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日本サルトル学会会報第52号 [会報]

研究例会のご報告
 第39回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムが開催されました。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われました。多くの方々にご来場頂き、感謝申し上げます。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)
16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Harvey  State University of New York Stony Brook, Distinguished University Professor
ロバート・ハーヴェイ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授)
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
   通訳:黒木秀房(立教大学兼任講師)
司会:澤田直(立教大学)

シンポジウム「竹内芳郎に応える」
 2017年7月15日、日本サルトル学会の第39回研究例会にて、シンポジウム「竹内芳郎に応える」が開かれた。
 ここで、シンポジウム開催に至るまでの経緯などを少し記してみようと思う。
昨年11月竹内芳郎が亡くなった。それは私(小林)にとって、衝撃だった。その理由は様々あるが、そのうちで最も大きなものは、近いうちに竹内芳郎に会いにいこうと思っていたからだった。結局、実際に竹内芳郎と会うことは出来なかった。
 今年の2月から、本シンポジウムの企画を練り始め、企画に賛同し、発表を行ってくれる人を探し始めた。発表者が決定してからは、何度もメールして意見交換を行い、また実際に会合をして合計十時間以上に及ぶ意見交換会を行った。
 私は竹内芳郎の全著作を読み込む作業を行った。そのうちに、竹内の個人史的側面にも関心を抱くようになり、討論塾のかつてのメンバーだった人や、討論塾の中核を担っていた人たちに取材を行った。また、竹内が生まれた岐阜県の資料を漁り、生い立ちなどが徐々に明らかになった。竹内自身は著作で個人史的なことをほとんど書くことがなかったので分からなかったのだ。なお、シンポジウム後のことになるが、親族の方にも取材を行うことも出来て、より立体的に竹内の姿が分かるようになった。また、取材を進めていくうちに、興味深い遺稿の存在することも明らかとなった。今回のシンポジウムで活用することはほとんど出来なかったが、将来に向けて、それは日本におけるサルトル受容史を解明する上でも極めて重要なものとなるだろうと思う。

 さて、今回のシンポジウムでは、はじめに小林が、以上の取材などを元にして、竹内芳郎の生涯を紹介し、現代において竹内芳郎を読むことの意味について、また本シンポジウムの意義について説明した。
 それに続いて、三つの発表が行われた。以下にそれぞれ発表者自身による詳細な報告文があるが、私なりにまとめると、(1)永野氏はサルトルから影響を受けた竹内芳郎の倫理思想を解明することで、そこから逆照射するようにしてサルトルの新しい読解を提示しようと試みた。(2)小林は、竹内芳郎のサルトル受容を日本哲学史の文脈から再構成することで戦後思想としてのサルトルの斬新さを明らかにしようとした。(3)鈴木氏は実際に長年に渡る討論塾の参加の経験をもとにして、竹内芳郎が「討論塾」という営為をもとに問題提起したことを要約的に提示しつつ、現代のアカデミズムに対する鋭い問いを突き付けた、というものであっただろう。
 当日は、会場を含めて活発な議論が行われた。だが、生方氏の報告文にもあるように、「あまりに時間が不足していた」。だが、どれほど時間があっても足りなかったであろう。議論が「実を結ぶ」ことはなかったかもしれないが、様々な思考の「種」を私は貰うことが出来たように思う。今後、それを育てていきたい。
 最後に、このような企画を受け入れてくださったサルトル学会、それから度重なる議論に付き合い、また発表を行ってくださった永野潤氏、鈴木一郎氏、また司会を引き受けてくださった生方淳子氏に、大きな謝意を表したい。(文責:小林成彬)

1) 「竹内芳郎とサルトル哲学」(永野潤)
 かつて「サルトルを再評価するならば竹内芳郎的な読解とは違う新たなサルトルの読み方を提示しなければ」というようなことを言われたことがある。このように、竹内芳郎は、かつて主流だったが今は古くなってしまったサルトル読解の典型、としてしばしばとらえられている。しかし、はたして竹内、あるいは竹内的サルトル読解は、そもそも「古くなる」前に「主流」だった時代があるのだろうか。むしろ、竹内思想の本質的部分は、一度も受け止められることなく「黙殺」されてきたのではないのか。本発表では、サルトル哲学の影響を受けた、竹内の思想の核となる倫理思想の枠組みをとらえなおし、それが、どのように現代と「出会う」のか、ということを考察した。
 竹内によると、サルトルの他者論は、私の自由を否定する他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」を秘めている。竹内は、「相剋」を「善用」し、「相剋」を通じて自由を獲得するというこの逆転劇に「実存的倫理」の根拠の一つを認めるのだが、ただし彼は、こうした実存的倫理が真に確立されるためには『存在と無』における他者論だけでは不十分である、と考える。「相剋」を引き起こすためには、実は「他者もまた私と同じまなざし得る主体なのだ」という「相互性」の認知が必要なのであり、それを自覚するところに真の実存的倫理が(サルトルの場合は『弁証法的理性批判』の段階に至って)成立する、と竹内は考える。
 とはいえ、ここで竹内が倫理の根底にとらえる「相互性」とは、「相剋」を隠蔽するところに成り立つ自己欺瞞的な人間関係、すなわち「馴れ合い的」な「共生」とはまったく異なったものである。竹内は、実存的倫理が「裸形の人間」から出発するものであることを繰り返し強調するが、裸形の人間とは、単なる「個人」ということではなく、共同体から排除された「構造からの食み出し者」(『文化の理論のために』)でもある。そして竹内は、近代的な人権思想の原点には、裸形の人間=食み出し者を救済する「普遍宗教」の成立と、その中で確立した「超越性原理」がある、と考える。竹内は、後年の討論塾における発言の中で、「構造からの食み出し者」に立脚した、ラディカルな労働運動、ラディカルなヒューマニズムの展望をしめしているが、その意味でそれは人権思想のはるかな原点に帰ることでもある。一方で竹内は、「裸形の個人」と対立するものとしての日本の伝統的な人間関係である「集団同調主義」を「天皇教」と呼んで一貫して激しく批判し続けた。それは、対立や矛盾を隠蔽する「欺瞞の体系」であり「無責任の体系」である。天皇教的なものが、権力側も反権力側も共通に支配する「日本的現実」と竹内は格闘し続けた。2000年に発表した文章の中で、竹内は、「ヴェ平連」系の団体が1991年に「この憲法のもとにあった45年間、日本はただの一人も軍隊によって人間を殺したことはありませんでした」という米紙への意見広告を出したことを例に、日本の市民運動の「自己矛盾への鈍感さ」を痛烈に批判している。ところで、例えばデモにこれだけの人数が集まった、と運動が誇り、また逆にこれだけしか集まっていない、とそれを批判するような状況がある。しかし、主流から食み出し、食み出した孤独の中でかえって普遍につながっていくという竹内の思想は、そうした発想の対局にある。(文責:永野潤)

2) 「竹内芳郎と「戦後」」(小林成彬)
 戦後日本にサルトルは大きな影響を与えた、と言われる。だが、それは具体的にどのような影響であったのだろうか。あるいは、サルトル受容は実際どのようなものであったのだろうか。このような問いを立てた時、私は呆然とせざるをえない。第一に、その受容はあまりに広汎に渡っているからであり、第二に、それがゆえに、その「大きな影響」の具体的な内実については暗闇の中にあるように思えるからだ。
 しかし、戦後思想、とりわけ丸山眞男などを代表とする、いわゆる「戦後民主主義」との緊張関係においてサルトルの影響を考察してみると、サルトルが戦後日本に与えた影響の意味が明らかになってくるように私には思われた。例えば、竹内芳郎は「日本的現実との闘い」としてサルトルの思想を受け止めたが、この「日本的現実」の内実を見てみると、「戦後民主主義」思想家たちが徹底して分析し批判しようとした対象とほとんど同じように思われたからである。しかし、竹内芳郎は「戦後民主主義者」からも一定の距離を置いていた。この「距離」を分析することで、サルトル受容を先鋭的に提示することは出来ないだろうかと最初私は考えた。
 しかし、歩みを進めていくうちに、「戦後思想」そのものが、彼らの「戦争体験」に根差し、また、戦前の思想たちへの対立のうちで育まれているということが明らかになった。「戦後思想」の成立の条件には、「戦争体験」と「戦前思想」があったのではないか。
 「竹内芳郎の「戦後」」と題した本発表で扱ったのは、竹内芳郎にとっての「戦後」が可能となった条件を明らかにすることである。それを明らかにすることで、「戦後日本におけるサルトル受容」の生産的側面を明確化できるのではないかと私は期待した。探究を進めていくうちに、竹内芳郎においても、「戦前思想」と「戦争体験」の二つの軸から「戦後」の意味を明らかにできるように思われた。戦前の京都学派の思索に竹内芳郎は大きな影響を受けていた。だが、自身の「戦争体験」を基盤として、それを徹底的に批判しようとし、「戦後」にサルトルを発見し、受容したことが明らかになった。竹内芳郎は「戦争体験」についてほとんど公で語ることはなかったが、晩年の『討論塾』などでの述懐や遺稿をもとに「戦争体験」の再構成を試みた。京都学派と竹内芳郎の関係も極めて複雑なものである。図式的に言えば、竹内芳郎は和辻哲郎の思索に対するラディカルな批判意識を持ち、それへの批判としてサルトルを武器としたと言えるだろうが、竹内のサルトルの受容には九鬼周造への大きな依拠が認められる。根底に横たわっている問題とは、一言でいえば、「他者」をどのように考えればよいか、「根源的社会性」をどのように考えればよいのか、というものであっただろう。
 日本の「哲学」界において、サルトルには厳しい判定がこれまで様々な形で下されてきた。竹内芳郎はその法廷でサルトルの要求を護ってきた。サルトルの要求に異議を唱える、反対側の席には誰がいるのだろうか。その暗闇の席に光を当ててみると、そこに座している最も大きな人物として、西田幾多郎とハイデガーが見えてくるように思われる。私は再審請求を行ってみたい。それによって、「日本におけるサルトル受容」の歴史的側面をより明らかにし得るであろう。また同時に、サルトル自身の哲学的生産性を新たに明らかにし得るのではないか。本発表を通して抱いた感想である。(文責:小林成彬)

3) 「竹内芳郎と討論塾の実践」(鈴木一郎)
 竹内芳郎は、1989年に討論塾を創設した。討論塾は、論争や討論がすっかり消滅してしまった日本の言論空間に抵抗して、討論を通じて日本社会独特の精神風土である集団同調主義=天皇教を克服することを目指した教育機関である。また、討論塾は、1960年代後半の我が国の大学闘争の挫折を教訓として踏まえたものである。この点で、大学闘争によって提起された課題を殆どすべて放置してきたため、昨今の所謂<大学問題>と称される様々な矛盾に直面せざるを得なくなっている大学アカデミズムの在り方と鋭く対立する。討論塾の目指す所は、<真理性>という基準を立て、異なる思想・意見を持つ者同士が、「相互吟味」(ソクラテス・林竹二)を通じて行う真理追求の営為である。この場合の真理とは絶対的なものではなく、あくまで、討論の過程で認識し得る根拠のある確からしさ(明証性)であり、何時でも検証によって更新され得る暫定的なものである。討論において、こうした真理性を基準として設けることによってプロタゴラス的な相対主義を克服することができる。さらに、真理に恭順であるためには、人類史の中で普遍宗教の成立とともに生まれた超越性原理に従う必要があり、この原理の徹底化による自己批判を通して我執を去ることが求められる。これによって、異質な他者との間で、暴力を回避しつつ、言論による共通認識を形成していくことが可能となる。討論では、専門家と非専門家の垣根を超えた対話を行うことによって脱タコツボ化を目指すとともに、明示性言語の行使によって、含意性言語に基づく<察しの文化>(昨今の言われるKYや忖度の文化)の排他性をも克服する。この営みを重ねることによって、公論形成と真の民主主義精神の確立を目指す。他方、大学闘争の経験から学ぶことを怠ってきた大学アカデミズムは、一般的には、このような討論塾の目指した理念とは逆の方向を辿った。即ち、研究者集団は、専門性を口実に、ひたすら市民社会の日常との関連を絶ち、ますます疎外された知の中に逃げ込み、その自信の無さから異質な他者との討論・論争を避けてきた(だから、異論に応える(répondre)責任(responsabilité)を放棄し黙殺を以て応じるのが慣例。この黙殺文化の根底には対他存在を希薄化してしまう天皇教の無責任文化がある。)。もし今後も、異質な他者や市民社会との相克の中で自らの営みを真摯に検証し、生きた知的営為を回復する契機を失するのであれば、少子化や財政難といった社会構造の変化の中で、市民社会での自らの立脚点を失い、政治権力側の圧力に抵抗する事もできずに、嘗て福沢諭吉が揶揄した幕末・開国時の卑屈な漢学者のように歴史の中で淘汰されていくことであろう。

【質疑応答】(鈴木に対するもの)
問:大学の研究会などに出てみても、海外の思想の紹介などはあっても研究者自身がどう考えているかが見えない事が多いし、現実の喫緊の課題を考えていることも少ない。 答:研究者と市民との対話の機会を創り出して行かなければ研究者集団の先行きはどん詰まりとなるだろう。 
問:絶対的真理は否定されるべきものだが、真理への意志が人間の中にあるからこそ討論が行われると理解した。真理への欲求をどう考えるか? 答:共同主観性の中で真理はその時点で見えている確からしさだ。その根拠が変われば真理は更新される。現象学的に言えば、真理への意志を成り立たせているのは<射映>という認識の構造だ。サルトルに従えば、現れていないものに向かっていく指向性とも言えるだろう。 
問:竹内の『言語・その解体と創造』における文学言語論は哲学・思想的には啓発的だが、象徴派などのフランス文学の流れの厚みの理解が足りない印象があるがどう思うか? 答:同著の第二論文「アンガージュマン文学の言語論的再検討」は、詩的言語をアンガージュマン文学から排除するサルトルを批判し、詩的言語の可能性を高く評価したもの。逆に文学に対する大きな理解を示すものだ。
問:現在、竹内の著作は読まれていないが、その思想が日本社会を変えていない理由は何か? 答:そもそもある思想が日本社会を変えるなどということは戦後日本の中では未だかつて無かったのではないか? それは竹内個人の思想云々ではなく、日本の思想風土全体の問題だ。他方、竹内の思想自体は現実変革に極めて有効だ(例えば直接民主主義による代議制批判等)。
(文責:鈴木一郎)
4) 司会者からの報告
 今回の例会は、サルトル学会の20年あまりに及ぶ活動の中でも稀に見る挑戦的な異色のシンポジウムとなった。大学院生による発案と準備のもと、在野で哲学思想を研究する人々をパネリストおよび聴衆の中に迎えて、戦後の日本思想から最新の時事問題に至るまで、サルトル研究の枠を超えて縦横に議論が交わされた。その中心に置かれたのが竹内芳郎の業績である。竹内は日本におけるサルトル哲学研究の先駆者のひとりで、『サルトル哲学序説』(1956年)や『サルトルとマルクス主義』(1965年)など本格的な研究書の著者であり、『自我の超越』、『情動論粗描』や『弁証法的理性批判』などの翻訳・注釈者であり、また戦後日本の「近代性」に辛辣な批判を向ける思想家でもあった。90歳を超えてなお健在ぶりが伝えられていたが、昨年11月に不慮の死を遂げられたことから、追悼とオマージュの意味も込めて、彼が提起した問題、今も決着がつくどころかさらに重みを増している問いに新たに向き合おうと試みたのである。
 最初に、発案者の小林成彬氏から、この会の趣旨、竹内芳郎の生涯、そして彼が取り組んだ問題について導入的な解説があり、続いて、サルトル研究者としてすでに多くの著作を公刊している永野潤氏から、存在論と倫理を踏まえて共同体からの「食み出し」や民主主義の欺瞞という問題をめぐってサルトルと竹内芳郎との接点を探る洞察に満ちた発表があった。続いて再び小林氏から、竹内がいかにサルトルを武器として戦後日本の現実の中にあった「愚劣さ」と戦おうとしたかということについて多くの貴重な指摘がなされ、そして最後に、竹内芳郎の主催する「討論塾」に、その発足時より長年にわたって参加してきた鈴木一郎氏から、考えの異なる者同士が討論をするということの意味について、サルトルの他者論やソクラテスの対話を引きつつ問いが発され、門外者との議論を避けようとする研究者の閉鎖性や外部へのコミュニケーションの意図を欠いたアカデミズムの不毛に対して忌憚ない批判が寄せられた。サルトル学会のあり方に対しても、質問状(「塾報」など)を送っても反応がなかったとして容赦ない批判が浴びせられた。この点、サルトル学会は大いに反省し、外部との対話のパイプを確保するため早急に検討をせねばなるまい。
 会場からは、竹内のサルトル論の不備も指摘されるとともに、竹内の思想に真に現実を変える力があったのか、といった疑問の声や、指導的思想が日本を大きく変えたことが一体あったのか、といった根本的問いかけも出された。論点は、発表内容を受けて安全保障関連法反対運動やいわゆる「共謀罪」をめぐるメディアのあり方や日本的精神風土と天皇制にまで及び、刺激的な「対話」が素描されかけたが、残念ながらそれが何らかの実を結ぶには、あまりに時間が不足していた。
 今回のシンポジウムは、サルトル学会に思いがけない風を吹き込み新しい地平を開いたものとして特記すべき「事件」でさえある。今回を単なる例外とせず、ぜひとも第2回、第3回のセッションを企画し、討論を深めていくことを切望する。(文責:生方淳子)

ロバート・ハーヴェイ 「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」

 ハーヴェイ氏は、サルトルの最も有名な概念の一つである「自己欺瞞」と、私たちの身近な現状との間にいかなるつながりがあるのか、というシンプルな問いを立てることから始めた。
 ハーヴェイ氏は、「自己欺瞞」概念の受容を辿り直すことで、この概念が古びてしまうどころか、神経解剖学等による新たな発見に裏打ちされる形で、その妥当性がより強く示されてきたことを指摘した。その「自己欺瞞」とは、「自分以外のものになる可能性」というポジティヴなものであるというよりは、むしろ「取るべき決定を退ける」というネガティブなものであり、「自由」と弁証法的な対立関係にあるものだった。
 このように「自己欺瞞」概念を再確認した上で、再び現実世界の方を見るならば、ポピュリズムやナショナリズム、外国人排斥等が世界中で蔓延する現状は、まさに自己欺瞞的状況であるとハーヴェイ氏は述べる。こうして「自己欺瞞」概念と現実的な状況を照らし合わせて見えてくるのは、「政治的判断の可能性の条件」という問題だった。すなわち、自らに嘘をつくことで、結果として他者への責任から逃れるということだ。しかし、だからといって「自己欺瞞」が私たちを存在論的に規定しているわけではないことをハーヴェイ氏は強調する。そこで今一度サルトル自身の「自己欺瞞」の例が取り上げられ、再検討された。
 そこから引き出されたのは、自分に対する嘘についていかにして意識的であるか、という逆説的な問いである。ハーヴェイ氏は、現代社会の政治リーダーのうちに、自己欺瞞の痕跡が見出されると述べるものの、彼らは自己欺瞞の例としてふさわしくないと断言する。というのも、彼らは自らの嘘に対して意識的だからだ。ハーヴェイ氏自身が自己欺瞞の例としてあげるのは、意外にも『タルチュフ』の登場人物オルゴンだった。彼は、好きな人には騙され、自惚れが強く、盲目的であり、政治的判断能力を奪われたものとして描かれているとハーヴェイ氏は指摘する。
 最後にハーヴェイ氏は、このオルゴンのような「自己欺瞞」の現代的な形を見出すことができるのは、平気で嘘をつくことのできる現代の政治的独裁者ではなく、SNS等を通じて他者の仮面をかぶって生き、政治的判断能力を奪われた現代人であると述べて締めくくった。
 以上のように、本講演は、概念とアクチュアルな問題を往還するようにして、概念が刷新される一方で、現状に対しても鋭い分析が加えられ、ダイナミックなものだった。じっさい、質疑の際には、自己欺瞞と無意識をめぐる精緻な質問が上がった一方で、アクチュアルな問題への哲学的アプローチに刺激を受けたという声が上がった。(黒木秀房)


サルトル関連文献
・植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編著、富山豊・森功次著『ワードマップ現代現象学 : 経験から始める哲学入門』新曜社、2017年
・水野浩二「サルトルにおける「非-知」の問題とその射程 : 一九六一年の講演をめぐって」『札幌国際大学紀要』 (48), 2017年, pp. 15-20.
・高橋由貴「大江健三郎「死者の奢り」におけるサルトル受容 : 粘つく死者の修辞」『昭和文学研究』(74), 2017年, pp. 102-115.
・梅﨑透「新左翼とサルトル/ニューレフトとカミュ : 日米の「一九六〇年代」と実存主義」『社会文学』(45), 2017年, pp. 78-90.
・伊藤氏貴「文学の敵たちをめぐる一考察 : 漱石、サルトルに抗して」『文芸研究 : 明治大学文学部紀要』(132), 2017年, pp. 11-18.
・竹本 研史「サディズムとマゾヒズム : ジャン=ポール・サルトルにおける性的態度について」『人間環境論集』17(1), 2016年, pp. 1-42.

次回例会のお知らせ
 次回の例会は12月9日(土)に大阪で開催の予定です。
 日時:12月9日(土)13:00 - 17:00

場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

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日本サルトル学会会報第51号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°51 juin 2017
日本サルトル学会会報              第51号 2017年 6月


研究例会のお知らせ
第39回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムを開催致します。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われます。当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)

(休憩 15分)

16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Hervey
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
(通訳つき)
司会:澤田直(立教大学)

17:30 終了

17:40 総会
18:00 終了
18:15 懇親会

日本サルトル学会会報第50号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°50 mai 2017
日本サルトル学会会報              第50号 2017年 5月

研究例会のご報告
第38回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告申し上げます。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました根木昭英、森功次、両氏の博士論文合評会を行いました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。

第38回研究例会
日時:2016年12月3日(土) 14 :30~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)


14 :30 -16 :15  提題者:根木昭英 Akihide Negi (司会:北見秀司、特定質問者:水野浩二) 「La « Poésie de l’Échec » : la littérature et la morale chez Jean-Paul Sartre」(「挫折のポエジー」――ジャン=ポール・サルトルにおける文学とモラル)

根木昭英による発表は、博士論文について、最初に着想経緯や意義などについて説明を行ったあと、全三部の梗概を、順を追って説明してゆくという形でなされた。
根木は、博士論文における考察の中心コーパスであった批評群(『ボードレール』、『聖ジュネ』、『家の馬鹿息子』、『マラルメ』等)の多面性を指摘することから報告を始めた。これらの批評は、実在の作家や詩人たちの生涯をめぐる伝記的描写であると同時に、彼らの実存や作品、さらにはその背景をなす歴史状況の哲学的分析でもあるという混合的な性格を持っている。執筆年代的にも内容的にも、サルトルの知的営為のほとんどすべてと絡み合って展開しているこの批評群に、これまでのところ既成理論の個別的事例への適用という副次的な位置づけが与えられる傾向があったとすれば、それにはこうした一見曖昧な性格も与っていたはずだと発表者は指摘する。しかし根木の考えによれば、これらの批評においては、じっさいには芸術とその倫理的位相をめぐる思索が展開されており、しかもそれは、独立した著作としては理論化されずに終わった一貫した体系を形成している。それは、「詩的な世界内存在」としての「ポエジー(poésie)」をめぐる思索である。サルトルのテクストにしばしば現れる「ポエジー」の語には、世界内存在の一様態、すなわち「挫折(échec)」あるいは「不可能なもの(l’impossible)」の選択という意味が与えられており、芸術作品は、何よりもこの審美的な実存様態から生み出されるとされる。そしてこの芸術創造の過程は、普遍-特異両面における実存の自己意識化およびその「証言(témoignage)」としての倫理性と結び付けられていると根木は言う。美学と倫理とのこうした潜在的接続をサルトルの新たな思想軸、さらに言えば、書かれることなく終わった「第二の『文学とは何か』」として再構築することが、根木によれば博士論文の主目的であった。
続いて報告は、論文の具体的な内容説明に移った。根木の博士論文は、作品創造の前提となる芸術家の存在様態を扱った第一部、詩的な実存様態の客体化たる作品創造の問題を扱う第二部、そして、前二部で構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程を探る第三部によって構成されている。各部の詳細については、次のような説明がなされた。
第一部においては、「ポエジー」の語が持つ、詩的な世界内存在としての意味から出発して、その構造および存在論的含意の解明が行われている。まず「ポエジー」の意味に関しては、サルトルにおける「ポエジー」が、「詩」のみならず、先述のように「挫折」あるいは「不可能なもの」の選択を指すために用いられていること、そして、こうした実存様態が、行為の有効性の否定によって道具連関を逆転し、世界を審美的様相において開示する態度として定式化可能であることが指摘される。続いて、以上の分析を「実存的精神分析」(『存在と無』)の存在論的観点からあらためて考察する後半部では、詩的な世界内存在が、不可能な「即かつ対自」、つまりはサルトルの無神論哲学における「神」たらんとする試みに収斂することがまず示される。つぎに考察は、サルトルにおける神概念の検討に移り、「神」のもうひとつの定義である「自己原因」の概念を、聖トマスからデカルト、スピノザを経てライプニッツへといたる神学史へと位置付けることで、サルトルの「神」が、何よりもそのフォイエルバッハ的な人間化された性格によって特徴づけられることを明らかとした。そして最終部において、以上の分析から、「ポエジー」が、自己の「瞞着(mystification)」により世界の我有化を目指す実存様態であることが確認された。
第二部では、詩的世界内存在が現実的事物、すなわち芸術作品(とりわけ文学作品)へと客体化される過程をめぐるサルトルの思索が検討される。そこではまず、サルトルが、作品における詩的投企の客体化過程を考察するにあたり、言語の対象指示作用よりも、その非伝達的側面である物質性契機の重要性を強調していることが指摘された。論文はそのうえで、こうした議論の背景に、サルトルにおける「記号/イマージュ(散文/詩)」の二元論が孕む両義性があること、よって「ポエジー」の問題とは「文学」一般のそれに他ならないことを明らかとする。そして、こうした両義性の起源が、フッサール現象学における記号とイマージュの区別の両義性にまで遡ること、さらに、それが「志向の差異」と「程度/本性の差異」をめぐる現象学のより根本的な(そして生産的でもある)両義性に関わることもまた示された。続く考察は、文学言語をめぐる以上の議論が、対他関係の文脈においては「コミュニケーションのアポリア」、すなわち、他者の眼差しによる作品客体化の要請と、対他存在の相剋的性格に由来するその必然的挫折として再解釈可能であることを示し、サルトルがこの新たな文脈において「ポエジー」を「ナルシシスム」、つまりは他者に向けられた「瞞着」として再定義していることを確認した。
第三部においては、以上に構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程が検討される。論文はまず、これまでに見た「ポエジー」としての芸術創造に、(多少の振幅を伴いつつも)サルトルが自らの倫理論を重ね合わせている点を指摘する。そのうえで、明示的説明を与えられていないこうした美学と倫理との接続が、芸術的営為のもつ、「人間的実存」の「証言」を通じた「弁人論(anthropodicée)」としての倫理性――人間的条件を拒絶し神たろうとする企てである芸術創造が、人間的条件の不可能性(即自/対自、偶然性/自由、対自/対他の解決不可能な矛盾)ゆえに、拒否された当の人間的条件の自己意識化と表現、そしてその擁護へと反転すること――として、整合的に解釈されうることを明らかとした。続く考察は、以上に再構成された美学-倫理体系と『弁証法的理性批判』との対照を通じ、芸術創造における「自己意識化」の概念が、「批判的経験の批判」において弁証法的全体化の第一の可知性を形成するとされた「了解」概念と他のものではないこと、よって本体系における芸術の倫理性が、「〈歴史〉の運動」つまりは「弁証法的理性」の「批判」としてのそれへと延長されうることを示した。そして最後に、それまで言語芸術を中心に検討されてきた以上の思索が、『ネクラソフ』を始めとする戯曲作品、さらにはティントレット論などの美術批評にも見いだされること、したがって再構築された体系が、詩学のみならずサルトルの美学-倫理論一般として妥当することが示された。

発表後の質疑では、最初に特定質問者の水野浩二氏より報告者に質問が寄せられた。水野氏の質問は、「美」と「モラル」との関係をめぐるサルトルの様々な発言の関係、また、「総合なき矛盾」たる「回転装置(tourniquet)」の観念を踏まえたうえでの、サルトル哲学における「弁証法」の位置付け、さらには「瞞着」とサルトル思想との関係についてなど多岐にわたるものであり、発表者はそれぞれ、「モラル」という語がその時々に持つ意味を区別しつつサルトル思想の展開を通時的に整理する必要性(「美」と「モラル」の関係)、「全体化するものなき全体化」としての『批判』の弁証法と「回転装置」とを、ひとまずは区別して考えるところから出発する必要(「弁証法」について)、また、しばしばサルトルにおいて「瞞着」が「透明性」と表裏をなしているゆえ、それは必ずしもそのまま「非本来性」と同一視できるものではない(「瞞着」について)、といった観点から応答を行った。続く一般質疑では、本論考の鍵語のひとつである「挫折」を考察するにあたって、サルトルが1927-8年に翻訳に参加したヤスパース『精神病理学総論』が持つ重要性の指摘、さらに、サルトルにおける「救済(salut)」をめぐるデリダの論考(『パピエ・マシン』所収)についてどう考えるかといった質問が出た。発表者は後者の問いに対し、今回再構築された体系においても文学とその倫理的「機能」とが不可分とされている以上、そこにある種の「救済」思想の回帰を見て取ることは可能かもしれないが、他方サルトルの文学実践(とりわけ文体レベルの実践)は、こうした思想にのみ還元されるものではないはずだとの視点から応答を行った。
以上、質疑においては博士論文で直接に扱われたテーマには限定されない幅広い角度から活発に質問が寄せられ、議論は盛況であった。発表者としてはとりわけ、一か月弱という短い準備期間で論文の根幹に関わる貴重な数々の問いを準備してくださった水野先生に、この場を借り、あらためて深謝申し上げたい。(文責:根木昭英)


16 :30-18 :15 提題者:森功次 Norihide Mori(司会:生方淳子、特定質問者:永井玲衣) 「前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」

 例会の後半部では私の博士論文「前記サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」(東京大学、2015年)の合評会を開催して頂いた。まず冒頭で2-30分ほど私が博士論文の概要と要点を説明した。
私の博士論文は、サルトルの主に初期から『聖ジュネ』までの哲学的文献を読み解きつつ、そこから示されるサルトルの芸術論を読み解いていく、というものである。読解の中心となる著作は、第一章が『想像力の問題』、第二章が『存在と無』(とその前後の著作)、第三章が『文学とは何か』、第四章が『倫理学ノート』、第五章が『聖ジュネ』なっており、お分かりの通り、博論の章構成は、読み解く著作の時代順となっている。考察を通じてサルトル思想の年代ごとの変化を明らかにしていくというのも、本博論の副次的な狙いであった。
博論概要の説明の後、討論に移った。特定質問者は上智大学の永井玲衣氏にお引き受け頂いた。
永井氏からは、主に6点の質問を頂いた。私の理解した限りで(かなり雑駁に)質問をまとめると、質問は概ね以下の6点である。

1.『存在と無』から『倫理学ノート』にかけての思想の変化とはどのような変化だったのか
2.サルトルの文学観における「道徳」と「美的経験」との(やや複雑な)関係は結局どういうものなのか 
3.なぜ他者を個性的な人間として承認せねばならないのか
4.サルトルの倫理学と状況倫理とは何が違うのか
5.サルトルとアメリカ(プラグマティズム)の関係について。
6.(森の読解から出てくる)サルトルの文学は「公衆」の形成につながるものなのか

かなり予想外かつ良質な質問が続いたので、私もその場でいろいろと考えてしまい、あまりうまく受け答えができなかった。とりわけ4や5の質問については、ほとんど答えることはできず、反省点は多い。今後のための重要な検討課題を与えられたと思っている。
その後、質疑をフロアに開き、他の方々からも批判や意見を多数頂いた。とりわけここでも議論の中心になったのは、『道徳論ノート』の時期、サルトルの中にはどのような変化があったのか、という点だったかと思う。応答の中でわたしは、〈「純粋な反省」についてのサルトルの考え方が、瞬間的な反省から時間的なスパンのある反省へと大きく変化している〉というひとつの私見を述べたが、この点についても確固たるテクスト的証拠を出すことはできなかった。これも今後の課題として受け止めさせて頂きたい。
 今回の例会を機に、私の博論はResearchmap上で全文公開されている(https://goo.gl/BB7MKA)。今後も博論を書籍化するつもりは(少なくとも現時点では)ないので、私の考えが変わらないかぎり、ひとまず公開されつづけるだろう(そのうち東京大学のリポジトリにもupされると思う)。私が行った読解の妥当さはさておき、博論ではほぼすべての引用部分には原文を付してあるので、少なくとも資料的価値はあると思う。前記の哲学的著作を読み解く際の一材料として利用して頂ければ幸いだ。もちろん、厳しいご批判、ご意見はいつでも歓迎している。
 最後にひとつ謝辞を述べておきたい。この博論を仕上げるまでの数年間に、私はこの日本サルトル学会で幾度も発表の機会を与えて頂いた。その場で(もしくは打ち上げの場で)会員・来場者・パネリストの方々と行った討論は、この博論の様々なところで活かされている。この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。(森功次)


サルトル関連文献
・ 加藤誠之「定時制高校の実践に学ぶ生徒指導 : 自由と遊びに関するサルトルの思索を手掛かりとして」『人間関係学研究』21(1)、2016年12月、pp. 51-61.
・ 李先瑞「野間宏の文学におけるサルトルの実存主義思想の受容」『アジア・文化・歴史』(4)、2016年12月、pp. 19-34.
・ 北見秀司「サルトル(1905-1980)と戦後 (特集 戦後70年と世界文学)」『世界文学』(124)、2016年12月、pp. 18-28.
・ 翠川博之/生方淳子/澤田直「生誕111年 J.-P. サルトル再読  実存主義を遠く離れて」『Cahier』19号(日本フランス語フランス文学会)mars 2017

サルトル関連情報
 サルトルの養女、アルレット・エルカイム=サルトル(1935年生まれ)さんが2016年9月16日に亡くなりました。Cahiers pour une moraleを皮切りに、サルトルの遺稿の出版を一手に行ってきただけでなく、新たな校訂版なども手がけ、サルトル研究の新たなステージを可能にした彼女の貢献は長く記憶に留められるべきものでしょう。国際サルトル学会GESなどの公の場所に顔を見せることは稀でしたが、多くのサルトル研究者がさまざまな形でお世話になりました。ご逝去に関しては長いあいだ公開されていませんでしたが、現在ではネット上でもこの情報が出ています。遺体はモンパルナス墓地に埋葬されたとのことです(« Bataille à huis clos pour l'héritage de Sartre », Le Canard enchaîné, no 5036,‎ 3 mai 2017, p. 4.)
 アルレットさんが編集中のGallimard 社からの新しいSituations集は、今後も続けて刊行の予定だそうです。サルトルの遺稿をはじめ、その他の遺品の今後の行方についてはいまのところ分かっていません。
 アルレット・エルカイム=サルトルさんのご冥福を心よりお祈りします。


☆ 次回の例会は2017年7月15日を予定しています。

日本サルトル学会会報第48号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°48 Octobre 2016
日本サルトル学会会報              第48号 2016年 10月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形式で開催となりました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。発表・質疑はすべてフランス語で行われました。

第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

吳銀河氏の発表「「ある指導者の幼年時代」における“籐の杖”の二場面(サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか)」は、短編小説の分析を通じて、サルトルによる精神分析の批判的活用を論じたものである。この短編は、これまでにもGeneviève IdtやJean-François Louetteによる優れた研究が明らかにしてきたように、フロイトの精神分析理論及びその当時流布していたイメージを作品のなかに取り入れており、サルトルが如何に精神分析に関心を抱き、かつ批判的な視点を持っていたかを明らかにするものである。吳氏の発表では、一貫して他者に対する受動的態度を示している本作の主人公リュシアン・フルーリエが(表題の示すように)「指導者」へと成長を遂げてゆく過程において、エディプス・コンプレックスが活用されていることが指摘される。とりわけ、(精神分析においてしばしば男性性の象徴とされる)杖が登場する二場面を詳細に分析しながら、リュシアンが自らを「男」とし「父」に同一化することがコンプレックスを克服するプロセスと同期していることが明示された。このように精神分析的テーマを巧みに取り込みながら、精神分析そのものが家族制度を基本単位とする社会・階級構造の再生産に寄与するものであることを露わにすることで、サルトルはライヒ、ドゥルーズ、ラカン、ジジェク等に先立って欲望と政治の関係性を浮かび上がらせているのだと吳氏は結論付ける。まさしく、コンプレックスの克服がファシズムの誕生と結び付けられるのが本短編の「不気味さ」であり、近年もこれを原作とする映画("The childfood of a leader” 邦題『シークレット・オブ・モンスター』)が製作されたことからも、そのアクチュアリティは見逃されるべきではない。本発表は、その作品の内的構造を詳らかに解きほぐしたものとして、大勢の関心を惹くものであろう。(関大聡)


Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)

本発表は、根木氏がパリ第4大学に提出した博士論文の一部に基づく。無神論的実存主義を展開したと言われるサルトルの議論の道筋を『存在と無』、『倫理学ノート』など複数の著作から明らかにしようとする試みである。
 神は「存在論的」かつ「認識論的」な意味ですべての「根拠」であり、「自己原因」である。ただし意識存在として何かの原因であるには、すでにある偶然の存在を無化することによらなければならないが、すべての存在に先立つべき存在がすでにある存在を無化するというのは矛盾である。これがサルトルによる、神の概念批判である。根木氏が指摘するに、自己原因としての神という概念は、多分に伝統的なキリスト教の考えに沿ったものであるが、サルトルはあくまでもこれを、偶然の存在が意識存在よりも以前に存在するという自分の考えに結びつけて扱う。そもそもサルトルは自己原因という言葉を、神にも自由である人間意識にも使っている。こうしてサルトルの考える意識存在としての神はいかにも人間的な概念であると言える。
 あまり扱われていないが重要なテーマを分かりやすくまとめた好発表だった。会場からは昨年オクスフォードで同様の発表があったので参考にしてはどうかとの提案があった。「神たらんとする」人間という、確かにサルトルの要となる問題系の解明を支えるはずの主題である。(鈴木正道)


Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)

今や日常生活に浸透したSNS。そのユビキタス的性格と利用者の相互性を『弁証法的理性批判』で描かれる溶融集団の特性と比較して論じるという意表を突く発表だったが、精緻な論証に裏付けられ説得的で刺激的だった。
氏はまず、サルトルを「メディアの哲学者」と呼べるかという問いを立て、彼が大戦直後から常にマスコミの目にさらされ、またそれを利用してきたことに着目する。しかし、メディアの哲学者と言えるとすればこのような意味においてではないと明言、考察を『批判』の集団論へと進めていく。集列と溶融集団との区別を確認した後、この理論ではラジオ・テレビの視聴者が互いに隔てられ間接的な集列をなすとされているものの、現代においてSNSの利用者は相互性で結ばれた溶融集団へと変貌し共同実践によって社会の流れを変えうると指摘する。韓国におけるその実例に依拠しつつ、現代のメディア環境にも適用可能な概念を提供したサルトルは「メディアの哲学者」であると氏は結論づける。
安易な比較にとどまらず、用意周到に議論した点には感心させられたが、より多くの具体例を挙げて、『批判』で語られる「友愛=テロル」同様の危険がSNSにも潜むことまで踏み込む時間がなかったのが少々惜しまれた。(生方淳子)


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」

サルトルにとってイタリアとは、旅行の行き先であっただけでなく、現地の知識人と交流する場であり、そこで作品を生み出す場でもあった。サルトル自身が個人的に深くかかわった場所として、イタリアは伝記的著作の生成において重要な役割を果たしたのではないか、というのが澤田直氏による発表の出発点となる問いかけである。
 澤田氏はまずティントレットに関するテキスト「ヴェニスの幽閉者」に注目し、画家の人生の転換点となるできごとや家族との関係性が特筆される点において、のちの著作である『家の馬鹿息子』と共通する伝記的側面への関心が見いだされることを指摘する。その上で、サルトルはティントレットの作品を単に画家の人生の投影されたものとしてではなく、その中で画家の人生が全体化されるものとして捉えていたと論じている。
 続いて『主体性とは何か』というタイトルで邦訳も刊行された1961年のローマでの講演に焦点が当てられる。この講演においてサルトルは、主体性の形成において伝記的な「できごと」の果たす役割の重要性を論じるために、ミシェル・レリスをめぐる挿話を紹介、分析している。サルトルの論によると、主体性は個人がある「できごと」を全体化・再全体化する過程を繰り返す中で形成されるものである。サルトルが作家や芸術家の伝記的側面を重視するのは、そのためであると澤田氏は強調する。
 以上を踏まえ、サルトルの重視する伝記性の意義は以下の3点に要約されると結論づける。①動的な主体と静的な環境をつなぐ ②作品と人生を仲介し解釈を促す ③新しい人文社会的な分析方法になりうる
 本発表は、サルトルの一連の伝記的な著作の背景を探るだけでなく、作家あるいは芸術家の伝記的要素に関するアプローチとしてサルトルの方法の有用性を示した点において、興味深いものであった。(中田麻理)


Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)

池英來氏の発表では、『嘔吐』におけるexistenceの問題が真正面から論じられた。氏は、まずサルトル最初の哲学的探求である「偶然性」が形作られていく過程をミディ手帳のメモ、アロンとボーヴォワールの証言、デュピュイ手帳などから丁寧にたどった後、偶然性/必然性の対立に、existence/êtreの対立を重ねていく。もちろんマロニエの根を前にしてのexistenceの開示は、偶然性の発見でもある。一方この書でのêtre は、プラトン的イデア界に属するものを意味する。必然的存在である音楽、「冒険の気持ち」というテーマは『イマジネール』における美の非現実性の議論に繋がっていくことが示される。さらに、ロカンタンが生きる、持続を欠いた瞬間は、『存在と無』における対自の時間性の議論へと繋がっていくことが指摘された。
全てにわたって『嘔吐』を織りなす諸テーマに通暁した氏の学識の深さが示された発表であったが、最後にサプライズが用意されていた。『嘔吐』の邦訳書の一節が比較検討され、exister, existenceの日本語訳として「現存」が提案されたのである。会場からは、当日お見えであった新訳『嘔吐』の訳者、鈴木道彦会長の応対もあり、発表者にとってもこれ以上はありえない交流の実現になったと思われる。 (黒川学)

総会報告
例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。(句点)
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の任期更新について議論され、現在の役員がそのまま留任することが承認されました。
     会長:鈴木道彦
     代表理事:澤田直
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次、翠川博之
     会計監査:竹本研史、水野浩二

サルトル関連文献
・ 中田平『サルトル・ボーヴォワール論』kindle、2016(1976-1981年の論文を集めたもの)
・ 森功次「戦後の実存主義と芸術」『ベルナール・ビュフェ美術館館報』2016, 5-7.

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

日本サルトル学会会報第47号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°47 juin 2016
日本サルトル学会会報              第47号 2016年 6月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されますのでご案内申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形をとります。多くの方のご来場をお待ちしております。なお、発表はすべてフランス語で、通訳はありません。
懇親会に関しては、準備の都合上、ご出席を希望の方はあらかじめ事務局のメールのほうにご連絡いただけるとたいへん助かります。


第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)
Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)


15:45-16 :00 Pause café 休憩


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」
Débatteur : Fabien Arribert-Narce (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:ファビアン・アリベール・ナルス(青山学院大学)

Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)


17 :30-18 :00 Assemblée générale総会

18 : 30 Pot amical 懇親会




今年のパリのサルトル学会のプログラムは以下の通りです。

日本からは栗脇さんが発表されます。
GESのBulletinを希望される方は、6月20日までに事務局までメールでご連絡ください。



サルトル関連文献
・ 赤阪辰太郎、2016、「新たな仕方で世界を描くこと : 前期サルトルの哲学的企図についての試論」『年報人間科学』37巻、87-103.
・ 赤阪辰太郎、2016、「サルトルを読むメルロ=ポンティ:『文学とは何か』をめぐって」『メルロ=ポンティ研究 』19(0)、 45-57.
・ 朝吹亮二、2016、「義塾を訪れた外国人(第1回)サルトル、ボーヴォワール」『三田評論』 (1196)、56-59.
・ 伊勢美里、2015、「サルトル『存在と無』における「共同存在」の実現可能性について」『上智哲学誌』(特集 共同体) (27)、59-70.
・ 表三郎、2015、「サルトル自我論の先駆者としてのランボー : 弁証法を甦らせるために(第6回)」『情況』4(3), 143-153.
・ 片山洋之助、2016、『日常と偶然』、理想社.
・ 加藤誠之、2015、「非行の臨床哲学 : サルトルから考える (特集 教育・臨床・哲学のアクチュアリティ)」『理想』694、42-52.
・ 栗脇永翔、2015、「可傷性・吐き気・肉体嫌悪――前期サルトルにおける身体の問題」、『Résonances』第9号、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、100-107.
・ 小手川正二郎、2014、「恥の現象学 : サルトルとウィリアムズを手がかりに」『國學院雜誌』115(12)、1-11.
・ 澤田直、2016、「サルトルとイタリア(1)」『立教大学フランス文学』45号、51-74.
・ 澤田直、2016、「共同体、そしてアイデンティティのことなど サルトルとナンシーを出発点として」岩野卓司編『共にあることの哲学』、書肆心水、19-51.
・ Nao Sawada (2016) « Comment vivre ensemble ? Barthes et Sartre : communauté et rythmes » , Littera (Societé japonaise de Langue et Littérature françaises), n° 1, pp. 20-30.
・ 重見晋也、2015、『コレージュ・スピリチュエル』としての『ボードレール』」『名古屋大学文学部研究論集 (文学61)』 (加藤國安教授 退職記念) 、113-126.
・ 柴田健志、2015、「時間の総合における「無」の機能 : サルトルの哲学と認知神経科学」『鹿児島大学法文学部紀要』(81)、19-28.
・ 中敬夫、2015、「サルトルと20世紀の古典的他者論の問題構制」『愛知県立芸術大学紀要』(45)、 3-16.
・ 中田光雄、2015、『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論—カント、ハイデガー、三木清、サルトル、…から、現代情報理論まで』、創文社.
・ 永井玲衣、2015、「サルトルにおける「目的の都市」」『上智哲学誌』(特集 共同体) (27)、83-93.
・ 永野潤、2015、「革命的サンディカリスムとサルトルの思想 」『人文学報(実川敏夫教授 退職記念論集) 』(504)、65-88.
・ 中村彩、2016、「『別れの儀式』における(脱)神話化――ボーヴォワールから見たサルトルの老い」(英語)、『共生のための障害の哲学Ⅱ』、UTCP.
・ 沼田千恵2016、「事物への問い : 初期サルトルをめぐって (工藤和男先生 竹居明男先生 退職記念論文集)」『文化学年報』65号、195-216.
・ デイヴィッド・エドモンズ、ナイジェル・ウォーバートン編、2015、『哲学と対決する!』菅靖彦訳、柏書房. (第24章が「ジャン=ポール・サルトルの実存主義」)
・ ペトルマン シモーヌ、2016、「デカルトの自由とサルトルの自由」丸山真幸訳、『津田塾大学紀要 』(48)、1-23.

日本サルトル学会会報第46号 [会報]

研究例会報告
 第36回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催致しました。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」
日時:2015年12月5日(土)
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   14:00〜18 :00
 オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師)
 登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
 司会:北見秀司(津田塾大学)

以下、ワークショップの報告文を掲載します。

 今例会では、『弁証法的理性批判』第一巻刊行55周年を記念して、ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」が行われた。ワークショップは、北見秀司氏の司会のもと、短い個別質疑を挿みながら、竹本、澤田、角田の各氏がそれぞれの視角から『批判』に関する提題を行ったのち、三氏の発表すべてを主題とする全体討議の時間を設けるという仕方で進行した。

 竹本研史氏による発表は、「環境」という概念に着目しつつ、『批判』の議論を再整理する試みであった。具体的分析に入る前に、竹本氏はまず、先行研究の概観を行った。それによれば、「稀少性」をめぐるサルトルの思索と論点を共有する研究として、1)稀少性を闘争の根底に置いたホッブズをはじめとした、「稀少性」に関する思想的系譜、2)W. マクブライドのような環境倫理学的観点からの示唆、3)A. ゴルツのエコロジー思想、そして、4)『批判』をのちのフローベール論との関連において読む可能性などが挙げられる。この概観に続けて、竹本氏は『批判』の具体的分析に入り、そこでの議論の基礎が、何よりも環境としての「稀少性」に置かれていることを確認した。竹本氏によれば、『存在と無』いらい、人間的現実を「欠如」の観点から考えようとするサルトルの姿勢は一貫したものであり、『批判』もまた「欲求(besoin)」の概念を起点として、第三者を媒介とした人間的諸関係の形成を考察している。この人間関係を条件づけているのが無機的物質性であり、そしてサルトル自身が述べているように、この物質性が諸個人に対して持ってきた、偶然的だが根源的な、一義的(univoque)関係(つまりは、万人にとって十分な物質が存在しないという量的事実)こそが「稀少性」であった。この点を見たのち、竹本氏は、稀少性の環境における人間関係の形成が、各人による各人の破壊の可能性、つまりは「余計者(excédentaire)」排除の可能性という形をとること、そしてこのとき、人間性は、〈他者〉化された非人間性として、すなわち、量化された交換可能性において現れることを指摘する。
 以上の整理を踏まえ、竹本氏が着目するのが、「労働」の概念である。「労働」、すなわち人間的有機体が、惰性へと働きかけ欲求を満足させるために自己を惰性化することとは、稀少性の観点から言い換えるならば、まさしくこの稀少性の乗り越えを目指す実践に他ならないことを竹本氏は指摘する。そして、「労働」によって生み出された「加工された物質」をめぐるサルトルの考察へとさらに分析を進めつつ、竹本氏は、この稀少性乗り越えの試みが、『批判』において、つぎのような逆説的帰結に導くとされていることを明らかにした。すなわち、加工された物質は、惰性化した人間的実践に他ならないゆえに、今度はそれが、逆に自らの使用法を指示し、人間に自己を課する存在へと転ずるのである。ここにおいて人間の活動は、自己の「欲求」から直接派生するのではなく、加工された物質が引き起こす、〈他者〉の「要求(exigence)」によって支配されることとなる。竹本氏によれば、稀少性に起因する他者性乗り越えの試みであったはずの労働は、こうして結局のところ、他者性すなわち疎外へと行きつくことになる。
 以上の逆転を確認したのち、発表は「階級存在」の形成をめぐる『批判』の議論の再検討へと移り、「階級存在」の持つ両義的性格――階級存在は一方で、それが「加工された物質」を通じて人間へと到来した実践的惰性態であるかぎりにおいて、人間を運命づけるものであるが、他方でそれは、物質を媒介とした人間自身による自らの否定であるかぎりにおいて、あくまで個人的実践にその基礎を置いている――が明らかにされた。
 そして最後に竹本氏は、以上の分析から三つの論点を導き、提題の締めくくりとした。1)物質の稀少性により、各個人が交換可能な存在となること。2)その乗り越えとしての労働により加工された物質が生み出されるが、それは疎外へと転じること。さらにそこから、両義的な「階級存在」の形成が説明されること。3)「環境」は、サルトルにおいては何よりも「乗り越えるべきもの」と捉えられている。そうであるとすると、この「環境」との共生の可能性はありうるのか、この点を明らかとすることが、今後の課題であること。
 発表後の個別質疑では、ヘーゲル、マルクス的な語彙である「欲求」と、『存在と無』いらいの用語である「欲望(désir)」、さらに「要求(exigence)」との関係をどのように切り分けるか、また、『批判』とこれに先立つ「共産主義者と平和」(1952)における階級論との差異をどう考えるか、といった質問が挙げられた。

 続く澤田哲生氏による提題は、専門であるメルロー=ポンティのサルトル批判から出発し、それに対する『批判』の応答(あるいはその不在)を探った発表であった。澤田氏によれば、メルロー=ポンティの著作は、多かれ少なかれサルトル哲学との対峙という色彩を帯びている。だがそのなかでも、「サルトルとウルトラ・ボルシェヴィスム」(『弁証法の冒険』(1955))における批判は、特権的な位置を占めていると澤田氏は言う。澤田氏はまず、この著作が書かれるにいたった歴史的背景――反リッジウェイ・デモと共産党書記J. デュクロの逮捕、それに続くサルトル「共産主義者と平和」における共産党の意義の擁護――を確認したのち、『冒険』におけるサルトル批判を参照する。澤田氏によれば、そこでメルロー=ポンティは、サルトルが『情緒論素描』(1939)において用いた語彙(「魔術的(magique)」、「魔法使い(sorcier)」など)をそのままサルトルの姿勢に適用し、これをひとつの「病理」として批判している。『情緒論』は、『知覚の現象学』幻影肢論において「魔術的行為」という語彙が用いられていたことからも分かるように、サルトル思想のうちメルロー=ポンティが肯定的に受け入れた部分であったと考えられるだけに、こうした批判方法は、象徴的というべき重要性を持つものだと澤田氏は指摘した。
 この点を確認したのち、発表は『弁証法的理性批判』の検討へと移った。澤田氏は、『批判』に見られる情緒論の語彙を拾い出しながら、以上の批判にもかかわらず、そこで「魔術」、あるいはその背景をなす「想像」の契機はけっして手放されておらず、そこにメルロー=ポンティへの応答は見出せないように見える点をまずは明らかにする。だがつづいて澤田氏は、『批判』にはこうした魔術性が解消される場面もまた見いだされることに注意を喚起した。「溶解集団」をめぐる記述がそれであり、そこでサルトルは溶解集団の発生を、それ自体としては魔術的なものを何ら持たない、共同的個人の各人への受肉として提示しているのである。この点を見たうえで澤田氏は、こうした魔術の解消が、(その極限においては虐殺にいたるような)「外部からの」可能的否定を出発点とするとされていることも指摘し、そこに党の大衆指導性を強調する「共産主義者と平和」からの変化、つまりはメルロー=ポンティによる批判への応答を見ることも可能なのではないかと述べた。
 以上の分析を踏まえて、最後に澤田氏は、『一指導者の幼年時代』や『蠅』といった文学作品に目を転じ、そこに見られる自由の突発性あるいは「回心」といった断絶のモチーフが、媒介の契機を重視するメルロー=ポンティにはもっとも縁遠いものであったこと、そしてそこに、今回の提題で分析されたような対立の背景をなす、両思想家の決定的な差異が見いだされるのではないかとの提起を行って発表の結論とした。
 発表後の個別質疑では、澤田氏の着目する「魔術」の語が、「疎外」という文脈を共有しつつも、それぞれの箇所によって微妙に異なった意味を与えられているのではないかという指摘、他方では、「外部の絶対的な他者性」というサルトルの視点が、『存在と無』の「われわれ」の形成をめぐる議論とも通底しており興味深いとのコメント、さらには、サルトルが直接批判に答えたC. ルフォールとの論争を以上の文脈においてどう位置付けるかという質問などが寄せられた。

 最後の角田延之氏の提題は、専門であるフランス革命史の観点から、『批判』における革命史理解の妥当性と現代性とを吟味する論考であった。氏は初めに、近年の革命研究において、『批判』への言及がほとんど見られない点を示した。と同時に、歴史学の立場から『批判』を扱った研究が存在しないわけではない点も指摘し、それらの研究の紹介を行った。第一は、サルトルが同時代の歴史研究者から受けた影響について分析しつつ、彼の考察の現代性を探るマゾリクの論考である。マゾリクは、近年公刊されたサルトルの手稿(「1789年5月-6月」、「〈自由〉-〈平等〉」、「シナリオ『ジョゼフ・ル・ボン』断片」)を中心に検討しつつ、サルトルが同時代のフランス革命研究についてたしかな知識を有していたこと、なかでもG. ルフェーヴルのブルジョワ革命論にもっとも影響を受けたと見られる点を指摘している。第二は、「方法の問題」(1957)と『批判』におけるゲラン批判、および両者の論争を取り扱うデュカンジュの研究である。それによれば、サルトルは、恐怖政治に関するゲランの考察の影響を受けているものの、これを還元主義的であるとして批判的に扱っている。また両者の論争は、そもそもの問題意識の違い(マルクス主義の方法/恐怖政治の問題)からすれ違いの様相を呈している。最後に、ヴァニシュのセミナー記録においては、ムーニエを同時に自由でありかつ歴史的な主体として提示するサルトルの分析が評価されるとともに、サルトルの考察を、「アラブの春」といった当時の情勢分析に役立てることができるという結論が導かれているとのことである。
 角田氏は、以上の先行研究において、革命研究におけるサルトルの分析の有用性が必ずしも正面からは問われていないことを指摘し、「方法の問題」および『批判』におけるフランス革命分析の妥当性について、直接検討することを試みた。角田氏は、サルトルによるゲラン批判(革命戦争は、当時の経済状況には還元されない)にあらためて立ち返るとともに、現在の革命研究においては、経済的利害を代表する人物が実在したことも一方では明らかにされていることを指摘した。また、「ジロンド派」の定義、およびその存在そのものに関する歴史家の論争が起こったことに触れ、ジロンド派をプチブル階級の観点から語ろうとするサルトルの叙述に対する一定の懸念を示した。さらに、サルトルがルフェーヴルの解釈に依拠しつつ、他方でジロンド派と連邦主義者を同一視しているように見えることには、ルフェーヴルが両者を区別していたことを考え合わせるならば、若干の疑義があるとした。このようにサルトルの革命理解にいくつかの留保を加えつつも、角田氏は、革命期の民衆の心性に「保守性」を見出すサルトルの見解は、すでに農民の保守性を指摘していたルフェーヴルの立場と通じるものであるだけでなく、今日の革命研究から見ても、斬新とも言える視点を含んでいる点を指摘した。連邦主義者の反乱を直接民主主義によって説明する研究があり、それによれば、じっさい、反乱において要求された直接民主主義的「自治」は保守性によって特徴づけられるとされているのだと角田氏は言う。そして角田氏はさらに、この保守性の論点を、愛国主義とジャコバン主義を「反政治」の観点から説明しようとする研究と接続することも可能であるかもしれないとの展望を示すことで、提題の締めくくりとした。
個別質疑では、ルフェーヴルによる四つの革命論(貴族/ブルジョワ/民衆/農民)との関連をどのように考えるか、また、『批判』がフランス革命を主要な分析対象の一つとしていることの妥当性について、歴史学の立場からどう考えるか、といった質問が出た。

 個別提題に続く全体討議では、個別質疑で寄せられた質問に加え、三氏の発表を踏まえた質疑応答と議論が行われた。討議の要点は、おおむねつぎのようなものであった。[稀少性概念の位置づけ]。マルクスにおいては主題化されなかったこの概念が、なぜ『批判』の出発点に置かれたのかという点が問題とされた。それに対し、何よりも論理的要請によるものであろうとの意見も出されたが、最終的には、「稀少性」の位置づけを確定するには、『批判』の錯綜した記述のより踏み込んだ解釈が必要になるだろうとの点が確かめられるにとどまった。[メルロー=ポンティとの関係]サルトル自身の問題意識によって書かれた『批判』が、メルローポンティの批判に対する回答(の不在)であったと考える必要はそもそもないのではないかとの指摘がなされた。その一方で、追悼文「メルロー=ポンティ」第一稿から伺われるように、サルトルがメルロー=ポンティの立場を深く意識していたこともまた事実であろうという意見も出された。両者においては、フッサール受容に関して決定的差異(前期/後期)があるという点も、あらためて確認された。/[階級存在の概念について]「自らを組織する(ça s’organise)」といった表現に見られるように、「階級」が所与ではなく、あくまで主体的「自発性」によって説明される点に、客観主義的な傾向を残すルカーチといった思想家とは異なる、サルトルの独自性があるとの指摘がなされた。と同時に、この自発性が、「自然発生性」と同一視されるわけではない点が興味深いとの見解も示された。/[『批判』と歴史学との関係]『批判』を歴史書として読むことをどのように考えるかという問題が提起され、それが可能であるにもかかわらず、歴史学の領域において、『批判』が過小評価されているかもしれないといった意見が出された。

 以上、提題は三者三様であったが、その後の討議において、「稀少性」の位置づけや歴史学との関係といった、『批判』の本質に関わる論点が浮かび上がってきた点が、たいへん印象的であった。各発表者の独自な視点と、聴衆の質疑とがしっかり噛み合った、まことに意義深いワークショップであったと言えよう。(文責:根木昭英)

サルトル関連文献
・フィリップ・フォレスト「文学は(いまなお)何ができるか──サルトルの五〇年後に」、澤田直訳、『すばる』2016年1月号
・森功次「「サルトルの芸術作品とは非現実的な存在である」という主張をどのように受け止めるべきか」、小熊正久・清塚邦彦編著『画像と知覚の哲学――現象学と分析哲学からの接近』東信堂、2015年12月

日本サルトル学会会報第45号 [会報]

次回例会のお知らせ
第36回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。次回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」 日時:2015年12月5日(土) 場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   受付開始:13:30
   開始:14:00

オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師)
登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
司会:北見秀司(津田塾大学)

懇親会:18:30

※各発表者の発表タイトル等の詳細は、学会のブログで告知する予定です。
本会は非会員の方の聴講を歓迎いたします。事前の申込等は一切不要です。当日会場へお越しください。聴講は無料です。

研究例会報告
第35回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は『サルトル読本』の刊行記念として合評会を兼ねたシンポジウムとして開催されました。
日時:2015年7月18日(土) 10:00~18:15
会場:立教大学キャンパス7号館7301教室
第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』第I部、VI部)
第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)
第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV,V部)
総会 18 :00~18:15
懇親会 19:00

第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00
登壇者:永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直(『サルトル読本』第I部、VI部執筆者)
   特定質問者:関大聡
   司会:森功次

第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30
登壇者:谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次(『サルトル読本』第II部、III部執筆者)
特定質問者:赤阪辰太郎
司会:永野潤

第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00
登壇者:加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人(『サルトル読本』第IV部、V部執筆者)
特定質問者:栗脇永翔
司会:澤田直

以下、各特定質問者による報告文を掲載します。

第1部 サルトルの全体像
シンポジウムの第一部「サルトルの全体像」では、『サルトル読本』の主に第I部(「サルトルの可能性をめぐって」)と第VI部(「作家サルトル──文学論・芸術論」)の論考を中心に議論が行われた。各部で問題になっているのは、大まかに言って、一つの時代を代表した知識人としてのサルトルと、作家・芸術家としてのサルトルであり、石崎晴己氏も述べているように、両者の結び付きは不可分なものである(自己という独自な存在を通じて普遍的なものを描くことを職分とする作家は、「本質的に」知識人である)。戦後世界を席巻した「サルトル現象」もこの知的覇権の産物であるが、知の細分化が進む今日では、それと同じ規模での成功を望むことは難しい、また逆に言えば、サルトルの成功も時代的要請の後押しがなければ考えられなかったはずである。
しかしだからと言って、サルトルの全体的参加の在りようが意義を失うということはない。むしろ、知識人が来るべき普遍性としての「我々」の姿を模索することを自らの使命としていたとするならば、知が細分化したと同時に広く普及したがゆえに誰もが知の担い手になりうるようになった今日においても、独自性を見失わぬままに普遍的なものを考えるという課題は一人ひとりにそのまま残されているのではないか。そしてサルトルを読むことはこうした問いについて――もちろんそこに収まりきらない様々に新鮮な発見とあわせて――今日の読者たちにも多くの示唆を与えうるはずである。このような確信を、登壇された先生方と、若輩ながら質問者も共有できるものと考えており、先達を仰ぐつもりで、今日サルトルを読むことの可能性について質問させていただいた。
まず澤田直氏が、ヨーロッパの知識人モデルには宗教的起源、すなわち神なき世俗社会において人々を結び合わせる役割が要請されていたことを指摘し、質問者の問いの全体像に明快な見取り図を与えてくれた。この近代的文脈のなかでのサルトルの立ち位置を正確に把握しながら、同時にアクチュアルな問題に直面する現代の読者としてそのテクストを読むためにはどうすればよいのか。この問いに関して、論文「小説家サルトル」のなかで論じられていた「廃墟」という概念が再説された。第二次世界大戦の最中で予期しえない出来事の連鎖に翻弄されながら苦闘する『自由への道』の登場人物たちを待ち構えているものを、後世の読者である私たちは既に知ってしまっており、そこに必然的な破局を重ね見ざるをえない。しかしそこに見出されているのは、歴史の進行に対して盲目な私たち自身の命運でもあり、その意味で、「廃墟として読む」という行為は、審美主義的な読書ではありえず、現代に刺激を与えうるものであることが強調された。こうした読み方を、『自由への道』だけでなくサルトルとその作品全体に適用することは、極めて魅力的なものと思われる。
永野潤氏の論文「サルトルの知識人論と日本社会」は、しばしば「既に乗り越えられた」ものとして論じられる「サルトル的知識人」というラベリングの不適切さを、サルトル自身の知識人論でもって反駁し、実践において本当の意味でサルトルを「乗り越える」ことこそが必要だと指摘したものである。質問者からは、実践におけるサルトルの乗り越えとは正確に言ってどのような事態を意味しているのか、どのような実践がそれを可能にするのか、について問いを投げかけた。これについては、学術的舞台と街頭でのデモを分けるような外挿的区別に甘んじることなく、各人が自らの持ち場での実践のかたちを発見することが重要であるという応答を得た。また、本論では「古典的知識人」と「新しい知識人」というサルトルの区別が紹介され、後者の例として、工場労働者とともにあることで、自己批判を通じて「知識人としての自己を抹消」する青年が挙げられているが、それは今日でも有効なモデルたりうるのかという点についての議論がなされ、現代の政治参加の問題にも接続してゆくなど、刺激的な展開があった。
翠川博之氏の論文(「サルトルの演劇理論」)は、「距離」とそれによって可能になる「参加」の概念を中心に、一般にはあまり知られていないサルトルの演劇理論に焦点をあてたものである。細かい点では、論文の中で触れられている「神話演劇」というコンセプトの重要性について問いを投げかけた。それは三単一の規則や様式的側面に関するだけではなく、神話的精神のなかでの「我々」の創造という意味をも担うものではないか、という問いかけに対して、一面では確かに宗教儀式的側面が認められるとして、『蠅』のある場面が黒人の霊的熱狂を意識しているという挿話が挙がった(ここから『弁証法的理性批判』における溶解集団についての議論と結ぶこともできよう)。また、サルトルとブレヒトの演劇観の相違が問われたときには、ブレヒトともジャン・ジュネとも異なるものとしてサルトルは自らの演劇/演劇論を構築しているという応答があり、こうした演劇理論からサルトル自身の劇作を再検討する作業はますます必要であるように思われる。会場からも、近年再び上演機会を得つつあるサルトル劇の作劇法についての意見が求められ、やはり演劇理論との照合を行う必要があるのではないかと述べられていた。
永井敦子氏の「サルトルの美術論の射程」は、共産党との関係のような社会的・政治的コンテクストやシュルレアリスム美術との両義的関係を意識しつつ、サルトルの美術論を扱ったものである。質問は、永井氏が論じている芸術鑑賞における「我々」の体験の位相において、サルトルがしばしば超越的な意味を有する語や宗教的な語彙・比喩を用いているという事実は、シュルレアリストたちが聖なるものに依拠したのと同じ系統の関心を見ることができるのではないか、というものであった。これについては、シュルレアリストの神話への関心やマルローの芸術論に触れつつ、神の不在以後というパラダイムが西欧の美術批評においても影響を及ぼしていることについての解説がなされた。また、「我々」という普遍的な語が美術鑑賞のパンフレットに用いられているときには、それが読者として想定しうる「我々」が、あくまで展覧会や個展という小規模システムに参加する、一部特権的な層であることにも改めて注意が促された。
同時に、本論からは少し脱線するかたちで永井氏が述べられたのは、この「我々」の様々な形態を考えるとき、『恭しき娼婦』と『水いらず』に現れてくる、「みなしご」としての私たち、という経験が注目に値するのではないか、ということである。父=神を持たない切り離された個でありながら、他者と出会い、我々を育むということへのサルトルの関心がここに見られるのではないか。この指摘に対しては、翠川氏も同じ関心を表明され、サルトルのような知識人は人間の問題を一緒くたに論じてしまうというスピヴァクの批判に対して、孤児として出会うという思考がサルトルには秘められているのではないかと述べられた。
黒川氏の論文「『家の馬鹿息子』の「真実の小説」という問題」は、フローベール論で用いられている前進的・遡行的方法という分析・叙述法を、小説における語りの問題に対するサルトルの批判的関心に引き付け論じたものである。結論として氏は同書の語りの方法を(批判的)小説のそれであると述べる。しかしその場合、伝記というジャンルと小説というジャンルの違いをどのように考えるべきなのか。この問いに対しては、伝記一般と小説の関係というよりは、文学者の伝記と小説の関係として考えるとき、一方では文学テクストの読解において遡行的分析が行われ、他方で作家の伝記的生について時間軸に沿った前進的分析を行うときに物語るという要素が不可避に浮上することが重要であるという応答があった。この物語るという問題について、『家の馬鹿息子』はその不可能性を提示しているのだと黒川氏は述べられ、それがどのような理路から論証されるのかという点については会場とのあいだでも活発な議論がなされたが、これはいまだに邦訳が完結したわけではない同書に対する関心の高さを裏打ちするものでもあろう。
こうしてまとめてみるとき、個々の論文はそれ自体で極めて密度の高いものでありながら、論文相互のあいだにも深い連関が存在しており、シンポジウムを通してその点が浮かび上がってきたのではないかと思う。そのダイナミズムを暗示的な仕方以上に書き留められた自信は報告者にはないが、普段は別々に研究を行っている者同士が意見を交わしあうという貴重な場がさらに開かれたものとなり、多くの関心を惹くものになるために、この報告文が貢献できることを期待したいと思う。
(関大聡・東京大学)

第2部「サルトルの哲学」
第2部「サルトルの哲学」では、『サルトル読本』第Ⅱ部「サルトル解釈の現状」、第Ⅲ部「サルトルの問題構成」の執筆者から、谷口佳津宏氏(「サルトルの栄光と不幸――『存在と無』をめぐって」)、清眞人氏(「媒介者としての『倫理学ノート』」)、水野浩二氏(「倫理と歴史の弁証法――「第二の倫理学」をめぐって」)、森功次氏(「芸術は道徳に寄与するのか――中期サルトルにおける芸術論と道徳論との関係」)、竹本研史氏(「サルトルの「応答」――『弁証法的理性批判』における「集団」と「第三者」」)、生方淳子氏(「エピステモロジーとしてのサルトル哲学──『弁証法的理性批判』に潜むもうひとつの次元」)が登壇された。
登壇者による論文の趣旨説明の後、特定質問者は各論文について次のような質問を行い、執筆者がこれに応答した。以下、主要なもののみを簡潔に紹介する。
谷口氏の論考についてなされたのは、『存在と無』の哲学者たちによる受容と、哲学史的な評価についての質問であった。谷口氏の論考で詳論されるように、『存在と無』は発表当初よりいくつかの仕方でやや偏向した解釈がなされてきた。そこで谷口氏が提案するのは、従来の解釈を批判的に分析しながら、こうした評価に左右されずにテクストを読み解く態度である。これをうけて質問者は、純粋なテクストとしての『存在と無』を読みとくと同時に、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、デリダらの哲学者の思想形成期におけるサルトル受容を考慮に入れつつ、サルトル以後の哲学者たちへの影響という観点から『存在と無』の哲学史的再評価が可能ではないかと問うた。これについて谷口氏は、『存在と無』が与えた影響をテクスト上で跡づけることには慎重を要すると指摘された上で、哲学者たちへの影響が『存在と無』から発するものであるのか、あるいはいわゆる時代の寵児としての〈哲学者サルトル〉像についてのものか見極める必要があると述べられた。サルトルと哲学者との関係については第3部のセッションに引き継がれ、継続して議論された。
清氏の論考についてなされた質問は、サルトル特有の「回心」のプログラムにとって他者(Autre)と他人(autrui)がどのように関わるかを問うものであった。これについて清氏は、ある時期のサルトルにとって、他者とは自己の内に見られる他なるものを意味し、いわばそれが理想的な自己として考えられるのだ、と自身の考えを述べられた。さらに、この理想的自己は到達不可能なものであるため、その追求の試みは挫折する。そして、自己による自己の追求というナルシシスム的回路を断ち切り、回心へ導くのが他人たちである。
水野氏の論考は主にサルトルの1960年代の倫理学を扱ったものであった。質問者は、そこで語られる、ある種の限界状況における倫理的判断が新しい倫理を創出するという事例の含意について質問した。これについて水野氏は、この時期のサルトルの倫理とは、一定期間有効な、人々の生きづらさに対する抗議としての側面をもつものであり、修正と惰性化を繰り返してゆくものであると述べられた。また、状況に即した創出という側面をもつ判断が〈倫理〉と呼ばれる基準については、全体的人間という理念や、人間以下の人間であることへの抵抗という点が一定の基準を作っていると指摘された。規範と齟齬をきたす価値判断が倫理的と呼ばれるための基準をめぐっては、フロアから『倫理学ノート』を中心とする「第一の倫理学」の時期との相違が指摘されたように、サルトル自身の思想の変遷に即して今後も研究が続けられることが期待される。
森氏の論文について、質問者は中期思想における「事物化」の意味について質問した。森氏の論考で示されるように、『倫理学ノート』の時期のサルトルは他者との交渉に際して自己事物化の契機を積極的に語る。事物化は、バスに飛び乗る人に向けて自ら手を差し出す、という日常的な場面から、芸術作品の創造にいたるまで広く認められるものだが、この事物化に際して自由の承認がどのように行われるのか、またその自由とはどのようなものかを問うた。これについて森氏は、作家が何のために書くのか、という観点から回答された。事物化されたもののなかに見いだされる自由とは、人間存在のもつ案出能力や、独自性の発露と関わっている。事物の看取は意識の自由や意志の自由の承認につながるわけではないが、事物を差し出す者を、行為や作品を通じて承認する。
竹本氏の論考は『弁証法的理性批判』における集団形成論をメルロ=ポンティによるサルトル批判「サルトルとウルトラボルシェヴィスム」への応答という観点から読みとくものであった。質問は、メルロ=ポンティのサルトル批判のなかで竹本氏が論考において言及しなかったものについての意見を求めるものであった。質問について竹本氏は、サルトルの保持する、社会性を眼差しという観点から捉える点、行為における目的を理論に取り入れる点などについては今後も検討が必要であると述べられた。また、サルトルの論述が非歴史的であるというメルロ=ポンティからの批判については、サルトルによるカミュ批判に言及しながら、サルトルが常に歴史のなかで、状況に向けて書いてきた、という点が強調された。
生方氏の論考については、生方氏の提唱されるサルトル的エピステモロジーを遂行する者にとって、専門性ないし職能がどのような役割をもつかが問われた。これについて生方氏はまず、現代において社会は一つのディシプリンから見通すことができないほど複雑なものとなっており、単一の専門分野によって可知性に到達することがますます困難となっていることを指摘された。こうした現状認識のもとで、特権化されない、誰でもない者としての複数的な主体が、全体化する者なき全体化を行う、というビジョンに仮託して、ありうべきサルトル的エピステモロジーの姿を提示された。
登壇者諸氏のいずれの論考も現状におけるサルトル哲学研究の水準の高さを示すものであり、また議論を通じて、今後、継続的に追究されるべき論点が明らかとなった。その意味で、実りの多いセッションとなったのではないかと思われる。最後に、研究歴の短い若輩者による不慣れな質問に対し、真摯に回答してくださった先生方にお礼申し上げます。(赤阪辰太郎・大阪大学)

第3部「サルトルと哲学者たち」
 「現代思想」とサルトルの関係が取り上げられるようになってからすでに久しい。デリダとサルトル、バルトとサルトル、ドゥルーズとサルトル…。「研究」という観点からすれば、この分野に関しては、日本国内でも海外でも、すでに一定の成果が上がっているというのが現状であろう。『サルトル読本』Ⅳ部・Ⅴ部に投稿された各論文も概ねこうした文脈の中での成果として捉えることが出来るように思われる。シンポジウム第3部は必然的に(ゴルツを取り上げた鈴木正道氏を除けば)「サルトル研究者」ではない研究者に質問を投げかけることになった。紙幅が限られているため質疑応答の全容を記載することは出来ないが、以下、報告者が投げかけた質問を中心に会の様子を書き留めることにしたい。
 まず、サルトルとメルロ=ポンティの身体論を比較された加國尚志氏には、サルトルにおける「傷つけられ得る身体(corps qui peut être blessé)」とでも呼ぶべき主題に関する質問と、メルロ=ポンティの「蝶番(charnière)」やサルトルの「回転装置(tourniquet)」等、二項対立を攪乱させる概念装置の思想史的意味に関する質問を投げかけた。加國氏からの応答では、両哲学者における文学の影響や20世紀のフランス哲学におけるヘーゲル主義の受容に関していくつかの論点が指摘された。
鈴木正道氏の論考はサルトルに影響を受けたアンドレ・ゴルツの思想を手掛かりに実存主義と「(反資本主義としての)エコロジー」の関係を問うものであった。日本国内でゴルツに関する研究は少なく、貴重な研究であると考えられるが、シンポジウムではあえて、ゴルツを含む20世紀の様々な分野の思想家――たとえば「アフォーダンス理論」のギブソン等も思い浮かぶ――が「エコロジー」というキーワードをもとに、独自の理論を構築したことの思想史的意味について質問を投げかけた。鈴木氏からは、日本語に輸入されるとどうしても環境保護の理念やその運動に結び付けて理解されがちなこの語が西欧語では「エコノミー」等とも語源的に近い意味の広がりを持つことが指摘された他、20世紀に注目が集まったこの問題が決して過去のものではなく、現在も継続中の困難な問題であることが強調された。
論文を投稿されていない松葉祥一氏からは、現在翻訳中のランシエールの著作におけるサルトルの知識人論の批判的扱いに関して紹介がなされ、報告者からは、(松葉氏のこれまでの仕事を鑑み)ふたりのポストモダニスト――クリステヴァとリオタール――とサルトルの関係に関する質問を投げかけた。クリステヴァの著作のタイトルを念頭に置くならば、サルトルは「女性の天才(génie féminin)」に影響を与えた思想家であったと言えるかもしれない。生涯の伴侶・ボーヴォワールは言うまでもなく、ジュディス・バトラーがその初期の仕事でしばしばサルトルに言及していることも広く知られている。60年代~70年代にかけての言語学的・記号分析的な仕事からはやや意外な印象を与えるかもしれないが、クリステヴァ自身、90年代にいくつかのテクストで明示的にサルトルに言及している。それに対し、もう一人のポストモダニスト・リオタールはサルトル同様に幅広い仕事を展開しながらも、いずれの文脈においても、サルトルに対して冷やかであるように感じられる。これらふたりの思想家とサルトルの関係をいま、いかに考えることが出来るだろうか? 松葉氏の応答では、小説を書き始めてからのクリステヴァには確かにサルトル(あるいはボーヴォワール)を意識した様子が見られることが確認された一方、そもそもサルトルの論敵であったルフォール等とも近い位置にいたリオタールは、その出自からしても、知識人論などいくつかの文脈で批判こそしているものの、どちらかというとサルトルに対し無視・無関心というような側面の方が強かったのではないかという指摘がなされた。
ルエットやナンシーのテクストを参照しつつ、サルトルとバタイユの近年の比較を問題にされた岩野卓司氏には、両思想家の比較の一例としてイタリアの美学者マリオ・ペルニオーラの『無機的なもののセックスアピール』における両者への言及を参照しつつ、両者の中心概念である「まなざし」あるいは「眼球」に関する質問を投げかけた。岩野氏からはバタイユにおける「眼球」の問題系に関する丁寧な解説をいただいたほか、氏が、現実的な出会いやテクストにおける言及関係等とは別に、今だからこそ見えてくるふたりの思想家の比較の可能性を模索することの重要性――あるいは面白さ――を強調されていたことが印象的であった。
最後に、すでに多くの著作でサルトルとレヴィナスの比較を行っている合田正人氏には、合田氏自身の研究のスタイルの変遷に関する質問に加え、レヴィナスとサルトルを比較する際にしばしば取り上げられる「可傷性/傷つきやすさ(vulnérabilité)」というキーワードに関する質問を投げかけた。合田氏からは、それほど知られていないが重要だと考えている思想家たちに関する興味が近年両者を比較する論考にも深く関わってきていることや、レヴィナスにおけるスピノザの影響の重要性を――レヴィナス自身に反して――感じるようになったことが自身の研究のひとつの転換点であったと返答がなされた。また、vulnérabilitéに関してもひょっとしたらスピノザにヒントがあるのではないかという――ともすれば意外な――応答がなされた。「スピノザであると同時にスタンダールでありたい」という今や伝説的な台詞を解釈する際の導きの糸にもなり得るだろうか。
 特定質問者としては、全体として投稿された論文からやや離れた質問になってしまったことに対する反省がないでもないが、ぎりぎりのところで、報告者自身の研究・関心と関連させながら、サルトルを読むための新しいヒントを引き出すことを試みたつもりである。少なくとも、「サルトル研究」の外部からもたらされる視点が内部のそれとは異なる刺激を持つものであることは改めて確認できたのではなかろうか。個人的には、今後もこうした研究が発表されることを楽しみにしている。
なお、当日欠席された檜垣立哉氏に対して考えていたのは以下のような質問である。ドゥルーズとサルトルに関してもすでにいくつかの論点での比較の蓄積があるが、『アンチ・オイディプス』における『弁証法的理性批判』への言及や、フランシス・ベーコン論の脚注における『家の馬鹿息子』への参照など、あまり考察が深められていない領域もあるように思われる。このあたりに関し、ドゥルーズ研究での動向を聞いてみたかった。あるいは、檜垣氏自身が日本哲学等を論じる際に注目する「偶然(性)」の主題はサルトルにおいてもいくつかの次元で問題になるものであろう。例えば、初期の短編「壁」のラスト・シーン等、賭博の哲学者はいかに解釈するだろうか。機会があれば聞いてみたい。
(栗脇永翔・東京大学)

サルトル関連文献
・ ジャン=ポール・サルトル『主体性とは何か?』澤田直・水野浩二訳、白水社
・ 海老坂武『サルトル『実存主義とは何か』』2015年11月(100分de名著)NHK出版
・ 澤田直「戦争と戦争のあいだ サルトルのアンガジュマン思想」、齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機』講談社選書メチエ
・ 森功次『前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳』東京大学人文社会系研究科・博士論文
・  Gerhard Preyer, Subjektivität als präreflexives Bewusstsein Jean-Paul Sartres „bleibende Einsicht“. Zu Manfred Frank, Präreflexives Selbstbewusstsein. Vier Vorlesungen, Stuttgart: Reclam 2015

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。

日本サルトル学会会報第44号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°44 mai 2015
日本サルトル学会会報     第44号 2015年 5月

次回研究例会のお知らせ

第35回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。今回は『サルトル読本』http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15069-2.htmlの刊行記念企画として、合評会を兼ねたシンポジウムを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

『サルトル読本』出版記念シンポジウム

日時:2014年7月18日(土)10 :00~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス7号館 7301号教室
池袋キャンパスへのアクセスhttp://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/
キャンパスマップhttp://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/

受付開始 9 :30
第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』I部、VI部)
第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)
第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV部、V部)
総 会 18 :00~18:15
懇親会 19:00

第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00
 登壇予定者: 永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直 (『サルトル読本』I部、VI部執筆者)
   特定質問者: 関大聡
   司 会: 森 功次

第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30
 登壇予定者: 谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次 (『サルトル読本』II部、III部執筆者)
  特定質問者: 赤阪辰太郎
  司会: 永野潤

第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00
 登壇予定者: 加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人、檜垣立哉 (『サルトル読本』IV部、V部執筆者)
  特定質問者: 栗脇永翔
  司会: 澤田直
本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。
当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

お知らせ
・クロード・ランズマン氏が6月に来日されます。広島(22日、国際会議場)、東京(26日、日仏会館、28日、アンスティテュ・フランセ)で講演される予定です。日仏会館の講演の詳細は以下のとおりです。その他の講演の詳細については各会場のHPをご参照ください。
2015年6月26日(金)15 :00-17 :00 日仏会館 1Fホール
講演会「記憶の映画について語る---「ショア」 から「不正義の果て」まで」
講師:クロード・ランズマン(映画監督、作家)【司会】澤田直(立教大学)
主催:(公財)日仏会館、日仏会館フランス事務所

・フィリップ・フォレスト氏(作家、ナント大学教授)が来日し、講演される予定です。
2015年7月9日(木) 18:30~20:00  立教大学池袋キャンパス5210教室
「文学に(いまなお)何ができるか? サルトルの50年後に Que peut (encore) la littérature?: 50 ans après Sartre」

サルトル関連出版物
・アニー・コーエン=ソラル『サルトル伝』(上・下)、石崎晴己訳、藤原書店
・合田正人『フラグメンテ』、法政大学出版局(第五部に「文学的想像力と政治──サルトルと石原慎太郎」という章があります)
・市野川容孝・渋谷望編著『労働と思想』、堀之内出版(永野潤「サルトル──ストライキは無理くない!」)

発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。

日本サルトル学会会報第43号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°43 février 2015

日本サルトル学会会報              第43号 2015年 2月

研究例会報告

第34回研究例会が脱構築研究会との共同で、以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時:2014年12月6日(土) 13:00~18:00
会場:立教大学キャンパス5号館5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

 ヌーデルマン氏は、フランスではあいかわらずデリダ世代の思想とサルトル思想の間には断絶が色濃く残っており、今回のような試み、すなわちサルトル×デリダを学術的に対峙させようという試みは想像すらできない状態だというコメントから始めた。この機会に、デリダとサルトルを動物という切り口から語ることができるのは日本という場所のお陰であるという氏の前口上は、多少のリップサービスはあるとしても、偽らざる気持ちであろう。
 晩年に動物の主題をきわめて重要な問題として論じたデリダとは異なり、一般にサルトルは動物にほとんど関心がなかったと思われているが、ヌーデルマン氏は、『倫理学ノート』や『家の馬鹿息子』に潜む犬の姿を焙り出しながら、まずは聴衆を驚かせた。両者に共通する「まなざし」というきわめてサルトル的な主題から、さらに考察を続けつつ、一見すると、猫に見られる自分を語るデリダは動物と親密的であり、他方、飼い主に向けられた犬の視線によって偽りの主観性を語るサルトルは動物に対して疎遠な思想家のようにも見えるが、はたしてそうであろうか、と氏は問い、両者のテクストをつぶさに検討すれば、じつはサルトルもまた旧来の人間と動物の区別という形而上学を別の角度から崩していることが見てとれると指摘する。たしかに、人間以外のものを排除するanimalという語をanimotsという語に置き換えたデリダが、より明示的に、この区別の意味を問い直していることは確かだとしても、『家の馬鹿息子』で、犬の倦怠について語るとき、サルトルもまたきわめてラディカルな仕方で、人間/動物という区別に疑問を突きつけているというのだ。
 このように人間/動物の形而上学的境界がぼやけてくれば、必然的に人間が動物との関係でもつ倫理的/政治的な問題が問われざるをえなくなるだろう、とヌーデルマン氏は述べた上で、とはいえ、フランスにおいては、70年代から動物の権利が顕在化したアングロサクソン系の思想と比べると、必ずしも倫理・政治的なアプローチとはならず、サルトルもデリダもその例外ではないとする。それでもサルトルがすでに47年執筆の『真理と実存』において、ステーキと屠殺の問題に触れていたことは特筆すべきことだと述べた。いずれにせよ、デリダもサルトルも菜食主義者にまではならなかった、というユーモアに溢れた指摘で氏は発表を締めくくった。
 質疑の際に、デリダを語るのに、主体といった従来の哲学的語彙を用いるのは不適切ではないか、という質問もあったが、ヌーデルマン氏は、デリダを語るからといって、デリダ派的な語法にこだわる必要はなく、むしろより広い文脈からアプローチすることが重要であると説いたのが印象的であった。(澤田直)

第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

 本ワークショップ「サルトル×デリダ」は、サルトル学会の二名と脱構築研究会の二名の発表で進められた。
 はじめに西山雄二氏による発表が行われたが、デリダのサルトルへの言及を準網羅的に汲み上げるものとして幕開けに相応しいものであった。改めて驚かされるのは、あまり強調されていないながらもデリダが青年期以来サルトルに対して一貫した言及を続けているという事実である。その関係には「ある種の距離」が留保されてはいるものの、ユダヤ性、現象学、人間主義とハイデガー、文学とアンガジュマン等、両者の関心がつねに近傍をなぞっており、単に「乗り越えられたもの」としてサルトルのデリダへの影響を斥けるにはあまりに惜しい。とりわけ69年の『嘔吐』に関する講演は「私の講演の中で一度も出版しようと思わなかった唯一のもの」として今日に至るまで公開されていないが、この拒絶の身振りにこそ注目する必要があるだろう。発表後半ではエドワード・ベアリングのThe Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968 (Cambridge University Press, 2011)という最新の研究に即して、青年期のデリダを「ポスト実存主義者」と捉える試みがなされた。教師からたしなめられるほどサルトルに傾倒していたデリダが、それでも彼と分かたれていたのは、キリスト教実存主義というもう一つの軸によるものだという。まだ参照できないテクストも多いが、両者の関係を執念深く問うてゆくことは、戦後フランスの知的動向の見方をも変革しうるきわめて意義の高い試みだと確信できる発表であった。
 『サルトルとマルクス』(春風社、2010-2011年)でサルトルにおける「ポスト脱構築的なもの」に注目していた北見秀司氏の発表は、繊細な議論としては同書を参照されたいが、脱構築への「挑戦状」といった趣があり、固唾を飲んでその展開を見守った。北見氏はまず、サルトルとマルクスの論における非現前的なものとしての他者性を指摘する。サルトルにとっては対他存在と言語の規定によって、マルクスにとっては市場の交換価値に由来して、<他者>=「疎遠な力」が社会関係において支配的なものとなる。これを否定するのがコミュニズムの理念であったわけだが、『マルクスの亡霊』のデリダはこれを他者性を否定する「脱構築以前」的なものと見做す。しかし北見氏によれば、「疎遠な力」とは他者性そのものではなく、それが乗り越えられることで初めて個々の他者の自由と特異性を肯定しうるものである。逆にデリダは、他者の非現前的な現前性を擁護するにしても、それと複数の具体的な他者を区別・記述できるのか。これが北見氏の問いかけであり、「来るべき民主主義」をさらに推進するために有効な議論として『弁証法的理性批判』の<同等者>概念が提示された。全体討論では藤本氏から、脱構築だけでは不十分だということはデリダも述べており、「ポスト脱構築」は双方に共通する課題であることが示された。「挑戦状」は友愛的な雰囲気に雪崩れていったわけだが、さらに議論を尽したいという欲望も残る。たとえば北見氏は前著に引き続き『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(共著、作品社、2014年)でもフランスの社会運動ATTACに関心を示されているが、デリダも晩年に同団体の動きに「新しいインターナショナル」の可能性を見ていた。両者の理論が実践運動と取り結ぶ関係の検討を通じて、その有効性を問うことも期待できそうである。
 藤本一勇氏の発表は表題の示すとおり両者における視覚の問題を取り上げたものである。まず、サルトルにおける対自と即自の関係が視覚的な構成を伴うものであることが指摘される。対自同士の関係も同じ構成において把握されるのだが、ここで藤本氏は「遠隔操作性」という概念を導入し、視覚が「触れずに触れる」幻想を与えるものだと論じたうえで、眼差し論における「石化」をそこに位置付ける。対自の石化はこうした対象操作の位相で捉えられるのか、その是非は全体討論の議題の一つとなったが、視覚の問いが隣接する様々な諸感覚と響きあい、出席者もそれに引き込まれてゆくという意味で、まさしく「触発」的な問いとなったように思う。一方、現前の形而上学の批判者であるデリダにとって視覚的現前性は痕跡に向けた絶えざるずらしの対象となる。眼が描き出す線traitは退引/引き直しretraitによって立体化され、そのretraitの痕跡として他者との出会いがある。また石のテーマが「墓石」のそれとして変奏されることも興味深い。そして、ある種連想的な議論の流れのなかで一貫していたのは「視覚と他者」への関心であるだろう。最後にふたたびサルトルの他者論に立ち返った藤本氏は、サルトルにおける対他関係の葛藤について、まず自己の自由があって次いで他者の自由があり両者が葛藤する、というのではなく、まず他者性との視覚的・トラウマ的な出会いがあり、それが反照的に自己の自由の意識を芽生えさせるのではないか、と提起することで発表を結ばれた。討論ではこの提起がサルトルについての読解なのかそれとも藤本氏自身の立場なのかが問われたほか、遠隔操作性と窃視との関係が取り沙汰されるなど、活発な議論が展開されたことを報告しておく。
 最後に澤田直氏の発表では、デリダとサルトルによるフランシス・ポンジュ論(『シニェポンジュ』と『シチュアシオンⅠ』所収の「人と物」)が検討された。二つのテクストは両者の哲学観・文学観を露わにしている。サルトルが非人間的な物(事象)そのものに接近するポンジュを「自然の現象学」者として評価すれば、デリダは署名、法、固有性=清潔さといった観点からアプローチする。一見したところ交差するところのない両者の議論に、澤田氏は細やかな読解を行うことで争点を探ってゆく。たとえば「命名」への関心は彼らに共通するものに見える。しかし、ポンジュ自身が名付けを通じての「物の本性について」の探究に意欲的であり、サルトルもそれを現象学的観点から受け入れているのに対して、デリダは、問題は事物の本性ではなく、他者としての事物が我々に命ずる法なのだと反駁する。ここに浮き彫りにされているのは、現象学をめぐる両者の(間接的な)対峙であり、それが命名という言語の問いを介在することで、「言語が指示しているものは物なのか、それとも物の観念なのか」と要約されうるような言葉-物-観念の三項関係を湧出させる。そしてこの三項関係は、サルトルの『家の馬鹿息子』やデリダの最初の博士論文のタイトル(『文学的対象のイデア性』)にまで延べ拡げて論じられるべきだろう、という展望が明らかにされた。時間の都合で展開されない項目も残ったが、明言しないながらもデリダがサルトルに挑む仕草がスリリングに論じられた。澤田氏はその戦略を、サルトルの署名に対抗し、それを消し去ろうとしながら、かつ副署する、という意味で、contresigneと名付けられたが、これを読解一般の方法論にまで高めることもできよう。密度の高い発表であった。
 最後に少し感想を。報告者にとって本ワークショップは寝耳に水というべきものであり、いったいどのような発表が聞けるのかと当日まで只々受け身に待ち構えていたが、いずれもこれまでにない仕方でサルトルとデリダを結び合わせるものであった。これまでほとんど顧みられなかった関係性がこのように問い直されたことの背景としては、思想の世界の地盤変化を指摘することもできよう。つまりいま、生きていける思想とそうでない思想とが厳しく選別される過程にあるのであって、それぞれのポテンシャルが試されている。そしてそれが災難となるかそうでなくなるかは、研究者の手に委ねられていると言っても言い過ぎではあるまい。ワークショップを聞く者としては、デリダ研究もサルトル研究もすぐれた研究者に恵まれたものだと感嘆することができた。しかし私(私たち)はたんなる傍観者ではありえないので、この場のなかで自分に何ができるか、おおいに考えるよう刺激された思いである。(関大聡)


サルトル関連出版物

・ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子』第四巻、鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳、人文書院、2015年2月刊行予定
・ 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年2月刊行予定
・松葉類「「自由」の哲学者たち:レヴィナスとサルトル」、『宗教学研究室紀要』vol.11、京都大学、2014年

退会者

朝西柾氏が退会されました。なお、朝西氏からは退会時に1万円の寄付を頂きました。ここにご厚意に感謝の意を表するとともに、ご報告いたします。

逝去者

 会員の片山洋之介氏(茨城大学名誉教授)が2014年12月に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

今後の研究例会予定のお知らせ
 次回の研究例会は、7月11日(土)を予定しています。会場は立教大学の予定です。

日本サルトル学会会報第42号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°42 Nobembre 2014
日本サルトル学会会報              第42号 2014年 11月

次回研究例会のお知らせ
第33回研究例会が下記の通り、脱構築研究会との共同で開催されますので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

要旨
西山雄二「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
今年刊行された、Edward Baring, The Young Derrida and French Philosophy, 1945–1968 (Cambridge U.P., 2014)は、デリダ・アーカイヴの資料群を調べ上げ、若きデリダがいかに自己形成したのかをテクストの変遷とパリの知識社会の分析から描き出した労作である。デリダは構造主義における現前性の要素を批判し、「ポスト構造主義」を切り開いたとされる。だが、アルジェリアの高校時代から1952年に高等師範学校に入学するまで、若きデリダはサルトルやヴェイユの思想、エチエンヌ・ボルヌのキリスト教実存主義から強い知的刺激を受けている。Baringは、少なくとも1964年に高等師範学校の講師になるまで、デリダは「ポスト実存主義者」と呼称されるような立場にいたと主張する。Baringの著作を紹介する形で、若きデリダと実存主義の関係について発表をおこなう。

北見秀司「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
 本発表では、まず、『存在と無』が「超現象的なもの les transphénoménaux 」すなわち「現れないもの」の存在論であり、そこで展開される他者論がデリダの言う「現前性の形而上学」を超えていること、したがってサルトル哲学がポスト脱構築的なものであることを示したい。
ついで、サルトルとデリダのマルクス解釈における相違を指摘したい。共産主義社会は「透明かつ単純」になるというマルクスの発言をもって、マルクスの理論は「脱構築以前 prédéconstructif 」にとどまるとデリダは断ずるが、サルトル弁証法は、この共産主義社会においても他者の他者性・意識の絶対的複数性を保持する理論を提供していることを論じたい。ここから明らかになるのは、現前野を超える他者との関係がどのような場合、抑圧的になるか、またいかなる関係において万人の生と自由を肯定しうるものとなりうるか、ということである。これは、「現前性の形而上学」の脱構築の後に来る、「来たるべき民主主義」のための理論的作業であると見なしうる。サルトルの非人間中心主義的疎外論と弁証法は、今なお猛威を振るい続ける新自由主義の自由観に対抗する上で、重要な復権すべき思想であると思われる。

藤本一勇
「サルトルとデリダの間――他者の複数性」 La pluralité de l’autre ― entre Sartre et Derrida
デリダは伝統的な「自己」の哲学に対して「他者」の哲学を展開したとよく言われる。個々人であれ集団であれ、自己の論理に閉塞し、他者を抑圧・排除する体制・システムの暴力構造を暴き、他者の声=痕跡を拾い上げ、他者への歓待によってシステムの自閉を防ぐのだ、と。それが「差異の政治」と呼ばれることもある。しかしそのとき問題になっている「他者」とは、「他性」とはいったい何なのか。体制から排除される他者もあれば、むしろ体制を保持し強化する他者もある(ラカンやアルチュセールが論じるような大文字の《他者》、大他者)。自己や自律に対置された他者や他律は「疎外」の別名ではないのか。他者や他性は根源的に複数的である。では他性の複数性のなかで、どのようにして抑圧的・暴力的な他者とそうでない他者とを区別するのか。開放的な他性と抑圧的な他性の境界線はどこにあるのか。サルトルは『弁証法的理性批判』でこの問題を論じた。はたしてデリダはこの他者の複数性と他者内部の多様な境界線の問いにどこまで答えられているのか。そしてサルトルは? サルトルとデリダにおける他者の複数性の問題を比較検討し、自己の反射装置ではない他者論の可能性を探ってみたい。

澤田直「文学と哲学の分有 デリダとサルトルの文学論」Partage de la littérature et de la philosophie : Derrida contresigne Sartre
デリダとサルトルが分有する領域は多岐にわたるが、本発表では、二人の哲学者にとっての文学の位置を中心に考察してみたい。デリダが若い頃から文学に強い関心を持っていたことは本人の証言からも明らかだし、作家でもあるサルトルにおいて文学が若き日から中心的な関心事であったことは言うまでもない。だとすれば、彼らにとって哲学と文学との関係はどのようなものであったのだろうか。キルケゴール・ニーチェ以降、二つの領域はクロスオーバーすることが頻繁になったとはいえ、プラトンを思い起こすまでもなく、哲学と文学は長らく相容れぬものとされてきた。哲学者が文学について語ることの意味は何か? 自伝的なものという問題構成も重要ではあるが、本発表では、評論を中心に考察してみたい。デリダが論じた作家たちが、サルトルが取り上げたものと重なっているのは、果たして単なる偶然だろうか。マラルメ、ボードレール、カフカ、ポンジュ、フローベール、ジュネ、ブランショといった両者によって論じられた詩人、作家が提起する問題を糸口に、両哲学者のアプローチ追いながら、文学と哲学の分有について論じることにしたい。
発表者略歴
西山雄二(Yuji Nishiyama)
首都大学東京・准教授。専門はフランス思想。1971年生まれ。一橋大学言語社会研究科博士課程修了(学術博士)。著書に、『カタストロフィと人文学』(編著、勁草書房、2014年)、『人文学と制度』(編著、未來社、2013年)、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、ほか。訳書に、ジャック・デリダ『獣と主権者 第1巻』(白水社)、『哲学への権利 第1巻』(みすず書房)、『条件なき大学』(月曜社)、『名を救う』(未來社)、ほか。

北見秀司 (Shuji Kitami)
津田塾大学国際関係学科教授。専攻:哲学・社会思想史。1960年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程、単位取得の上、満期退学。パリ第10大学(ナンテール)哲学科博士課程修了。主な著書・論文に、『サルトルとマルクス』(全2巻、春風社、2010−2011年)、「アタック・フランスとフランス緑の党の政策提案」(長砂・荒木・聴濤・岩田・大西・北見『ポスト資本主義を構想する』本の泉社、2014年)、 « Sartre et Merleau-Ponty : l’Autre entre le Visible et l’Invisible --- Démocratie et construction d’une Raison » (Les Temps Modernes, Gallimard, no.572, 1994)など。

藤本一勇(Kazuisa Fujimoto)
早稲田大学文学学術院教授。専門は哲学、表象・メディア論。1966年生まれ。パリ社会科学高等研究院DEA。著書に『情報のマテリアリズム』(NTT出版)、『外国語学』(岩波書店)、『批判感覚の再生』(白澤社)、訳書に、デリダ『プシュケーI』、デリダ『アデュー』、デリダ/ハーバーマス『テロルの時代と哲学の使命』(以上、岩波書店)、デリダ『散種』(共訳)、デリダ『哲学の余白』(以上、法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(藤原書店)、フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)など。

澤田直(Nao Sawada)
立教大学文学部教授。専門はフランス現代思想、フランス語圏文学。1959年生まれ。パリ第1大学哲学科博士課程修了(哲学博士)。著書に『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社)、訳書に、ジャン=ポール・サルトル『言葉』『真理と実存』(以上、人文書院)、『自由への道』(共訳、岩波文庫)、フェルナンド・ペソア『ペソア詩集』(思潮社)『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)『荒木経惟 つひのはてに』『夢、ゆきかひて』(以上、共訳、白水社)など。

フランソワ・ヌーデルマン氏滞在中の予定

フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)教授の滞日中の講演は次の通りです(共同ワークショップ「サルトル/デリダ」特別講演を含む)。多くの皆様のご参加をお待ちしております。

略歴: 1958年生まれ。大学教授資格保持者(文学、1986)、哲学博士(パリ第四大学、1992)。専攻は哲学・文学だが、芸術にも造詣が深く、その分野での著作も多い。ジャック・デリダの後を受け国際哲学コレージュ院長(2001〜2004)、ジョン・ホプキンス大学、ニューヨーク大学の客員教授などを歴任。エドゥアール・グリッサンが設立した全—世界学院のセミナーの責任者も務める。2002年からは、ラジオ・フランス・キュルチュールの哲学番組Les vendredis de la philosophieを制作し、人気を博した。邦訳には、哲学者と音楽との関係を多角的に論じた『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』(太田出版)など。

12月6日(土)13:00〜14:30
特別講演 « Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal » 
日本サルトル学会/脱構築研究会/立教大学文学部フランス文学専修主催
共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
立教大学池袋キャンパス 5501教室 逐次通訳

12月7日(日)17:00 
セミナー « Philosophes à personnalités multiples »
日仏会館 501号室 通訳なし 人文科学系若手研究者セミナー  
司会:澤田直(立教大学・日仏会館学術委員)

12月9日(火)18:00 
一般向け講演 « Penser, jouer, délirer : quand les philosophes touchent à la musique »
日仏会館 1階ホール 同時通訳有り 
司会:クリストフ・マルケ(日仏会館)、ディスカッサント澤田直(立教大学)

12月11日(木)17:00〜19:00  
講演 « Le mensonge, un génie philosophique »
東京大学UTCP主催 東京大学駒場キャンパス 
司会:桑田光平(東大)

サルトル関連出版物
 フランソワ・ヌーデルマン 『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』橘明美訳、太田出版、2014年11月
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年1月刊行予定

退会者
・ 箱石匡行氏が退会されました。

発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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