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日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」

次回の第34回研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。

日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修
入場無料・事前予約不要


13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマンFrancois Noudelmann(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)Moderateur: Nao Sawada (Université Rikkyo)
フランス語使用・通訳有り

15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会


以下に要旨を掲載しておきます。


「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
西山雄二(首都大学東京)

 今年刊行された、Edward Baring, The Young Derrida and French Philosophy, 1945–1968 (Cambridge U.P., 2014)は、デリダ・アーカイヴの資料群を調べ上げ、若きデリダがいかに自己形成したのかをテクストの変遷とパリの知識社会の分析から描き出した労作である。デリダは構造主義における現前性の要素を批判し、「ポスト構造主義」を切り開いたとされる。だが、アルジェリアの高校時代から1952年に高等師範学校に入学するまで、若きデリダはサルトルやヴェイユの思想、エチエンヌ・ボルヌのキリスト教実存主義から強い知的刺激を受けている。Baringは、少なくとも1964年に高等師範学校の講師になるまで、デリダは「ポスト実存主義者」と呼称されるような立場にいたと主張する。Baringの著作を紹介する形で、若きデリダと実存主義の関係について発表をおこなう。


「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
北見秀司

 本発表では、まず、『存在と無』が「超現象的なもの les transphénoménaux 」すなわち「現れないもの」の存在論であり、そこで展開される他者論がデリダの言う「現前性の形而上学」を超えていること、したがってサルトル哲学がポスト脱構築的なものであることを示したい。
 ついで、サルトルとデリダのマルクス解釈における相違を指摘したい。共産主義社会は「透明かつ単純」になるというマルクスの発言をもって、マルクスの理論は「脱構築以前 prédéconstructif 」にとどまるとデリダは断ずるが、サルトル弁証法は、この共産主義社会においても他者の他者性・意識の絶対的複数性を保持する理論を提供していることを論じたい。ここから明らかになるのは、現前野を超える他者との関係がどのような場合、抑圧的になるか、またいかなる関係において万人の生と自由を肯定しうるものとなりうるか、ということである。これは、「現前性の形而上学」の脱構築の後に来る、「来たるべき民主主義」のための理論的作業であると見なしうる。サルトルの非人間中心主義的疎外論と弁証法は、今なお猛威を振るい続ける新自由主義の自由観に対抗する上で、重要な復権すべき思想であると思われる。


サルトルとデリダの間――他者の複数性
La pluralité de l’autre ― entre Sartre et Derrida
藤本一勇

 デリダは伝統的な「自己」の哲学に対して「他者」の哲学を展開したとよく言われる。個々人であれ集団であれ、自己の論理に閉塞し、他者を抑圧・排除する体制・システムの暴力構造を暴き、他者の声=痕跡を拾い上げ、他者への歓待によってシステムの自閉を防ぐのだ、と。それが「差異の政治」と呼ばれることもある。しかしそのとき問題になっている「他者」とは、「他性」とはいったい何なのか。体制から排除される他者もあれば、むしろ体制を保持し強化する他者もある(ラカンやアルチュセールが論じるような大文字の《他者》、大他者)。自己や自律に対置された他者や他律は「疎外」の別名ではないのか。他者や他性は根源的に複数的である。では他性の複数性のなかで、どのようにして抑圧的・暴力的な他者とそうでない他者とを区別するのか。開放的な他性と抑圧的な他性の境界線はどこにあるのか。サルトルは『弁証法的理性批判』でこの問題を論じた。はたしてデリダはこの他者の複数性と他者内部の多様な境界線の問いにどこまで答えられているのか。そしてサルトルは? サルトルとデリダにおける他者の複数性の問題を比較検討し、自己の反射装置ではない他者論の可能性を探ってみたい。


文学と哲学の分有 デリダとサルトルの文学論
Partage de la littérature et de la philosophie : Derrida contresigne Sartre
澤田直

 デリダとサルトルが分有する領域は多岐にわたるが、本発表では、二人の哲学者にとっての文学の位置を中心に考察してみたい。デリダが若い頃から文学に強い関心を持っていたことは本人の証言からも明らかだし、作家でもあるサルトルにおいて文学が若き日から中心的な関心事であったことは言うまでもない。だとすれば、彼らにとって哲学と文学との関係はどのようなものであったのだろうか。キルケゴール・ニーチェ以降、二つの領域はクロスオーバーすることが頻繁になったとはいえ、プラトンを思い起こすまでもなく、哲学と文学は長らく相容れぬものとされてきた。哲学者が文学について語ることの意味は何か? 自伝的なものという問題構成も重要ではあるが、本発表では、評論を中心に考察してみたい。デリダが論じた作家たちが、サルトルが取り上げたものと重なっているのは、果たして単なる偶然だろうか。マラルメ、ボードレール、カフカ、ポンジュ、フローベール、ジュネ、ブランショといった両者によって論じられた詩人、作家が提起する問題を糸口に、両哲学者のアプローチ追いながら、文学と哲学の分有について論じることにしたい。



発表者略歴

西山雄二(Yuji Nishiyama)
首都大学東京・准教授。専門はフランス思想。1971年生まれ。一橋大学言語社会研究科博士課程修了(学術博士)。著書に、『カタストロフィと人文学』(編著、勁草書房、2014年)、『人文学と制度』(編著、未來社、2013年)、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、ほか。訳書に、ジャック・デリダ『獣と主権者 第1巻』(白水社)、『哲学への権利 第1巻』(みすず書房)、『条件なき大学』(月曜社)、『名を救う』(未來社)、ほか。

北見秀司 (Shuji Kitami)
津田塾大学国際関係学科教授。専攻:哲学・社会思想史。1960年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程、単位取得の上、満期退学。パリ第10大学(ナンテール)哲学科博士課程修了。主な著書・論文に、『サルトルとマルクス』(全2巻、春風社、2010−2011年)、「アタック・フランスとフランス緑の党の政策提案」(長砂・荒木・聴濤・岩田・大西・北見『ポスト資本主義を構想する』本の泉社、2014年)、 « Sartre et Merleau-Ponty : l’Autre entre le Visible et l’Invisible --- Démocratie et construction d’une Raison » (Les Temps Modernes, Gallimard, no.572, 1994)など。

藤本一勇(Kazuisa Fujimoto)
早稲田大学文学学術院教授。専門は哲学、表象・メディア論。1966年生まれ。パリ社会科学高等研究院DEA。著書に『情報のマテリアリズム』(NTT出版)、『外国語学』(岩波書店)、『批判感覚の再生』(白澤社)、訳書に、デリダ『プシュケーI』、デリダ『アデュー』、デリダ/ハーバーマス『テロルの時代と哲学の使命』(以上、岩波書店)、デリダ『散種』(共訳)、デリダ『哲学の余白』(以上、法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(藤原書店)、フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)など。

澤田直(Nao Sawada)
立教大学文学部教授。専門はフランス現代思想、フランス語圏文学。1959年生まれ。パリ第1大学哲学科博士課程修了(哲学博士)。著書に『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社)、訳書に、ジャン=ポール・サルトル『言葉』『真理と実存』(以上、人文書院)、『自由への道』(共訳、岩波文庫)、フェルナンド・ペソア『ペソア詩集』(思潮社)『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)『荒木経惟 つひのはてに』『夢、ゆきかひて』(以上、共訳、白水社)など。

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会報41号 [会報]

Bulletin de l' Japonaise d’Etudes Sartriennes N°41 octobre 2014
日本サルトル学会会報            第41号 2014年 10月

研究例会報告

第33回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 7月12日(土) 13:30~18:00
会場: 立教大学キャンパス5号館5210教室

研究発表1
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻里(立教大学 大学院博士後期課程)
司会:黒川学(青山学院大学)

『聖ジュネ』がジュネ受容の大きな土台を作ったのは確かにしても、ジュネの死後、伝記的事実が次々と明らかになるなかで、少なくとも伝記的記述については大幅な見直しが迫られることになった。『聖ジュネ』は今日のジュネ研究においてどのような意味をもっているのだろうか? 中田氏はジュネにおけるセクシュアリティの問題に焦点を当てて、『聖ジュネ』が今日のジュネ研究といかに関わっているのかを明らかにしようとした。
まず中田氏は「コミュニケーション」という問題に着目する。これはバタイユのジュネ論においてすでに提起されていたものである。「ジュネはコミュニケーションを拒否している」というのがバタイユの論であるが、そうしたバタイユの主張はそもそも作者と読者の間の対等な関係を前提としている。これに対し、『聖ジュネ』はジュネ自身が属する「倒錯者たち」と読者を指す「あなたたち」の間の非対称的な関係に対し意識的である点が異なる。その意味で、『聖ジュネ』は異性愛者と同性愛者の非対称的コミュニケーションをいち早く論じたものであると中田氏は指摘する。
そうした『聖ジュネ』の「コミュニケーション」のあり方が引き継がれたものとして、ケイト・ミレットとレオ・ベルサーニのジュネ論を中田氏は挙げる。
ミレットはジュネ作品を、生物学的に男である登場人物たちによって男女の非対称的関係が誇張して示すものであり、そのために異性愛社会に生きる私たちに洞察を与えうるものであると評価する。中田氏によれば、このようなミレットの主張は、サルトルのジュネ論における同性愛の認識が反映されているものである。
つづいて中田氏はベルサーニのジュネ論を検討する。ベルサーニは、小説『葬儀』の読解を通し、ジュネにおける同性愛は孤独への指向であり、同性愛の性行為は「反関係性」を意味するものであると述べている。すなわち、ベルサーニもジュネ作品に「コミュニケーション」の拒否を見出しているのである。ベルサーニはそれを、悪に到達しようする試みとして評価している。この点はサルトルとも類似した点であるが、ベルサーニはジュネにおける悪を、善に対置されるものとしてではなく、外へ向かう運動として捉える点でサルトルとは異なる。サルトルは異性愛社会との対立においてジュネの同性愛を位置づけたが、ベルサーニはそこに異性愛社会からの逃走の意志を見出すのである。ジュネにおける「悪」解釈の方向性こそ異なるが、ベルサーニはジュネの同性愛に異性愛に対する否定的契機を見出しているという点で、『聖ジュネ』を継承しているのではないか、というのが中田氏の主張である。
『聖ジュネ』のみならず、サルトルは『存在と無』においても「現存在」が性的であると主張しており、とりわけ「現存在」に性別を認めなかった(あるいは「中性性」とした)ハイデガーと好対照をなしている。また、サルトルは『嘔吐』や『自由への道』でも同性愛者を登場させている。セクシュアリティについては、サルトル研究においてもよりアクチュアルな議論とつきあわせて考えていく必要性があるのではないか、と筆者は感じた。
質疑応答では、膨大なジュネ研究の中でなぜとりわけミレットとベルサーニが取り上げられたのか等、全体の枠組みの提示が不十分であるのではないかという指摘がなされたほか、フェミニズム研究やクィア理論についてもう少し予備的な説明が欲しいという声があった。しかし、サルトルをアクチュアルなセクシュアリティの議論と結び付けて考えていく上でも有益な発表であったと筆者は考えた。(小林成彬)


ワークショップ
「サルトル研究の現在」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

本ワークショップ開催の契機は、2013年7月6日におこなわれた日本サルトル学会第31回例会の総会に遡る。会長の鈴木道彦氏より、「討論塾」主宰で、サルトル研究の大家でもある竹内芳郎氏による次のような批判が紹介された。「[…]自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(「塾報176」)。こうした発言に対して、学会として批判にどう応えるか、一度議論すべきだと鈴木会長から提起された。それに対して、永野潤氏からは竹内氏の批判を真摯に受け止めるべきだとする発言が、森功次氏からは、特定の政治的立場に偏らず、学問的中立を重んずるべきだという批判がそれぞれなされた。今回は、時間の都合上、同日にはそれ以上深められなかった議論を改めておこなったものである。

司会の翠川博之氏による趣旨説明のあと、鈴木会長から改めて問題提起がなされた。鈴木会長は、竹内氏がサルトル学会の実情を知らないのではないかと疑義を呈したうえで、氏による批判を次のように読み解いた。1:文学・哲学研究一般はどのようにおこなわれるべきか。2:サルトル研究は、とくにどうあるべきか。それを承けて、鈴木会長は、自分にとって、いかにサルトルの思想を正確に読み正しく伝えるかが課題だったと述懐し、自身にとって、生きた同時代人、危険な思想の持ち主であったサルトルが、現在死んだ対象として分析されている現状に違和感があると表明した。
その遠因として、鈴木会長は、上田敏『うづまき』や中島健蔵を援用しながら、東大仏文が大正期より主導的役割を果たし、文学研究に強い影響を与えた日本の文学・哲学研究における一種のディレッタンティズムの陥穽を指摘した。そのうえで彼は、自身の若い頃を振り返り、この陥穽に対してどう対抗すべきかという問題に直面していたと語った。彼によれば、サルトルやプルーストらに強い影響を受けた結果、自らの実存に降り掛かってきた、「在日というマイノリティ」の問題に取り組むことになったそうである。最後に鈴木会長は、サルトルの同時代の人間とサルトル死後の研究者とのあいだでまったく異なるありようを踏まえ、これからのサルトル研究をどう考えるべきかという問いを会場に投げかけた。

続いて、竹内氏からの批判を真摯に受け止めたという永野氏は、自身の論考である「サルトルの知識人論と日本の社会」を提示しながら、大学に入学した1985年ごろ受けた、1:「サルトルは二流の哲学者である」という周囲の哲学・フランス文学専攻の人間からの評価、2:「政治など糞食らえ」という風潮という、「サルトル・バッシング」、「サルトル・フォビア」という現象について振り返った。
さらに永野氏は、森氏の「サルトル学会を、何らかの価値観にコミットした人でしか参加できないような雰囲気にしてしまうのは、学術的にまったく有益ではないので反対」とする主張について、永野氏はそうした意図を否定したうえで、森氏のあげる「何らかの価値観、特定の価値観」に対して、どこにも属していない「中立な」立場などというものは存在しないというのがサルトル自身の主張だったと訴えた。また、『ミシェル・フーコー思考集成』に寄せた松浦寿輝氏の解説を紹介し、フーコーの知識人論に拠りながら、大衆運動を政治的に煽動し、普遍性の番人を僭称する真理と正義の知識人として回収されるような古くさい人間としてサルトル的知識人が描かれていると批判した。これは、サルトルをねじ曲げたうえで、サルトル当人が批判の対象としたものがサルトルのありようとされてバッシングされており、「サルトル・フォビア」や、政治的態度の表明に対する否定的風潮と重なっていると警鐘を鳴らした。

最後に、哲学的なアーギュメントの精査を自身の研究とする森氏が、前回の発言にあった2つの論点を敷衍するかたちで、1:哲学的議論一般に関わる問題、2:左記についてのサルトル研究に内在的な点からそれぞれ論じた。
まず森氏は、〈主張する者〉と〈主張の内容〉と結びつけて倫理的な拒否感に訴える論法が、政治や裁判のような場では機能していることを指摘した。彼は、こうした拒否感を学術的討論の場に持ち込むことに疑問を投げかけ、少なくとも哲学や歴史学などの一部でおこなわれる基礎的な作業に実存を絡める必要はないと主張した。またその作業が、知識人的態度を振舞う人たちの重要な下支えになっていることを忘れてはならず、特定の思想的・倫理的態度を要求しない作業を排除すべきではないと強調した。学会は知識人の集まりではなく、あくまで技術的言語を洗練させる場であると述べた。
次に森氏は、サルトル自身も「人格から乖離された言葉」を用いる作業を哲学の基礎作業として認めていたとして、その理由を2点あげた。1:サルトルは理論的にではあれ、哲学と文学を峻別し、哲学を、専門家のあいだで議論をおこなうための共有可能性を担保する技術的な言語を用いる場だとみなしている点。2:個性と結びついた言語の場合、言語の独創的・芸術的使用を通じてなされるため、哲学とは別の言語使用であるとサルトルが考えている点。以上からサルトルは、ニザンとは異なり、脱個性的な言語使用を哲学に認めていると森氏は指摘した。

報告者たちからの発表後、会場および報告者たちからは、自らとサルトル研究との関わりについて語りながら、サルトル研究のあり方、および学会という組織のあり方などについて次のような活発な意見を交わしあった。
学会と知識人との関係については、学会とは研究者の集まりであり、サルトル的コンテクストで語られるような「知識人」の集まりではないという意見が出る一方、インターネット時代の現代において、アカデミックな言語と知識人をどうつなぐかという課題も提起された。
サルトル研究そのものに関しては、フランスのGES(Groupe d’études sartriennes)においても、サルトルを実際に知っている人たちから、サルトルを研究対象とみなす若手の研究者たちに中心が変化してきている点、ならびに文学(仏)と哲学(ベルギー)でわけられており、相互交渉がうまく成り立たっていないという情況が紹介された。またサルトル研究においては、彼の根幹に関わる部分やノイズのようなものは無視できないのではないかという主張も提唱された。一方、サルトル思想については、これまで実践の側面ばかりが強調されてきたが、むしろ理論のほうをまずは捉えるべきではないかという意見も投げかけられた。さらに、これまでの日本におけるサルトル研究の蓄積を踏まえ、サルトルと同時代に生きたサルトル研究者たちのオーラル・アーカイヴ保存の必要性が訴えられた。
   
上述のように、報告者のみならず、会場のサルトル研究者たちも巻き込んで白熱した本ワークショップについて、サルトル学会ならでのテーマ設定であるというコメントが会場から寄せられたが、たしかに、のちのサルトル研究においても、必ず語り継がれるであろう討議であった。(竹本研史)


講演
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

ジャン=ピエール・ブーレ氏は、サルトルの自伝『言葉』のロシア語への翻訳者であるレナ・ゾニナをめぐって発表を行った。『言葉』にZ夫人宛ての献辞があることは知られているが、その当の相手レナ・ゾニナ(1922-1985)がどのような人物なのかについては、これまで多くのことは語られてこなかった。
彼女は、サルトルがソ連に公式訪問した際の通訳であり、『言葉』の翻訳者でもあった。サルトルが何度もソ連を訪問したのは、彼のアメリカ滞在がドロレス・ヴァネッティのためであったように、レナ・ゾニナに会うことが主要な目的だったという。人民の敵と目されたユダヤ人家庭に生まれた彼女は、苦労してモスクワ大学に入学し、文学の博士号を取得。イリヤ・エレンブルクの秘書となった後、ソ連作家連合の外国部署でフランス担当コンサルタントとして務め、サルトルが1962年にソ連を訪問した際に、通訳兼ガイドとなり、サルトルの愛人となり、長年交際した。
ブーレ氏は、ボーヴォワールの回想録や、サルトルとゾニナの往復書簡(未刊)、さらにはボーヴォワールが1967年に書いた小説「モスクワでの誤解」(1992年刊行)を用いながら、サルトル、ボーヴォワール、ゾニナの関係を分析。他のトリオの場合とは異なり、ボーヴォワールがゾニナをきわめて知性に富んだ教養ある女性として認め、自分亡き後はサルトルのパートナーだとまで言った点に着目した。ブーレ氏は、デブラ・ベルゴーフェンのシモーヌ・ド・ボーヴォワール研究である『シモーヌ・ド・ボーヴォワールの哲学、現象学化ジェンダー化した現象学、エロス的贈与性』(The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, 1997)などを手がかりに、サルトル、ボーヴォワール、レナ・ゾニナが織りなすトリオの意味に関して考察を展開した。ボーヴォワールの態度のうちに、彼女が『両義性のモラルのために』で素描したgénérosité(鷹揚さ、贈与性)が見出されると指摘するとともに、サルトルが『倫理学ノート』(Cahiers pour une morale)で展開したgénérositéのモチーフがいかにそこに響き合っているかをたいへん積極的に提示した。質疑応答も活発に行われ、サルトルがソ連に対して抱いていた幻想を批判し、現実の姿を知らしめたのが彼女であったことなど、あまり知られていない事実も満載で、たいへん有意義な講演であった。(澤田直)


総会報告
7月12日の例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の改選が行われ、承認されました。
     会長:鈴木道彦(留任)
     代表理事:澤田直(留任)
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次(すべて留任)、翠川博之(新たに就任)
     会計監査:竹本研史、水野浩二(新たに就任)



今後の研究例会予定のお知らせ

次回の研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。
日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)
15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

※発表要旨は出揃い次第、学会ブログに掲載します。


サルトル関連出版物
 ポール・ストラザーン『90分でわかるサルトル』浅見昇吾訳、WAVE出版、2014年10月 (以前、青山出版社から出ていたものの再刊だと思われます)
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2014年12月刊行予定

新規入会者
・ 栗脇永翔氏、永井玲衣氏、中田麻理氏の3名が入会されました。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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講演会「サルトルと戦争」

11月4日(火)、東京大学本郷キャンパスにおきまして講演会が以下の内容で開催されます。ぜひご来場ください。

日時:2014年11月4日(火) 18:00~19:30

場所:東京大学本郷キャンパス 法文1号館3階317番教室

講演者:ロラン・ジェニー(ジュネーヴ大学名誉教授)    

題目:「サルトルと戦争」

*入場無料、通訳なし、予約不要

詳細につきましては、こちらのファイルをご覧ください。


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