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8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」開催 [サルトル関連情報]

このたび、新しい現象学の教科書
  植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝 編著
  富山 豊・森 功次 著
  『ワードマップ 現代現象学――経験から始める哲学入門』
  新曜社、2017年8月
  http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1532-1.htm
が刊行されました。

これを記念し、8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」を開催します。
フェアでは、総勢14名の選書者により、
 ・本書で紹介されている現代現象学の方向性に即した書籍
 ・それとゆるやかに共鳴する現象学の現代的な展開を体現する書籍
 ・本書で紹介されている様々な事柄・論題に対する現象学的なアプローチを示す書籍
 ・20世紀において現象学と並行に展開してきた分析哲学の伝統に属し、現代現象学にインスピレーションを与えたり、現代現象学のライヴァルとなりうる書籍200点以上を取り上げ、17項目にわたる解説文を加えました。

フェア会場では、これを掲載した36頁のブックレットも配布いたします。
以下に開催概要を記しますので、開催期間中に ぜひご訪問いただければ幸いです。
またお知り合いで興味関心を持たれそうな方がいらっしゃったら
フェア案内ページのURL(http://bit.ly/201708fair)をご紹介ください。

酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ!──現象学からはじめる書棚散策」紀伊國屋書店新宿本店ブックフェア(2017年8月14日~)
bit.ly


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  『ワードマップ 現代現象学』刊行記念ブックフェア
  いまこそ事象そのものへ!─現象学からはじめる書棚散策

・開催期間: 2017年8月14日(月)から一か月ほど
・開催会場: 紀伊國屋書店新宿本店 3階人文書レジ前
・選書と解説:
  植村玄輝、八重樫 徹、吉川 孝、富山 豊、森 功次、村田憲郎、小手川正二郎、
  佐藤 駿、武内 大、宮原克典、新川拓哉、池田 喬、前田泰樹、葛谷 潤
・企 画 : 酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)
・協 力 : 新曜社

※その他詳細はフェア紹介ページをご覧ください: http://bit.ly/201708fair
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2017年国際サルトル学会年次大会参加報告 [サルトル関連情報]

2017年国際サルトル学会年次大会 Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2017 参加報告


 2017年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月23日と24日の2日間にわたって高等師範学校(パリ)にて開催された。統一テーマは「遺稿」および「ラジオアーカイヴ」である。
 全体の構成としては、50年代から60年代にかけて取り組まれたいわゆる「第二の倫理学」の時期の遺稿を対象とした発表が5件と最も多く、関心の高さが伺えた。このほか、ル・アーヴル時代の講演「小説の技法と現代思想の大潮流」(『サルトル研究』誌第16号収録)を主題としたものが1件、イタリア旅行記『アルブマルル女王』と『奇妙な戦争の手帖』(以下『手帖』)を対象としたものが1件あった。また1日目にはサルトルのラジオ出演にかんする特別企画、2日目には『反逆は正しい』の英訳出版を記念したラウンドテーブルが組まれた。そのほかにVariaとして4件の発表があり、統一テーマ以外の題目も柔軟に受け入れられていることが伺われる。発表者の年齢・性別・出身国だけでなく専門分野も含めバラエティに富んでおり、多くの研究者に開かれた学会であるという印象を与えられた。また今回、日本からは北見秀司氏と関大聡氏がそれぞれ研究発表を行った。
 以下、発表順に内容を紹介する。プログラムはGESのウェブサイトから参照できる(http://ges-sartre.fr/colloque-annuel-2017.html 2017/07/26閲覧)。なお、この報告文の執筆に際して関氏から多くの有益な助言を得たことを言い添えておきたい。

6月23日
EVA ABOUAHI : Reliques et reliquats du rousseauisme dans les manuscrits « Liberté- Egalité » et « Joseph Le Bon »
 1970年代に端を発し『パンテオンの誕生』(1998)に集成されるジャン=クロード・ボネの研究以降、ルソーやヴォルテールのような作家=偉人への崇拝が共和国としてのフランスの成立に大きな役割を果たしたことは広く知られており、全体的知識人としてのサルトルはこの伝統の掉尾を飾る存在とも言える。では、ルソーという必ずしもサルトル研究において中心的主題とはならない人物の聖遺物(relique)はサルトルによってどのように批判的に受け継がれているのか。背景にこうした関心を抱かせつつ、Abouahi氏の発表は『弁証法的理性批判』を準備する50年代の3つの草稿(Mai-Juin 1789、Liberté-Egalité(いずれも『サルトル研究』誌第12号収録)、Joseph Le Bon(同誌第11号収録))を中心に、サルトルのルソー批判の骨子を分析するものであった。
 その際、同氏が鍵語として持ち出すreliqueは複数の意味のひろがりから提示された。第一にこの語は、革命以降すでに神聖な存在として捉えられるようになっていたルソーの偉人・聖人的性格を示唆するものであり、サルトルはその思想が抱える矛盾の脱神話化を試みる偶像破壊者として位置付けられる。たとえば、氏の指摘によれば、遺稿Liberté-Egalitéにおいてルソーはブルジョワ・イデオロギーやプロテスタンティズムの系譜に位置づけられ、一般意志をめぐる議論が持つ見せかけの平等性に批判が加えられる。その結果、ルソーの思想に潜む隠れた次元としての全面的疎外と、全体主義との近接性が明らかにされる。
 もう一つのreliqueの含意は、ルソーを文学的アンガジュマンとの対比において評価する際に理解される。氏の分析によれば、ルソーはあらゆる時代のための書物をのこし時代を超越したという意味において、書く現在において自己を聖化することを望んだ。一方、サルトルは「時代のために書く」ことを選択し、このことが一つの対立点を作っている。また自己の聖化と歴史をめぐる論点はサルトルによるカミュ批判にも部分的に流れ込んでいるという。
 ボーヴォワールの証言(『娘時代』)によれば、サルトルは青年時代からルソーについて特別な見方を有していた。その後この啓蒙の哲学者に対する言及は奇妙なまでに跡を消してしまうが、未整理であるがゆえに遺稿のなかではその影響が見えやすい。今回の発表はそこからサルトルのルソーへの関心を政治理論・文学的立場から再構成するもので、フランス思想の伝統に対するサルトルの批判とそれだけでは還元されない残りのもの(reliquat)を感じさせるものであった。

LAURE BARILLAS: L’avenir dans les manuscrits des conférences de Cornell : pour une théorie temporelle de l’éthique ?
 Barillas氏の発表はコーネル講演に見られる未来の概念を主題としたものである。「道徳と歴史」と題され、『現代』誌2005年7月から10月号に掲載されたこのテクストのなかで、とりわけ未来に焦点があてられるのは「倫理と時間性」と名付けられた一節である。この時期の弁証学的倫理の根幹をなすのが、倫理の時間的性格についての考察である。発表者がまとめるように、一方では純粋な未来(avenir pur)が無条件的命法(なさねばならない)として主体に倫理的契機としてあらわれるのに対して、これまでの過去の制度化/習慣化されてきた道徳の時間性として不純な/制限的な未来(avenir impur/limité)が現れる。そのうえで、倫理的行為が純粋未来の次元を要請するさまを明確化した。氏の読解によれば、われわれの倫理的な行いは常にこの二つの未来によって引き裂かれている。一方で、それは何ものにも条件付けられず、自由であらねばならない。しかし他方で、行為は時間のなかで、時間的なものとして、有限化されたものとして実現される。後者において行為は反復的未来(不純な未来)とかかわり、無条件的な未来は反復的道徳と緊張関係を持つこととなる。これが、純粋未来がそれ自体で実現されないという倫理的困難である。
 サルトルの60年代の倫理学については本邦でも水野浩二氏によるものをはじめ複数の研究があるが、倫理学において語られる時間的次元への注目によって、たとえば『存在と無』や『倫理学ノート』からの時間論の発展を検証してゆくこともできるだろう。

LAURENT HUSSON : Être tenu par l’impossible : la relecture sartrienne du « Tu dois, donc tu peux » dans la conférence de Rome (1964)
 ひとつ前の発表からもわかるように、この時期のサルトルの倫理学においてカント的定言命法は批判的な参照項となっている。その「なさねばならない」は純粋な未来として、実現不可能なものでありつつ、同時に目指さねばならないという、統制的理念のような役割を果たす。続くHusson氏の発表は、サルトルがしばしば取り上げるカント的命法「君はなさねばならない、ゆえになしうる(Tu dois, donc tu peux)」の意味とサルトルによる用法を、広範なテクスト、特に1964年のローマ講演原稿「倫理の根」(『サルトル研究』誌第19号収録)を精査し検討したものである。
 評伝『ボードレール』や講演『実存主義とはヒューマニズムである』等では定言命法としてこの定式への言及ないし示唆があるのだが、『聖ジュネ』では「裏切り」におけるカント的命法の逆転が語られる。「道徳と歴史」では、いかにして主観的なものないし日常的生に命法が介入するのか、という視点からこの命法は再度取り上げられる。さらに、『家の馬鹿息子』ではこの定式が親による子への条件付けとして働く点に言及され、内なる道徳律としてではなく、他者関係における〈命令すること〉の意義が捉え直される。講演「倫理の根」においてはこの点が道徳、規範的なもの、客観的なものの経験、すなわち道徳や命法についての現象学的な分析を行う際に持ち出される。
 翌日のMouillie氏の発表にも共通するが、サルトルの60年代の倫理学においては、道徳現象の主観的・現象学的分析が試みられており、『存在と無』の時期には明確に論じられていなかった社会的世界や歴史的形成物の経験と実践との関係があらたな観点から取り上げられ直されている点は注目に値するように思われた。

SHUJI KITAMI : Morale sartrienne en tant que force motrice de démocratie : sur Les Racines de l’Éthique
 北見氏の発表はマルクスとサルトルにおける「真の民主主義」および「全体的人間(homme intégral)」の概念について、共通点と差異を明らかにしつつ、サルトルにとってのこれらの概念の重要性を「倫理の根」に依拠しつつ強調するものであった。
 マルクスは「真の民主主義」を自由な個人のアソシエーションと捉え、生産手段が社会化された社会において実現されると考えた。この民主主義観は、明らかに、ソビエト型の官僚主義と異質なものである。北見氏によれば、「倫理の根」におけるサルトルはこの民主主義観を共有している。さらにサルトルはそれを発展させ、具体的人間を物象化し集列化する現行の間接民主主義に対して、直接民主主義をとなえる。
 「全体的人間」の概念についても双方に共通して用いられるものの、その含意は異なる。『ドイツ・イデオロギー』のマルクス、エンゲルスにとって、それは分業体制を乗り越えた先の自立した個人において完成されるが、「倫理の根」のサルトルでは、自律において人びとが結びつくところに実現される。そこで人びとの結合は、諸個人を包摂した上位の審級を意味するのではなく、あくまで北見氏が「万人の複数の自律」と名付けるものにおいて実現される。第二の差異は、マルクスにとってそれが生産様式の変化に応じて実現される上部構造にすぎず、道徳的含意を持っていない一方、サルトルにとってそれは倫理の目的であり、民主主義社会の自律性を獲得するための不可欠な動力因であるという点にある。
 発表後半では、「倫理の根」の記述に沿って「全体的人間」を回復することの必要性が強調された。かつてのソビエトにおいては、体制の一部をなし体制に服従する「疎外された道徳」が全面化していた。そこで人びとを解放し「複数の自律」を実現するためには、「全体的人間」の回復を目指した継続的な介入が求められる。こうした事態はソビエトに対してのみ有効なのではなく、あらゆる反抗運動とかかわっており、新自由主義が世界を席巻し、レイシズムがはびこる社会においてますます重要性を増しているという。
 質疑では、「倫理の根」では民主主義について直接言及されておらず、集団について語ることで間接的に問題化されている点の確認や、集団そのものがサルトルにおいて常に倫理的なものと考えられるのか否か、といった疑問が提出された。「全体的人間」の希求というマルクス/サルトル的な課題がまさに現代の問題であることを指摘する北見氏の発表は、サルトルの思想を今どのように読むか、という常につきまとう問題に正面から応えたものだといえよう。

ALEXANDRE COUTURE-MINGHERAS : La conscience et le monde. « L’idéalisme » de Sartre (1936-1943)
 Couture-Mingheras氏の発表は、しばしば実在論的と見なされるサルトルの初期の現象学的テクストについて、それが実在論的であるのか観念論的であるのかを問うた上で、観念論的な読解を試みた。発表は「志向性」論文、『エゴの超越』、『手帖』、『存在と無』を参照しつつ、それぞれについて長い注釈を与え、主にフッサール現象学と比較しながら進められた。発表者の意図は、いわゆる思弁的実在論における「相関主義」批判との関係からサルトルの実在論/観念論の問題に再び光を当て、初期哲学の意義を問い直すことにあった。
 たしかに、思弁的実在論の代表的な著作の一つに数え上げられるカンタン・メイヤスー『有限性の後で』には相関主義の哲学としてサルトルの名が見られ、博士論文である『神の非存在』でも『嘔吐』におけるマロニエの根の場面が(ごく簡潔に、自身の論じる不条理性との差異を示すためにだが)言及されている。事実性や偶然性といった鍵概念についての解釈等も含め、双方の突き合わせを通じてどれほど新しい展望が開かれてくるかは明らかではないが、未開拓分野という意味では検討される価値はあるだろう。

HIROAKI SEKI : La notion de mesure dans la première pensée de Sartre
 関氏の発表は、初期テクストにおけるmesure概念の多義性を研究したものであった。はじめに、小説『嘔吐』においてアニーがロカンタンを自分の尺度(mesure)だと見なす場面の分析が行われ、なぜこのようなロカンタン=尺度という同一視が生ずるのか、という問いが議論の導きの糸になった。それは、世界における理想的な価値尺度の欠如という事態を反映している、というのが氏の見立てであり、そのことを明らかにするために、『嘔吐』だけでなく様々なテクストが渉猟される。
 まず、『真理伝説』における「尺度」の位置づけから、理想的な価値尺度の欠如/危険で不十分な価値尺度の出現という対比が導入され、この対比を歴史的に解明するためにジャン=ジョゼフ・グーの『言語の金つかい』における「価値尺度としての貨幣の変遷」が分析される。さらに、同書の分析がサルトルのテクスト分析にも妥当であることを論じるため、ル・アーヴル講演及び『手帖』におけるジッド論が参照された。これらの分析を経た上で最後に再び『嘔吐』に立ち返り、小説末尾の音楽に見出される拍子(mesure)に対する言及がサルトルのmesureに対する関心のあらわれであり、単独者/芸術こそが真の価値尺度としての美を提示するというビジョンを明らかにしているのではないか、という仮説が提示された。
 内容は好評をもって迎えられ、質疑ではジッド研究との連携の可能性が示唆されたほか、初期サルトルにおける偶然性の理論との位置づけをめぐる質問があった。

SOIREE EXCEPTIONNELLE, organisée par Grégory Cormann et Jeremy Hamers : « On écrit peu à peu moins bien, puis on cesse d’écrire ». Sartre en radio, 1946-1973. Ecoute d’extraits & commentaires.
 夜にはCormann氏とHamers氏の進行による、サルトルの出演したラジオ番組を主題とした発表が行われた。Hamers氏は導入において、サルトルとラジオとの関係にあらわれた特性を脱同期化(désynchronisation)、脱モニュメント化(démonumentalisation)という語によって表現した。知識人によるメディア出演は、しばしばその作品の単純化、世俗的解釈を意図して行われる。その際、過去の作品の有名な一節がとりあげられ、過去を振り返り確認するよう促されることがしばしばである。しかしサルトルはラジオに出演するたびに、自分の年齢を訂正し、過去の作品との連続性を否認し、人口に膾炙したフレーズ(「地獄とは他者である」等)による単純化を拒否するしぐさを繰り返すことで、ジャーナリストが試みるモニュメント化を挫折させる。
 こうしてHamers氏がラジオ番組の内容面での分析を担った一方で、Cormann氏はより広い文脈のなかにラジオ、あるいは広く作品と対立するマスメディアを位置づけ、この問題の持つ多様性に光をあてた。特に氏は55年から57年頃をひとつの転換点と見なし、メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』への最初の応答が著作ではなくマスメディアに対して行われた点、アルジェリア戦争におけるレジスタンスのラジオが活用された点などを明らかにした。また『批判』における集列性の例としてマスメディアがつくる集団について批判的に言及される点を指摘しつつ、メディアがつくるある種の共同性・大衆といったものが当時のサルトルにおいては積極的に評価されない点が指摘された。その他にも、複数のディスクールの領域を横断するプロジェクトとして実存的精神分析を見なすならば、メディアを通じた活動をこの観点から取り上げ直すことができるのではないかという指摘、また、晩年のサルトルが作品を断念し次第にメディアへと進出してゆくことなど、サルトルとメディアについてのあらたな論点が多く提出されたように思われる。

6月24日
JEAN-MARC MOUILLIE : Sartre, penseur subversif de la norme
 Mouillie氏の発表は「道徳と歴史」および「倫理の根」に見られる規範的なもの(le normatif)についての考察を〈規範の現象学〉と捉えた上で、その考察の独自性を評価するものであった。
60年代の道徳を扱ったテクスト群において規範は、主体から独立して存在する、行為を外側から抑圧し規制する要因ではなく、実践そのもののなかに織り込まれ、行為の可能性を限定しつつ実現させる要因をなすものとして経験される。また規範は主観的側面にかかわるのみならず、それ自体客観的なものでもある。その意味で、規範は間主観的に共有されるものであり、それを通じて個人的な選択のみならず集団的な選択についての分析をも可能にする。こうした規範の両義性は『存在と無』の時期にはあらわれていなかったものであり、ここにサルトルの発展と一貫性を見て取ることができる。前日の発表と趣旨において通ずるものであるが、極めてクリアな見立てによって、サルトルの倫理観の特徴がより明らかになったように思われる。
 倫理そのもののなかに葛藤と差延を含むという点で、デリダの脱構築的な理論とのかかわりが指摘できるのではないかという質疑もあったが、これについてはさらに展開して検討されることも可能だろう。

PAOLA CODAZZI : Réflexions sur le roman : Jean-Paul Sartre et le « tragique moral » d’André Gide
 ジッドの著作における「ヨーロッパ」について博士論文を準備しているCodazzi氏の発表は、ジッド研究者としての観点からサルトルのル・アーヴル講演における『贋金つかい』論を検討するものであった。サルトルは同講演において、ジッドの小説の主題を登場人物の葛藤、道徳的悲劇のなかに見てとっている。現実と仮象、金と贋金といった二元性に引き裂かれた登場人物たちは、その葛藤を克服すべく物語を生きる。なかでもオリヴィエとヴァンサンの兄弟の命運は対照的で、発表者によれば、オリヴィエは葛藤を引き受け乗り越えることに成功するが、ヴァンサンはそれに失敗し悲劇的な死に至る。
 サルトルの考察のジッド論としての正確さと可能性を指摘する発表であったため、ここからサルトル研究/ジッド研究に何をもたらすかという点については聴き手に委ねられた感もある。しかし、質疑でも指摘されたように、サルトルのジッドに対する関心は恒常的なもので、両者の対比はさらにシステマティックに展開される必要がある。たとえば、人間主体の内的引き裂かれという主題は、後の本来性/非本来性にかんする考察にも連なるものであり、倫理にかんするサルトルの思索の大きな源泉をなしている。その萌芽をなすものがハイデガーの読書以前の比較的早い時期(1932-33年)に見いだされる点は興味深いといえよう。

ESTHER DEMOULIN : Sartre, « l’antipédéraste » ?
 Demoulin氏の発表はENSで行われたセミネール「文学と(複数の)同性愛」に基づいたものである。
 彼女はまず『聖ジュネ』と「対独協力者とは何か」を取り上げ、前者でのジュネの同性愛についての決めつけともとれる分析、後者での同性愛者と対独協力者を結びつける言説に言及した上で、サルトルは同性愛嫌悪者(アンチペデラスト)かと問いかける。ついで、この否定的判断には慎重さが必要であることがサルトルの文学作品における同性愛表象から分析される。サルトルの文学作品にはほぼ必ず同性愛者が登場するが(『嘔吐』の独学者、『自由への道』のダニエル、『出口なし』のイネス等)、その役割は一義的ではない。それはマゾヒズムや自己欺瞞、裏切りといった否定的価値に結び付けられることもあるが、『聖ジュネ』のパラテクストや他の作品(特に『出口なし』のイネス)においては明晰さという肯定的価値に結びつけられ、対独協力者で同性愛者のダニエルは作品の未完結部分ではレジスタンスとして真の自由を体現する人物に変身する。こうして数多くのテクストからサルトルの同性愛観の両義性を提示したあとで、先行する/同時代の同性愛言説として、ジッド、プルーストの同性愛観との対比が行われた。サルトルにおいて、同性愛は同性の同性に対する関係に固定化されず、女性化した男性、男性化した女性といった形式をとり、ジェンダーの二項関係を撹乱する多元的な側面をも持つ。最後に、ボーヴォワールの小説や『第二の性』における同性愛言説との対比が行われ、精神分析における同性愛観との対比から、サルトル/ボーヴォワールの同性愛についての考えの相違が明らかにされた。
 理論的にはディディエ・エリボンの『ゲイ問題の考察』(いうまでもなくサルトルの『ユダヤ人問題の考察』を意識したテクスト)も背景にあり、サルトルにおける同性愛表象の内的多義性と他の作家たちとの対比が展開される豊かな発表だったように思われる。

TABLE-RONDE On a raison de se révolter (A. van den Hoven & V. von Wroblewsky)
 『反逆は正しい』英訳刊行記念ラウンドテーブルでは、アメリカとドイツにおけるサルトルの翻訳者二人が『反逆は正しい』とリベラシオン紙創刊に至る歴史的・政治的・思想的文脈を語り直した。詳細は省くが、当時の熱気とこの書物の重要性を感じさせるものであった点は指摘しておきたい。ただ、このテクストを2017年に翻訳・刊行することの意義について質問があった際に明白な答えがなかった点はやや残念であった。

GIUSEPPE CRIVELLA : Quel imaginaire pour le roman? Sartre et Blanchot
 Crivella氏のサルトルとブランショにかんする発表は、『シチュアシオン』第1巻に収録された『アミナダブ』への書評に基づくものである。そこでサルトルはブランショの世界観について、日常の有用性が逆さまにされた世界、すなわちファンタスティックな世界を描いているという評価を下しているが、これがサルトルの『想像力の問題』結論部にあるイマージュの把握と現実把握の反転的関係とのかかわりのなかで論じられる。そこから、ブランショ自身のイマジネールと言語との関係、イマジネールと現実との接触との関係等が比較された。

ALEXIS CHABOT : Du mouvement et de l'immobilité de Poulou
 Chabot氏の発表は「運動性/不動性」を鍵語にしてサルトルのテクストを独自の観点から読み解いてゆくものであった。『手帖』における状況の硬直(不動)と「前進」の合図(動)、ブルジョワに特有の価値観の固定性、イデオロギーの保守性、土地持ち(不動)に対して、そこから逃れようと試み、自己自身と一致せず、ホテル暮らしをするサルトル(動)など、動/不動の対立はサルトルのテクストと生をつらぬいてあらわれる。さらに、『手帖』でその現場を見てとることができるように、サルトルの思考は多弁によって新規さと創造性を獲得しており、自己限定によってではなく絶え間ない創造によって、つまり動き続けることで成立している。その根底には運動へのオブセッションと同時に不動に対するオブセッションが存在する。ひと組みの概念によって複数のテクストを横断してゆく手つきは鮮やかであった。
 発表題目はイヴ・ボヌフォワの『ドゥーヴの動と不動』へのアリュージョンで、まず詩の一節(Hier régnant désert)の朗読からはじめられたが、発表日は奇しくもボヌフォワの誕生日であった。

CLAUDIA BOULIANE : Comment voyager comme un saumon. Sur trois métaphores du tourisme de masse dans La Reine Albemarle ou Le dernier touriste
 Bouliane氏は遺稿旅行記である『アルブマルル女王』を観光ツーリスムという観点から論じることを標題に掲げたものだが、そのなかで思いがけぬかたちで『手帖』の重要性が強調された。まず、サルトルの従軍当時の社会でツーリスム、ツーリストが持っていた両義性に光が当てられる。フランスでは資本主義の発展と1936年の人民戦線の勝利以降の法整備によって有給休暇、ヴァカンスの大衆化が進み、ブルジョワ以外にもひろく旅行の楽しみが可能となった。他方で、植民地への侵攻や戦争も旅行と同様に、世界中で、しばしばピトレスクな趣を持つものとして受け入れられた。『手帖』を紐解けば、サルトル自らもはじめは戦争を短期で終結するヴァカンスのように捉えていたことがうかがえるが、それは同時代の変容した旅行観を反映したものになっている。すなわち、一方では大衆的な動員としての旅行として、また他方では美と破壊の両面にかかわる旅行として。
 発表はこれらの有益な歴史的視座を含みながら旅行の問題系を論じるもので、サルトルの旅にかんする決して少なくないテクストを読むための道しるべとなるものであった。
(文責・赤阪辰太郎、協力・関大聡)

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2017-01-25 [サルトル関連情報]

 サルトル来日50周年にあたって、鈴木道彦会長の特別講座が開催されますので、お知らせいたします。講演についてのお問い合わせは獨協大学エクステンションセンターまでお願いいたします。

https://www.dokkyo.ac.jp/opencollege/oc02_02_j.html
サルトルと現代 -来日50周年にあたって-:
講義概要
 20世紀最大の知識人サルトルは、ボーヴォワールとともに1966年に来日して、熱狂的な歓迎を受けました。
そのときの様子を映像で振り返りながら、何度も直接会って議論を交わした者として、その人物像を伝えるとともに、50年後の今日の世界でサルトル思想の持つ意味を考えます。
 たしかに彼のような大知識人を求める時代は過ぎ、現在では彼の本が争って読まれることもなくなりました。
 しかし彼の提起した問題が解決されたわけではありません。たとえば「第三世界は郊外に始まる」と言ったのは、当時のサルトルでした。それはまるで移民や難民の問題で苦しんでいる今日の世界を予言しているように見えます。
 このような問題は、日本にとって無縁なことなのでしょうか。いったい半世紀前と何が変わり、何が変わらなかったのか。そのことも講座のなかで探っていきます。

日時 3月4日(土)14時~16時 (13時開場)
場所 獨協大学 天野貞祐記念館大講堂
講師 鈴木 道彦(すずき みちひこ)
獨協大学名誉教授
交通 東京メトロ日比谷線・半蔵門線直通 東武スカイツリーライン「松原団地駅」* 西口徒歩5分
*2017年春「獨協大学前<草加松原>」に改称予定  ※車でのご来校はご遠慮ください
受講 無料 定員500人 当日先着順 事前申込不要
共催 草加市
お問い合わせ 獨協大学エクステンションセンター
〒340-0042 草加市学園町1-1
電 話  048-946-1678
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北米サルトル学会 第22回研究例会報告(関 大聡) [サルトル関連情報]

bearhall.jpgBear Hall
北米サルトル学会 第22回研究例会
The 22nd Meeting of the NASS (North American Sartre Society)

北米サルトル学会facebook
北米サルトル学会WEBサイト
プログラム(pdf)

参加報告 関 大聡


 11月4日(金)から6日(日)までの三日間、北米ノース・カロライナ州ノース・カロライナ大学ウィルミントン校で北米サルトル学会の第22回研究例会が催された。前回はペンシルベニア州(イースト・ストラウズバーグ大学)、前々回はカナダのオンタリオ州(ウィンザー大学)と、毎年この時期に北米の都市を開催地とする例会であるが、日本では必ずしも馴染みがないかもしれない。報告者は今回発表のために三日間通して参加する機会に恵まれたため、今後日米両会の参加・交流が進むことを期待して、この報告小文を寄せることにしたい。

参加まで:国際学会は参加自体のハードルが高いため、そこに至るプロセスから記述した方が良いだろう。大まかな情報はFacebookのNorth American Sartre Society (NASS)をフォローすることで確認されたいが、まず七月末日を目途に発表募集(CFP)がかけられ、主催側に2頁以内の要旨を提出する。それが受理されれば発表原稿を用意しつつ渡航の準備を進めることになるが、三日間の学会はやはり規模が大きい。参加登録がオンラインで行われるだけでなく、ホテルを学会側が押さえているため、空港からの無料シャトルバスも含めて、不慣れな海外であってもある程度安心することができる(例年のことか不明だが、大学院生は相部屋を選べば宿泊費補助も受けられた)。渡航費は無論自前であるが、報告者は所属する大学院の旅費補助プログラムに申し込む幸運を得ることができたため、同種の補助を探してみることもできるだろう。

学会当日:さて、北米のサルトル学会は三日間で50人以上の発表者に加え、基調講演、及び新刊書についての書評セッションも用意されており、規模で言えば世界でも最大のものである。今回の全体テーマはラッセル法廷の開廷50周年を記念して「実存主義とアンガジュマン:実存主義の歴史と未来Existentialism and Engagement: The History and Future of Existentialism」と題されたが、毎回あらゆる角度からのアプローチを受けいれている(一般的な傾向として哲学研究が主流ではあるとはいえ)。参加者は確認のかぎりでは、アメリカ、カナダ、イギリスを中心に、南米、イタリア、オーストリア等から来ていたようである(イランからカナダに移住した一人を除けばアジア系は私だけだったと思われる)。身分も、大学研究者、学生だけでなく在野の研究者、精神科医等を迎える等、研究を開こうとする姿勢には着目されよう。

発表:英語ないしフランス語を選択することができるが、後述するように仏語のパネルは報告者が参加した一つだけであったから、広いリアクションを期待するのであれば英語での発表を考えた方が得策かもしれない。コーヒー・ブレイクやランチを挟みながら全部で七つのセッションがもたれ、各回2-3のパネルが同時に進行することになる。全体の雰囲気を俯瞰するために各パネルのテーマを列挙してから、報告者が参加しえたものについては短く紹介したい。
1A「自由、決定論、行為体」、1B「本来性、自己欺瞞(Bad Faith and Self-Deception)」、1C「『弁証法的理性批判』への新たなアプローチ」
2A「文学とプラクシス」、2B「政治哲学I:大地へのアンガジュマン:惑星的危機へのサルトル的介入」、2C「コンフリクト、連帯、政治」
3A「政治哲学II:実存主義と社会的アンガジュマン」、3B「サルトルの実存主義におけるニヒリズム、不条理、オプティミズム」、3C「すべては許されているのか? サルトル倫理学の考察」
4A「精神分析、精神治療、情動」、4B「政治哲学III:拷問、テロリズム、中東」、4C「劇作家サルトル」
5A「政治哲学IV:人種とジェンダーへのサルトル的アプローチ」、5B「『弁証法的理性批判』と戦後政治」、5C「伝記、文学」
6A「書評セッション:ノレーン・カワージャ著『実存の宗教 哲学における禁欲主義 キルケゴールからサルトルまで』」、6B「瞑想、意識、エゴ」
基調講演(Sarah Bakewell)「如何にして心配するのを止めてサルトルを楽しむか」
7A「『反逆は正しい』についての鼎談」、7B「身体へのサルトル的アプローチ」

1B「本来性、自己欺瞞」
 まず、サルトルの初期の存在論と倫理を結ぶ鍵概念である「本来性authenticity」をめぐって三者三様の発表が繰り広げられた。本来性の自覚を社会の発展の契機として捉えようとするもの、『倫理学ノート』を取り上げて自己欺瞞から完全に解放された本来性は不可能であるとするもの、自己欺瞞における反省的意識の構造について再検討するものがあった。方法の点で興味深く思われたのは最後のもの(マイヤ・ジョルダン)で、分析哲学の方法を用いた議論の展開は印象的だった。

2C「コンフリクト、連帯、政治」(仏語)
 南米におけるサルトル受容を主題とした博士論文を用意しているというアンドレア・モッタの発表はラッセル法廷の争点を明らかにするもので、この民衆法廷への参加者にアレホ・カルペンティエルやフリオ・コルタサルのような作家も名を連ねていることを知られたことも、当時の知的シーンにおける南米作家のプレゼンスを考えるうえで興味深い。私の発表はサルトルのテクストにトロイアの伝説上の女性予言者カッサンドラの名が現れる幾つかの例からコミュニケーションの特殊な在り方としての予言について考察するもので、いささか意表を突くようなテーマだったと思うが、最終的にはサルトルにおけるペシミズム/オプティミズムという大きな問題系に着地したことで、会場から発表者の念頭にはなかった示唆を受けることができた。

3B「サルトルの実存主義におけるニヒリズム、不条理、オプティミズム」
 まさしく「実存主義的」と呼ぶべきテーマ群である。サルトルの議論において死は生の意味を奪うものではなく(剥奪説)、その意味を脅かすものである(脅威説)という主張を提示するもの、フォイエルバッハとの比較において、サルトルのヒューマニズムの無神論的ラディカリズムを強調するもの、『存在と無』のペシミスト的な存在論を敢えてオプティミズムの書として読もうとするもの、これら三つの発表が提示された。最後のものはテクスト的な裏付けは難しそうだったが、幸福や歓びと言ったテーマはRobert Misrahiによる一連のサルトル批判の主軸になっているだけでなく、2011年の仏語『サルトル研究』誌のテーマがBonheurs de Sartreでもあったことからも、展開可能な余地のある議論と思われた。

4B「政治哲学III:拷問、テロリズム、中東」
 本パネルは今回の学会のなかで最もアクチュアルなテーマを扱ったものだろう。最初の発表は、イラク戦争時の米軍による拷問行為の正当化において上層部が用いた理屈を具体的に取り上げつつ、拷問をめぐる論理そのものが歪められている(=拷問されている)ことを、自己欺瞞の概念を手掛かりに論じたもの。次の発表はイスラム過激派のテロを素材として、テロリズムは『倫理学ノート』に扱われる対抗暴力たりうるか? と問うもの。他者の自由の否定であるテロリズムは対抗暴力たりえないとする結論まで議論は導かれたが、しかしそれならば、どのような対抗暴力であればその批判から逃れ得るのか? これはサルトルの暴力論の射程を測る根本的な疑問として残るだろう。最後の発表は、中東における既存の価値観の崩壊が神の死という実存主義的な問いを引き起こすものであることを論じるものであった。同じ中東におけるサルトル受容については2010年の『サルトル研究』誌でも興味深い論文が読めるが、サルトルの徹底的な無神論的姿勢がイスラムの風土にどう受け入れられうるかという問いは、文明の対話の一側面として現代の関心に沿うものだろう。

5C「伝記、文学」
 発表は二つで(ボードレールについての発表者は欠席)、一つ目の発表はブラジルの作家クラリッセ・リスペクトールを実存主義の作家として検討するというもの。思想的文脈ではエレーヌ・シクスーとの関係が取り沙汰される作家ではあるが、彼女を読むための実存主義という新しい視座を与えられたのは発見であった。二つ目の発表は伝記作品における幾つかの争点と自伝に対する批判的距離を対照的に論じつつ、サルトルの議論に潜むマチズモの要素を、カストロ訪問のエピソードを交えつつ論じるものであった。質疑でサルトルのエクリチュールの一つのモデルとして読者を魅了する欲望が論じられたが、そこには発表者(ジョン・アイアランド氏)の著書であるSartre. Un art déloyal (Éditions Jean-Michel Place, 1994)の議論(特に第六章)からの一貫性を見出すこともできよう。

6A「書評セッション:ノレーン・カワージャ著『実存の宗教 哲学における禁欲主義 キルケゴールからサルトルまで』」
 近刊として同名書を上梓する著者を招いての書評セッション。この時点では肝心の著書が刊行されておらず、内容については登壇者の紹介から想像することを余儀なくされたが、実存主義と禁欲主義を結ぶ「精神的労働spiritual labour」としての側面をキルケゴール、ハイデガー、サルトルを中心に読み解くものであると言えば、その議論の背景にミシェル・フーコーの晩年の講義やピエール・アドの「霊操spiritual exercise」としての古代哲学という論点との近さを見出すことができよう。翌朝ビーチで偶然著者に会ったときにこのことを尋ねてみると、議論の方向が予断をもって受け入れられることを避けるためにむしろ差異化に努めたとのことだったが、宗教史のコンテクストから実存主義に新たな視座を与える試みとなれば、これは興味深いものであると期待される。

基調講演「如何にして心配するのを止めてサルトルを楽しむか」
 講演者のサラ・ベイクウェルは『実存主義者のカフェで:自由、存在、あんずのカクテルAt the Existentialist Café: Freedom, Being, and Apricot Cocktails』の著者。2016年に刊行されると間もなくオランダ語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語に翻訳された同書は、哲学と伝記を折り合わせたストーリー・テリングによって多くの読者を魅了した今年のベストセラーである。講演では、著者自らがいかにして『嘔吐』の著者に出会い、偶然性の思想を軸に、不安の思想という危なっかしいものに対する「不安」を解消するようになったかが語られた。

基調講演の会場.jpg基調講演の会場

7A「『反逆は正しい』についての鼎談」
 近いうちに『反逆は正しい』(1974)の英語訳が刊行されるらしく、それを期しての同書をめぐるパネル。当時の時代的コンテクストについての紹介や、サルトルにおける老齢の意味合い、フェミニズム的観点からの批判的検討、同書の中心をなすマオイズムの今日的争点など、多くの議論が交わされることとなった。年配のサルトリアンたちによる鼎談のため、じっさいに60-70年代のパリの空気を呼吸していたひとも少なくなく、現役のマオイストもそこにはいる。これほど幸福な時代錯誤も稀有なものだろう。

感想:以上、朝から夜まで三日間、休憩時間や会食も含めて濃密な時間を過ごすことができたが、毎年これほどの参加者の募ることができるのはアメリカという強い求心力を持つ土地ならではのことだろう。そこにはサルトルの著作全体を大胆に理解しようとする企図が感じられ、また少なからぬ発表はサルトルのテクストに即して読解すると言うよりはそこから出発して現代の事象を分析するツールとして用いるといったものであった(無論、その結果として議論がしばしば玉石混交となるのは避けがたいことではある)。そこには良し悪しもあろうし、日本のどちらかと言えばテクストを精緻に理解しようとする研究とは傾向の違いを見て取ることもできよう。とはいえ、なるべくテクストに寄り添うことを信条とする者にとっても、そこからさらに飛躍して何を語ることができるかを考えさせるという意味では、生産的な対話の場が用意されているように感じた。

 また限られた観測範囲での印象ではあるが、英語圏と仏語圏の研究の間にはかすかな溝があるようにも思われる。発表のなかで先行研究への言及が行われるときには、トマス・フリンやロナルド・アロンソンを筆頭とする英米の大家の著作が参照されることが多く、研究の蓄積において独自の発展を遂げているのではないか。それは英語圏における大学の研究動向(近年は分析哲学の影響が否みがたい)のみならず、政治状況とも関連していよう。とりわけ(今回のテーマの影響もあるとは思うが)『弁証法的理性批判』を中心とする政治哲学への関心は高く、それを現代の状況(環境問題、現代戦争、テロリズム、ジェンダー)に接合させようとする企てが多くみられた。地球規模で起きている変革はサルトルの時代のそれとは大きく異なるものとなりつつあるが、歴史を知解可能なものにしようとするサルトルの著作の「活用」に踏み出すことは益々重要な試みになっている(これは相部屋の博士の学生オースティンが断言していたことでもある)。私はとりわけ中東情勢に関する分析に興味を感じた。活字で読めるものとしてはジョン・アイアランド氏(その活躍は両大陸を跨ぐものであるが)の以前の論考(« Sartre and Scarry: Bodies and phantom pain »)を挙げておきたい。エレーヌ・スカリーによる身体的苦痛の現象学的分析を導きの糸として、サルトルの戯曲テクストにおける拷問の主題を扱う論考は多くの知見を含むものであり、この方向は今後さらに発展していくであろうし、特別の注意を払う必要があるように思われる。

 今回の滞在は、11月8日の合衆国大統領選挙直前に該当していた。空港からホテルに向かうシャトルバスの運転手と話していたとき、ノース・カロライナでトランプ氏は勝てないという予測を聞かされたが、蓋を開けてみれば同州は氏の圧勝。学会のなかで直接俎上に上ることはなかったものの、国の運命を大きく左右する選挙に対する関心と緊張は顕著なものであったように思われる。最終日、全パネルが終ったあとに若手の研究者たちと昼食をとる機会を持ったときには、11月にもかかわらずビーチを臨むホテルには夏のような陽光が注ぎ、そこでは彼らの忌憚なき意見をうかがうこともできた。そのあとすぐに帰国せねばならなかったのは残念だが、このタイミングのアメリカに行き、サルトリアンたちのリアクションに接することができたのは貴重なことである。世界の研究動向に刺激を受けつつ、日本の研究のありうべき方向について考えることができればと思う。

ビーチを臨むホテルにて.jpgビーチを臨むホテルにて




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サルトル来日50周年記念番組放映のお知らせ [サルトル関連情報]

9月18日(日)深夜[19日午前1時頃]放映 TBS『報道の魂』ーみんなサルトルの弟子だった(仮題)

50年前に来日したちょうどその日の放送となります。
当時サルトルと会われた鈴木道彦先生や海老坂武先生のインタビューに加えて、
7月16日立教大学でのシンポジウムの様子や最も若い世代の研究者の声も伝える予定とのことです。

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オックスフォード国際シンポジウム「今日、サルトルとともに考える」参加報告(生方淳子) [サルトル関連情報]

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オックスフォード国際シンポジウム「今日、サルトルとともに考える」参加報告
シンポジウム参加報告(pdf)
シンポジウムプログラム(pdf)

 1 月 30 日(金)と 31 日(土)の二日間にわたって、英国オックスフォードの Maison française においてサルトルをめぐる国際シンポジウムが開かれた。日本からの参加者はたった1名であったので、多分に主観、雑感も混じえてだが、以下の通り報告をさせて頂く。

主催:オックスフォード大学ウェイダム・カレッジ、セントクロス・カレッジ、英国サルトル学会など計7つの組織

テーマ:Penser avec Sartre aujourd’hui : De nouvelles approches pour les études sartriennes ?
参加者:一部のみ参加した人も含めて 100 名ほどで、年配の方々から 20 代の人々まで、幅広い世代が集まった。約 40 名の発表者の大多数は英、仏、ベルギーの大学に所属する研究者ないし博士課程の学生だったが、それ以外にもドイツ、イタリア、スイス、アメリカ、カナダ、ブラジル、イスラエルと世界各地から集まっていた。アジアからは唯一、上海の大学の女性研究者が発表をする予定だったが、残念ながらキャンセルとなった。企業に勤務する人も 2 名ほど発表者として名を連ねていた。発表しなかった人の中にも、学生時代に『弁証法的理性批判』を熱心に読んだというスコットランドの老紳士やソウル大学出身で現在オックスフォード大学でフランス思想についての博士論文を執筆中という韓国の女性研究者など、何らかの形でサルトルと関わっている人々の姿があった。

発表:英語ないしフランス語のいずれかで行われ、発表者によっては双方が入り混じった。質疑応答も人により英語またはフランス語でなされ、通訳は特になかった。両日の最初と最後の講演以外は二つの会場で並行して発表がなされたため、すべてを聞くことは叶わず、また英語での発表の理解には限界があったが、自分にとってに面白かった発表をいくつか、理解しえた範囲で簡単に紹介したい。

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クリスティーナ・ハウェルズ(オックスフォード大学) 『美学の倫理学 ― サルトルとアンガージュマンの主体』
「神の死」、「人間の死」、「主体の死」という三つの「有名な死」をめぐってサルトルとデリダが何を語ったかを比較することから始め、それらの概念的な死にも増して考えるべき現実の歴史上の暴力と死があること、サルトルのアンガージュマンは常にこの死と向き合っていたことを確認。その上で政治的・人道的アンガージュマンと「個人独自の大義」のためのそれを区別し、『文学とは何か』における定義にもかかわらず、サルトルが扱った作家たちはみな前者の意味ではなく後者の意味でアンガジェした作家たちであり、そこに独自の意味があると結論付けた。

コリン・パリッシュ(ローザンヌ大学博士課程) 『人間の死をめぐって ― フーコーとの論争』
 1966 年から 68 年にかけて『ラルク』誌、『ラ・キャンゼーヌ・リテレール』誌を舞台にサルトルとフーコーの間で交わされた論争を辿り直し、フーコーの方法論的立場という観点から新たに見直そうとしたもの。サルトル思想を「19 世紀の遺物」と言い切ったフーコーはあえて戦略的な攻撃を選んだと見なされているが、実は、内在性、合理性、歴史性という3つの前提に向けられた認識論的かつ動的な批判を行なっていたのだとする。しかし、それがサルトル研究に何をもたらすかという問いに対しては答は開かれたままであった。

バヤ・メサウディ(パリ第 8 大学博士課程) 『サルトルの眼の中に』
 昨年 12 月に来日したフランソワ・ヌーデルマン氏の下で博士論文を書き終えたアルジェリア出身の女性で、ヌーデルマン氏と同じく「人間と動物との境界線を問い直す」という視点から『ヴェネチア、わが窓から』、『嘔吐』、『自由への道』などにおける水と水生動物の描写を取り上げ、サルトル的イマジネールの変幻自在なありようが語られた。サルトル文学の汲み尽くし難い豊かさを改めて実感させるものだった。

ベネディクト・オードノヒュー(サセックス大学) 『舞台とスクリーンのサルトル』
 映画に魅了されていたサルトルが、『出口なし』、『汚れた手』、『アルトナの幽閉者』などの戯曲の中でいかに映画的手法を用いたか、いかに映画特有の美学がそこに反映しているか、またこれらの作品がいかに映画化しやすく書かれているかを検証した発表。特にサスペンスやフラッシュバックの手法の多用などについて、興味深い指摘が多かった。「常に成功しているとは限らないが革新的な意味があった」と締めくくった。

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ジュリエット・シモン(ブリュッセル自由大学) 『カントとサルトルにおける道徳的命令』
 「虚言」という問題を中心に①『実存主義とは何か』、②『道徳論ノート』、そして③文学作品という三つの方向からサルトルの道徳論を検討。まず、①の大戦直後の講演にいかにカント的な道徳的命題が潜んでいるか、にもかかわらずどのようなカント批判がなされているかが示され、続いて②のもはや明確な「敵」がいなくなった時代においていかに道徳の模索が困難になったかについて考察がなされ、最後に③『壁』、『汚れた手』、『墓場なき死者』において「虚言」がどのように用いられているかを例証しながら、三作品に共通する場違いな笑いが道徳的不安の演劇的表現であることを説いた。

ジョン・ギレスピー(アルスター大学) 『サルトルと神の死』
 19 世紀にニーチェによって語られた『神の死』がすでに終わった物語では決してなく、現代の西洋人はいまだその陰の中に生きており、サルトルの「無神論」はまさに 20 世紀ヨーロッパが信仰の誘惑と闘い続けていたことを証言するものだったとする。『存在と無』、『蠅』、バタイユ論、『道徳論ノート』、『悪魔と神』そしてマラルメ論を参照しつつ、サルトルは「神の死」という概念を時代の分析道具として用い、人間が神なき時代をいかに苦悩しながら生きたかを示した、20 世紀における「神なき人間の悲惨」を証言した、と主張。北アイルランドに身を置く人ならではの現実を背景とした重い説得力があった。

アレクシ・シャボ(パリ第 1 大学) 『過酷な無神論』
 現代世界において改めて宗教、反宗教、原理主義が深刻な問題を招いていることを踏まえ、サルトルが生涯かけて追い続けた神との決別というテーマを検討。ジョン・ギレスピー同様に、サルトルの無神論は軽やかな神の忘却ではなく、神を払い除けようとする過酷な闘いの形跡であるとの見解を披露。『一指導者の幼年時代』、『蠅』、『言葉』、『家の馬鹿息子』を取り上げ、それらのテクストにキリスト教的な“chute” の概念やキリスト教神学の代替物としての「絶対」の概念、神を失うことに恐怖を覚える人物たちの描写等々が闘いの形跡として多々残されていることを示した。

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ジャン=フランソワ・ルエット(パリ第 4 大学) 『猶予 ― 歴史小説とマスコミ報道の間で』
 『自由への道』第二部『猶予』を「マスコミ的理性批判」という観点から読み直す、と独特のユーモアをにじませた口調で、この小説に登場する当時の新聞、ラジオなどマスコミの状況と社会へのその浸透具合を実証的に精査した結果を紹介。それを踏まえて、登場人物らがどのようにマスコミ報道とかかわり、どのように受けとめているかを具体的に示した。また大戦前夜のヨーロッパの状況を伝えるアメリカ人ジャーナリストをどう描いているか、そこにジャーナリズム言語のパスティッシュがどう盛り込まれているかなどを滔々と語り、聴衆を最後まで惹きつけていた。

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雑感:フランス語圏以外の国々におけるサルトル研究の近況や研究者同士の交流については、なかなか知る機会がなかったが、今回のシンポジウムに参加したことで、フランスに劣らず活発なその状況を垣間見ることができた。多くの国でサルトル研究が大学という場に浸透し、アカデミックな研究の対象になっていることが伺われた。取り上げられたテーマやアプローチは多岐にわたったが、質的には率直なところ玉石混淆で、息を呑むほど面白いものもあれば得るところの少ないものもあった。しかし、いずれにしてもサルトル研究の現状を知る上で貴重な情報だった。
 他方、シンポジウム全体のテーマに「今日」という言葉が入っていたことから、サルトルと共に現代の問題を考える熱い議論が繰り広げられるのではないか、テロ、イスラム原理主義、反イスラムに揺れるヨーロッパを意識した発言が聞かれるのではないかと期待していたが、残念ながら拝聴した範囲ではごく僅かに遠慮がちな言及があったのみだった。サルトルの概念や理念を用いて現代世界の貧困と暴力の問題や「表現の自由」や 21 世紀の資本主義と格差の問題等々を根底から論ずることもできたはずだが、そのような盛り上がりには程遠く、慎重で手堅いアカデミズムの枠を超え得なかった感がある。
 とは言え、今回は発表者にも聴衆にも 20 代と思われる人が多く、サルトルが新しい世代の関心を惹き、より愛着を持って読まれていることを実感できた。博士論文準備中の院生たちの発表は、たしかに概して未整理で抽象的で生硬であったが、5 年後、10 年後にこうした人たちの中から本格的な優れた研究が現れることを期待したい。
 二日間の日程の最後には、ウェイダム・カレッジでイギリス恒例の Port and Cheese と呼ばれる打ち上げがあり、友好的で賑やかな歓談のもとに会は幕を閉じた。 主催者から、もっと日本からも参加してほしかったとのコメントがあったことも付け加えておこう。
  (国士舘大学 生方淳子)
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カミュフォーラム(獨協大学) [サルトル関連情報]

獨協大学で11月19日・20日に開催される、カミュ・フォーラムのお知らせを掲載します。最新情報はカミュ・フォーラムのサイトhttp://www.albertcamus.jp/に掲載されるとのことです。
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獨協インターナショナル・フォーラム、アルベール・カミュ:現在への感受性

日時:11月19日(金)・20日(土)
場所:獨協大学 天野貞祐記念館

●11月19日(金)
13:15 開会式

13:30-15:30 現在の諸相:文学と政治
・アンヌ・プルトー(西部カトリック大学)「現在、カミュが死守するもの」
・東浦弘樹(関西学院大学)「いまを生きる、過去を生きる —『表と裏』とそのバリエーション」
・フィリップ・ヴァネ(獨協大学)「ジャーナリストの証言」

15:30-16:00 休 憩

16:00-18:30 カミュのアルジェリア
・三野博司(奈良女子大学)「ティパサのカミュ」
・高塚浩由樹(日本大学)「見出されない時 —『最初の人間』における現在と忘却」
・ピエール=ルイ・レイ(パリ第三大学)「カミュの作品に現れた<アラブ人>」
・ナジェット・ハッダ(アルジェ大学)「フランス語アルジェリア文学に宿るカミュの影」

●11月20日(土)

10:00-12:30 討論会「カミュと日本:その親和性」
・ジャン= クロード・ジュゴン(筑波大学)「日本人の時間体験の諸側面:現在は永遠か?」
・稲田晴年 (静岡県立大学)「カミュと俳句」
・若森榮樹 (獨協大学)「カミュと日本古典詩における<現在>の意識」
・有田英也(成城大学)「歴史との闘い —日本の反近代主義者はカミュをどのように読んだか」

12:30-13:30 昼

13:30-14:30 講演会 I 「アルベール・カミュ。全面戦争と中庸の哲学。文学を通して考察する都市の空襲。」
モーリス・ヴェイエンベルグ(ブリュッセル自由大学)

14:30-14:45 休 憩

14:45-15:45 講演会 II 「3つの相補的主題 :世俗性,聖性,節度」
レイモン・ゲイ=クロズィエ(フロリダ大学)

16:15-18:30 討論+朗読:「現在のアルベール・カミュ」
・レイモン・ゲイ=クロズィエ(フロリダ大学)
・ナジェット・ハッダ(アルジェ大学)
・フワ=ユング・キム(高麗大学)
・松本陽正(広島大学)
・アニエス・スピケル(ヴァランシエンヌ大学)

18:30- 閉会式・懇親会

Forum internatinal à Dokkyo

Albert Camus : le sens du présent

Vendredi 19 et Samedi 20 novembre, l'Université Dokkyo(Teiyu Amano Hall)

***Vendredi, 19 novembre

*13h15 ouverture

*13h30-15h30 Aspects du présent : littérature et politique
A. Prouteau (Université catholique de l'Ouest) « Le présent ! Un enjeu vital pour Camus »
H. Toura (Kwansei Gakuin) « Vivre le présent, revivre le passé : variantes et variation de
l'Envers et l'Endroit »
Ph. Vanney (Dokkyo) « Le témoignage du journaliste »

*15h30-16h00 pause café

*16h00-18h30 L'Algérie de Camus
H. Mino (Nara-Joshi) « Camus à Tipasa »
H. Takatsuka (Nihon Daigaku) « Le temps qui ne se retrouve plus — le présent et l'oubli dans Le Premier Homme »
P.-L. Rey (Paris III) « Les "Arabes" dans l'œuvre de Camus »
N. Khadda (Université d'Alger) « L'ombre portée de Camus dans la littérature algérienne de langue française »

***Samedi, 20 novembre
*10h00-12h30 table ronde « Camus et le Japon : affinités »
J.-C. Jugon (Tsukuba) « Aspects du temps vécu au Japon : le présent est-il éternel ? »
H. Inada (Université préfectorale de Shizuoka) Camus et le haïku »
Y. Wakamori (Dokkyo) « Le présent sur l'arête — conscience du présent chez Camus et les poètes japonais du XIIIe siècle »
H. Arita (Seijo) « Combat contre l'Histoire : Camus lu par certains antimodernes japonais »

*12h30-13h30 pause déjeuner

*13h30-14h30 conférence I « Albert Camus, la philosophie de la mesure et la guerre totale.
Réflexions sur les bombardements des villes au travers de la littérature »
M. Weyembergh (Université libre de Bruxelles)

*14h30-14h45 pause

*14h45-15h45 conférence II « Un triangle complémentaire : laïcité, sainteté, mesure »
R. Gay-Crosier (Université de Floride)

*15h45-16h15 pause

*16h15-18h30 table ronde + lectures « Albert Camus au présent »
R. Gay-Crosier (Université de Floride)
N. Khadda (Université d'Alger)
H.-Y. Kim (Université de Corée)
Y. Matsumoto (Université de Hiroshima)
A. Spiquel (Université de Valenciennes)

*18h30- clôture et soirée amicale
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ンポジウム サルトルのモラル論 人間・他者・歴史をめぐって(東北大学) [サルトル関連情報]

10月9日(金)に、東北大学において、会員の翠川博之さんが企画された、サルトルを主題とするシンポジウムが行われます。プログラムと要旨を転載します。
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シンポジウム サルトルのモラル論 人間・他者・歴史をめぐって
2009 年 10 月 9 日(金)
会場:東北大学川内北キャンパス マルチメディア教育研究棟 6F 大ホール右
主催:東北大学大学院文学研究科フランス語学フランス文学研究室
TEL:022-795-5973
MAIL:himidori@sal.tohoku.ac.jp


プログラム
◎開会式 13 :00

◎研究発表 第 1 セッション 13 :10 15 :10
司会:島貫葉子(東北大学)
1. サルトルにおける homme の問題を考える ̶人間、男、そして女
澤田 直(立教大学)
2. 祈りから呼びかけへ ̶サルトルのモラル論における祈りをめぐって
竹本研史(東京大学大学院)

◎研究発表 第 2 セッション 15 :20 17 :20
1. サルトルの「具体的倫理」について
水野浩二(札幌国際大学)
2. 倫理のパラドクスと回転装置
翠川博之(東北大学)

◎ディスカッション 17 :20 17 :50

◎懇親会 18 :00


発表要旨
サルトルにおける homme の問題を考える——人間、男、そして女
澤田 直
サルトルは生涯、様々な形で homme について語っている。哲学的テクストにかぎれば、その
homme は人間と言えるだろう。しかし、文学作品に目を転じるときに、この言葉はしばしば曖
昧なものとなる。それは普遍的な意味での「人間」だけでなく、「男」、それも「大人の男」を
意味し、そこからは必然的に、女性や子どもは排除される場合も少なくない。サルトルにおい
て、モラルの主体は homme であるが、これはけっしてあらかじめ決められた本質をもったもの
ではないとされる。しかし、だとすれば、その本質なき人間、実存が先立つ人間とは、まった
く無規定のものなのだろうか? また、それは西洋哲学が思惟する主体として考えてきた「人
間」とどのようにちがうのだろうか。
この問題を哲学的著作のみにかぎらず、ジェンダーの問題などともからめて考察したいと思
う。

祈りから呼びかけへ
サルトルのモラル論における祈りをめぐって
竹本 研史
これまでの伝統的なサルトル研究からすれば、サルトルにおける「祈り(prière)」という主
題は驚くべきものだろう。だが、『存在と無』のときのような相剋論から、『道徳論ノート(倫
理学ノート)』のような相互承認論への対他関係の変化に注目する時、この「祈り」という概念
は相互承認論において、自己欺瞞へと容易に反転する危険を孕みながらも自由のために重要な
役割を果たしていることに気がつく。ところで、このサルトルにおける「祈り」は、他人への
要求のあり方の一形態としての「懇願」と、戯曲『悪魔と神』においても見られるような自然
や超越的な存在への「祈願」という二つの異なった位相が存在する。ちなみに哲学の伝統では、
これまで「祈り」という概念を「懇願」の意味で使用した例はほとんどないように思われる。
それに対して、彼は、この二つの位相を意図的に分節したのか、それとも単に混同しただけな
のか、一体どちらなのだろうか?
本発表では、サルトルにおける「祈り」が、彼のモラル論の中でどのように位置づけられる
か、「要請」や「呼びかけ」といった周辺概念も念頭に置きつつ、その意義を考察する予定であ
る。

サルトルの「具体的倫理」について
水野 浩二
第二次大戦後のサルトルは、他者との認識的関係よりも、他者との社会・政治的関係にもと
づいた倫理を模索し始めた。それが、抽象的、形式的倫理と、具体的、現実的歴史との二律背
反を超えた、「有効な行動の論理(logique de l’action effective)」としての「具体的倫理(morale
concrète)」である。具体的倫理は、倫理を観念論の産物と捉えた戦前のサルトルが、戦後にな
り、「倫理とは行動の理論である」と確信するようになった結果、提唱するようになったもので
ある。具体的倫理は、「具体的普遍(universel concret)」とともに『倫理学ノート』に登場し
てくる概念である。サルトルによれば、それぞれの時代において、人々はなにがしかの理念を
保持し、そうした理念を歴史の運動と合致させて状況を生き抜くしかない。それが、普遍的な
ものと歴史的なものの総合としての具体的倫理の立場である。このサルトルの具体的倫理の可
能性を考究するためには、1960 年代半ばのいわゆる「第二の倫理学」における「弁証法的倫理
学」(無条件的倫理と条件づけられた歴史との逆説的関係)をも射程に入れ、さらには遡って、
1930 年代のフランス哲学の運動にも目配りをしておかなければならないであろう。

倫理のパラドクスと回転装置
翠川 博之
劇作術の方法論であるサルトルの「回転装置(tourniquet)」を倫理的価値の創出装置として
考察してみたい。回転装置とは、否定を含む自己言及のシステムである。たとえば、「真実を語
る」ことこそ善であると考える主体が、「真実を語ることができない」具体的状況に直面すると
き、回転装置は作動する。「私は嘘をついている」という意識は否定を含む自己言及として、善
悪の価値判断をめぐる出口のない自問へと主体を導き、「私」の意識と行為を拘束してしまう。
敷衍すれば、「あるところのものであらぬ」対自の意識は、自己欺瞞的であり得ると同時に、回
転装置的であり得ると言えるだろう。
逡巡は主体を〈他者〉との対話へと導く。回転装置で構成されたサルトルの演劇作品におい
て、限界状況に置かれた人物たちが対話を通じて、いかに新たな価値を創出しているのか。そ
れが可能となる条件を含めて検討しようと思う。

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Annual Conference of the UK Sartre Society [サルトル関連情報]

直前ですが、9月18日にロンドンで開催される、UK Sartre SocietyのAnnual Conferenceのプログラムを転載いたします。東京で行われたワークショップの第二弾として、会員の澤田さん、鈴木さんによるワークショップがあります(赤字強調しています)。
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2891496
16th Annual Conference of the UK Sartre Society

Institut Français, 17 Queensberry Place, London SW7

(nearest tube: South Kensington)

Friday 18 September 2009


9.00–9.30 Registration/coffee


9.30–11.30 Consciousness and the Body

Dermot Moran (University College Dublin): Sartre, Husserl and Merleau-Ponty on Embodiment, Touch and the ‘Double Sensation’.

Michael G Peckitt (University of Hull): Living and Knowing Pain : Sartre’s Engagement with Biran.

Naomi Segal (Institute of Germanic and Romance Studies, University of London): Jean-Paul Sartre and Didier Anzieu: ‘Consensuality’.

Discussion (Chair: Angela Kershaw, Birmingham)


11.30-11.45 COFFEE


11.45-13.00 KEYNOTE SPEAKER:

Michel Contat (École Normale Supérieure, Paris): Title to be advised.

Discussion (Chair: Benedict O’Donohoe, Sussex)


13.00–14.15 LUNCH (own arrangements)


14.15–16.15 New Readings of ‘Old’ Texts

Gary Cox (University of Bristol): The Childhood of a Leader Revisited (Salauds and Moustaches)

Craig Vasey (University of Mary Washington, Virginia): The Day After Existentialism is a Humanism, and The Last Chance.

John Ireland (University of Illinois at Chicago): France and Cuba, Castro and De Gaulle: Rethinking Sartrean Messianism.

Discussion (Chair: John Gillespie, Ulster)


16.15-16.30 TEA

16.30-18.00 AHRC-sponsored Workshop
Nao Sawada (University Rikkyô, Tokyo): The Concept of Man in Sartre : Existentialism May be a Feminism?

Masamichi Suzuki (University Hosei, Tokyo): How to Welcome an Intellectual Superstar: Sartre in the Japanese Press.

Brief remarks from Kevin Gray (Université Laval, Québec) and Rebecca Pitt (Essex), AHRC Postgraduate Bursary Awardee.

Discussion (Chair: Jean-Pierre Boulé, Nottingham Trent)

18.00-19.00 VIN D’HONNEUR

ENTRANCE: £20 (free to Members of the Institut Français; concessions [students, retired, unwaged] £10)

The organisers – Ben O’Donohoe (President: b.o-donohoe@sussex.ac.uk) and Angela Kershaw (Secretary: a.kershaw@bham.ac.uk ) – gratefully acknowledge the material and moral support of the Institut Français, and the sponsorship of the AHRC in respect of the Workshop, derived from a Research Grant awarded to Professor Jean-Pierre Boulé.

Note: Members of UKSS have agreed, by email consultation, that the election of new Committee members, due this year, will be held over until 2010 and that the present Committee will therefore serve a fourth year. The AGM for 2009 will take the form of a ‘virtual’ AGM, with the usual reports circulated by email for information and comment during Autumn term 2009. Visit : http://www.sartreuk.org/

フランス・キュルチュールで『権力と自由』に関する番組 [サルトル関連情報]

 フランスのラジオ局、フランス・キュルチュールfrance cultureで放送されている、フランソワ・ヌーデルマンFrançois Noudelmannが司会の「哲学の金曜日Les vendredis de la philosophie」という番組で、サルトルが晩年にピエール・ヴィクトール(=ベニ・レヴィ)と計画していた著作『権力と自由Pouvoir et Liberté』についての討論が放送されます。ゲストは、ミシェル・コンタMichel Contatとベルナール=アンリ・レヴィBernard Henri Lévyです。
 放送日時は、12月28日(金)の10:00(日本時間で18:00)からです。この放送は、インターネット上でも聴取することができます。こちらのサイト
http://www.radiofrance.fr/chaines/france-culture2/emissions/vendredis/
で、放送後から1週間は聴取できるようです。
 1週間がすぎても、アーカイブで聴くことができます。そのURLについては改めて告知します。

Vendredi 28 décembre
> 10:00
> > LES VENDREDIS DE LA PHILOSOPHIE
> Le dernier Sartre
> Production : François Noudelmann
> Avec : Michel Contat, Bernard Henri Lévy
> Réalisation : Francoise Camar

> vendredi 28 décembre 2007
> > Le dernier Sartre
>
> Par François Noudelmann
> Réalisation:Françoise Camar
>
> Pendant les cinq dernières années de sa vie, Sartre,
> progressivement aveugle, a entretenu un dialogue philosophique avec
> un jeune homme du nom de Pierre Victor. Cet ancien dirigeant de la
> Gauche prolétarienne suivait son propre itinéraire qui devait le
> conduire, par le biais de Levinas, à un retour au judaïsme et à son
> nom de Benny Levy. Les sartriens de longue date réagirent parfois
> violemment à ce débat tardif qui semblait détourner la pensée du
> philosophe.
> Ces entretiens auraient dû aboutir à la publication d'un livre à
> deux, "Pouvoir et liberté", présenté comme un renouvellement
> radical de la pensée sartrienne. Mais la mort de Sartre interrompit
> le projet dont ne parut qu'une version réduite et autorisée en
> 1980, dans Le Nouvel Observateur. Aujourd'hui sont publiés les
> cahiers de Benny Levy qui consignait leur travail commun, une
> nouvelle occasion de savoir si ce dialogue fut une renaissance ou
> un malentendu.


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