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日本サルトル学界会報第37号 [会報]

研究例会の報告

 第31回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月6日(日) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5210教室

研究発表1
「サルトル/ファノン試論」
発表:中村隆之(大東文化大学)
司会:鈴木正道(法政大学)

 中村氏は、サルトルの反植民地主義という戦いをフランツ・ファノンとの関係を軸に考える。二人の思想家の互いに投げかけた呼びかけを、当時の読み手の姿勢を視点に入れながら辿り、さらに現代に結び付けて考えようとする発表である。
 中村氏は、まずサルトルの状況論を分析する。サルトルは戦後すぐに、アンガージュマンという考えを掲げ、時代に即して書くことを心がけ、それゆえに時代状況の変化にともない忘れられる傾向があった。またユダヤ人問題に関して「本源的ユダヤ人/非本源的ユダヤ人」という軸で考察しているように、実践的というよりも倫理的な観点から彼の状況に対するアンガージュマンは展開した。
 レオポルド・サンゴールの詩選集への序文「黒いオルフェ」は、サルトルの、ネグリチュードという呼びかけに対する答えと考えることができる。ユダヤ性とは異なり見た目で明らかな肌の色がここでは扱われている。しかし白と黒の対立は止揚されるべきものとして捉えられ、また階級の対立という普遍的な問題に対して個別的で二義的な問題とされる点で、思弁的な結論となっていると中村氏は指摘する。
 歴史における止揚の一段階としてのネグリチュードという考えは、ファノンにとっては受け入れがたかったと中村氏は続ける。サルトルは、ファノンの『血に呪われたる者』の序文(1961年)を彼と対話を行なった後で書いた。アルジェリア問題にも取り組んでいたサルトルは、ファノンの著作の要を成す暴力がフランス側の暴力の跳ね返りであると述べ、アフリカにおけるフランス植民地の問題に正面から組み合う。その意味でサルトルはファノンの呼びかけを受けた上で、フランスの左派知識人に呼びかけを行なったと言える。
 会場からは、はたしてサルトルにとって、階級問題こそが普遍的で他の人種問題などは個別問題にすぎなかったのかという疑問が出された。あの時代においては確かにそう考える傾向があったようだが、ファノンの影響もあり、アルジェリア問題などから考え方が変っていったのではないかという答えがやはり会場から出た。また発表には、二人の思想上の交換に関する具体的な考察が足りないのではないのかという指摘もあった。司会者としては、自分の扱う題材に関して様々な資料を集め、頭の中で消化し整理した上で行なった好発表だったと考えた。(鈴木正道)


研究発表2
「サルトルの思想と生における「遊戯」について」
発表者:関大聡(東京大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

 サルトルの生を理解するうえでは「遊戯jeu」が鍵語となる。その根拠として、関氏はまず『奇妙な戦争』から40年3月9日の日記を引用した。「私の人生に何かしら一貫性があるとすれば、それは私がかつて一度も真面目に生きたいとは思わなかったことである」。一般に「遊戯」は楽しみ以外に目的を持たない非現実的活動とみなされるが、この戦中日記でサルトルは「遊戯」の対極に「くそ真面目な精神」を置いて、むしろ後者を批判している。決定論的な「くそ真面目な精神」に対し、「遊戯」とは自由な自律的行為であり、だからこそ彼は、続く11日の日記に「人は遊戯しているときにしか十全に人間ではない」というシラーの言葉を引き、これに「全面的に同意する」と記しているのである。
 「遊戯」をめぐるサルトルとシラーの思想的近親性を論じた先行研究、ならびにシラーとニーチェの「遊戯」を比較した先行研究に導かれ、関氏はそこからさらにニーチェとサルトルを同じ系譜のなかに位置づけようとする。シラーは『人間の美的教育について』で、人間の現実的「素材衝動」と理念的「形式衝動」の間に、現実性と形式性の調和、偶然性と必然性の調和、忍従と自由の調和としての「遊戯衝動」を設定した。これを模してニーチェは『悲劇の誕生』を著し、「素材衝動」に「アポロン的衝動」を、「形式衝動」に「ディオニュソス的衝動」をそれぞれ対応させて、その間に「美的遊戯としての芸術」を位置づけている。彼から強い影響を受けたサルトルは、芸術の創造という美的遊戯を『嘔吐』の創作で実践したのではあるまいか。これが関氏の見立てである。
実際、サルトルは『存在と無』で「遊戯=スキー」を論じ、「スポーツは芸術と同様、創作的である」と表現している。ただし、問題がひとつ。ここでは「遊戯=スキー」が自然の「我有化」をめざす活動として記述されてしまっている。関氏によれば、これは現実世界に根をおろすことを拒絶する「滑走的遊戯」、「ひとり遊び」である。「本来的遊戯」とは、世界や他者の我有化を目指すものではなく、世界と他者に開かれたそれ自体自由な活動でなければならない。以後のサルトルの著作は、芸術創作と政治の領野を通じて、そのような「本来的遊戯」を追求してゆくものになるだろう。今後の研究をこのように展望するかたちで本研究発表は閉じられた。
 続く質疑応答では、引用箇所の適切さに関する疑義、発表で使用された語彙の正確な説明を求める質問が提起された他、« jeu » という語が含む「賭け」や「演戯」といった多様な意味にも目配りが必要ではないかという意見も出された。これまであまり俎上に載せられたことのない主題に着目したユニークな研究に、さらなる発展を期待するコメントが質問や意見とともに多く寄せられた。(翠川博之)


研究発表3
「サルトルとバタイユ――不可能な交わりをめぐって」
発表:岩野卓司(明治大学)
司会:澤田直(立教大学)

 サルトルとバタイユが同時代の思想や文学のステージでどのように関わったのか? この大きな問いに岩野氏はきわめて明確なパースペクティヴを引きながら、とくに戦中期から戦後すぐの時期にかけての両者の作品に焦点をあてて、見事なサーベイを行った。
 サルトルとバタイユは、ある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている、と岩野氏は指摘し、ブランショの小説『アミナダブ』に対する二人の解釈から考察を始める。サルトルは、『アミナダブ』をカフカの『城』に似た幻想文学と捉え解読を試みるのだが、その根底にあるのは「表」と「裏」の二元論である。幻想文学が示しているのは、「裏側」の「あべこべの世界」であり、それをひっくり返せば「表側」の日常の世界となる。一方、バタイユは『有罪者』の中で、『アミナダブ』の世界を日常の世界を反転したものとはとらえずに、「夜」の神秘経験としてそのまま肯定する、という違いがある。
 同様の違いは「新しい神秘家」での、サルトルによるバタイユ批判にも現われている。バタイユの「非-知」、「非―意味」、「無」を、サルトルはそれらの実体化して批判するが、その理論的根拠は、「存在は存在し、無は存在しない」というパルメニデス以来のテーゼだ、と岩野氏は述べる。つまりバタイユが「存在」でも「無」でもなければ、「存在」でも「無」でもあるような何か、知でもなければ非-知でもなく知でもあれば非-知でもある何かを語ろうとしているのに、サルトルはそれを二元論で割り切ろうとしているのだ。
 『嘔吐』と『内的経験』の間には、「瞬間」、「沈黙」、「絶対的なものの魅惑」、「木々を通しての神秘体験」といった類似が見られるが、決定的な相違もある。そのなかでも最も重要なものが、サルトルにおける「余計なもの」とバタイユにおける「最後の人」の違いであり、これはコミュニケーションという重要な問題系へとつながっている。
 岩野氏は両者のテクストを丹念につきあわせ、丁寧に跡づけながら、バタイユが、極点に向けて問いを徹底する傾向をもつのにたいし、サルトルのほうは究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者と見なすことができると結論づける。ただし、このサルトルの不徹底さこそがサルトルの多元性、多産性の源であると補足もする。
 発表に続く、質疑でも多くの発展的な対話が続けられ、このような同時代の思想家や作家との関係を再検討することの意義が十分に感じられた。たいへん充実した発表と討議であった。(澤田直)

総会報告
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。
・ 総会の最後には、竹内芳郎著『討論 野望と実践』閨月社(p.845)で述べられていた近年のサルトル研究に対する批判をめぐって、少しながらディスカッションが行われました。
次回研究例会のお知らせ
次回の研究例会は12月を予定しています。


サルトル関連出版
 渡部佳延 『サルトル、存在と自由の思想家』 トランスビュー 2013年8月.
 渡部佳延 『サルトル、世界をつかむ言葉 』 トランスビュー 2013年8月.
(渡部佳延氏は、1998年「朝西柾」の筆名で『サルトル 知の帝王の誕生』(新評論)を出版されています)。
 西永良成 『グロテスクな民主主義/文学の力 ユゴー、サルトル、トクヴィル』 ぷねうま舎 2013年8月.

また、Études sartriennesの最新号に、サルトルのル・アーブル時代の講演草稿が掲載されております。
・ Jean-Paul Sartre, « La technique du roman et les grands courants de la pensée contemporaine. Conférences de la Lyre havraise, novembre 1932-mars 1933», in Études sartriennes, no16, Ousia, 2012.
アンドレ・ジィド、オルダス・ハクスリー、エドゥアール・デュジャルダン、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ジョン・ドス・パソスらに触れながら、サルトルの小説観・文化論が語られています。初期サルトルの思考が読み取れる貴重な論考がこのたび初めて公開されておりますので、関心をお持ちの方はぜひ御覧ください。(http://www.ges-sartre.fr/etudes-sartriennes.html


発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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日本サルトル学会会報 第35号 [会報]

研究例会の報告

第30回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 12月15日(土) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)四号館 4405教室


研究発表1
 「『バリオナ』のミステール」
 発表者:翠川博之(東北大学)
 司会 :岡村雅史(関西学院大学)

 当学会で以前『キーン』を取り上げられた発表者は、数多くのサルトル劇を扱った後、最初の戯曲『バリオナ』に目を向ける。以下がその発表の主旨である。
 この劇の創作は「集団」「抵抗運動」「状況」「呼びかけ」といった戦後サルトル文学の起点ともなっている。にも拘らずこの劇がその後上演されず、作者によっても芸術的に「不出来」だとみなされ、認知されず、恰も私生児のごとき扱いを受けたのはなぜか。作者の日記やノートを参照しつつ、この戯曲のテクストの精緻な分析から、その謎が明らかにされていく。上演されたのは第2次大戦中の捕虜収容所であり、ドイツ軍の目を欺くため、かつまた同じ捕虜の中にいた聖職者の共感を得る目的もあって、この劇作は聖史劇(ミステール)の体裁を装っているが、多重のメッセージを含み、また作品そのものへの否認も見られる。即ち実存主義思想を示す要素と、これに反する汎神論的要素の共存など、作品の内外に張り巡らされたディスクールが互いに否定し合うといった、一つの大きな回転装置(トゥルニケ)を成している。そのいくつかの点が作者の意に反するものと思われ、それがこの戯曲が認知されなかった理由と結論付けられる。しかしこの回転装置はサルトルの作品全般に通底するゆえ、『バリオナ』の重要性は見直されるべきと考えられる。
 以上がその概要であるが、これに対し会場では次のような活発な質疑応答がなされた。列挙すると1)まず発表者の研究によれば、主人公のバリオナの名の由来が<雷の子>の意味となっているが、これは聖書を調べれば誤りであるとのこと。ではなぜプレイヤード版にも載せられた時点でこれが指摘されなかったかという疑問が出たが、今の所は不明という回答。2)la chute dans le mondeの<世界における転落>という訳、<世界への転落>とも解せるのでは。3)『バリオナ』において他人を欺くと共に、自分も欺くサルトルは、この自己欺瞞に気づいていたのか?その点がこの作品に関しての自己嫌悪につながったのではないか。4)示された自由の意志は『存在と無』と同じか?『バリオナ』では責任はすべて人間にあると同時に神を肯定する。かかる2元論は乗越えられるべきとサルトルは考えるが、ここではその方向性が見えない。それゆえ、この劇は明確な志向がわかりにくく、テクスト中心に読み解く必要があろう。5)バリオナの出版事情はイスラエル建国とも関連があるのではないか。これは調査が必要。6)他の作品同様この劇でも多くの事物を比喩としてサルトルは使っているが、それらは『存在と無』を読まないと解読できないものも多く、どこまでが単なる作者の好みの比喩で、どれが象徴なのかの識別が必要ではないか。翠川氏は偶然とは思えない象徴としての事物の表現が多く、また、『バリオナ』と次の戯曲『蝿』では父性/母性、軽さ/重さを示す象徴は逆の使われ方をしていることも指摘。7)さらに事物の存在を示すil y aの多用というサルトルの文体的癖(と本人は、人から指摘を受けたと述懐)は、知覚された事物の絶対化、比喩による世界の所有につながっており、『嘔吐』にも見出される、等々。といった興味深い内容となった。会場の反応はかなり盛況であり、これは発表題目ミステールの言葉が示すその謎解きに発表者がわれわれを巧みに導いたためかと思われる。(岡村雅史)


 ワークショップ 
 サルトル研究近況
 モデレーター:澤田直(立教大学)

 モデレーターがフランスを中心としたサルトル研究の現状を簡単にサーベイ紹介した後、参加者たちが注目する近年の研究書などについて発言し、意見交換を行った。以下に紹介のあった本を挙げておく。
- Clotilde Leguil, Sartre avec Lacan : Corrélation antinomique, liaison dangereuse, Navarin, 2012.
- Aliocha Wald Lasowski, Jean-Paul Sartre, une introduction, Agora, 2011.
- Frédéric Fruteau, La psychologie des philosophes. De Bergson à Vernant, De Laclos, 2011.
- Guillaume Cassegrain, Tintoret, Hazan, 2010.
 なお、Arlette Elkaïm-Sartreの編集によるSituationsの新版の刊行が2010年から始まった。これは従来の版とは異なり、発表順にエッセーをまとめたもの。2012年12月に出版された第二巻には、これまで単行本未収録のアメリカに関する多くの新聞記事発表が収録されているとともに、「文学とは何か」が収められていないという点で、従来の版とはまったく相貌の異なるものとなっていることを付記しておく。(澤田直)


サルトル関連出版物

・ 清眞人『サルトルの誕生〔ニーチェの継承者にして対決者〕』、藤原書店、2012年12月。


事務局からのお願い

 例年通り、みなさまの論文などの情報をGESのBulletinに掲載させていただきたいと思います。ご希望の方は、お名前、論文タイトル、発表誌名、日付などをローマ字で記し、論文の仏訳名、雑誌の欧文名を添えて4月20日までに事務局までメールでお知らせくださいますようお願いいたします。

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日本サルトル学会会報第34号 [会報]

研究例会の報告

 第29回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月8日(日) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)マキムホール202教室

研究発表1
「いわゆる「サルトル・カミュ論争」におけるサルトルのテクスト「アルベール・カミュへの回答」再検討」
発表者:石崎晴己(青山学院大学)
司会 :東浦弘樹(関西学院大学)
コメンテーター:伊藤直(青山学院大学)

 カミュ・サルトル論争を正面からとりあげ分析することに一体どんな意義があるだろうか。大抵の論争がそうであるように、この論争もまた議論がかみ合っておらず、双方ともインテリらしい――あまりにもインテリらしい――言辞を弄しているが、内実は子どもの喧嘩にすぎない。だから、当時の政治的状況に沿って、あるいは21世紀の今日から振り返って、どちらが正しかったかを論じても意味があるとは思えない。しかし、石崎晴巳氏はサルトルの「アルベール・カミュへの回答」を『言葉』を予告する「自己批判の書」と考えた。そこに石崎氏の慧眼がある。
 石崎氏は「アルベール・カミュへの回答」でサルトルが描き出すカミュ像のなかには、官僚・神秘・司法・警察・人種主義などサルトルが嫌悪するものすべてが詰め込まれているとした上で、そこにはサルトル的な「下種野郎」(salauds)のイメージがみられると指摘する。さらに石崎氏は、「カミュは歴史とは無縁であったが、レジスタンスの経験を通して歴史に参加するようになった」というジャンソンの図式をサルトルが踏襲し「内的」に分析していることについて、この批判は捕虜収容所経験によって初めて歴史に目覚めたサルトルにこそふさわしく、戦前の「世界の永遠の不正」との戦いの延長としてレジスタンスに参加したカミュの姿勢の方がむしろ「本来的」であると述べている。つまり、サルトルの語っていることはカミュに向けられたものである以上に自分自身に向けられたものであり、そうであるからこそ過剰なまでに激しくカミュを攻撃することができたというのである。
 例会では、「アルベール・カミュへの回答」でサルトルがカミュの『ドイツ人の友への手紙』を「誤読」して引用していることを指摘し、石崎氏の考察のきっかけをつくった伊藤直氏をコメンテーターに迎え、時間の制約はあったものの活発な議論がかわされた。最後にひと言、長年カミュを研究している者として、カミュが1935年に共産党に入党しイスラム教徒に対する情宣活動に従事した(1937年に離党)こと、1938年『アルジェ・レピュブリカン』紙に入社後、ジャーナリストとして当局の不正を告発したことを付け加えておきたい。カミュは戦前から「参加した人間」であり、サルトルやジャンソンが言うような「歴史とは無縁な地中海人」ではなかったのである。(東浦弘樹)


研究発表2
「サルトル倫理思想におけるエコノミーの影」
発表者:小林成彬(一橋大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

 利己的であることを禁じる「公正」という倫理規範は、もともと社会関係のなかで同等の力をもつ者が利己的に行っていた「交換」に起源を持っている。ニーチェが『人間的な、あまりに人間的な』で示したこの見解を、彼から大きな影響を受けた若き日のサルトルが見過ごしたはずはない。サルトルの倫理思想に「エコノミーの影」が見えるのもその影響のひとつではないか。これが小林氏の見立てである。卒業論文の成果をまとめた本発表は、倫理と経済とが交叉する思想領域を『嘔吐』、『文学とは何か』そして『聖ジュネ』に探りつつ、サルトルにおける倫理学構想の深化あるいは変遷を跡づけようとするものであった。
 『嘔吐』においてロカンタンが孤独のなかでついに「実存」を見いだし得たのは、金利生活者である彼が社会における「物質の交換」から除外されていたからだ、というのが最初の考察の結論である。続いて、『文学とは何か』および『聖ジュネ』における「贈与」が考察された。『文学とは何か』におけるサルトルの立論、すなわち、倫理的問題を特権的に主張する文学は非人称の作者から社会に贈られる純粋贈与であるとする立論をまず再確認したうえで、この論理を『聖ジュネ』にも敷衍しようとしたのが小林氏の独創であり、本発表最大の争点でもあった。『聖ジュネ』では、確かに「贈与する者」と「贈与される者」との非対称性が惹起する権力関係が否定的に言及されている。しかしそれは物質的次元での「贈与」を指しているのであって、ジュネが行った芸術作品の創造はむしろ「物質を非物質的化」した「贈与」と見るべきである。氏による第二の考察の結論はこのように要約できるだろう。
 質疑応答では、まず「エコノミー」という言葉の定義の曖昧さが指摘され、『嘔吐』をめぐる考察と「贈与」をめぐる考察との間に「物質」といった用語以外に明確な接点が見いだせない理由もその不備に問題があるのではないかという意見が述べられた。また、『文学とは何か』で打ち出された倫理的概念としての「贈与」が『倫理学ノート』における「相互性」等についての内省を経て『聖ジュネ』で否定されるに至ったという従来どおりの見方を覆すには、論証にまだ説得力が足りないというコメントも寄せられた。この点について、私見では、「作家の非人称性」および「物質」、「物質の非物質化」という概念にいっそう精密な検討を加える余地があったように思われる。
厳しい指摘も含めて活発な議論が交わされたが、会場の雰囲気は新たに迎えた真摯な若手研究者に対する好意と今後の研究への期待に満ちたものであった。

次回研究例会のお知らせ

 第30回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 12月15日(土) 14:00~17:00
会場 : 立教大学 池袋キャンパス 4号館 4405教室

研究発表1 「バリオナのミステール」
発表者:翠川博之(東北大学)
司会:岡村雅史(関西学院大学)
 
 要旨
「これこそ真の演劇だ、それは共通の状況で結ばれた観衆への呼びかけなのだ」(ボーヴォワール)と、その誕生が重大事件として語られる『バリオナ』。この戯曲は、しかし、サルトルの処女作でありながら長いあいだそれと認知されず、いわば私生児であり続けている。その理由について語るサルトルのディスクールは説明に一貫性がなく、しかもどこか語り口が情緒的に不安定である。「『バリオナ』が認知されなかったのはなぜか?」これを問題として設定し、その理由を作品の思想と文の分析から考察する。『バリオナ』が私生児であるがゆえに放つ魅力の所以についても考えてみたい。

研究発表2 

サルトル研究近況
モデレーター:澤田直(立教大学)

懇親会 17:30

非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

サルトル関連出版物

・白井浩司 『サルトルとその時代』、アートデイズ、2012年9月
・『別冊水声通信 セクシュアリティ』、水声社、2012年8月
・海老坂武『戦後文学は生きている』、講談社現代新書、2012年9月


総会報告

昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。

会則の変更について
本年度の総会にて、会則の変更が提案され承認されました。
主な変更箇所は以下の点です。
1. 理事会の中に「代表理事」という役職を新たに設ける。
2. 理事会外部から会計監査を一人選出する。
本会報の末尾に、改正後の会則を添付しておきます。ご確認下さい。

学会事務局住所変更について
学会事務局が以下の通りに変更することになりました。また、会の公式連絡先として学会用のメールアドレスを作成します。以後、学会への連絡等はこちらのアドレス(ajes.office@gmail.com)を使用することになります。
新住所
〒171-8501 東京豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室

役員の改選について
 役員の任期の二年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の改選が行われ、承認されました。
会長:鈴木道彦(留任)
理事:岡村雅史、黒川学、澤田直、鈴木正道、永野潤、森功次(すべて留任)

新たな役職に関して、理事会から推薦され、以下の人事が総会で承認されました。
代表理事:澤田直
会計監査:翠川博之

会員向けメーリングリストの作成について
 会員向けのメーリングリストを新たに作成することになりました。例会に参加された方でメールアドレスをお伝えしていただいた方については、リストへの登録を開始します。会員の方で登録を希望される方は、お名前、ご所属を明記の上、事務局のメールアドレスまでご一報ください。
 本メーリングリストは、例会情報の連絡をするだけでなく、会員の皆様のあいだでの情報共有にもお使いいただる形で運用していきたいと考えております。シンポジウムのお知らせや、イベント情報の宣伝など、様々な形でお使いいただけるようにしますので、メーリングリストで流して欲しい情報などをお持ちの方は、担当理事(永野)までご連絡下さい。
 また、これまで会報を印刷したものを郵送でお送りしていましたが、メーリングリスト開始以降、会報をメーリングリストでも流すように致します。それにしたがい、会報郵送の停止を希望される方については、会報の郵送を停止します(もちろん、郵送を希望される方につきましては、これまでどおり郵送でお送りします)。郵送の停止を希望される方は、こちらもお手数ですが事務局までご連絡下さい。
 
サルトル学会ホームページの刷新について
 本理事会は、会のホームページを今後はより充実させていきたいと考えております。具体的には、サルトル特集が組まれた雑誌の情報、サルトル本人が執筆したものをまとめた文献情報、サルトル年表などをまとめていきたいと考えています。狙いとしては、会員の皆様の研究促進はもちろんのこと、授業での利用、日本におけるこれまでのサルトル研究を一般にも配信すること、などが狙いです。もし、上に挙げたような情報をデータでお持ちである、別のアイデアを思いついた、など何でも構いませんので、ご協力いただける方がおられましたら、担当理事(森)までご一報ください。
日本サルトル学会会則

 日本サルトル学会は一九九五年六月、鈴木道彦、海老坂武、石崎晴己、澤田直を発起人として、世代を越えたサルトル研究者の自主的組織として成立したサルトル研究会を改組改称したものである。会の活動の指針として、以下の会則を定める。


第一条 本会は日本サルトル学会Association Japonaise d’Etudes Sartriennnes と称する。
第二条 本会は会員相互の研鑽を通じて、サルトル及び関連分野の研究とその発展を図ることを目的 とする。
第三条 本会はこの目的を達成するために次の事業を行う。 1 研究発表会、研究会等の定期ならび随時開催。 2 会報、資料集の刊行。 3  サルトル関係資料、研究文献の情報整理及び紹介。 4 国内外の関連分野の研究団体との交流。 5 その他必要な事業。
第四条 本会は上記の目的に賛同する研究者をもって会員とする。 二、会員は本会の事業に参加し、またそれに関する意見を述べることができる。 三、会員は別途定める年会費を年度初めに収めるものとする。 四、三年にわたり会費を滞納した場合は、退会したものとみなす。
第五条 本会は年一回定期総会を開催する。また必要に応じて理事会の発議により臨時総会を開催することができる。総会は最高の議決期間であり、会の活動方針を決定し、理事会より必要な報告を受けかつ承認する。 二、総会は出席者の過半数により議決することができる。
第六条  本会に次の役員をおく。任期は二年とする。役員は総会の承認を受けなければならない。1. 会長  会長は本会を代表する。理事会の推薦に基づき、総会にて承認される。 2. 理事  若干名。総会において選出する。理事会は会の運営と事務にあたる。 3. 代表理事  代表理事は理事会を主宰する。理事会の推薦に基づき総会において選出する。 4. 会計監査 理事会の推薦に基づき総会において選出する。 二、理事会は総会において一般報告、会計報告その他の報告及び提案を行い、決定された方針を執行する。会計監査は年度事に会計を監査する。
第七条 本会則の改正は発起人、理事会あるいは出席会員の発議に基づき、総会の議決を経てこれを行う。
細則第四条三、 細則、年会費は 一般会員二〇〇〇円、学生会員一〇〇〇円とする。

付則
①本会則は2000年7月10日より施行する。
②2010年7月10日、一部改正
③2012年7月8日、一部改正
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日本サルトル学会会報第33号 [会報]

研究例会のお知らせ

 第29回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会 第29回研究例会

7月8日(日)
会場 : 立教大学 池袋キャンパス  マキムホール202号教室
時間 : 14:00~17:30

研究発表1
「いわゆる「サルトル・カミュ論争」におけるサルトルのテクスト「アルベール・カミュへの回答」再検討」
発表者:石崎晴己 (青山学院大学) 
司会者:東浦弘樹(関西学院大学)
コメンテーター:伊藤直(青山学院大学)
研究発表2
「サルトル倫理思想におけるエコノミーの影」
発表者:小林成彬(一橋大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

17:00 総会

17:30 懇親会

非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。




GESプログラム

COLLOQUE ANNUELDU GROUPE D'ETUDES SARTRIENNES
______
22 & 23 juin 2012
En Sorbonne, amphithéâtre Champollion (Paris IV)
16, rue de la Sorbonne (2e sous-sol) 75005 Paris
Organisation : GES, Florence Caeymaex & Alexis Chabot
Contact : ges.secretariat@gmail.com
Vendredi 22 juin
Sartre, Bergson, le magique
Matinée : 10h00 – 13h00
GAUTIER DASSONNEVILLE : Magie et technique chez Sartre : les débordements de la conscience magique. Vers une problématique de la possession
BRUNO PICOT : Jean Wahl, une « riposte » bergsonienne à Jean-Paul Sartre
YANNIS PRELORENTZOS : Juxtaposition et interpénétration chez Bergson et Sartre
DIMITRI TELLIER : Intériorité sartrienne et intériorité bergsonienne : perspectives sur deux conceptions de l'intériorité à partir de La transcendance de l'ego et de l'« Introduction à la métaphysique ».
Après-midi : 14h 30 – 17h
FREDERIC WORMS : L’image inversée. Bergson/Sartre ou le double foyer
GREGORY CORMANN & FLORENCE CAEYMAEX : L’émotion fondamentale
ROCCO RONCHI : Sartre, Bergson et la question spéculative du matérialisme

Samedi 23 juin
Sartre et le portrait biographique
Matinée : 9h30 – 13h00
JACQUES LECARME : La question du médium : écrire pour la NRF ou pour les Lettres françaises clandestines
DEISE QUINTILIANO : Le miroir a deux faces: "L'écriture de soi" à l'ombre de l'autre
ALEXIS CHABOT : A la recherche du traître : les paradoxes du portrait sartrien
YAN HAMEL : La microbiographie sartrienne de John Steinbeck
Après-midi : 14h30 - 18h00
FRIDOLIN NKE : Le chef d’œuvre littéraire, une épilepsie de l’Histoire ? Flaubert ou la structure épileptique du génie
HELGE VIDAR HOLM : L’Idiot de la famille : Bourdieu vs Sartre
DISCUSSION AVEC J.-B. PONTALIS : Sartre et Freud (sous réserve)
Assemblée générale du Groupe d'Études sartriennes (17h00-18h00)

事務局からのお知らせ

サルトル関係のご論文やご著書、その他の情報がございましたら、以下の要領で事務局までお知らせくださいますようお願い申し上げます。日本語および欧文でお願いいたします。

著者名、著作名、出版社名、年、総頁数。
著者名、論文名、掲載誌名、年、号(巻)数、掲載頁。

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日本サルトル学会会報第32号 [会報]

研究例会のお知らせ

 第28回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会 第28回研究例会
27ème congrès
de l’Association Japonaise d’Etudes Sartriennes

12月3日(土) 
La date: samedi 3 décembre
会場 : 立教大学 池袋キャンパス 5号館 5409教室
Lieu: Université Rikkyo (Campus Ikebukuro), Bâtiment 5, salle 5409
13:45 受付 Accueil
14:00~15:00 講演Conférence
池英來 지영래 (高麗大学): 言語、文体、翻訳に関するサルトルの考察について
JI Young-Rae (Université Korea) : A propos de la réflexion sartrienne sur le langage, le style et la traduction
司会:鈴木正道(法政大学)
Modérateur : Masamichi Suzuki (Université Hosei)
15:00~15:15 休憩 Pause
15:15~17:15 ワークショップ: サルトルとセクシュアリティをめぐって
Table ronde : Sartre et la sexualité
丸山真幸(東京外国語大学): サルトルと(性的)マイノリティ 2000年代の状況
Masayuki Maruyama (TFSU): Sartre et les minorités (sexuelles) : situations des années 2000
澤田直(立教大学): サルトルにおける同性愛の表象と役割
Nao Sawada (Université Rikkyo): La représentation et le rôle des homosexuels chez Sartre
司会:永野潤 (東京都立大学)
Modérateur : Jun Nagano (Université municipale de Tokyo)
17:15~17:30 休憩 Pause
17:30 懇親会 Soirée amicale

講演はフランス語で行われます(通訳はありません)。ワークショップは日本語で行われます。
非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。


研究例会の報告

 第27回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月16日(土) 13:30~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5303教室

研究発表
「サルトルとアラン―「魔術的なもの」と情動との関係について―」     
発表者: 新田昌英
司会者: 生方淳子

この発表は、今年、東京大学に提出された博士論文の一部を紹介したものである。
サルトルと一、二世代前のフランスの哲学者たちとの間にどのような接点や相違点があるかについては、未だ大いに研究の余地があるが、新田氏はその未開拓の領域に立って、「情動の魔術的な性質」という考え方におけるサルトルとアランとの接点に目を向ける。
それによれば、サルトルは『情動理論素描』の中でウィリアム・ジェームズらの実験心理学の学説を批判する形で情動を非反省的意識として捉え直しているが、その考察の過程でアランの情念論に依拠し、さらにそれを現象学的他者論へと発展させている、という。
新田氏は、「魔術的なものとは、アランが言うように『事物の間を這い回る精神』、すなわち自発性と受動性の非合理な綜合である」という『情動理論素描』の一文を取り上げ、これを巡って「魔術」と「情念」についての二人の考え方を比較検討する。まず、引用された表現がアランの著作の中に見出されない事が示された上で、それでも、要約としては間違っていない事が確認された。次に、アランにおける「魔術的なもの」がその宗教論の中で、子どもの世界観を特徴づけるものとして記述されていること、他方で情念 passionが情動émotionに対する反省的な意識として捉えられていたことが原文に沿って綿密に論証された。これに対して、サルトルでは、非定立的な情動が定立的・反省的に捉えられた場合は、変容をこうむり、もはや情念ではなくなる、ということが喚起された。一見、対立するようだが、氏は、アランの「情念」とはまさに変容をこうむった情動ではなかったかと考える。だからこそ、情念は世界認識をくもらせ、誤りを招くものとして論じられている、というのである。
二人の哲学者の以上のような接点を、氏は単なる影響関係や誤読に基づく援用としてではなく、「出会い」として捉える。そして、その時代的な意味を今後の考察の課題として提示する。他者論への発展については、氏はサルトルがアランに対し自身の現象学的他者論に軍配をあげていると見るが、この点は十全に展開する時間的余裕がなかったようである。今後に期待したい。
アランと魔術、という新鮮な切り口から論じられた刺激的な発表であったため、会場からも、活発に質問や意見が寄せられた。魔術という原初的な思考をめぐる人類学的研究との関連性やフェティシズムとの関わりについての質問、魔術的なものと想像的なものとの比較、情動論はあくまでも現象学に至る過程での習作であり、その視座のもとで捉えるべき、との意見、「魔術的なもの」は情動論のみならず、『自我の超越』や初期小説、『存在と無』、『文学とは何か』、ユダヤ人論、ジュネ論等々にも登場する概念であり、さらなる検討が求められる、という要望も出された。                                      (生方淳子)

合評会
「北見秀司『サルトルとマルクス』をめぐって」
コメンテーター: 永野潤
司会: 清眞人

 まず北見さんからの挨拶から始まった。フーコー、ドゥルーズらのいわゆるポスト構造主義とサルトルを単純に対立させる偏見に対して、一方ではサルトルをポスト構造主義的な問題意識の祖形あるいは先駆けとして示すとともに、他方では『弁証法的理性批判』での「溶融集団」論を「複数の自律」という社会ヴィジョンとモラルとの発想源泉として捉え返すことで、ポスト構造主義の弱点――抑圧権力とそれに抗する「複数の自律」を追求する真の民主主義運動との対決線をむしろ曖昧化することに流れてしまう――をのりこえること、これが自分の執筆意図である、と。
この挨拶のなかで、彼は重要な反省点を述べた。「溶融集団」を誰をも手段化しないカントの言うような「目的の都市」としての「複数の自律」社会のヴィジョン源泉として解釈する自分の方法は、サルトル自身にあっては「溶融集団」概念が人間の手段化を否応なく生きねばならない厳しい闘争のコンテクストのなかに埋め込まれていることを軽視することに繋がるのではないか? そういう疑念と批判を回避できないであろう。この点で、さらに一段の深さをもつ思考をいま自分は要求されていることを自覚している、と。
コメンテイターの役を負った永野潤氏は、左翼文化との同伴性を外してはサルトルを語ることはできないことに注意を促しつつ、あらためて21世紀のなかで、ことに日本における左翼文化の凋落という問題と北見さんの仕事を関連付けようとした。この点では、北見さんからは廣松渉の物象化論に対して次の重要な批判が出された。自分の「複数の自律」という観点からすれば、廣松理論はおよそ個人の自律の回復――他者性の支配からの――というモラル的モチーフをもたない客観主義的偏向をもったもので、日本における新左翼文化が「複数の自律」というヴィジョンの形成にほとんど寄与しなかったことと重要な関連がある、と。なお会場からは、現在のフランスでは移民問題を軸とするマイノリティーとの連帯問題をめぐってサルトルの思想的功績の再評価が起きているとの重要な現地報告があった。また札幌大学の水野さんからは、「複数の自律」思想と後期サルトルの倫理思想との関連にかかわって、サルトルになかには自律を強調する側面とならんで、倫理の規範性にはどうしようもなく他律性の承認が孕まれると認識している側面もあるのではないか、という指摘も出された。討論がこれから、というときに時間切れとなるのはいつものことだが、いかにも残念。(清眞人記)



サルトル関連出版物

・永野潤『図説 あらすじでわかる! サルトルの知恵』青春新書インテリジェンス、2011年7月

・Jean-Pierre Boulé & Benedict O’Donohoe編, Jean-Paul Sartre: Mind and Body, Word and Deed, Cambridge Scholars Publishing, 2011年7月
本論集には、2009年7月に立教大学で行われた本会の第23回例会において発表したベネディクト・オードナヒュー(サセックス大学)、フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)、ジャン=ピエール・ブレ(ノッティンガム・トレント大学)の論考および、同年2009年9月に英国サルトル学会年次大会で発表した、鈴木正道、澤田直両会員の論文のほか、鈴木道彦会長へのインタビューが収録されています。

サルトル関連イベント

イラン・デユラン=コーエン監督の映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』(2006)が渋谷ユーロスペース(11月26日から)、梅田ガーデンシネマ(12月3日)などで公開されます。内容は学術的なものからは遠いものですが、ボーヴォワール目線で作られているところに新味があります。学生などに宣伝したい方は、配給をしているスターサンズがポスターやビラを送ってくれます。ご関心のある方は、学会事務局にご連絡ください。また、例会当日には、前売り券(1400円)を1300円で購入することができます。
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日本サルトル学会会報第31号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°31 juin 2011
日本サルトル学会会報              第31号 2011年 6月


研究例会のお知らせ

 第27回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 7月16日(土) 13:30~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5303教室

研究発表
「アランとサルトルの心理学批判」
発表者: 新田昌英
司会者: 生方淳子

合評会
「北見秀司『サルトルとマルクス』をめぐって」
コメンテーター: 永野潤
司会: 清眞人

談話
 「『嘔吐』翻訳をめぐって」
鈴木道彦

総会 17:00
懇親会 17:30

非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。




GESプログラム

GESのcolloque annuelのプログラムです。日本からは、根木昭英さんが発表します。


サルトル関連出版


・ 王前著 『中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』講談社選書メチエ、2011年6月
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日本サルトル学会会報第30号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°30 mars 2011
日本サルトル学会会報              第30号 2011年 3月


研究例会の報告

 第25回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 12月4日(土曜日) 14:00~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5323教室

シンポジウム 「サルトルのイマージュをめぐって:その射程と批判的考察」

パネラー: 
荒金直人(慶應義塾大学) 郷原佳以(関東学院大学) 森功次(東京大学大学院・日本学術振興会)
司会:
 澤田直(立教大学)

1.荒金直人 : 「サルトルの像理論における類似的表象体の実体化について」
1936年の『想像力』の中でサルトルは、心象(心的な像)を意識の中にある対象とみなす見方を「素朴な存在論」による心象の事物化として退け、ある特定の仕方で意識の外部の対象に向かう意識の在り方(ある特定の志向的構造)が「心象」と呼ばれているのだと考えた。更に彼は、心象についての議論を画像についての議論へと接続し、意識が画像を(一つの物体として知覚するのではなく)像として捉えるとき、つまりその画像が表象する対象を意識するとき、その意識は「心象」の場合と同様の志向的構造を有していると考えた。つまり、「心象」という経験をする場合も、画像を「像として」経験する場合も、どちらも意識が「像形成的」に作用しており、両者の違いはヒュレーの違いに基づくと考えたのである。ここで、画像の像経験のヒュレーは感覚与件であるとされたが、心的な像経験のヒュレーが何であるかは確定されず、これが課題として残された。
以上のことを踏まえて、1940年の『想像的なもの』(邦訳『想像力の問題』)におけるこの課題へのサルトルの取り組みを、フッサール自身の取り組みと比較しながら検討した結果、暫定的にではあるが、次のような結論に達した。
サルトルは「心象は意識である」(心象は意識の中にある対象ではなく意識それ自体である)というスローガンを掲げた。そして像一般(画像と心象)を意識の作用として定義した。しかし彼は、像経験のヒュレーとしての「類似的表象体」を(画像の場合は物理的媒体として、心象の場合は意識における超越として)実体化して解明しようとした。一方フッサールは、紆余曲折を経ながらも、「感覚もファンタスマも既に意識である」と言い(「感覚」は知覚および像意識のヒュレー、「ファンタスマ」は空想ないし心象のヒュレー)、ヒュレーの実体化を回避する。このフッサールの視点は、サルトルが自分の当初の姿勢(「素朴な存在論」に対する批判)に忠実であれば、当然到達せざるをえなかったはずの視点であるように思われる。
意識が世界を如何に受け止めるのかという問題設定を維持し、想像する意識を具体的に論じようとしたサルトルと、意識の外部を前提せずに経験の構造を解明しようとし、ヒュレーを最初から「機能上の概念」とみなしたフッサール。この差異が、心的な像経験のヒュレーに対する捉え方を左右したように思われる。(荒金直人)

2. 郷原佳以 : 遺骸としてのイメージ――サルトルに応えるブランショ
ブランショは、1951年の論考「想像的なもの(イマジネール)の2つのヴァージョン」(『文学空間』所収)において、サルトルのイメージ論に応答している。本発表では、この論考以外でのブランショとサルトルの関係性について概観したうえで、この論考のひとつの読解を提示した。
まず、サルトルとブランショの親和性を示唆するものとして、「夢」と「ジャコメッティ」という2つのテーマがある。『想像的なもの(イマジネール)』(1940)最終章におけるサルトルの夢の分析は、夢をイメージの典型的なトポスとするブランショの記述に似通うところがある。また、サルトルの2篇のジャコメッティ論(「絶対の探求」(1948)、「ジャコメッティの絵画」(1954))は、ジャコメッティの彫像のうちに観者との隔たり(distance)を見出す点で、「マラルメの経験」(1952)および「痕跡」(1963)で表明されるブランショのジャコメッティ解釈に引き継がれている。
次に、ブランショのサルトルへの反論であるが、「文学と死への権利」(1948)のなかに、作家のアンガジュマンについての『文学とは何か』(1948)の一節に対する辛辣な批判が読まれる。しかしながら他方で、同論考で「文学における2つの傾向」を語るときには、ブランショはサルトルの議論を参考にしているように思われる。
「想像的なもの(イマジネール)の2つのヴァージョン」は、従来、サルトル的なイメージ概念に対して、「遺骸的類似」と名づけられる別のイメージ概念を対置し、後者によって前者を否定しようとするものと解されることが多かった。しかし実際にはそうではなく、「ヴァージョン[versions]」という語にも示唆されているように、その眼目はイメージの二重性を示すことにある。そしてその二重性を理解するためには、レヴィナスのイメージ論を経由する必要がある。
ブランショはこの論考で、まずイメージの「第1のヴァージョン」として、「事物を否定することによって活性化させる」作用を挙げている。これはサルトルのイメージ論に基づくものと考えられる。ブランショによれば、このイメージは「不定形な虚無を人間化」する「幸福」なものである。ここで「不定型な虚無」として想定されているのが、レヴィナスの「イリア」である。レヴィナスは「異郷性」(1947)において、芸術におけるイメージは志向を対象に到達させずに感覚のなかに踏み迷わせるのだとして、そこで露呈される状態を表すものとして「イリア」概念を導入していた。そして続く「実存者なき実存」では、「イリア」を表す形象として「遺骸」を挙げたのだった。
ブランショはおそらくレヴィナスの議論から着想を得て、イメージの「第2のヴァージョン」として、「遺骸[cadavre]」ないし「抜け殻[dépouille]」をイメージのモデルに据え、遺骸は他の何ものにも類似していないが自らに類似している、という「遺骸的類似」の観念を打ち出す。この観念のもとになっているのは、やはりレヴィナスの芸術論「現実とその影」(1948)である。レヴィナスはそこでサルトルを批判しながら、イメージを、事物の真理に切り込む透明な思念ではなく、事物の非-真理を浮き立たせる不透明な厚みとして捉えた。ブランショは「遺骸」に、もはや送り返すべき何ものをも持たない不透明な厚みの現れを見て取ったのである。
ブランショは最終的に、イメージをこの2つのヴァージョンの二重性そのものにおいて捉える。すなわち、イメージの経験とは、一方では、否定作用によって事物を所有することであるが(第1のヴァージョン)、他方では、それを可能にしている否定性、言い換えれば、対象からの遠ざかり(éloignement)ないし対象との隔たり(distance)そのものによって捕らえられることである(第2のヴァージョン)。(郷原佳以)

3. 森功次 : 初期サルトルにおけるイメージと情動――フィクションの情動、情動のフィクション――
本発表は、初期サルトルの情動理論を、近年の英米系分析美学の領域で行われていた情動論争と照らし合わせることで、初期サルトルのフィクション作品観の特徴を浮かび上がらせようという試みであった。(情動論争とは〈フィクション作品観賞時の情動をどう位置づけるか〉という論争であり、1970年代以降、英米系の分析美学の領域で盛んに議論されているものである。)
第一節では、『情動論素描』『想像力の問題』の記述を手がかりに、サルトル理論における情動の位置づけを大まかに確認した。
第二節では、フィクション作品観賞時の情動がサルトル理論のなかでどのような位置づけを与えられているかを確認した。フィクション観賞時の情動は、〈意志的な情動〉とも〈対象が眼の前に本当に現実存在する情動〉とも、〈対象の現前性が薄い情動〉とも、〈完全に幻惑されている際の情動(夢の情動)〉とも区別される。
第三節では、サルトルの想像力論であまり明示的に指摘されていないひとつの事実を指摘した。それは、〈非措定的自己意識の否定的性格が保たれていること、すなわち、想像的対象によって幻惑されていないという事態が、そのまま美的距離になるわけではない〉という事実である。フィクション観賞時の情動は、〈いま観ているものが美的経験を狙いとして制作され、提示された、拵え物である〉という観賞者自身の認識に支えられているのである。
とはいえ、本発表は〈フィクション作品体験時の情動はどのようなものなのか〉という問題には、まだ直接的には答えきれていない。この問題を考えるには、戦後に発表された文献から、サルトルの文学観などが明らかにされる必要があるだろう。「拵え物」の認識は、われわれの情動的反応を根底で支えている。とはいえ、その拵え物がどのような拵え物として認識されているのかは、また別の視点から考察されねばならないのである。(森 功次)

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日本サルトル学会会報第29号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°29 novembre 2010
日本サルトル学会会報              第29号 2010年 11月

研究例会のお知らせ

 第26回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 12月4日(土曜日) 14:00~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5323教室

シンポジウム 「サルトルのイマージュをめぐって:その射程と批判的考察」

パネラー: 
荒金直人(慶應義塾大学) 郷原佳以(関東学院大学) 森功次(東京大学大学院・日本学術振興会)
司会:
 澤田直(立教大学)

演題:
・荒金直人 : サルトルの像理論における類似的表象体の存在様式について
・郷原佳以 : 遺骸としてのイマージュ――サルトルに応えるブランショ
・森功次   : 初期サルトルにおけるイメージと情動――フィクションの情動、情動のフィクション

参考論文:
・荒金直人 「サルトルの「像形成的意識(la conscience imageante)」についての研究」、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会 『慶應義塾大学日吉紀要・人文科学』No.25、2010、p.31- 55 http://ci.nii.ac.jp/naid/120002233721
・森功次「初期サルトルの芸術論における想像と現実」、美学会編 『美学』60(2)、2009、p.16-29

※上記論文は、今回の発表に関連するパネラーの既発表論文です。事前にお読みいただけると、議論の理解がより深まることと思います。

非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

シンポジウムのお知らせ(GES)

11月26日および27日、J-F・ルエット氏主催で、サルトルの自伝に関するシンポジウムがパリでおこなわれます。ルエット氏が、プレイヤード版の自伝(Les mots et autres ecrits autobiographiques,Gallimard,2010.4)刊行に併せて行うものです。当会からは澤田直氏が参加します。

Autour des Écrits autobiographiques de Sartre
Colloque international organisé par Jean-François Louette
Auditorium de l’Institut finlandais (60, rue des Écoles)

Vendredi 26 novembre 2010
Matinée
9h Ouverture : Georges Molinié (président de l’Université Paris IV), André Guyaux (directeur duCentre de recherche sur la littérature française des XIXe-XXIe siècles), Jean-François Louette
9h30 Hélène Baty-Delalande (Nanterre) : « Les Carnets de la drôle de guerre : l’occupation du temps »
10h Michel Kail et Françoise Bagot (Paris) : « Sartre et Beauvoir : les genres de l’autobiographie »
10h30 Discussion et pause
11h Véronique Montémont (UHP Nancy, IUF) et Françoise Tenant (Paris-Nord) : « Lecture compare des Carnets et des Mots : une approche générique et linguistique »
11h30 Paolo Tamassia (Trente) : « À propos de La Reine Albemarle »
12h Discussion
Après-midi
14h30 Jacques Lecarme (Paris III) : « Il n’y aura pas eu d’autobiographie sartrienne »
15h Nathalie Barberger (Lille III) : « Grisélidis pas morte »
15h30 Discussion et pause
16h Jean Bourgault (Rouen) : « “Nous étions du même bord” – Sartre et Merleau-Ponty »
16h30 Jean-Pierre Martin (Lyon II, IUF) : « Sartre et l’amitié »
17h Discussion et clôture de la première journée

Samedi 27 novembre 2010
Matinée
9h Philippe Lejeune (Paris-Nord) : « Genèse d’une étude génétique des Mots, 1972-1996 »
9h30 John Ireland (Chicago) : « Ouragan sur Les Mots : Sartre et Castro »
10h Discussion et pause
10h30 Gilles Philippe (Paris III) : « Style mnémonique et style mémoriel »
11h Jean-Louis Jeannelle (Paris IV) : « Sartre et le mémorable »
11h30 Michel Contat (CNRS) : « Sartre et l’autobiographie parlée »
12h Discussion
Après-midi
14h30 Jacqueline Villani (Aix-en-Provence) : « “Un pauvre type qui s’était trompé de monde” »
15h Paul Geyer (Bonn) : « Sartre, du postmoderne au moderne : configurations littéraires de la subjectivité dans La Nausée et Les Mots »
15h30 Discussion et pause
16h Nao Sawada (Rikkyo, Tokyo) : « L’expérience de la guerre dans Les Chemins de la liberté »
16h30 Juliette Simont (FNRS) : « Genèse des Réflexions sur la question juive »
17h Discussion et clôture du colloque

カミュ・フォーラムのお知らせ

獨協大学で11月19日・20日に開催される、カミュ・フォーラムのお知らせを掲載します。最新情報はカミュ・フォーラムのサイトhttp://www.albertcamus.jp/に掲載されるとのことです。

獨協インターナショナル・フォーラム、アルベール・カミュ:現在への感受性
日時:11月19日(金)・20日(土) 場所:獨協大学 天野貞祐記念館

●11月19日(金)
13:15 開会式
13:30-15:30 現在の諸相:文学と政治
・ アンヌ・プルトー(西部カトリック大学)「現在、カミュが死守するもの」
・ 東浦弘樹(関西学院大学)「いまを生きる、過去を生きる —『表と裏』とそのバリエーション」
・ フィリップ・ヴァネ(獨協大学)「ジャーナリストの証言」
15:30-16:00 休 憩
16:00-18:30 カミュのアルジェリア
・ 三野博司(奈良女子大学)「ティパサのカミュ」
・ 高塚浩由樹(日本大学)「見出されない時 —『最初の人間』における現在と忘却」
・ ピエール=ルイ・レイ(パリ第三大学)「カミュの作品に現れた<アラブ人>」
・ ナジェット・ハッダ(アルジェ大学)「フランス語アルジェリア文学に宿るカミュの影」

●11月20日(土)
10:00-12:30 討論会「カミュと日本:その親和性」
・ ジャン= クロード・ジュゴン(筑波大学)「日本人の時間体験の諸側面:現在は永遠か?」
・ 稲田晴年 (静岡県立大学)「カミュと俳句」
・ 若森榮樹 (獨協大学)「カミュと日本古典詩における<現在>の意識」
・ 有田英也(成城大学)「歴史との闘い —日本の反近代主義者はカミュをどのように読んだか」
12:30-13:30 昼
13:30-14:30 講演会 I 「アルベール・カミュ。全面戦争と中庸の哲学。文学を通して考察する都市の空襲。」モーリス・ヴェイエンベルグ(ブリュッセル自由大学)
14:30-14:45 休 憩
14:45-15:45 講演会 II 「3つの相補的主題 :世俗性,聖性,節度」レイモン・ゲイ=クロズィエ(フロリダ大学)
16:15-18:30 討論+朗読:「現在のアルベール・カミュ」
・ レイモン・ゲイ=クロズィエ(フロリダ大学)
・ ナジェット・ハッダ(アルジェ大学)
・ フワ=ユング・キム(高麗大学)
・ 松本陽正(広島大学)
・ アニエス・スピケル(ヴァランシエンヌ大学)
18:30- 閉会式・懇親会

サルトル関連・会員関連出版物

・ 加藤周一著 海老坂武解説 『現代ヨーロッパの精神』、岩波現代文庫、2010年9月
・ 東浦弘樹 『晴れた日には『異邦人』を読もう─アルベール・カミュと「やさしい無関心」』、世界思想社、2010年9月
・ サルトル著 海老坂武・澤田直訳 『自由への道 5』、岩波文庫、2010年10月

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
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日本サルトル学会会報第28号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°28 septembre 2010
日本サルトル学会会報              第28号 2010年 9月


研究例会の報告

 第25回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月10日(土曜日) 13:30~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス) 10号館X102教室

1.シンポジウム
「サルトルとニーチェ──清眞人『三島由紀夫におけるニーチェ』をめぐって」
コメンテーター: 岡村雅史 清眞人
司会者: 澤田直

 今回は初めての試みとして、サルトル以外の作家、三島由紀夫とこれに強い影響を与えたニーチェを論じる清氏の評論の、筆者自身による解説という形での発表であった。但し、それは単なる両者の比較検討ではなく、基底にサルトルの実存的精神分析を適用する点にその独自性がある。即ち、不可能なものを追求して全能力を使い尽くす様な人間を批評するには、従来の精神分析では不充分だとみなしたサルトルは『存在と無』で独自の精神分析を提唱するが、この理論を展開する代わりに、この方法でボードレールからフロベールにいたる多くの作家の分析を行なった。そこで取上げられたのは生きることの不可能な人間達であり、彼らは想像力によって生き難い現実を生きる時、妄想の中に自己を投入する。清氏はこういった人間を「想像的人間」と呼ぶ。その意味では、三島もニーチェもまさに想像的人間であり、存在論的に彼らを結びつける方法こそ、サルトルの手法である。ここに三者は関連づけられる。今回参加頂いた三島研究者の井上氏は、三島はかなりサルトルを読み込んではいたと思われるが、戦後民主主義の中で左翼思想の担い手と紹介されたこの作家に言及しにくかったとのこと。清氏のサルトル的分析には興味深いものが感じられるが、サルトル的分析ですべてを括ってしまうと、どれも同じになってしまうのではないか、アプローチの仕方に差異を見出す必要はないのか、という問いも発せられた。会場からも、呼びかけの問題、聖ジュネを通しての三島とサルトルの結びつき、文体の問題等々が問われた。清氏は、三島はデュオニュソス的なものに憧れつつも叶わず、屹立したアポロ的文体を求める作家だった。また後期サルトルの母親との身体的相互性を三島にも適用。生方氏の取り上げたマザーリングなどは呼びかけの問題に通じると説く。一方サルトルが本質論を先行させすぎた分析、例えば「幼少時のトラウマで同性愛になる」などは、異性愛のみを前提とするやや一括しすぎたものという声もあるが、氏はこの点ではサルトルがニーチェを批判することでサルトルとなりえた様に、様々な要素を異種交配しつつサルトルを批判的継承することが肝要と述べられた。こういった継承や、あまり注目されていない実存的精神分析の再考は我々サルトル研究者の今後の課題ともなろう。(報告:岡村雅史)

2.研究発表
「野生の暴力と国家の暴力──サルトル思想とf現代の日本社会」
発表者: 永野潤
司会者: 北見秀司

永野氏は今年一月に『狂気と演技—サルトル自由論の再検討』と題する博士論文を東京都立大学に提出された。今回の発表は、その一部をなす暴力論を中心に行われた。以下、その要旨である。
資本主義社会は抑圧的な社会であり、その集列的構造によってサルトルが根源的自由と考えるものを抑圧する。しかし、「抑圧する者」の暴力は構造的暴力となり、見えにくくなっている。その結果、これに抗する「抑圧される者」の暴力ばかりが見えやすくなり、非難される。
この二つの暴力の対立は二つの「司法=正義justice」すなわち「国家に属する司法=正義」と人民の「野生の司法=正義」の対立に呼応している。それぞれ背後に「国家の暴力」と「野生の暴力」が控えている。ところが「国家の暴力」は合法性を備えているため、暴力的には見えない。このような暴力が「社会的平和」を支えているため、この「平和」は暴力としての平和なのである。そして、この「国家の暴力」の合法性が民衆の「野生の暴力」の正当性を虐殺する。更に永野氏は、このような事態が今日の日本において頻発していることを例証した。
ところでサルトルは、「国家の暴力」を非難し、「野生の暴力」を「ヒューマニズムそれ自体」であるとして肯定する。後者の暴力は、非人間的な抑圧への「拒絶」であり、「新しい正義」の要求をふくんでいるからである。そして後者の暴力を認めない者をサルトルは批判する。「平和主義者」は、左翼のそれを含めて、結局のところ、「国家の暴力」や植民地主義の暴力を是認することになるとして、批判するのである。
発表後、活発に質問が寄せられ、その多くはサルトルによる暴力肯定の解釈に集中した。このような解釈は、「やられたらやりかえせ」の論理と同じになってしまわないか。サルトルが「抑圧される者の」暴力を擁護する時、そこには様々なニュアンスが加わっていないか。たとえば、ファノンを論じてサルトルがアルジェリア独立闘争における原住民の暴力を肯定する時、その闘争が独立後に報復措置を意図していないことを知っての上での肯定ではなかったか。また、このような解放を求める闘争のための暴力が独立後、セクト争いや抑圧的な暴力に転化する危険性をファノンは十分承知していたが、『弁証法的理性批判』においても扱われているそのような問題はどう考えられるべきか。
サルトルの暴力に関する考えは、彼の思想の中で、もっとも扱いにくい問題であるように思われる。このような難問に果敢に挑戦した永野氏に敬意を表するとともに、今回出された様々な質問を踏まえ、一層深い考察が今後進められることを大いに期待したい。(北見秀司)


3.総会
シンポジウム、研究発表の後、総会が行われました。

・ 今後の例会のテーマについて、会場から様々な意見が出され、議論がおこなわれました。出された案の一例です。
・ カイエのワークショップの続き
・ レヴィナスとサルトル、デリダとサルトルのテーマでのシンポジウム
・ 『自由への道』改訳をめぐって海老坂氏を中心とした企画
・ 新訳『嘔吐』出版を機会に鈴木道彦氏を中心とした企画
・ 他の学会とのジョイント企画を行う(例:ハイデガー・フォーラム、バタイユ研究会)
・ 北見氏著作書評会(2011年度以降に行う)
・ ミシェル・コンタ氏など、来日の意向がある研究者を招聘するという案(予算は当学会以外から出す形になる)(2011年度)

・ 会則の改訂案(会長に関する条項を追加)が提出され、会場の承認を得ました。
・ 鈴木(道)の会長留任、澤田・鈴木(正)黒川・岡村・永野の理事留任、また、あらたに森功次(東京大学大学院)の理事就任が、会場の承認を得ました。

事務局からのお知らせ

☆ 総会の報告でも述べましたが、今後の例会の企画を広く募集しています。とりあげてほしいテーマがありましたら、ぜひ事務局までお知らせください。
☆ 若手のかたをはじめとして、研究発表の発表者も募集します。自薦他薦を問いませんので、事務局までお知らせください。
☆ GESで、Ecrits de Sartre増補改訂版の計画があります。従来版にある明らかなまちがいにお気づきの方は、澤田、あるいは事務局までお伝えくださると幸いです。
☆ 日本で発表された研究の書評をGESのbulletinに載せることが可能です。執筆の予定がある方は、澤田、あるいは事務局までご連絡ください。


サルトル関連出版物

・ 今村和男著『人間の出口』杉並けやき出版、2007年12月
(70年安保世代の著者が、学生時代から現在までいかにサルトルを読みつつ社会批判、資本主
義批判の視線を培ってきたかを熱く語る貴重な証言)

日本サルトル学会会則

日本サルトル学会は一九九五年六月、鈴木道彦、海老坂武、石崎晴己、澤田直を発起人として、世代を越えたサルトル研究者の自主的組織として成立したサルトル研究会を改組改称したものである。会の活動の指針として、以下の会則を定める。

第一条 本会は日本サルトル学会Association Japonaise d’Etudes Sartriennnes と称する。
第二条 本会は会員相互の研鑽を通じて、サルトル及び関連分野の研究とその発展を図ることを目的 とする。
第三条 本会はこの目的を達成するために次の事業を行う。1 研究発表会、研究会等の定期ならび随時開催。2 会報、資料集の刊行。3  サルトル関係資料、研究文献の情報整理及び紹介。4 国内外の関連分野の研究団体との交流。5 その他必要な事業。
第四条 本会は上記の目的に賛 同する研究者をもって会員とする。二、会員は本会の事業に参加し、またそれに関する意見を述べることができる。三、会員は別途定める年会費を年度初めに収 めるものとする。四、三年にわたり会費を滞納した場合は、退会したものとみなす。
第五条 本会は年一回定期総会を開催する。また必要に応じて理事会の発議により臨時総会を開催することができる。総会は最高の議決期間であり、会の活動方針を決定し、理事会より必要な報告を受けかつ承認する。 二、総会は出席者の過半数により議決することができる。
第六条 本会に次の役員をおく。任期は二年とする。役員は総会の承認を受けなければならな い。1 会長 会長は本会を代表する。理事会の推薦に基づき、総会にて承認される。2 理事会 若干名。総会において選出する。理事会は会の運営と事務にあたる。3 会計監査。理事会の推薦に基づき総会において選出する。二 理事会は総会において一般報告、会計報告その他の報告及び提案を行い、決定された方針を執行する。会計監査は年度事に会計を監査する。
第七条 本会則の改正は発起人、理事会あるいは出席会員の発議に基づき、総会の議決を経てこれを行う。
細則第四条三、 細則、年会費は 一般会員二〇〇〇円、学生会員一〇〇〇円とする。
二〇〇〇年七月(二〇一〇年七月改訂)


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
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日本サルトル学会会報第27号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°27 juin 2010
日本サルトル学会会報              第27号 2010年 6月

研究例会のお知らせ

 第25回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。会員以外の方もご自由に聞くことができます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 7月10日(土曜日) 13:30~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス) 10号館X102教室
(JR・私鉄各線「池袋駅」西口より徒歩約7分)

シンポジウム
「サルトルとニーチェ──清眞人『三島由紀夫におけるニーチェ』をめぐって」
コメンテーター: 岡村雅史
コメンテーター: 清眞人

研究発表
「野生の暴力と国家の暴力──サルトル思想と現代の日本社会」
発表者: 永野潤
司会者: 北見秀司

総会 17:00
懇親会 17:30


事務局からのお知らせ
  
7月10日例会当日、北見秀司氏による著書の販売のお知らせです。
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『サルトルとマルクス 1:見えない『他者』の支配の陰で』を、例会当日、通常3500円のところ特別価格3000円で販売いたします。予め何冊必要か知りたいので、お望みの方は例会の1週間前までに北見の方にメールで連絡していただけましたら幸いです。(北見秀司)




サルトル関連出版

 清眞人 『三島由紀夫におけるニーチェ──サルトル実存的精神分析を視点として』 思潮社、2010年3月
 矢内原伊作著、武田昭彦、菅野洋人、澤田直、李美那編 『完本 ジャコメッティ手帖 1』 みすず書房、2010年3月
 ジャン・ヴァール著、水野浩二訳 『具体的なものへ──二十世紀哲学史試論 (シリーズ・古典転生)』月曜社、2010年3月
 サルトル著 海老坂武・澤田直訳 『自由への道 4』 岩波文庫、2010年4月
 鈴木雅雄、塚本昌則編 『〈前衛〉とは何か? 〈後衛〉とは何か? 文学史の虚構と近代性の時間』 平凡社、2010年4月
 矢内原伊作著、武田昭彦、菅野洋人、澤田直、李美那編 『完本 ジャコメッティ手帖 2』 みすず書房、2010年6月
 サルトル著、鈴木道彦訳 『嘔吐 新訳版』 人文書院、2010年7月


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