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日本サルトル学会会報第43号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°43 février 2015

日本サルトル学会会報              第43号 2015年 2月

研究例会報告

第34回研究例会が脱構築研究会との共同で、以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時:2014年12月6日(土) 13:00~18:00
会場:立教大学キャンパス5号館5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

 ヌーデルマン氏は、フランスではあいかわらずデリダ世代の思想とサルトル思想の間には断絶が色濃く残っており、今回のような試み、すなわちサルトル×デリダを学術的に対峙させようという試みは想像すらできない状態だというコメントから始めた。この機会に、デリダとサルトルを動物という切り口から語ることができるのは日本という場所のお陰であるという氏の前口上は、多少のリップサービスはあるとしても、偽らざる気持ちであろう。
 晩年に動物の主題をきわめて重要な問題として論じたデリダとは異なり、一般にサルトルは動物にほとんど関心がなかったと思われているが、ヌーデルマン氏は、『倫理学ノート』や『家の馬鹿息子』に潜む犬の姿を焙り出しながら、まずは聴衆を驚かせた。両者に共通する「まなざし」というきわめてサルトル的な主題から、さらに考察を続けつつ、一見すると、猫に見られる自分を語るデリダは動物と親密的であり、他方、飼い主に向けられた犬の視線によって偽りの主観性を語るサルトルは動物に対して疎遠な思想家のようにも見えるが、はたしてそうであろうか、と氏は問い、両者のテクストをつぶさに検討すれば、じつはサルトルもまた旧来の人間と動物の区別という形而上学を別の角度から崩していることが見てとれると指摘する。たしかに、人間以外のものを排除するanimalという語をanimotsという語に置き換えたデリダが、より明示的に、この区別の意味を問い直していることは確かだとしても、『家の馬鹿息子』で、犬の倦怠について語るとき、サルトルもまたきわめてラディカルな仕方で、人間/動物という区別に疑問を突きつけているというのだ。
 このように人間/動物の形而上学的境界がぼやけてくれば、必然的に人間が動物との関係でもつ倫理的/政治的な問題が問われざるをえなくなるだろう、とヌーデルマン氏は述べた上で、とはいえ、フランスにおいては、70年代から動物の権利が顕在化したアングロサクソン系の思想と比べると、必ずしも倫理・政治的なアプローチとはならず、サルトルもデリダもその例外ではないとする。それでもサルトルがすでに47年執筆の『真理と実存』において、ステーキと屠殺の問題に触れていたことは特筆すべきことだと述べた。いずれにせよ、デリダもサルトルも菜食主義者にまではならなかった、というユーモアに溢れた指摘で氏は発表を締めくくった。
 質疑の際に、デリダを語るのに、主体といった従来の哲学的語彙を用いるのは不適切ではないか、という質問もあったが、ヌーデルマン氏は、デリダを語るからといって、デリダ派的な語法にこだわる必要はなく、むしろより広い文脈からアプローチすることが重要であると説いたのが印象的であった。(澤田直)

第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

 本ワークショップ「サルトル×デリダ」は、サルトル学会の二名と脱構築研究会の二名の発表で進められた。
 はじめに西山雄二氏による発表が行われたが、デリダのサルトルへの言及を準網羅的に汲み上げるものとして幕開けに相応しいものであった。改めて驚かされるのは、あまり強調されていないながらもデリダが青年期以来サルトルに対して一貫した言及を続けているという事実である。その関係には「ある種の距離」が留保されてはいるものの、ユダヤ性、現象学、人間主義とハイデガー、文学とアンガジュマン等、両者の関心がつねに近傍をなぞっており、単に「乗り越えられたもの」としてサルトルのデリダへの影響を斥けるにはあまりに惜しい。とりわけ69年の『嘔吐』に関する講演は「私の講演の中で一度も出版しようと思わなかった唯一のもの」として今日に至るまで公開されていないが、この拒絶の身振りにこそ注目する必要があるだろう。発表後半ではエドワード・ベアリングのThe Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968 (Cambridge University Press, 2011)という最新の研究に即して、青年期のデリダを「ポスト実存主義者」と捉える試みがなされた。教師からたしなめられるほどサルトルに傾倒していたデリダが、それでも彼と分かたれていたのは、キリスト教実存主義というもう一つの軸によるものだという。まだ参照できないテクストも多いが、両者の関係を執念深く問うてゆくことは、戦後フランスの知的動向の見方をも変革しうるきわめて意義の高い試みだと確信できる発表であった。
 『サルトルとマルクス』(春風社、2010-2011年)でサルトルにおける「ポスト脱構築的なもの」に注目していた北見秀司氏の発表は、繊細な議論としては同書を参照されたいが、脱構築への「挑戦状」といった趣があり、固唾を飲んでその展開を見守った。北見氏はまず、サルトルとマルクスの論における非現前的なものとしての他者性を指摘する。サルトルにとっては対他存在と言語の規定によって、マルクスにとっては市場の交換価値に由来して、<他者>=「疎遠な力」が社会関係において支配的なものとなる。これを否定するのがコミュニズムの理念であったわけだが、『マルクスの亡霊』のデリダはこれを他者性を否定する「脱構築以前」的なものと見做す。しかし北見氏によれば、「疎遠な力」とは他者性そのものではなく、それが乗り越えられることで初めて個々の他者の自由と特異性を肯定しうるものである。逆にデリダは、他者の非現前的な現前性を擁護するにしても、それと複数の具体的な他者を区別・記述できるのか。これが北見氏の問いかけであり、「来るべき民主主義」をさらに推進するために有効な議論として『弁証法的理性批判』の<同等者>概念が提示された。全体討論では藤本氏から、脱構築だけでは不十分だということはデリダも述べており、「ポスト脱構築」は双方に共通する課題であることが示された。「挑戦状」は友愛的な雰囲気に雪崩れていったわけだが、さらに議論を尽したいという欲望も残る。たとえば北見氏は前著に引き続き『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(共著、作品社、2014年)でもフランスの社会運動ATTACに関心を示されているが、デリダも晩年に同団体の動きに「新しいインターナショナル」の可能性を見ていた。両者の理論が実践運動と取り結ぶ関係の検討を通じて、その有効性を問うことも期待できそうである。
 藤本一勇氏の発表は表題の示すとおり両者における視覚の問題を取り上げたものである。まず、サルトルにおける対自と即自の関係が視覚的な構成を伴うものであることが指摘される。対自同士の関係も同じ構成において把握されるのだが、ここで藤本氏は「遠隔操作性」という概念を導入し、視覚が「触れずに触れる」幻想を与えるものだと論じたうえで、眼差し論における「石化」をそこに位置付ける。対自の石化はこうした対象操作の位相で捉えられるのか、その是非は全体討論の議題の一つとなったが、視覚の問いが隣接する様々な諸感覚と響きあい、出席者もそれに引き込まれてゆくという意味で、まさしく「触発」的な問いとなったように思う。一方、現前の形而上学の批判者であるデリダにとって視覚的現前性は痕跡に向けた絶えざるずらしの対象となる。眼が描き出す線traitは退引/引き直しretraitによって立体化され、そのretraitの痕跡として他者との出会いがある。また石のテーマが「墓石」のそれとして変奏されることも興味深い。そして、ある種連想的な議論の流れのなかで一貫していたのは「視覚と他者」への関心であるだろう。最後にふたたびサルトルの他者論に立ち返った藤本氏は、サルトルにおける対他関係の葛藤について、まず自己の自由があって次いで他者の自由があり両者が葛藤する、というのではなく、まず他者性との視覚的・トラウマ的な出会いがあり、それが反照的に自己の自由の意識を芽生えさせるのではないか、と提起することで発表を結ばれた。討論ではこの提起がサルトルについての読解なのかそれとも藤本氏自身の立場なのかが問われたほか、遠隔操作性と窃視との関係が取り沙汰されるなど、活発な議論が展開されたことを報告しておく。
 最後に澤田直氏の発表では、デリダとサルトルによるフランシス・ポンジュ論(『シニェポンジュ』と『シチュアシオンⅠ』所収の「人と物」)が検討された。二つのテクストは両者の哲学観・文学観を露わにしている。サルトルが非人間的な物(事象)そのものに接近するポンジュを「自然の現象学」者として評価すれば、デリダは署名、法、固有性=清潔さといった観点からアプローチする。一見したところ交差するところのない両者の議論に、澤田氏は細やかな読解を行うことで争点を探ってゆく。たとえば「命名」への関心は彼らに共通するものに見える。しかし、ポンジュ自身が名付けを通じての「物の本性について」の探究に意欲的であり、サルトルもそれを現象学的観点から受け入れているのに対して、デリダは、問題は事物の本性ではなく、他者としての事物が我々に命ずる法なのだと反駁する。ここに浮き彫りにされているのは、現象学をめぐる両者の(間接的な)対峙であり、それが命名という言語の問いを介在することで、「言語が指示しているものは物なのか、それとも物の観念なのか」と要約されうるような言葉-物-観念の三項関係を湧出させる。そしてこの三項関係は、サルトルの『家の馬鹿息子』やデリダの最初の博士論文のタイトル(『文学的対象のイデア性』)にまで延べ拡げて論じられるべきだろう、という展望が明らかにされた。時間の都合で展開されない項目も残ったが、明言しないながらもデリダがサルトルに挑む仕草がスリリングに論じられた。澤田氏はその戦略を、サルトルの署名に対抗し、それを消し去ろうとしながら、かつ副署する、という意味で、contresigneと名付けられたが、これを読解一般の方法論にまで高めることもできよう。密度の高い発表であった。
 最後に少し感想を。報告者にとって本ワークショップは寝耳に水というべきものであり、いったいどのような発表が聞けるのかと当日まで只々受け身に待ち構えていたが、いずれもこれまでにない仕方でサルトルとデリダを結び合わせるものであった。これまでほとんど顧みられなかった関係性がこのように問い直されたことの背景としては、思想の世界の地盤変化を指摘することもできよう。つまりいま、生きていける思想とそうでない思想とが厳しく選別される過程にあるのであって、それぞれのポテンシャルが試されている。そしてそれが災難となるかそうでなくなるかは、研究者の手に委ねられていると言っても言い過ぎではあるまい。ワークショップを聞く者としては、デリダ研究もサルトル研究もすぐれた研究者に恵まれたものだと感嘆することができた。しかし私(私たち)はたんなる傍観者ではありえないので、この場のなかで自分に何ができるか、おおいに考えるよう刺激された思いである。(関大聡)


サルトル関連出版物

・ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子』第四巻、鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳、人文書院、2015年2月刊行予定
・ 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年2月刊行予定
・松葉類「「自由」の哲学者たち:レヴィナスとサルトル」、『宗教学研究室紀要』vol.11、京都大学、2014年

退会者

朝西柾氏が退会されました。なお、朝西氏からは退会時に1万円の寄付を頂きました。ここにご厚意に感謝の意を表するとともに、ご報告いたします。

逝去者

 会員の片山洋之介氏(茨城大学名誉教授)が2014年12月に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

今後の研究例会予定のお知らせ
 次回の研究例会は、7月11日(土)を予定しています。会場は立教大学の予定です。
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日本サルトル学会会報第42号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°42 Nobembre 2014
日本サルトル学会会報              第42号 2014年 11月

次回研究例会のお知らせ
第33回研究例会が下記の通り、脱構築研究会との共同で開催されますので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

要旨
西山雄二「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
今年刊行された、Edward Baring, The Young Derrida and French Philosophy, 1945–1968 (Cambridge U.P., 2014)は、デリダ・アーカイヴの資料群を調べ上げ、若きデリダがいかに自己形成したのかをテクストの変遷とパリの知識社会の分析から描き出した労作である。デリダは構造主義における現前性の要素を批判し、「ポスト構造主義」を切り開いたとされる。だが、アルジェリアの高校時代から1952年に高等師範学校に入学するまで、若きデリダはサルトルやヴェイユの思想、エチエンヌ・ボルヌのキリスト教実存主義から強い知的刺激を受けている。Baringは、少なくとも1964年に高等師範学校の講師になるまで、デリダは「ポスト実存主義者」と呼称されるような立場にいたと主張する。Baringの著作を紹介する形で、若きデリダと実存主義の関係について発表をおこなう。

北見秀司「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
 本発表では、まず、『存在と無』が「超現象的なもの les transphénoménaux 」すなわち「現れないもの」の存在論であり、そこで展開される他者論がデリダの言う「現前性の形而上学」を超えていること、したがってサルトル哲学がポスト脱構築的なものであることを示したい。
ついで、サルトルとデリダのマルクス解釈における相違を指摘したい。共産主義社会は「透明かつ単純」になるというマルクスの発言をもって、マルクスの理論は「脱構築以前 prédéconstructif 」にとどまるとデリダは断ずるが、サルトル弁証法は、この共産主義社会においても他者の他者性・意識の絶対的複数性を保持する理論を提供していることを論じたい。ここから明らかになるのは、現前野を超える他者との関係がどのような場合、抑圧的になるか、またいかなる関係において万人の生と自由を肯定しうるものとなりうるか、ということである。これは、「現前性の形而上学」の脱構築の後に来る、「来たるべき民主主義」のための理論的作業であると見なしうる。サルトルの非人間中心主義的疎外論と弁証法は、今なお猛威を振るい続ける新自由主義の自由観に対抗する上で、重要な復権すべき思想であると思われる。

藤本一勇
「サルトルとデリダの間――他者の複数性」 La pluralité de l’autre ― entre Sartre et Derrida
デリダは伝統的な「自己」の哲学に対して「他者」の哲学を展開したとよく言われる。個々人であれ集団であれ、自己の論理に閉塞し、他者を抑圧・排除する体制・システムの暴力構造を暴き、他者の声=痕跡を拾い上げ、他者への歓待によってシステムの自閉を防ぐのだ、と。それが「差異の政治」と呼ばれることもある。しかしそのとき問題になっている「他者」とは、「他性」とはいったい何なのか。体制から排除される他者もあれば、むしろ体制を保持し強化する他者もある(ラカンやアルチュセールが論じるような大文字の《他者》、大他者)。自己や自律に対置された他者や他律は「疎外」の別名ではないのか。他者や他性は根源的に複数的である。では他性の複数性のなかで、どのようにして抑圧的・暴力的な他者とそうでない他者とを区別するのか。開放的な他性と抑圧的な他性の境界線はどこにあるのか。サルトルは『弁証法的理性批判』でこの問題を論じた。はたしてデリダはこの他者の複数性と他者内部の多様な境界線の問いにどこまで答えられているのか。そしてサルトルは? サルトルとデリダにおける他者の複数性の問題を比較検討し、自己の反射装置ではない他者論の可能性を探ってみたい。

澤田直「文学と哲学の分有 デリダとサルトルの文学論」Partage de la littérature et de la philosophie : Derrida contresigne Sartre
デリダとサルトルが分有する領域は多岐にわたるが、本発表では、二人の哲学者にとっての文学の位置を中心に考察してみたい。デリダが若い頃から文学に強い関心を持っていたことは本人の証言からも明らかだし、作家でもあるサルトルにおいて文学が若き日から中心的な関心事であったことは言うまでもない。だとすれば、彼らにとって哲学と文学との関係はどのようなものであったのだろうか。キルケゴール・ニーチェ以降、二つの領域はクロスオーバーすることが頻繁になったとはいえ、プラトンを思い起こすまでもなく、哲学と文学は長らく相容れぬものとされてきた。哲学者が文学について語ることの意味は何か? 自伝的なものという問題構成も重要ではあるが、本発表では、評論を中心に考察してみたい。デリダが論じた作家たちが、サルトルが取り上げたものと重なっているのは、果たして単なる偶然だろうか。マラルメ、ボードレール、カフカ、ポンジュ、フローベール、ジュネ、ブランショといった両者によって論じられた詩人、作家が提起する問題を糸口に、両哲学者のアプローチ追いながら、文学と哲学の分有について論じることにしたい。
発表者略歴
西山雄二(Yuji Nishiyama)
首都大学東京・准教授。専門はフランス思想。1971年生まれ。一橋大学言語社会研究科博士課程修了(学術博士)。著書に、『カタストロフィと人文学』(編著、勁草書房、2014年)、『人文学と制度』(編著、未來社、2013年)、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、ほか。訳書に、ジャック・デリダ『獣と主権者 第1巻』(白水社)、『哲学への権利 第1巻』(みすず書房)、『条件なき大学』(月曜社)、『名を救う』(未來社)、ほか。

北見秀司 (Shuji Kitami)
津田塾大学国際関係学科教授。専攻:哲学・社会思想史。1960年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程、単位取得の上、満期退学。パリ第10大学(ナンテール)哲学科博士課程修了。主な著書・論文に、『サルトルとマルクス』(全2巻、春風社、2010−2011年)、「アタック・フランスとフランス緑の党の政策提案」(長砂・荒木・聴濤・岩田・大西・北見『ポスト資本主義を構想する』本の泉社、2014年)、 « Sartre et Merleau-Ponty : l’Autre entre le Visible et l’Invisible --- Démocratie et construction d’une Raison » (Les Temps Modernes, Gallimard, no.572, 1994)など。

藤本一勇(Kazuisa Fujimoto)
早稲田大学文学学術院教授。専門は哲学、表象・メディア論。1966年生まれ。パリ社会科学高等研究院DEA。著書に『情報のマテリアリズム』(NTT出版)、『外国語学』(岩波書店)、『批判感覚の再生』(白澤社)、訳書に、デリダ『プシュケーI』、デリダ『アデュー』、デリダ/ハーバーマス『テロルの時代と哲学の使命』(以上、岩波書店)、デリダ『散種』(共訳)、デリダ『哲学の余白』(以上、法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(藤原書店)、フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)など。

澤田直(Nao Sawada)
立教大学文学部教授。専門はフランス現代思想、フランス語圏文学。1959年生まれ。パリ第1大学哲学科博士課程修了(哲学博士)。著書に『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社)、訳書に、ジャン=ポール・サルトル『言葉』『真理と実存』(以上、人文書院)、『自由への道』(共訳、岩波文庫)、フェルナンド・ペソア『ペソア詩集』(思潮社)『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)『荒木経惟 つひのはてに』『夢、ゆきかひて』(以上、共訳、白水社)など。

フランソワ・ヌーデルマン氏滞在中の予定

フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)教授の滞日中の講演は次の通りです(共同ワークショップ「サルトル/デリダ」特別講演を含む)。多くの皆様のご参加をお待ちしております。

略歴: 1958年生まれ。大学教授資格保持者(文学、1986)、哲学博士(パリ第四大学、1992)。専攻は哲学・文学だが、芸術にも造詣が深く、その分野での著作も多い。ジャック・デリダの後を受け国際哲学コレージュ院長(2001〜2004)、ジョン・ホプキンス大学、ニューヨーク大学の客員教授などを歴任。エドゥアール・グリッサンが設立した全—世界学院のセミナーの責任者も務める。2002年からは、ラジオ・フランス・キュルチュールの哲学番組Les vendredis de la philosophieを制作し、人気を博した。邦訳には、哲学者と音楽との関係を多角的に論じた『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』(太田出版)など。

12月6日(土)13:00〜14:30
特別講演 « Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal » 
日本サルトル学会/脱構築研究会/立教大学文学部フランス文学専修主催
共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
立教大学池袋キャンパス 5501教室 逐次通訳

12月7日(日)17:00 
セミナー « Philosophes à personnalités multiples »
日仏会館 501号室 通訳なし 人文科学系若手研究者セミナー  
司会:澤田直(立教大学・日仏会館学術委員)

12月9日(火)18:00 
一般向け講演 « Penser, jouer, délirer : quand les philosophes touchent à la musique »
日仏会館 1階ホール 同時通訳有り 
司会:クリストフ・マルケ(日仏会館)、ディスカッサント澤田直(立教大学)

12月11日(木)17:00〜19:00  
講演 « Le mensonge, un génie philosophique »
東京大学UTCP主催 東京大学駒場キャンパス 
司会:桑田光平(東大)

サルトル関連出版物
 フランソワ・ヌーデルマン 『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』橘明美訳、太田出版、2014年11月
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年1月刊行予定

退会者
・ 箱石匡行氏が退会されました。

発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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会報41号 [会報]

Bulletin de l' Japonaise d’Etudes Sartriennes N°41 octobre 2014
日本サルトル学会会報            第41号 2014年 10月

研究例会報告

第33回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 7月12日(土) 13:30~18:00
会場: 立教大学キャンパス5号館5210教室

研究発表1
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻里(立教大学 大学院博士後期課程)
司会:黒川学(青山学院大学)

『聖ジュネ』がジュネ受容の大きな土台を作ったのは確かにしても、ジュネの死後、伝記的事実が次々と明らかになるなかで、少なくとも伝記的記述については大幅な見直しが迫られることになった。『聖ジュネ』は今日のジュネ研究においてどのような意味をもっているのだろうか? 中田氏はジュネにおけるセクシュアリティの問題に焦点を当てて、『聖ジュネ』が今日のジュネ研究といかに関わっているのかを明らかにしようとした。
まず中田氏は「コミュニケーション」という問題に着目する。これはバタイユのジュネ論においてすでに提起されていたものである。「ジュネはコミュニケーションを拒否している」というのがバタイユの論であるが、そうしたバタイユの主張はそもそも作者と読者の間の対等な関係を前提としている。これに対し、『聖ジュネ』はジュネ自身が属する「倒錯者たち」と読者を指す「あなたたち」の間の非対称的な関係に対し意識的である点が異なる。その意味で、『聖ジュネ』は異性愛者と同性愛者の非対称的コミュニケーションをいち早く論じたものであると中田氏は指摘する。
そうした『聖ジュネ』の「コミュニケーション」のあり方が引き継がれたものとして、ケイト・ミレットとレオ・ベルサーニのジュネ論を中田氏は挙げる。
ミレットはジュネ作品を、生物学的に男である登場人物たちによって男女の非対称的関係が誇張して示すものであり、そのために異性愛社会に生きる私たちに洞察を与えうるものであると評価する。中田氏によれば、このようなミレットの主張は、サルトルのジュネ論における同性愛の認識が反映されているものである。
つづいて中田氏はベルサーニのジュネ論を検討する。ベルサーニは、小説『葬儀』の読解を通し、ジュネにおける同性愛は孤独への指向であり、同性愛の性行為は「反関係性」を意味するものであると述べている。すなわち、ベルサーニもジュネ作品に「コミュニケーション」の拒否を見出しているのである。ベルサーニはそれを、悪に到達しようする試みとして評価している。この点はサルトルとも類似した点であるが、ベルサーニはジュネにおける悪を、善に対置されるものとしてではなく、外へ向かう運動として捉える点でサルトルとは異なる。サルトルは異性愛社会との対立においてジュネの同性愛を位置づけたが、ベルサーニはそこに異性愛社会からの逃走の意志を見出すのである。ジュネにおける「悪」解釈の方向性こそ異なるが、ベルサーニはジュネの同性愛に異性愛に対する否定的契機を見出しているという点で、『聖ジュネ』を継承しているのではないか、というのが中田氏の主張である。
『聖ジュネ』のみならず、サルトルは『存在と無』においても「現存在」が性的であると主張しており、とりわけ「現存在」に性別を認めなかった(あるいは「中性性」とした)ハイデガーと好対照をなしている。また、サルトルは『嘔吐』や『自由への道』でも同性愛者を登場させている。セクシュアリティについては、サルトル研究においてもよりアクチュアルな議論とつきあわせて考えていく必要性があるのではないか、と筆者は感じた。
質疑応答では、膨大なジュネ研究の中でなぜとりわけミレットとベルサーニが取り上げられたのか等、全体の枠組みの提示が不十分であるのではないかという指摘がなされたほか、フェミニズム研究やクィア理論についてもう少し予備的な説明が欲しいという声があった。しかし、サルトルをアクチュアルなセクシュアリティの議論と結び付けて考えていく上でも有益な発表であったと筆者は考えた。(小林成彬)


ワークショップ
「サルトル研究の現在」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

本ワークショップ開催の契機は、2013年7月6日におこなわれた日本サルトル学会第31回例会の総会に遡る。会長の鈴木道彦氏より、「討論塾」主宰で、サルトル研究の大家でもある竹内芳郎氏による次のような批判が紹介された。「[…]自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(「塾報176」)。こうした発言に対して、学会として批判にどう応えるか、一度議論すべきだと鈴木会長から提起された。それに対して、永野潤氏からは竹内氏の批判を真摯に受け止めるべきだとする発言が、森功次氏からは、特定の政治的立場に偏らず、学問的中立を重んずるべきだという批判がそれぞれなされた。今回は、時間の都合上、同日にはそれ以上深められなかった議論を改めておこなったものである。

司会の翠川博之氏による趣旨説明のあと、鈴木会長から改めて問題提起がなされた。鈴木会長は、竹内氏がサルトル学会の実情を知らないのではないかと疑義を呈したうえで、氏による批判を次のように読み解いた。1:文学・哲学研究一般はどのようにおこなわれるべきか。2:サルトル研究は、とくにどうあるべきか。それを承けて、鈴木会長は、自分にとって、いかにサルトルの思想を正確に読み正しく伝えるかが課題だったと述懐し、自身にとって、生きた同時代人、危険な思想の持ち主であったサルトルが、現在死んだ対象として分析されている現状に違和感があると表明した。
その遠因として、鈴木会長は、上田敏『うづまき』や中島健蔵を援用しながら、東大仏文が大正期より主導的役割を果たし、文学研究に強い影響を与えた日本の文学・哲学研究における一種のディレッタンティズムの陥穽を指摘した。そのうえで彼は、自身の若い頃を振り返り、この陥穽に対してどう対抗すべきかという問題に直面していたと語った。彼によれば、サルトルやプルーストらに強い影響を受けた結果、自らの実存に降り掛かってきた、「在日というマイノリティ」の問題に取り組むことになったそうである。最後に鈴木会長は、サルトルの同時代の人間とサルトル死後の研究者とのあいだでまったく異なるありようを踏まえ、これからのサルトル研究をどう考えるべきかという問いを会場に投げかけた。

続いて、竹内氏からの批判を真摯に受け止めたという永野氏は、自身の論考である「サルトルの知識人論と日本の社会」を提示しながら、大学に入学した1985年ごろ受けた、1:「サルトルは二流の哲学者である」という周囲の哲学・フランス文学専攻の人間からの評価、2:「政治など糞食らえ」という風潮という、「サルトル・バッシング」、「サルトル・フォビア」という現象について振り返った。
さらに永野氏は、森氏の「サルトル学会を、何らかの価値観にコミットした人でしか参加できないような雰囲気にしてしまうのは、学術的にまったく有益ではないので反対」とする主張について、永野氏はそうした意図を否定したうえで、森氏のあげる「何らかの価値観、特定の価値観」に対して、どこにも属していない「中立な」立場などというものは存在しないというのがサルトル自身の主張だったと訴えた。また、『ミシェル・フーコー思考集成』に寄せた松浦寿輝氏の解説を紹介し、フーコーの知識人論に拠りながら、大衆運動を政治的に煽動し、普遍性の番人を僭称する真理と正義の知識人として回収されるような古くさい人間としてサルトル的知識人が描かれていると批判した。これは、サルトルをねじ曲げたうえで、サルトル当人が批判の対象としたものがサルトルのありようとされてバッシングされており、「サルトル・フォビア」や、政治的態度の表明に対する否定的風潮と重なっていると警鐘を鳴らした。

最後に、哲学的なアーギュメントの精査を自身の研究とする森氏が、前回の発言にあった2つの論点を敷衍するかたちで、1:哲学的議論一般に関わる問題、2:左記についてのサルトル研究に内在的な点からそれぞれ論じた。
まず森氏は、〈主張する者〉と〈主張の内容〉と結びつけて倫理的な拒否感に訴える論法が、政治や裁判のような場では機能していることを指摘した。彼は、こうした拒否感を学術的討論の場に持ち込むことに疑問を投げかけ、少なくとも哲学や歴史学などの一部でおこなわれる基礎的な作業に実存を絡める必要はないと主張した。またその作業が、知識人的態度を振舞う人たちの重要な下支えになっていることを忘れてはならず、特定の思想的・倫理的態度を要求しない作業を排除すべきではないと強調した。学会は知識人の集まりではなく、あくまで技術的言語を洗練させる場であると述べた。
次に森氏は、サルトル自身も「人格から乖離された言葉」を用いる作業を哲学の基礎作業として認めていたとして、その理由を2点あげた。1:サルトルは理論的にではあれ、哲学と文学を峻別し、哲学を、専門家のあいだで議論をおこなうための共有可能性を担保する技術的な言語を用いる場だとみなしている点。2:個性と結びついた言語の場合、言語の独創的・芸術的使用を通じてなされるため、哲学とは別の言語使用であるとサルトルが考えている点。以上からサルトルは、ニザンとは異なり、脱個性的な言語使用を哲学に認めていると森氏は指摘した。

報告者たちからの発表後、会場および報告者たちからは、自らとサルトル研究との関わりについて語りながら、サルトル研究のあり方、および学会という組織のあり方などについて次のような活発な意見を交わしあった。
学会と知識人との関係については、学会とは研究者の集まりであり、サルトル的コンテクストで語られるような「知識人」の集まりではないという意見が出る一方、インターネット時代の現代において、アカデミックな言語と知識人をどうつなぐかという課題も提起された。
サルトル研究そのものに関しては、フランスのGES(Groupe d’études sartriennes)においても、サルトルを実際に知っている人たちから、サルトルを研究対象とみなす若手の研究者たちに中心が変化してきている点、ならびに文学(仏)と哲学(ベルギー)でわけられており、相互交渉がうまく成り立たっていないという情況が紹介された。またサルトル研究においては、彼の根幹に関わる部分やノイズのようなものは無視できないのではないかという主張も提唱された。一方、サルトル思想については、これまで実践の側面ばかりが強調されてきたが、むしろ理論のほうをまずは捉えるべきではないかという意見も投げかけられた。さらに、これまでの日本におけるサルトル研究の蓄積を踏まえ、サルトルと同時代に生きたサルトル研究者たちのオーラル・アーカイヴ保存の必要性が訴えられた。
   
上述のように、報告者のみならず、会場のサルトル研究者たちも巻き込んで白熱した本ワークショップについて、サルトル学会ならでのテーマ設定であるというコメントが会場から寄せられたが、たしかに、のちのサルトル研究においても、必ず語り継がれるであろう討議であった。(竹本研史)


講演
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

ジャン=ピエール・ブーレ氏は、サルトルの自伝『言葉』のロシア語への翻訳者であるレナ・ゾニナをめぐって発表を行った。『言葉』にZ夫人宛ての献辞があることは知られているが、その当の相手レナ・ゾニナ(1922-1985)がどのような人物なのかについては、これまで多くのことは語られてこなかった。
彼女は、サルトルがソ連に公式訪問した際の通訳であり、『言葉』の翻訳者でもあった。サルトルが何度もソ連を訪問したのは、彼のアメリカ滞在がドロレス・ヴァネッティのためであったように、レナ・ゾニナに会うことが主要な目的だったという。人民の敵と目されたユダヤ人家庭に生まれた彼女は、苦労してモスクワ大学に入学し、文学の博士号を取得。イリヤ・エレンブルクの秘書となった後、ソ連作家連合の外国部署でフランス担当コンサルタントとして務め、サルトルが1962年にソ連を訪問した際に、通訳兼ガイドとなり、サルトルの愛人となり、長年交際した。
ブーレ氏は、ボーヴォワールの回想録や、サルトルとゾニナの往復書簡(未刊)、さらにはボーヴォワールが1967年に書いた小説「モスクワでの誤解」(1992年刊行)を用いながら、サルトル、ボーヴォワール、ゾニナの関係を分析。他のトリオの場合とは異なり、ボーヴォワールがゾニナをきわめて知性に富んだ教養ある女性として認め、自分亡き後はサルトルのパートナーだとまで言った点に着目した。ブーレ氏は、デブラ・ベルゴーフェンのシモーヌ・ド・ボーヴォワール研究である『シモーヌ・ド・ボーヴォワールの哲学、現象学化ジェンダー化した現象学、エロス的贈与性』(The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, 1997)などを手がかりに、サルトル、ボーヴォワール、レナ・ゾニナが織りなすトリオの意味に関して考察を展開した。ボーヴォワールの態度のうちに、彼女が『両義性のモラルのために』で素描したgénérosité(鷹揚さ、贈与性)が見出されると指摘するとともに、サルトルが『倫理学ノート』(Cahiers pour une morale)で展開したgénérositéのモチーフがいかにそこに響き合っているかをたいへん積極的に提示した。質疑応答も活発に行われ、サルトルがソ連に対して抱いていた幻想を批判し、現実の姿を知らしめたのが彼女であったことなど、あまり知られていない事実も満載で、たいへん有意義な講演であった。(澤田直)


総会報告
7月12日の例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の改選が行われ、承認されました。
     会長:鈴木道彦(留任)
     代表理事:澤田直(留任)
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次(すべて留任)、翠川博之(新たに就任)
     会計監査:竹本研史、水野浩二(新たに就任)



今後の研究例会予定のお知らせ

次回の研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。
日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)
15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

※発表要旨は出揃い次第、学会ブログに掲載します。


サルトル関連出版物
 ポール・ストラザーン『90分でわかるサルトル』浅見昇吾訳、WAVE出版、2014年10月 (以前、青山出版社から出ていたものの再刊だと思われます)
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2014年12月刊行予定

新規入会者
・ 栗脇永翔氏、永井玲衣氏、中田麻理氏の3名が入会されました。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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会報40号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°40 juin 2014
日本サルトル学会会報            第40号 2014年 6月


次回研究例会のお知らせ

第33回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2014年7月12日(土)13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス5号館 5210号教室

受付開始 13 :00
1. 研究発表 13 :30 ~ 14 :15
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻理(立教大学 大学院博士後期課程)
司会: 黒川学(青山学院大学)

2. ワークショップ「サルトル研究のあり方」 14 :30 ~ 16 :30
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

3. 講演 16 :45 ~ 17 :30
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

総会 17 :40 ~ 18 :00
懇親会 18 :30 ~(会場近くの店を予定しております)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。
当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。



発表要旨

「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻理(立教大学 大学院博士後期課程)

 J-Pサルトルは『聖ジュネ』において、ジュネにとって泥棒であることは、同性愛者であることに先立つとしている。すなわち、孤児で里子であったジュネは、「お前は泥棒だ」という言葉によって決定的に社会から切り離され、その後同性愛者となったのもその延長線上のできごとであるというのである。サルトルによるこうした分析は、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)の決定という点に関しては議論の余地があるものの、ジュネにおける同性愛の本質をマイノリティであることとして見抜いていた点は注目に値する。とりわけ、小説における「語り」に注目するときにそれは重要である。というのもジュネの小説は、同性愛者である語り手が異性愛者である「あなたがた」に語りかけるという形式を有しているが、このとき語り手と読者の関係は、全く対称な二者同士の関係ではありえないためである。同性愛者として語ることは、社会の外からマジョリティである「あなたがた」に語りかけるという非対称的な関係を意味する。サルトルの視点は、こうした関係の非対称性に関して意識的であるため、ジュネにおける「語り」を読み解くに当たって不可欠なのではないだろうか。
 本発表では、こうした見解に基づき、従来ジュネにおける同性愛あるいは作者と読者の関係性を問題にしてきたバタイユ、ミレット、ベルサーニによるジュネ論と対照させ、サルトル的解釈がどのように反映・解釈されてきたのかを検証し、同性愛者として語ることがいかなることであるのかを再考したい。

ワークショップ「サルトル研究のあり方」
司会:翠川博之(東北大学)  
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
  永野潤(フェリス女学院大学他) 
  森功次(日本学術振興会)

  「『語る主体の存在からの言葉の乖離』の問題は、私が戦後サルトルから学んだ<実存主義>の核心的思想−−「世界=内=存在としての己れ自身の存在に責任をとる思想」(それがサルトルのengagementなるものの真義)によってこそ、真の解決を得ると考える。ただ、サルトルが戦後日本の思想界で流行した時には、それは新たに輸入された新衣裳の一つでしかなかったし、そのように自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(討論塾 塾報176より )。『サルトル哲学序説』(1966)、『サルトルとマルクス主義』(1966)の著者である討議塾主宰、竹内芳郎氏によるこの学会批判にどう応えるか。
昨年7月6日の総会で鈴木道彦会長より問題提起が行われ、短い時間のなかで永野潤氏と森功次氏が意見をぶつけあった。本ワークショップは、中断された議論の続きを一同で行うために企画したものである。前半に、鈴木道彦会長、永野潤氏、森功次氏より全体議論に向けて提議をしていただく。


“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University, chercheur invité de l’Université Rikkyo)

Cette communication se concentre sur la relation entre Sartre et Lena Zonina, son interprète lors de ses voyages en URSS et la traductrice des Mots. Guidé par le livre de Debra Bergoffen publié en 1997 The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, [Phénoménologies genrées et générosités érotiques], j’examine également le rôle de Simone de Beauvoir dans cette relation et montre que Beauvoir, de par son attitude, exemplifie le concept de générosité du don que l’on trouve dans Pour une Morale de L’Ambiguïté. Ce texte est mis en dialogue avec Cahiers pour une morale pour montrer que Sartre fait écho à Beauvoir dans sa description de l’amour dans ces cahiers et illustre certains de ses propos théoriques dans sa relation avec Zonina. Les sources utilisées pour examiner cette relation seront les Mémoires de Beauvoir, la correspondance entre Sartre et Zonina (restée inédite) mais aussi la nouvelle de Simone de Beauvoir, Malentendu à Moscou, écrite en 1967 mais qui n’a été publiée qu’en 1992.

 定例会に先だって法政大学においてJean-Pierre Boulé氏の講演と討論会が催されます。併せてご参加ください 。
日時:2014年7月4日(金)17 :00~19 :00. 場所:法政大学市ヶ谷キャンパス富士見坂校舎F310
講演:“Camus and Sartre : Similarities amongst differences.Differences amongst similarities”
討論会;「実存主義の現況」
提題発表:「実存主義の遺産:自由という重荷」司会および提題発表:鈴木正道
講演は英語で行なわれますが日本語の通訳を添えます。討論会の提題発表は日本語で行なわれますが、ブレ教授にはあらかじめ内容を伝えておきます。討論会には来場者が自由に参加できます。発言には適宜通訳を添えます。
予約不要、入場無料。お問い合わせは法政大学 言語・文化センター TEL 03(3264)4742まで



サルトル関連出版物
鈴木恵美「初期大江文学とサルトル受容 : 『鳩』を視軸として」、『日本女子大学大学院文学研究科紀要』 20, 63-76.
関大聡「アメリカン・ウェイ・オブ・アンガジュマン : ジャン=ポール・サルトル『恭しき娼婦』とボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』におけるアメリカの「真実」」、『れにくさ = Реникса : 現代文芸論研究室論集』 5 (3), 256-275.
竹本研史「ジャン=ポール・サルトルと共産党――1946-1957」、『国際関係・比較文化研究』、静岡県立大学国際関係学部、12(2)、71(353)-87(369).


発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。


合同ワークショップのご案内・発表者募集
デリダとサルトルをテーマにしたワークショップを、脱構築研究会と合同で開催いたします。日程は、12月6日(土)、場所は立教大学の予定です。詳細は次号にてお知らせいたします。
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会報39号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°39 mars 2014
日本サルトル学会会報              第39号 2014年 3月

研究例会報告

第32回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 12月7日(土) 13:30~17:00
会場: 関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪

研究発表1
「読書における共感と距離―『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)

赤阪氏は、本発表において、サルトルが、読書における距離をどう考えていたかを明らかにすることを試みる。この問題は、自由や他者との関係などサルトルの思想にとっての主要な主題に関わる。氏は『文学とは何か』および『存在と無』を中心としながら他の作品にも考察の範囲を広げる。
赤阪氏は、「読者における共感」が、読者が自由を放棄して作品に入り込む第一の水準、作品世界を登場人物の観点から経験する第二の水準、三人称や過去時制などの形式によって距離を取ることになる第三の水準から成立つと考える。第一の水準は自由を自らの意思で手放すという意味でサルトルの言う「受難」である。第二の水準では、サルトルが『想像力の問題』において関係や規則をつかむ「純粋知」と区別する「想像的知」によって読者は、未だ定まらない登場人物の世界を生きる。しかし読者は登場人物と完全に一体化することはありえない。第三の水準において読者は人物自身になりながらも他者であるという美的な隔たり(recul esthétique)を持つことになる。赤阪氏はこれを一体化の挫折であるとしながらも、作品の構造や主題を読者が把握するのに役立つ効果であると言う。
赤阪氏は、この後退としての隔たりと、『存在と無』で述べられている、対自存在が世界内存在に対して距離をとる無化的後退(recul néantisant)を比べる。対自は「問いかけ」や「時間化」により、存在と親密な関係を保ちながらも「無化」することで距離を持つのである。美的隔たりと無化的後退は、どちらも意識の成立に関わり、存在との一体化から生じる距離を捉え、さらにこの隔たりが行為の条件となると言う点で共通している。しかし読書ではまず自由の放棄による対象との一体化があり、対象からの離脱は二次的な作用であり、条件付けられる行為も限定されたものである。それに対して、無化的な後退では、離脱は対自の出現そのものを意味し、それにより行為そのものが条件付けられる。
赤阪氏はさらに、『想像力の問題』と『文学とは何か』で表わされたサルトルの読書論を比べる。前者でサルトルは、対象との距離がない夢と、アナロゴンを通して鑑賞者と対象との間に距離が生まれる文学作品やその他の芸術作品を対比する。後者では、あくまでも作者の書いた枠内にありながら、読者が創り出す対象は作家自身の意図と必ずしも一致しないことがある。その意味で「読書は方向づけられた創造」なのである。
赤阪氏は、作品との距離というテーマは、サルトルの哲学の中心を成すものではないが、彼の生涯を貫くテーマであると指摘する。またこれは他者論という彼の中心主題に関わる。他方、体験の分析から作品を評価する手法は、現れた差異に注目してその成立条件を探る現象学的方法にも通じる。氏は、サルトルの他の批評作品などにも分析を広げたいと述べる。
会場からは、サルトルは美的隔たりを読者というよりも作者が置くものとして論じているのではないか、視点と言うよりも単に技法の問題ではないか、サルトルは演劇に比べて小説においてこそ受け手は登場人物と距離が取りにくいと述べているのではないかとの指摘がなされた。司会者から見ると、これまで注目されていない点に焦点を当てて様々な作品を参照した上で、考えを構成した点で、分かりやすく興味を書き立てる発表であった。(鈴木正道)


研究発表2
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場寛(大谷大学)
司会:澤田直(立教大学)

番場氏の発表は、サルトルとラカンがほぼ同時代を生き、かつラカンのほうがサルトルより年長にもかかわらず、実存主義と構造主義のタイムラグのために、むしろサルトルのほうが年上であるかのような錯覚が起こる、という点の指摘から始まった。番場氏は、両者は相互に理論的影響を与えながらも、フロイトの精神分析受容という点では、まったく相容れないことを指摘し、その意味を考察した。
サルトルは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているにも拘わらず、なぜ彼は「実存的精神分析」という呼称を用いるのか、と問いかけながら、その答を番場氏は、『情動論粗描』のうちに探る。この初期の著作の結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定している点に注目したうえで、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす、と指摘した。
続いて、シナリオ『フロイト』をとりあげ、そこでの「抑圧」や「転移」などの基本概念がフロイトにきわめて忠実であることを確認した。ところで、ラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張するが、その点に番場氏は疑問を投げかける。
その後、「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』をとりあげ、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明が行われていることを確認するとともに、ラカンへの言及箇所が見られることを指摘した。
最後に、ラカンがサルトルの「眼差しと目の分裂」を認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定することなどの考察に移り、『存在と無』に見られる「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面があるという指摘がされた。
本会で、ラカンとサルトルとの関係が主題的に論じられた初めての発表であり、内容も盛りだくさんであったため、消化でき切れない部分もあったが、充実した対話となった。(澤田直)


合評会
清眞人『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』(藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

清氏のサルトル論として4冊目となる同書が刊行されてから1年、少々遅ればせながら、この書をめぐって著者本人の参加のもとに議論が交わされた。まず司会者が著書の骨子をまとめ、注目すべき論点を洗い出して著者に疑問を投げかけ、それに対して著者が答え、さらに会場の参加者から質問や意見が寄せられ、著者が答える、という流れで活発なやり取りが進められた。
この著書の中心となる主張は、サルトルがニーチェと対決し、ニーチェを乗り越えることでサルトルとして誕生した、というもので、清氏はその足跡を初期の『想像力の問題』から晩年の『家の馬鹿息子』に至るまで、サルトルの哲学的・伝記的著作の各処に見い出す。特に、想像力論を踏まえてジュネ論で展開される想像的人間という人間造形がニーチェの『ツァラトゥストラ』の読書をとおして生まれたこと、『存在と無』の「存在欲望」という概念がニーチェの「力への意志」を批判的に取り込んだものであること、道徳論の試みをとおして形成される「相互性のモラル」という思想の背景に、ニーチェの「主人道徳」のモラルとの対決があること、『弁証法的理性批判』の暴力論がニーチェの汎暴力的世界観を批判的に乗り越えたものであること、そして、フロベール論における母性愛経験の重視が「相互承認と理解のモラル」へと結びつく点にもニーチェの「性愛還元主義」からの離脱が指摘されること、こうした論点が確認された。
これらの論点について、司会者からは、サルトルの暴力論にはニーチェと直接かかわりのない多くの要素があることや「母性愛」と「相互性のモラル」を直接結びつけることは出来ない等の反論を投げかけ、会場からもサルトルとニーチェの間には初期から対立があった訳ではない、という指摘や、事実と推測との境界が不明瞭で学術的に検証することが難しいとの批判も寄せられた。これらに対して清氏はていねいに回答し、一連の議論をとおして、サルトルとニーチェというテーマが今後さらにアカデミックな手法で深められるべきであるとの方向性が示された。
同書には、バタイユ、レヴィナス、三島も絡んで親和性と差異の織りなす清氏ならではの世界も綴られているが、今回はそこまで深く踏み込むには至らなかった。
なお、この合評会に関連して『週刊読書人』2014年3月7日号に掲載された同書の書評も参照されたい。(生方淳子)



今後の研究例会予定のお知らせ
次回の研究例会は、7月12日(土)を予定しています。開催場所は立教大学です。
1. 研究発表
中田麻理(立教大学大学院) 
「ジュネ研究史における『聖ジュネ』とその今日性」(仮)
2. 講演
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
“Sartre et la traductrice des Mots”
3. ワークショップ「サルトル研究のあり方」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)、永野潤(フェリス女学院大学他)、森功次(日本学術振興会)

サルトル関連出版物
 Jean-Paul Sartre, Qu'est-ce que la subjectivité?, Les Prairies Ordinaire, 2013
 Jean-Paul Sartre, Situations, tome III : Littérature et engagement (février 1947 - avril 1949), Nouvelle édition revue et augmentée par Arlette Elkaïm-Sartre, Gallimard, 2013
 有田英也「サルトル『ユダヤ人問題の考察』再読(上):大量死と社会契約の再構築」、『思想』、2013年8月
 有田英也「サルトル『ユダヤ人問題の考察』再読(下):大量死と社会契約の再構築」、『思想』、2013年9月
 澤田直「サルトルのイマージュ論——不在の写真をめぐって」、塚本昌則編『写真と文学 何がイメージの価値を決めるのか』平凡社、2013年
 竹本研史「稀少性と余計者—―サルトルにおける『集列性』から『集団』へ」、『Résonances ――東京大学大学院総合文化研究科フランス語系学生論文集』、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、第8号、2014年1月
 竹本研史「ジャン=ポール・サルトルと共産党――1946-1957」、『国際関係・比較文化研究』、静岡県立大学国際関係学部、第12巻2号、2014年3月
 根木昭英「ジュネの読者、バタイユとサルトル F. ビゼ『交換=応酬』なきコミュニカシオン』によせて」、Résonances、第8号

論文情報についてのお願い
日本サルトル学会では、日本におけるサルトル関連の発表論文について、国際サルトル学会GESのBulletinに掲載するためにGESに報告しています。論文・著書を発表された方は、著者名/論文名/掲載誌名(提出大学/出版社名)を日本語および欧文にて明記の上、事務局までご連絡ください。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/
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日本サルトル学界会報第37号 [会報]

研究例会の報告

 第31回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月6日(日) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5210教室

研究発表1
「サルトル/ファノン試論」
発表:中村隆之(大東文化大学)
司会:鈴木正道(法政大学)

 中村氏は、サルトルの反植民地主義という戦いをフランツ・ファノンとの関係を軸に考える。二人の思想家の互いに投げかけた呼びかけを、当時の読み手の姿勢を視点に入れながら辿り、さらに現代に結び付けて考えようとする発表である。
 中村氏は、まずサルトルの状況論を分析する。サルトルは戦後すぐに、アンガージュマンという考えを掲げ、時代に即して書くことを心がけ、それゆえに時代状況の変化にともない忘れられる傾向があった。またユダヤ人問題に関して「本源的ユダヤ人/非本源的ユダヤ人」という軸で考察しているように、実践的というよりも倫理的な観点から彼の状況に対するアンガージュマンは展開した。
 レオポルド・サンゴールの詩選集への序文「黒いオルフェ」は、サルトルの、ネグリチュードという呼びかけに対する答えと考えることができる。ユダヤ性とは異なり見た目で明らかな肌の色がここでは扱われている。しかし白と黒の対立は止揚されるべきものとして捉えられ、また階級の対立という普遍的な問題に対して個別的で二義的な問題とされる点で、思弁的な結論となっていると中村氏は指摘する。
 歴史における止揚の一段階としてのネグリチュードという考えは、ファノンにとっては受け入れがたかったと中村氏は続ける。サルトルは、ファノンの『血に呪われたる者』の序文(1961年)を彼と対話を行なった後で書いた。アルジェリア問題にも取り組んでいたサルトルは、ファノンの著作の要を成す暴力がフランス側の暴力の跳ね返りであると述べ、アフリカにおけるフランス植民地の問題に正面から組み合う。その意味でサルトルはファノンの呼びかけを受けた上で、フランスの左派知識人に呼びかけを行なったと言える。
 会場からは、はたしてサルトルにとって、階級問題こそが普遍的で他の人種問題などは個別問題にすぎなかったのかという疑問が出された。あの時代においては確かにそう考える傾向があったようだが、ファノンの影響もあり、アルジェリア問題などから考え方が変っていったのではないかという答えがやはり会場から出た。また発表には、二人の思想上の交換に関する具体的な考察が足りないのではないのかという指摘もあった。司会者としては、自分の扱う題材に関して様々な資料を集め、頭の中で消化し整理した上で行なった好発表だったと考えた。(鈴木正道)


研究発表2
「サルトルの思想と生における「遊戯」について」
発表者:関大聡(東京大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

 サルトルの生を理解するうえでは「遊戯jeu」が鍵語となる。その根拠として、関氏はまず『奇妙な戦争』から40年3月9日の日記を引用した。「私の人生に何かしら一貫性があるとすれば、それは私がかつて一度も真面目に生きたいとは思わなかったことである」。一般に「遊戯」は楽しみ以外に目的を持たない非現実的活動とみなされるが、この戦中日記でサルトルは「遊戯」の対極に「くそ真面目な精神」を置いて、むしろ後者を批判している。決定論的な「くそ真面目な精神」に対し、「遊戯」とは自由な自律的行為であり、だからこそ彼は、続く11日の日記に「人は遊戯しているときにしか十全に人間ではない」というシラーの言葉を引き、これに「全面的に同意する」と記しているのである。
 「遊戯」をめぐるサルトルとシラーの思想的近親性を論じた先行研究、ならびにシラーとニーチェの「遊戯」を比較した先行研究に導かれ、関氏はそこからさらにニーチェとサルトルを同じ系譜のなかに位置づけようとする。シラーは『人間の美的教育について』で、人間の現実的「素材衝動」と理念的「形式衝動」の間に、現実性と形式性の調和、偶然性と必然性の調和、忍従と自由の調和としての「遊戯衝動」を設定した。これを模してニーチェは『悲劇の誕生』を著し、「素材衝動」に「アポロン的衝動」を、「形式衝動」に「ディオニュソス的衝動」をそれぞれ対応させて、その間に「美的遊戯としての芸術」を位置づけている。彼から強い影響を受けたサルトルは、芸術の創造という美的遊戯を『嘔吐』の創作で実践したのではあるまいか。これが関氏の見立てである。
実際、サルトルは『存在と無』で「遊戯=スキー」を論じ、「スポーツは芸術と同様、創作的である」と表現している。ただし、問題がひとつ。ここでは「遊戯=スキー」が自然の「我有化」をめざす活動として記述されてしまっている。関氏によれば、これは現実世界に根をおろすことを拒絶する「滑走的遊戯」、「ひとり遊び」である。「本来的遊戯」とは、世界や他者の我有化を目指すものではなく、世界と他者に開かれたそれ自体自由な活動でなければならない。以後のサルトルの著作は、芸術創作と政治の領野を通じて、そのような「本来的遊戯」を追求してゆくものになるだろう。今後の研究をこのように展望するかたちで本研究発表は閉じられた。
 続く質疑応答では、引用箇所の適切さに関する疑義、発表で使用された語彙の正確な説明を求める質問が提起された他、« jeu » という語が含む「賭け」や「演戯」といった多様な意味にも目配りが必要ではないかという意見も出された。これまであまり俎上に載せられたことのない主題に着目したユニークな研究に、さらなる発展を期待するコメントが質問や意見とともに多く寄せられた。(翠川博之)


研究発表3
「サルトルとバタイユ――不可能な交わりをめぐって」
発表:岩野卓司(明治大学)
司会:澤田直(立教大学)

 サルトルとバタイユが同時代の思想や文学のステージでどのように関わったのか? この大きな問いに岩野氏はきわめて明確なパースペクティヴを引きながら、とくに戦中期から戦後すぐの時期にかけての両者の作品に焦点をあてて、見事なサーベイを行った。
 サルトルとバタイユは、ある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている、と岩野氏は指摘し、ブランショの小説『アミナダブ』に対する二人の解釈から考察を始める。サルトルは、『アミナダブ』をカフカの『城』に似た幻想文学と捉え解読を試みるのだが、その根底にあるのは「表」と「裏」の二元論である。幻想文学が示しているのは、「裏側」の「あべこべの世界」であり、それをひっくり返せば「表側」の日常の世界となる。一方、バタイユは『有罪者』の中で、『アミナダブ』の世界を日常の世界を反転したものとはとらえずに、「夜」の神秘経験としてそのまま肯定する、という違いがある。
 同様の違いは「新しい神秘家」での、サルトルによるバタイユ批判にも現われている。バタイユの「非-知」、「非―意味」、「無」を、サルトルはそれらの実体化して批判するが、その理論的根拠は、「存在は存在し、無は存在しない」というパルメニデス以来のテーゼだ、と岩野氏は述べる。つまりバタイユが「存在」でも「無」でもなければ、「存在」でも「無」でもあるような何か、知でもなければ非-知でもなく知でもあれば非-知でもある何かを語ろうとしているのに、サルトルはそれを二元論で割り切ろうとしているのだ。
 『嘔吐』と『内的経験』の間には、「瞬間」、「沈黙」、「絶対的なものの魅惑」、「木々を通しての神秘体験」といった類似が見られるが、決定的な相違もある。そのなかでも最も重要なものが、サルトルにおける「余計なもの」とバタイユにおける「最後の人」の違いであり、これはコミュニケーションという重要な問題系へとつながっている。
 岩野氏は両者のテクストを丹念につきあわせ、丁寧に跡づけながら、バタイユが、極点に向けて問いを徹底する傾向をもつのにたいし、サルトルのほうは究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者と見なすことができると結論づける。ただし、このサルトルの不徹底さこそがサルトルの多元性、多産性の源であると補足もする。
 発表に続く、質疑でも多くの発展的な対話が続けられ、このような同時代の思想家や作家との関係を再検討することの意義が十分に感じられた。たいへん充実した発表と討議であった。(澤田直)

総会報告
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。
・ 総会の最後には、竹内芳郎著『討論 野望と実践』閨月社(p.845)で述べられていた近年のサルトル研究に対する批判をめぐって、少しながらディスカッションが行われました。
次回研究例会のお知らせ
次回の研究例会は12月を予定しています。


サルトル関連出版物
 渡部佳延 『サルトル、存在と自由の思想家』 トランスビュー 2013年8月.
 渡部佳延 『サルトル、世界をつかむ言葉 』 トランスビュー 2013年8月.
(渡部佳延氏は、1998年「朝西柾」の筆名で『サルトル 知の帝王の誕生』(新評論)を出版されています)。
 西永良成 『グロテスクな民主主義/文学の力 ユゴー、サルトル、トクヴィル』 ぷねうま舎 2013年8月.

また、Études sartriennesの最新号に、サルトルのル・アーブル時代の講演草稿が掲載されております。
・ Jean-Paul Sartre, « La technique du roman et les grands courants de la pensée contemporaine. Conférences de la Lyre havraise, novembre 1932-mars 1933», in Études sartriennes, no16, Ousia, 2012.
アンドレ・ジィド、オルダス・ハクスリー、エドゥアール・デュジャルダン、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ジョン・ドス・パソスらに触れながら、サルトルの小説観・文化論が語られています。初期サルトルの思考が読み取れる貴重な論考がこのたび初めて公開されておりますので、関心をお持ちの方はぜひ御覧ください。(http://www.ges-sartre.fr/etudes-sartriennes.html


発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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日本サルトル学会会報 第35号 [会報]

研究例会の報告

第30回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 12月15日(土) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)四号館 4405教室


研究発表1
 「『バリオナ』のミステール」
 発表者:翠川博之(東北大学)
 司会 :岡村雅史(関西学院大学)

 当学会で以前『キーン』を取り上げられた発表者は、数多くのサルトル劇を扱った後、最初の戯曲『バリオナ』に目を向ける。以下がその発表の主旨である。
 この劇の創作は「集団」「抵抗運動」「状況」「呼びかけ」といった戦後サルトル文学の起点ともなっている。にも拘らずこの劇がその後上演されず、作者によっても芸術的に「不出来」だとみなされ、認知されず、恰も私生児のごとき扱いを受けたのはなぜか。作者の日記やノートを参照しつつ、この戯曲のテクストの精緻な分析から、その謎が明らかにされていく。上演されたのは第2次大戦中の捕虜収容所であり、ドイツ軍の目を欺くため、かつまた同じ捕虜の中にいた聖職者の共感を得る目的もあって、この劇作は聖史劇(ミステール)の体裁を装っているが、多重のメッセージを含み、また作品そのものへの否認も見られる。即ち実存主義思想を示す要素と、これに反する汎神論的要素の共存など、作品の内外に張り巡らされたディスクールが互いに否定し合うといった、一つの大きな回転装置(トゥルニケ)を成している。そのいくつかの点が作者の意に反するものと思われ、それがこの戯曲が認知されなかった理由と結論付けられる。しかしこの回転装置はサルトルの作品全般に通底するゆえ、『バリオナ』の重要性は見直されるべきと考えられる。
 以上がその概要であるが、これに対し会場では次のような活発な質疑応答がなされた。列挙すると1)まず発表者の研究によれば、主人公のバリオナの名の由来が<雷の子>の意味となっているが、これは聖書を調べれば誤りであるとのこと。ではなぜプレイヤード版にも載せられた時点でこれが指摘されなかったかという疑問が出たが、今の所は不明という回答。2)la chute dans le mondeの<世界における転落>という訳、<世界への転落>とも解せるのでは。3)『バリオナ』において他人を欺くと共に、自分も欺くサルトルは、この自己欺瞞に気づいていたのか?その点がこの作品に関しての自己嫌悪につながったのではないか。4)示された自由の意志は『存在と無』と同じか?『バリオナ』では責任はすべて人間にあると同時に神を肯定する。かかる2元論は乗越えられるべきとサルトルは考えるが、ここではその方向性が見えない。それゆえ、この劇は明確な志向がわかりにくく、テクスト中心に読み解く必要があろう。5)バリオナの出版事情はイスラエル建国とも関連があるのではないか。これは調査が必要。6)他の作品同様この劇でも多くの事物を比喩としてサルトルは使っているが、それらは『存在と無』を読まないと解読できないものも多く、どこまでが単なる作者の好みの比喩で、どれが象徴なのかの識別が必要ではないか。翠川氏は偶然とは思えない象徴としての事物の表現が多く、また、『バリオナ』と次の戯曲『蝿』では父性/母性、軽さ/重さを示す象徴は逆の使われ方をしていることも指摘。7)さらに事物の存在を示すil y aの多用というサルトルの文体的癖(と本人は、人から指摘を受けたと述懐)は、知覚された事物の絶対化、比喩による世界の所有につながっており、『嘔吐』にも見出される、等々。といった興味深い内容となった。会場の反応はかなり盛況であり、これは発表題目ミステールの言葉が示すその謎解きに発表者がわれわれを巧みに導いたためかと思われる。(岡村雅史)


 ワークショップ 
 サルトル研究近況
 モデレーター:澤田直(立教大学)

 モデレーターがフランスを中心としたサルトル研究の現状を簡単にサーベイ紹介した後、参加者たちが注目する近年の研究書などについて発言し、意見交換を行った。以下に紹介のあった本を挙げておく。
- Clotilde Leguil, Sartre avec Lacan : Corrélation antinomique, liaison dangereuse, Navarin, 2012.
- Aliocha Wald Lasowski, Jean-Paul Sartre, une introduction, Agora, 2011.
- Frédéric Fruteau, La psychologie des philosophes. De Bergson à Vernant, De Laclos, 2011.
- Guillaume Cassegrain, Tintoret, Hazan, 2010.
 なお、Arlette Elkaïm-Sartreの編集によるSituationsの新版の刊行が2010年から始まった。これは従来の版とは異なり、発表順にエッセーをまとめたもの。2012年12月に出版された第二巻には、これまで単行本未収録のアメリカに関する多くの新聞記事発表が収録されているとともに、「文学とは何か」が収められていないという点で、従来の版とはまったく相貌の異なるものとなっていることを付記しておく。(澤田直)


サルトル関連出版物

・ 清眞人『サルトルの誕生〔ニーチェの継承者にして対決者〕』、藤原書店、2012年12月。


事務局からのお願い

 例年通り、みなさまの論文などの情報をGESのBulletinに掲載させていただきたいと思います。ご希望の方は、お名前、論文タイトル、発表誌名、日付などをローマ字で記し、論文の仏訳名、雑誌の欧文名を添えて4月20日までに事務局までメールでお知らせくださいますようお願いいたします。

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日本サルトル学会会報第34号 [会報]

研究例会の報告

 第29回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月8日(日) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)マキムホール202教室

研究発表1
「いわゆる「サルトル・カミュ論争」におけるサルトルのテクスト「アルベール・カミュへの回答」再検討」
発表者:石崎晴己(青山学院大学)
司会 :東浦弘樹(関西学院大学)
コメンテーター:伊藤直(青山学院大学)

 カミュ・サルトル論争を正面からとりあげ分析することに一体どんな意義があるだろうか。大抵の論争がそうであるように、この論争もまた議論がかみ合っておらず、双方ともインテリらしい――あまりにもインテリらしい――言辞を弄しているが、内実は子どもの喧嘩にすぎない。だから、当時の政治的状況に沿って、あるいは21世紀の今日から振り返って、どちらが正しかったかを論じても意味があるとは思えない。しかし、石崎晴巳氏はサルトルの「アルベール・カミュへの回答」を『言葉』を予告する「自己批判の書」と考えた。そこに石崎氏の慧眼がある。
 石崎氏は「アルベール・カミュへの回答」でサルトルが描き出すカミュ像のなかには、官僚・神秘・司法・警察・人種主義などサルトルが嫌悪するものすべてが詰め込まれているとした上で、そこにはサルトル的な「下種野郎」(salauds)のイメージがみられると指摘する。さらに石崎氏は、「カミュは歴史とは無縁であったが、レジスタンスの経験を通して歴史に参加するようになった」というジャンソンの図式をサルトルが踏襲し「内的」に分析していることについて、この批判は捕虜収容所経験によって初めて歴史に目覚めたサルトルにこそふさわしく、戦前の「世界の永遠の不正」との戦いの延長としてレジスタンスに参加したカミュの姿勢の方がむしろ「本来的」であると述べている。つまり、サルトルの語っていることはカミュに向けられたものである以上に自分自身に向けられたものであり、そうであるからこそ過剰なまでに激しくカミュを攻撃することができたというのである。
 例会では、「アルベール・カミュへの回答」でサルトルがカミュの『ドイツ人の友への手紙』を「誤読」して引用していることを指摘し、石崎氏の考察のきっかけをつくった伊藤直氏をコメンテーターに迎え、時間の制約はあったものの活発な議論がかわされた。最後にひと言、長年カミュを研究している者として、カミュが1935年に共産党に入党しイスラム教徒に対する情宣活動に従事した(1937年に離党)こと、1938年『アルジェ・レピュブリカン』紙に入社後、ジャーナリストとして当局の不正を告発したことを付け加えておきたい。カミュは戦前から「参加した人間」であり、サルトルやジャンソンが言うような「歴史とは無縁な地中海人」ではなかったのである。(東浦弘樹)


研究発表2
「サルトル倫理思想におけるエコノミーの影」
発表者:小林成彬(一橋大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

 利己的であることを禁じる「公正」という倫理規範は、もともと社会関係のなかで同等の力をもつ者が利己的に行っていた「交換」に起源を持っている。ニーチェが『人間的な、あまりに人間的な』で示したこの見解を、彼から大きな影響を受けた若き日のサルトルが見過ごしたはずはない。サルトルの倫理思想に「エコノミーの影」が見えるのもその影響のひとつではないか。これが小林氏の見立てである。卒業論文の成果をまとめた本発表は、倫理と経済とが交叉する思想領域を『嘔吐』、『文学とは何か』そして『聖ジュネ』に探りつつ、サルトルにおける倫理学構想の深化あるいは変遷を跡づけようとするものであった。
 『嘔吐』においてロカンタンが孤独のなかでついに「実存」を見いだし得たのは、金利生活者である彼が社会における「物質の交換」から除外されていたからだ、というのが最初の考察の結論である。続いて、『文学とは何か』および『聖ジュネ』における「贈与」が考察された。『文学とは何か』におけるサルトルの立論、すなわち、倫理的問題を特権的に主張する文学は非人称の作者から社会に贈られる純粋贈与であるとする立論をまず再確認したうえで、この論理を『聖ジュネ』にも敷衍しようとしたのが小林氏の独創であり、本発表最大の争点でもあった。『聖ジュネ』では、確かに「贈与する者」と「贈与される者」との非対称性が惹起する権力関係が否定的に言及されている。しかしそれは物質的次元での「贈与」を指しているのであって、ジュネが行った芸術作品の創造はむしろ「物質を非物質的化」した「贈与」と見るべきである。氏による第二の考察の結論はこのように要約できるだろう。
 質疑応答では、まず「エコノミー」という言葉の定義の曖昧さが指摘され、『嘔吐』をめぐる考察と「贈与」をめぐる考察との間に「物質」といった用語以外に明確な接点が見いだせない理由もその不備に問題があるのではないかという意見が述べられた。また、『文学とは何か』で打ち出された倫理的概念としての「贈与」が『倫理学ノート』における「相互性」等についての内省を経て『聖ジュネ』で否定されるに至ったという従来どおりの見方を覆すには、論証にまだ説得力が足りないというコメントも寄せられた。この点について、私見では、「作家の非人称性」および「物質」、「物質の非物質化」という概念にいっそう精密な検討を加える余地があったように思われる。
厳しい指摘も含めて活発な議論が交わされたが、会場の雰囲気は新たに迎えた真摯な若手研究者に対する好意と今後の研究への期待に満ちたものであった。

次回研究例会のお知らせ

 第30回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 12月15日(土) 14:00~17:00
会場 : 立教大学 池袋キャンパス 4号館 4405教室

研究発表1 「バリオナのミステール」
発表者:翠川博之(東北大学)
司会:岡村雅史(関西学院大学)
 
 要旨
「これこそ真の演劇だ、それは共通の状況で結ばれた観衆への呼びかけなのだ」(ボーヴォワール)と、その誕生が重大事件として語られる『バリオナ』。この戯曲は、しかし、サルトルの処女作でありながら長いあいだそれと認知されず、いわば私生児であり続けている。その理由について語るサルトルのディスクールは説明に一貫性がなく、しかもどこか語り口が情緒的に不安定である。「『バリオナ』が認知されなかったのはなぜか?」これを問題として設定し、その理由を作品の思想と文の分析から考察する。『バリオナ』が私生児であるがゆえに放つ魅力の所以についても考えてみたい。

研究発表2 

サルトル研究近況
モデレーター:澤田直(立教大学)

懇親会 17:30

非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

サルトル関連出版物

・白井浩司 『サルトルとその時代』、アートデイズ、2012年9月
・『別冊水声通信 セクシュアリティ』、水声社、2012年8月
・海老坂武『戦後文学は生きている』、講談社現代新書、2012年9月


総会報告

昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。

会則の変更について
本年度の総会にて、会則の変更が提案され承認されました。
主な変更箇所は以下の点です。
1. 理事会の中に「代表理事」という役職を新たに設ける。
2. 理事会外部から会計監査を一人選出する。
本会報の末尾に、改正後の会則を添付しておきます。ご確認下さい。

学会事務局住所変更について
学会事務局が以下の通りに変更することになりました。また、会の公式連絡先として学会用のメールアドレスを作成します。以後、学会への連絡等はこちらのアドレス(ajes.office@gmail.com)を使用することになります。
新住所
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室

役員の改選について
 役員の任期の二年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の改選が行われ、承認されました。
会長:鈴木道彦(留任)
理事:岡村雅史、黒川学、澤田直、鈴木正道、永野潤、森功次(すべて留任)

新たな役職に関して、理事会から推薦され、以下の人事が総会で承認されました。
代表理事:澤田直
会計監査:翠川博之

会員向けメーリングリストの作成について
 会員向けのメーリングリストを新たに作成することになりました。例会に参加された方でメールアドレスをお伝えしていただいた方については、リストへの登録を開始します。会員の方で登録を希望される方は、お名前、ご所属を明記の上、事務局のメールアドレスまでご一報ください。
 本メーリングリストは、例会情報の連絡をするだけでなく、会員の皆様のあいだでの情報共有にもお使いいただる形で運用していきたいと考えております。シンポジウムのお知らせや、イベント情報の宣伝など、様々な形でお使いいただけるようにしますので、メーリングリストで流して欲しい情報などをお持ちの方は、担当理事(永野)までご連絡下さい。
 また、これまで会報を印刷したものを郵送でお送りしていましたが、メーリングリスト開始以降、会報をメーリングリストでも流すように致します。それにしたがい、会報郵送の停止を希望される方については、会報の郵送を停止します(もちろん、郵送を希望される方につきましては、これまでどおり郵送でお送りします)。郵送の停止を希望される方は、こちらもお手数ですが事務局までご連絡下さい。
 
サルトル学会ホームページの刷新について
 本理事会は、会のホームページを今後はより充実させていきたいと考えております。具体的には、サルトル特集が組まれた雑誌の情報、サルトル本人が執筆したものをまとめた文献情報、サルトル年表などをまとめていきたいと考えています。狙いとしては、会員の皆様の研究促進はもちろんのこと、授業での利用、日本におけるこれまでのサルトル研究を一般にも配信すること、などが狙いです。もし、上に挙げたような情報をデータでお持ちである、別のアイデアを思いついた、など何でも構いませんので、ご協力いただける方がおられましたら、担当理事(森)までご一報ください。
日本サルトル学会会則

 日本サルトル学会は一九九五年六月、鈴木道彦、海老坂武、石崎晴己、澤田直を発起人として、世代を越えたサルトル研究者の自主的組織として成立したサルトル研究会を改組改称したものである。会の活動の指針として、以下の会則を定める。


第一条 本会は日本サルトル学会Association Japonaise d’Etudes Sartriennnes と称する。
第二条 本会は会員相互の研鑽を通じて、サルトル及び関連分野の研究とその発展を図ることを目的 とする。
第三条 本会はこの目的を達成するために次の事業を行う。 1 研究発表会、研究会等の定期ならび随時開催。 2 会報、資料集の刊行。 3  サルトル関係資料、研究文献の情報整理及び紹介。 4 国内外の関連分野の研究団体との交流。 5 その他必要な事業。
第四条 本会は上記の目的に賛同する研究者をもって会員とする。 二、会員は本会の事業に参加し、またそれに関する意見を述べることができる。 三、会員は別途定める年会費を年度初めに収めるものとする。 四、三年にわたり会費を滞納した場合は、退会したものとみなす。
第五条 本会は年一回定期総会を開催する。また必要に応じて理事会の発議により臨時総会を開催することができる。総会は最高の議決期間であり、会の活動方針を決定し、理事会より必要な報告を受けかつ承認する。 二、総会は出席者の過半数により議決することができる。
第六条  本会に次の役員をおく。任期は二年とする。役員は総会の承認を受けなければならない。1. 会長  会長は本会を代表する。理事会の推薦に基づき、総会にて承認される。 2. 理事  若干名。総会において選出する。理事会は会の運営と事務にあたる。 3. 代表理事  代表理事は理事会を主宰する。理事会の推薦に基づき総会において選出する。 4. 会計監査 理事会の推薦に基づき総会において選出する。 二、理事会は総会において一般報告、会計報告その他の報告及び提案を行い、決定された方針を執行する。会計監査は年度事に会計を監査する。
第七条 本会則の改正は発起人、理事会あるいは出席会員の発議に基づき、総会の議決を経てこれを行う。
細則第四条三、 細則、年会費は 一般会員二〇〇〇円、学生会員一〇〇〇円とする。

付則
①本会則は2000年7月10日より施行する。
②2010年7月10日、一部改正
③2012年7月8日、一部改正
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日本サルトル学会会報第33号 [会報]

研究例会のお知らせ

 第29回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会 第29回研究例会

7月8日(日)
会場 : 立教大学 池袋キャンパス  マキムホール202号教室
時間 : 14:00~17:30

研究発表1
「いわゆる「サルトル・カミュ論争」におけるサルトルのテクスト「アルベール・カミュへの回答」再検討」
発表者:石崎晴己 (青山学院大学) 
司会者:東浦弘樹(関西学院大学)
コメンテーター:伊藤直(青山学院大学)
研究発表2
「サルトル倫理思想におけるエコノミーの影」
発表者:小林成彬(一橋大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

17:00 総会

17:30 懇親会

非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。




GESプログラム

COLLOQUE ANNUELDU GROUPE D'ETUDES SARTRIENNES
______
22 & 23 juin 2012
En Sorbonne, amphithéâtre Champollion (Paris IV)
16, rue de la Sorbonne (2e sous-sol) 75005 Paris
Organisation : GES, Florence Caeymaex & Alexis Chabot
Contact : ges.secretariat@gmail.com
Vendredi 22 juin
Sartre, Bergson, le magique
Matinée : 10h00 – 13h00
GAUTIER DASSONNEVILLE : Magie et technique chez Sartre : les débordements de la conscience magique. Vers une problématique de la possession
BRUNO PICOT : Jean Wahl, une « riposte » bergsonienne à Jean-Paul Sartre
YANNIS PRELORENTZOS : Juxtaposition et interpénétration chez Bergson et Sartre
DIMITRI TELLIER : Intériorité sartrienne et intériorité bergsonienne : perspectives sur deux conceptions de l'intériorité à partir de La transcendance de l'ego et de l'« Introduction à la métaphysique ».
Après-midi : 14h 30 – 17h
FREDERIC WORMS : L’image inversée. Bergson/Sartre ou le double foyer
GREGORY CORMANN & FLORENCE CAEYMAEX : L’émotion fondamentale
ROCCO RONCHI : Sartre, Bergson et la question spéculative du matérialisme

Samedi 23 juin
Sartre et le portrait biographique
Matinée : 9h30 – 13h00
JACQUES LECARME : La question du médium : écrire pour la NRF ou pour les Lettres françaises clandestines
DEISE QUINTILIANO : Le miroir a deux faces: "L'écriture de soi" à l'ombre de l'autre
ALEXIS CHABOT : A la recherche du traître : les paradoxes du portrait sartrien
YAN HAMEL : La microbiographie sartrienne de John Steinbeck
Après-midi : 14h30 - 18h00
FRIDOLIN NKE : Le chef d’œuvre littéraire, une épilepsie de l’Histoire ? Flaubert ou la structure épileptique du génie
HELGE VIDAR HOLM : L’Idiot de la famille : Bourdieu vs Sartre
DISCUSSION AVEC J.-B. PONTALIS : Sartre et Freud (sous réserve)
Assemblée générale du Groupe d'Études sartriennes (17h00-18h00)

事務局からのお知らせ

サルトル関係のご論文やご著書、その他の情報がございましたら、以下の要領で事務局までお知らせくださいますようお願い申し上げます。日本語および欧文でお願いいたします。

著者名、著作名、出版社名、年、総頁数。
著者名、論文名、掲載誌名、年、号(巻)数、掲載頁。

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日本サルトル学会会報第32号 [会報]

研究例会のお知らせ

 第28回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会 第28回研究例会
27ème congrès
de l’Association Japonaise d’Etudes Sartriennes

12月3日(土) 
La date: samedi 3 décembre
会場 : 立教大学 池袋キャンパス 5号館 5409教室
Lieu: Université Rikkyo (Campus Ikebukuro), Bâtiment 5, salle 5409
13:45 受付 Accueil
14:00~15:00 講演Conférence
池英來 지영래 (高麗大学): 言語、文体、翻訳に関するサルトルの考察について
JI Young-Rae (Université Korea) : A propos de la réflexion sartrienne sur le langage, le style et la traduction
司会:鈴木正道(法政大学)
Modérateur : Masamichi Suzuki (Université Hosei)
15:00~15:15 休憩 Pause
15:15~17:15 ワークショップ: サルトルとセクシュアリティをめぐって
Table ronde : Sartre et la sexualité
丸山真幸(東京外国語大学): サルトルと(性的)マイノリティ 2000年代の状況
Masayuki Maruyama (TFSU): Sartre et les minorités (sexuelles) : situations des années 2000
澤田直(立教大学): サルトルにおける同性愛の表象と役割
Nao Sawada (Université Rikkyo): La représentation et le rôle des homosexuels chez Sartre
司会:永野潤 (東京都立大学)
Modérateur : Jun Nagano (Université municipale de Tokyo)
17:15~17:30 休憩 Pause
17:30 懇親会 Soirée amicale

講演はフランス語で行われます(通訳はありません)。ワークショップは日本語で行われます。
非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。


研究例会の報告

 第27回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月16日(土) 13:30~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5303教室

研究発表
「サルトルとアラン―「魔術的なもの」と情動との関係について―」     
発表者: 新田昌英
司会者: 生方淳子

この発表は、今年、東京大学に提出された博士論文の一部を紹介したものである。
サルトルと一、二世代前のフランスの哲学者たちとの間にどのような接点や相違点があるかについては、未だ大いに研究の余地があるが、新田氏はその未開拓の領域に立って、「情動の魔術的な性質」という考え方におけるサルトルとアランとの接点に目を向ける。
それによれば、サルトルは『情動理論素描』の中でウィリアム・ジェームズらの実験心理学の学説を批判する形で情動を非反省的意識として捉え直しているが、その考察の過程でアランの情念論に依拠し、さらにそれを現象学的他者論へと発展させている、という。
新田氏は、「魔術的なものとは、アランが言うように『事物の間を這い回る精神』、すなわち自発性と受動性の非合理な綜合である」という『情動理論素描』の一文を取り上げ、これを巡って「魔術」と「情念」についての二人の考え方を比較検討する。まず、引用された表現がアランの著作の中に見出されない事が示された上で、それでも、要約としては間違っていない事が確認された。次に、アランにおける「魔術的なもの」がその宗教論の中で、子どもの世界観を特徴づけるものとして記述されていること、他方で情念 passionが情動émotionに対する反省的な意識として捉えられていたことが原文に沿って綿密に論証された。これに対して、サルトルでは、非定立的な情動が定立的・反省的に捉えられた場合は、変容をこうむり、もはや情念ではなくなる、ということが喚起された。一見、対立するようだが、氏は、アランの「情念」とはまさに変容をこうむった情動ではなかったかと考える。だからこそ、情念は世界認識をくもらせ、誤りを招くものとして論じられている、というのである。
二人の哲学者の以上のような接点を、氏は単なる影響関係や誤読に基づく援用としてではなく、「出会い」として捉える。そして、その時代的な意味を今後の考察の課題として提示する。他者論への発展については、氏はサルトルがアランに対し自身の現象学的他者論に軍配をあげていると見るが、この点は十全に展開する時間的余裕がなかったようである。今後に期待したい。
アランと魔術、という新鮮な切り口から論じられた刺激的な発表であったため、会場からも、活発に質問や意見が寄せられた。魔術という原初的な思考をめぐる人類学的研究との関連性やフェティシズムとの関わりについての質問、魔術的なものと想像的なものとの比較、情動論はあくまでも現象学に至る過程での習作であり、その視座のもとで捉えるべき、との意見、「魔術的なもの」は情動論のみならず、『自我の超越』や初期小説、『存在と無』、『文学とは何か』、ユダヤ人論、ジュネ論等々にも登場する概念であり、さらなる検討が求められる、という要望も出された。                                      (生方淳子)

合評会
「北見秀司『サルトルとマルクス』をめぐって」
コメンテーター: 永野潤
司会: 清眞人

 まず北見さんからの挨拶から始まった。フーコー、ドゥルーズらのいわゆるポスト構造主義とサルトルを単純に対立させる偏見に対して、一方ではサルトルをポスト構造主義的な問題意識の祖形あるいは先駆けとして示すとともに、他方では『弁証法的理性批判』での「溶融集団」論を「複数の自律」という社会ヴィジョンとモラルとの発想源泉として捉え返すことで、ポスト構造主義の弱点――抑圧権力とそれに抗する「複数の自律」を追求する真の民主主義運動との対決線をむしろ曖昧化することに流れてしまう――をのりこえること、これが自分の執筆意図である、と。
この挨拶のなかで、彼は重要な反省点を述べた。「溶融集団」を誰をも手段化しないカントの言うような「目的の都市」としての「複数の自律」社会のヴィジョン源泉として解釈する自分の方法は、サルトル自身にあっては「溶融集団」概念が人間の手段化を否応なく生きねばならない厳しい闘争のコンテクストのなかに埋め込まれていることを軽視することに繋がるのではないか? そういう疑念と批判を回避できないであろう。この点で、さらに一段の深さをもつ思考をいま自分は要求されていることを自覚している、と。
コメンテイターの役を負った永野潤氏は、左翼文化との同伴性を外してはサルトルを語ることはできないことに注意を促しつつ、あらためて21世紀のなかで、ことに日本における左翼文化の凋落という問題と北見さんの仕事を関連付けようとした。この点では、北見さんからは廣松渉の物象化論に対して次の重要な批判が出された。自分の「複数の自律」という観点からすれば、廣松理論はおよそ個人の自律の回復――他者性の支配からの――というモラル的モチーフをもたない客観主義的偏向をもったもので、日本における新左翼文化が「複数の自律」というヴィジョンの形成にほとんど寄与しなかったことと重要な関連がある、と。なお会場からは、現在のフランスでは移民問題を軸とするマイノリティーとの連帯問題をめぐってサルトルの思想的功績の再評価が起きているとの重要な現地報告があった。また札幌大学の水野さんからは、「複数の自律」思想と後期サルトルの倫理思想との関連にかかわって、サルトルになかには自律を強調する側面とならんで、倫理の規範性にはどうしようもなく他律性の承認が孕まれると認識している側面もあるのではないか、という指摘も出された。討論がこれから、というときに時間切れとなるのはいつものことだが、いかにも残念。(清眞人記)



サルトル関連出版物

・永野潤『図説 あらすじでわかる! サルトルの知恵』青春新書インテリジェンス、2011年7月

・Jean-Pierre Boulé & Benedict O’Donohoe編, Jean-Paul Sartre: Mind and Body, Word and Deed, Cambridge Scholars Publishing, 2011年7月
本論集には、2009年7月に立教大学で行われた本会の第23回例会において発表したベネディクト・オードナヒュー(サセックス大学)、フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)、ジャン=ピエール・ブレ(ノッティンガム・トレント大学)の論考および、同年2009年9月に英国サルトル学会年次大会で発表した、鈴木正道、澤田直両会員の論文のほか、鈴木道彦会長へのインタビューが収録されています。

サルトル関連イベント

イラン・デユラン=コーエン監督の映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』(2006)が渋谷のユーロスペース(11月26日から)、梅田ガーデンシネマ(12月3日)などで公開されます。内容は学術的なものからは遠いものですが、ボーヴォワール目線で作られているところに新味があります。学生などに宣伝したい方は、配給をしているスターサンズがポスターやビラを送ってくれます。ご関心のある方は、学会事務局にご連絡ください。また、例会当日には、前売り券(1400円)を1300円で購入することができます。
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