語彙を拾い出しながら、以上の批判にもかかわらず、そこで「魔術」、あるいはその背景をなす「想像」の契機はけっして手放されておらず、そこにメルロー=ポンティへの応答は見出せないように見える点をまずは明らかにする。だがつづいて澤田氏は、『批判』にはこうした魔術性が解消される場面もまた見いだされることに注意を喚起した。「溶解集団」をめぐる記述がそれであり、そこでサルトルは溶解集団の発生を、それ自体としては魔術的なものを何ら持たない、共同的個人の各人への受肉として提示しているのである。この点を見たうえで澤田氏は、こうした魔術の解消が、(その極限においては虐殺にいたるような)「外部からの」可能的否定を出発点とするとされていることも指摘し、そこに党の大衆指導性を強調する「共産主義者と平和」からの変化、つまりはメルロー=ポンティによる批判への応答を見ることも可能なのではないかと述べた。
 以上の分析を踏まえて、最後に澤田氏は、『一指導者の幼年時代』や『蠅』といった文学作品に目を転じ、そこに見られる自由の突発性あるいは「回心」といった断絶のモチーフが、媒介の契機を重視するメルロー=ポンティにはもっとも縁遠いものであったこと、そしてそこに、今回の提題で分析されたような対立の背景をなす、両思想家の決定的な差異が見いだされるのではないかとの提起を行って発表の結論とした。
 発表後の個別質疑では、澤田氏の着目する「魔術」の語が、「疎外」という文脈を共有しつつも、それぞれの箇所によって微妙に異なった意味を与えられているのではないかという指摘、他方では、「外部の絶対的な他者性」というサルトルの視点が、『存在と無』の「われわれ」の形成をめぐる議論とも通底しており興味深いとのコメント、さらには、サルトルが直接批判に答えたC. ルフォールとの論争を以上の文脈においてどう位置付けるかという質問などが寄せられた。

 最後の角田延之氏の提題は、専門であるフランス革命史の観点から、『批判』における革命史理解の妥当性と現代性とを吟味する論考であった。氏は初めに、近年の革命研究において、『批判』への言及がほとんど見られない点を示した。と同時に、歴史学の立場から『批判』を扱った研究が存在しないわけではない点も指摘し、それらの研究の紹介を行った。第一は、サルトルが同時代の歴史研究者から受けた影響について分析しつつ、彼の考察の現代性を探るマゾリクの論考である。マゾリクは、近年公刊されたサルトルの手稿(「1789年5月-6月」、「〈自由〉-〈平等〉」、「シナリオ『ジョゼフ・ル・ボン』断片」)を中心に検討しつつ、サルトルが同時代のフランス革命研究についてたしかな知識を有していたこと、なかでもG. ルフェーヴルのブルジョワ革命論にもっとも影響を受けたと見られる点を指摘している。第二は、「方法の問題」(1957)と『批判』におけるゲラン批判、および両者の論争を取り扱うデュカンジュの研究である。それによれば、サルトルは、恐怖政治に関するゲランの考察の影響を受けているものの、これを還元主義的であるとして批判的に扱っている。また両者の論争は、そもそもの問題意識の違い(マルクス主義の方法/恐怖政治の問題)からすれ違いの様相を呈している。最後に、ヴァニシュのセミナー記録においては、ムーニエを同時に自由でありかつ歴史的な主体として提示するサルトルの分析が評価されるとともに、サルトルの考察を、「アラブの春」といった当時の情勢分析に役立てることができるという結論が導かれているとのことである。
 角田氏は、以上の先行研究において、革命研究におけるサルトルの分析の有用性が必ずしも正面からは問われていないことを指摘し、「方法の問題」および『批判』におけるフランス革命分析の妥当性について、直接検討することを試みた。角田氏は、サルトルによるゲラン批判(革命戦争は、当時の経済状況には還元されない)にあらためて立ち返るとともに、現在の革命研究においては、経済的利害を代表する人物が実在したことも一方では明らかにされていることを指摘した。また、「ジロンド派」の定義、およびその存在そのものに関する歴史家の論争が起こったことに触れ、ジロンド派をプチブル階級の観点から語ろうとするサルトルの叙述に対する一定の懸念を示した。さらに、サルトルがルフェーヴルの解釈に依拠しつつ、他方でジロンド派と連邦主義者を同一視しているように見えることには、ルフェーヴルが両者を区別していたことを考え合わせるならば、若干の疑義があるとした。このようにサルトルの革命理解にいくつかの留保を加えつつも、角田氏は、革命期の民衆の心性に「保守性」を見出すサルトルの見解は、すでに農民の保守性を指摘していたルフェーヴルの立場と通じるものであるだけでなく、今日の革命研究から見ても、斬新とも言える視点を含んでいる点を指摘した。連邦主義者の反乱を直接民主主義によって説明する研究があり、それによれば、じっさい、反乱において要求された直接民主主義的「自治」は保守性によって特徴づけられるとされているのだと角田氏は言う。そして角田氏はさらに、この保守性の論点を、愛国主義とジャコバン主義を「反政治」の観点から説明しようとする研究と接続することも可能であるかもしれないとの展望を示すことで、提題の締めくくりとした。
個別質疑では、ルフェーヴルによる四つの革命論(貴族/ブルジョワ/民衆/農民)との関連をどのように考えるか、また、『批判』がフランス革命を主要な分析対象の一つとしていることの妥当性について、歴史学の立場からどう考えるか、といった質問が出た。

 個別提題に続く全体討議では、個別質疑で寄せられた質問に加え、三氏の発表を踏まえた質疑応答と議論が行われた。討議の要点は、おおむねつぎのようなものであった。[稀少性概念の位置づけ]。マルクスにおいては主題化されなかったこの概念が、なぜ『批判』の出発点に置かれたのかという点が問題とされた。それに対し、何よりも論理的要請によるものであろうとの意見も出されたが、最終的には、「稀少性」の位置づけを確定するには、『批判』の錯綜した記述のより踏み込んだ解釈が必要になるだろうとの点が確かめられるにとどまった。[メルロー=ポンティとの関係]サルトル自身の問題意識によって書かれた『批判』が、メルローポンティの批判に対する回答(の不在)であったと考える必要はそもそもないのではないかとの指摘がなされた。その一方で、追悼文「メルロー=ポンティ」第一稿から伺われるように、サルトルがメルロー=ポンティの立場を深く意識していたこともまた事実であろうという意見も出された。両者においては、フッサール受容に関して決定的差異(前期/後期)があるという点も、あらためて確認された。/[階級存在の概念について]「自らを組織する(ça s’organise)」といった表現に見られるように、「階級」が所与ではなく、あくまで主体的「自発性」によって説明される点に、客観主義的な傾向を残すルカーチといった思想家とは異なる、サルトルの独自性があるとの指摘がなされた。と同時に、この自発性が、「自然発生性」と同一視されるわけではない点が興味深いとの見解も示された。/[『批判』と歴史学との関係]『批判』を歴史書として読むことをどのように考えるかという問題が提起され、それが可能であるにもかかわらず、歴史学の領域において、『批判』が過小評価されているかもしれないといった意見が出された。

 以上、提題は三者三様であったが、その後の討議において、「稀少性」の位置づけや歴史学との関係といった、『批判』の本質に関わる論点が浮かび上がってきた点が、たいへん印象的であった。各発表者の独自な視点と、聴衆の質疑とがしっかり噛み合った、まことに意義深いワークショップであったと言えよう。(文責:根木昭英)

サルトル関連文献
・フィリップ・フォレスト「文学は(いまなお)何ができるか──サルトルの五〇年後に」、澤田直訳、『すばる』2016年1月号
・森功次「「サルトルの芸術作品とは非現実的な存在である」という主張をどのように受け止めるべきか」、小熊正久・清塚邦彦編著『画像と知覚の哲学――現象学と分析哲学からの接近』東信堂、2015年12月

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