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日本サルトル学会会報第48号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°48 Octobre 2016
日本サルトル学会会報              第48号 2016年 10月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形式で開催となりました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。発表・質疑はすべてフランス語で行われました。

第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

吳銀河氏の発表「「ある指導者の幼年時代」における“籐の杖”の二場面(サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか)」は、短編小説の分析を通じて、サルトルによる精神分析の批判的活用を論じたものである。この短編は、これまでにもGeneviève IdtやJean-François Louetteによる優れた研究が明らかにしてきたように、フロイトの精神分析理論及びその当時流布していたイメージを作品のなかに取り入れており、サルトルが如何に精神分析に関心を抱き、かつ批判的な視点を持っていたかを明らかにするものである。吳氏の発表では、一貫して他者に対する受動的態度を示している本作の主人公リュシアン・フルーリエが(表題の示すように)「指導者」へと成長を遂げてゆく過程において、エディプス・コンプレックスが活用されていることが指摘される。とりわけ、(精神分析においてしばしば男性性の象徴とされる)杖が登場する二場面を詳細に分析しながら、リュシアンが自らを「男」とし「父」に同一化することがコンプレックスを克服するプロセスと同期していることが明示された。このように精神分析的テーマを巧みに取り込みながら、精神分析そのものが家族制度を基本単位とする社会・階級構造の再生産に寄与するものであることを露わにすることで、サルトルはライヒ、ドゥルーズ、ラカン、ジジェク等に先立って欲望と政治の関係性を浮かび上がらせているのだと吳氏は結論付ける。まさしく、コンプレックスの克服がファシズムの誕生と結び付けられるのが本短編の「不気味さ」であり、近年もこれを原作とする映画("The childfood of a leader” 邦題『シークレット・オブ・モンスター』)が製作されたことからも、そのアクチュアリティは見逃されるべきではない。本発表は、その作品の内的構造を詳らかに解きほぐしたものとして、大勢の関心を惹くものであろう。(関大聡)


Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)

本発表は、根木氏がパリ第4大学に提出した博士論文の一部に基づく。無神論的実存主義を展開したと言われるサルトルの議論の道筋を『存在と無』、『倫理学ノート』など複数の著作から明らかにしようとする試みである。
 神は「存在論的」かつ「認識論的」な意味ですべての「根拠」であり、「自己原因」である。ただし意識存在として何かの原因であるには、すでにある偶然の存在を無化することによらなければならないが、すべての存在に先立つべき存在がすでにある存在を無化するというのは矛盾である。これがサルトルによる、神の概念批判である。根木氏が指摘するに、自己原因としての神という概念は、多分に伝統的なキリスト教の考えに沿ったものであるが、サルトルはあくまでもこれを、偶然の存在が意識存在よりも以前に存在するという自分の考えに結びつけて扱う。そもそもサルトルは自己原因という言葉を、神にも自由である人間意識にも使っている。こうしてサルトルの考える意識存在としての神はいかにも人間的な概念であると言える。
 あまり扱われていないが重要なテーマを分かりやすくまとめた好発表だった。会場からは昨年オクスフォードで同様の発表があったので参考にしてはどうかとの提案があった。「神たらんとする」人間という、確かにサルトルの要となる問題系の解明を支えるはずの主題である。(鈴木正道)


Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)

今や日常生活に浸透したSNS。そのユビキタス的性格と利用者の相互性を『弁証法的理性批判』で描かれる溶融集団の特性と比較して論じるという意表を突く発表だったが、精緻な論証に裏付けられ説得的で刺激的だった。
氏はまず、サルトルを「メディアの哲学者」と呼べるかという問いを立て、彼が大戦直後から常にマスコミの目にさらされ、またそれを利用してきたことに着目する。しかし、メディアの哲学者と言えるとすればこのような意味においてではないと明言、考察を『批判』の集団論へと進めていく。集列と溶融集団との区別を確認した後、この理論ではラジオ・テレビの視聴者が互いに隔てられ間接的な集列をなすとされているものの、現代においてSNSの利用者は相互性で結ばれた溶融集団へと変貌し共同実践によって社会の流れを変えうると指摘する。韓国におけるその実例に依拠しつつ、現代のメディア環境にも適用可能な概念を提供したサルトルは「メディアの哲学者」であると氏は結論づける。
安易な比較にとどまらず、用意周到に議論した点には感心させられたが、より多くの具体例を挙げて、『批判』で語られる「友愛=テロル」同様の危険がSNSにも潜むことまで踏み込む時間がなかったのが少々惜しまれた。(生方淳子)


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」

サルトルにとってイタリアとは、旅行の行き先であっただけでなく、現地の知識人と交流する場であり、そこで作品を生み出す場でもあった。サルトル自身が個人的に深くかかわった場所として、イタリアは伝記的著作の生成において重要な役割を果たしたのではないか、というのが澤田直氏による発表の出発点となる問いかけである。
 澤田氏はまずティントレットに関するテキスト「ヴェニスの幽閉者」に注目し、画家の人生の転換点となるできごとや家族との関係性が特筆される点において、のちの著作である『家の馬鹿息子』と共通する伝記的側面への関心が見いだされることを指摘する。その上で、サルトルはティントレットの作品を単に画家の人生の投影されたものとしてではなく、その中で画家の人生が全体化されるものとして捉えていたと論じている。
 続いて『主体性とは何か』というタイトルで邦訳も刊行された1961年のローマでの講演に焦点が当てられる。この講演においてサルトルは、主体性の形成において伝記的な「できごと」の果たす役割の重要性を論じるために、ミシェル・レリスをめぐる挿話を紹介、分析している。サルトルの論によると、主体性は個人がある「できごと」を全体化・再全体化する過程を繰り返す中で形成されるものである。サルトルが作家や芸術家の伝記的側面を重視するのは、そのためであると澤田氏は強調する。
 以上を踏まえ、サルトルの重視する伝記性の意義は以下の3点に要約されると結論づける。①動的な主体と静的な環境をつなぐ ②作品と人生を仲介し解釈を促す ③新しい人文社会的な分析方法になりうる
 本発表は、サルトルの一連の伝記的な著作の背景を探るだけでなく、作家あるいは芸術家の伝記的要素に関するアプローチとしてサルトルの方法の有用性を示した点において、興味深いものであった。(中田麻理)


Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)

池英來氏の発表では、『嘔吐』におけるexistenceの問題が真正面から論じられた。氏は、まずサルトル最初の哲学的探求である「偶然性」が形作られていく過程をミディ手帳のメモ、アロンとボーヴォワールの証言、デュピュイ手帳などから丁寧にたどった後、偶然性/必然性の対立に、existence/êtreの対立を重ねていく。もちろんマロニエの根を前にしてのexistenceの開示は、偶然性の発見でもある。一方この書でのêtre は、プラトン的イデア界に属するものを意味する。必然的存在である音楽、「冒険の気持ち」というテーマは『イマジネール』における美の非現実性の議論に繋がっていくことが示される。さらに、ロカンタンが生きる、持続を欠いた瞬間は、『存在と無』における対自の時間性の議論へと繋がっていくことが指摘された。
全てにわたって『嘔吐』を織りなす諸テーマに通暁した氏の学識の深さが示された発表であったが、最後にサプライズが用意されていた。『嘔吐』の邦訳書の一節が比較検討され、exister, existenceの日本語訳として「現存」が提案されたのである。会場からは、当日お見えであった新訳『嘔吐』の訳者、鈴木道彦会長の応対もあり、発表者にとってもこれ以上はありえない交流の実現になったと思われる。 (黒川学)

総会報告
例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。(句点)
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の任期更新について議論され、現在の役員がそのまま留任することが承認されました。
     会長:鈴木道彦
     代表理事:澤田直
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次、翠川博之
     会計監査:竹本研史、水野浩二

サルトル関連文献
・ 中田平『サルトル・ボーヴォワール論』kindle、2016(1976-1981年の論文を集めたもの)
・ 森功次「戦後の実存主義と芸術」『ベルナール・ビュフェ美術館館報』2016, 5-7.

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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TBS『報道の魂』「みんなサルトルの弟子だった」放送時間・放送エリアについて

TBS『報道の魂』「みんなサルトルの弟子だった」
2016年9月18日(日)25時55分~26時25分
関東ローカル放送で1都6県でのみの放送、とのことです。

番組ホームページは以下です。
http://www.tbs.co.jp/houtama/

----------------------
'16年9月18日「みんなサルトルの弟子だった・・・」
50年前の1966年9月18日、フランスの哲学者サルトルが、パートナーのボーヴォワールとともに来日した。
あの時の熱狂と衝撃・・・ふたりの来日は、日本社会を大きく揺さぶった。
いったい、当時日本に何が起き、何故、彼らの日本訪問は、あれほどまでのインパクトをもたらしたのか・・・
知識人の役割とは?
大学紛争とは?
原子力と人類との関係は?
当時、縁のあった方々を訪ね、サルトルとボーヴォワールが投げかけた問いを、50年を経た今、もう一度受け止めて、ふたりの来日の意味を考える。
ディレクター:秋山浩之(TBSテレビ報道局)
---------------以上番組ホームページよりの引用
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サルトル来日50周年記念番組放映のお知らせ [サルトル関連情報]

9月18日(日)深夜[19日午前1時頃]放映 TBS『報道の魂』ーみんなサルトルの弟子だった(仮題)

50年前に来日したちょうどその日の放送となります。
当時サルトルと会われた鈴木道彦先生や海老坂武先生のインタビューに加えて、
7月16日立教大学でのシンポジウムの様子や最も若い世代の研究者の声も伝える予定とのことです。

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日本サルトル学会会報第47号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°47 juin 2016
日本サルトル学会会報              第47号 2016年 6月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されますのでご案内申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形をとります。多くの方のご来場をお待ちしております。なお、発表はすべてフランス語で、通訳はありません。
懇親会に関しては、準備の都合上、ご出席を希望の方はあらかじめ事務局のメールのほうにご連絡いただけるとたいへん助かります。


第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)
Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)


15:45-16 :00 Pause café 休憩


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」
Débatteur : Fabien Arribert-Narce (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:ファビアン・アリベール・ナルス(青山学院大学)

Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)


17 :30-18 :00 Assemblée générale総会

18 : 30 Pot amical 懇親会




今年のパリのサルトル学会のプログラムは以下の通りです。

日本からは栗脇さんが発表されます。
GESのBulletinを希望される方は、6月20日までに事務局までメールでご連絡ください。



サルトル関連文献
・ 赤阪辰太郎、2016、「新たな仕方で世界を描くこと : 前期サルトルの哲学的企図についての試論」『年報人間科学』37巻、87-103.
・ 赤阪辰太郎、2016、「サルトルを読むメルロ=ポンティ:『文学とは何か』をめぐって」『メルロ=ポンティ研究 』19(0)、 45-57.
・ 朝吹亮二、2016、「義塾を訪れた外国人(第1回)サルトル、ボーヴォワール」『三田評論』 (1196)、56-59.
・ 伊勢美里、2015、「サルトル『存在と無』における「共同存在」の実現可能性について」『上智哲学誌』(特集 共同体) (27)、59-70.
・ 表三郎、2015、「サルトル自我論の先駆者としてのランボー : 弁証法を甦らせるために(第6回)」『情況』4(3), 143-153.
・ 片山洋之助、2016、『日常と偶然』、理想社.
・ 加藤誠之、2015、「非行の臨床哲学 : サルトルから考える (特集 教育・臨床・哲学のアクチュアリティ)」『理想』694、42-52.
・ 栗脇永翔、2015、「可傷性・吐き気・肉体嫌悪――前期サルトルにおける身体の問題」、『Résonances』第9号、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、100-107.
・ 小手川正二郎、2014、「恥の現象学 : サルトルとウィリアムズを手がかりに」『國學院雜誌』115(12)、1-11.
・ 澤田直、2016、「サルトルとイタリア(1)」『立教大学フランス文学』45号、51-74.
・ 澤田直、2016、「共同体、そしてアイデンティティのことなど サルトルとナンシーを出発点として」岩野卓司編『共にあることの哲学』、書肆心水、19-51.
・ Nao Sawada (2016) « Comment vivre ensemble ? Barthes et Sartre : communauté et rythmes » , Littera (Societé japonaise de Langue et Littérature françaises), n° 1, pp. 20-30.
・ 重見晋也、2015、『コレージュ・スピリチュエル』としての『ボードレール』」『名古屋大学文学部研究論集 (文学61)』 (加藤國安教授 退職記念) 、113-126.
・ 柴田健志、2015、「時間の総合における「無」の機能 : サルトルの哲学と認知神経科学」『鹿児島大学法文学部紀要』(81)、19-28.
・ 中敬夫、2015、「サルトルと20世紀の古典的他者論の問題構制」『愛知県立芸術大学紀要』(45)、 3-16.
・ 中田光雄、2015、『創造力の論理 テクノ・プラクシオロジー序論—カント、ハイデガー、三木清、サルトル、…から、現代情報理論まで』、創文社.
・ 永井玲衣、2015、「サルトルにおける「目的の都市」」『上智哲学誌』(特集 共同体) (27)、83-93.
・ 永野潤、2015、「革命的サンディカリスムとサルトルの思想 」『人文学報(実川敏夫教授 退職記念論集) 』(504)、65-88.
・ 中村彩、2016、「『別れの儀式』における(脱)神話化――ボーヴォワールから見たサルトルの老い」(英語)、『共生のための障害の哲学Ⅱ』、UTCP.
・ 沼田千恵2016、「事物への問い : 初期サルトルをめぐって (工藤和男先生 竹居明男先生 退職記念論文集)」『文化学年報』65号、195-216.
・ デイヴィッド・エドモンズ、ナイジェル・ウォーバートン編、2015、『哲学と対決する!』菅靖彦訳、柏書房. (第24章が「ジャン=ポール・サルトルの実存主義」)
・ ペトルマン シモーヌ、2016、「デカルトの自由とサルトルの自由」丸山真幸訳、『津田塾大学紀要 』(48)、1-23.

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日本サルトル学会会報第46号 [会報]

研究例会報告
 第36回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催致しました。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」
日時:2015年12月5日(土)
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   14:00〜18 :00
 オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師)
 登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
 司会:北見秀司(津田塾大学)

以下、ワークショップの報告文を掲載します。

 今例会では、『弁証法的理性批判』第一巻刊行55周年を記念して、ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」が行われた。ワークショップは、北見秀司氏の司会のもと、短い個別質疑を挿みながら、竹本、澤田、角田の各氏がそれぞれの視角から『批判』に関する提題を行ったのち、三氏の発表すべてを主題とする全体討議の時間を設けるという仕方で進行した。

 竹本研史氏による発表は、「環境」という概念に着目しつつ、『批判』の議論を再整理する試みであった。具体的分析に入る前に、竹本氏はまず、先行研究の概観を行った。それによれば、「稀少性」をめぐるサルトルの思索と論点を共有する研究として、1)稀少性を闘争の根底に置いたホッブズをはじめとした、「稀少性」に関する思想的系譜、2)W. マクブライドのような環境倫理学的観点からの示唆、3)A. ゴルツのエコロジー思想、そして、4)『批判』をのちのフローベール論との関連において読む可能性などが挙げられる。この概観に続けて、竹本氏は『批判』の具体的分析に入り、そこでの議論の基礎が、何よりも環境としての「稀少性」に置かれていることを確認した。竹本氏によれば、『存在と無』いらい、人間的現実を「欠如」の観点から考えようとするサルトルの姿勢は一貫したものであり、『批判』もまた「欲求(besoin)」の概念を起点として、第三者を媒介とした人間的諸関係の形成を考察している。この人間関係を条件づけているのが無機的物質性であり、そしてサルトル自身が述べているように、この物質性が諸個人に対して持ってきた、偶然的だが根源的な、一義的(univoque)関係(つまりは、万人にとって十分な物質が存在しないという量的事実)こそが「稀少性」であった。この点を見たのち、竹本氏は、稀少性の環境における人間関係の形成が、各人による各人の破壊の可能性、つまりは「余計者(excédentaire)」排除の可能性という形をとること、そしてこのとき、人間性は、〈他者〉化された非人間性として、すなわち、量化された交換可能性において現れることを指摘する。
 以上の整理を踏まえ、竹本氏が着目するのが、「労働」の概念である。「労働」、すなわち人間的有機体が、惰性へと働きかけ欲求を満足させるために自己を惰性化することとは、稀少性の観点から言い換えるならば、まさしくこの稀少性の乗り越えを目指す実践に他ならないことを竹本氏は指摘する。そして、「労働」によって生み出された「加工された物質」をめぐるサルトルの考察へとさらに分析を進めつつ、竹本氏は、この稀少性乗り越えの試みが、『批判』において、つぎのような逆説的帰結に導くとされていることを明らかにした。すなわち、加工された物質は、惰性化した人間的実践に他ならないゆえに、今度はそれが、逆に自らの使用法を指示し、人間に自己を課する存在へと転ずるのである。ここにおいて人間の活動は、自己の「欲求」から直接派生するのではなく、加工された物質が引き起こす、〈他者〉の「要求(exigence)」によって支配されることとなる。竹本氏によれば、稀少性に起因する他者性乗り越えの試みであったはずの労働は、こうして結局のところ、他者性すなわち疎外へと行きつくことになる。
 以上の逆転を確認したのち、発表は「階級存在」の形成をめぐる『批判』の議論の再検討へと移り、「階級存在」の持つ両義的性格――階級存在は一方で、それが「加工された物質」を通じて人間へと到来した実践的惰性態であるかぎりにおいて、人間を運命づけるものであるが、他方でそれは、物質を媒介とした人間自身による自らの否定であるかぎりにおいて、あくまで個人的実践にその基礎を置いている――が明らかにされた。
 そして最後に竹本氏は、以上の分析から三つの論点を導き、提題の締めくくりとした。1)物質の稀少性により、各個人が交換可能な存在となること。2)その乗り越えとしての労働により加工された物質が生み出されるが、それは疎外へと転じること。さらにそこから、両義的な「階級存在」の形成が説明されること。3)「環境」は、サルトルにおいては何よりも「乗り越えるべきもの」と捉えられている。そうであるとすると、この「環境」との共生の可能性はありうるのか、この点を明らかとすることが、今後の課題であること。
 発表後の個別質疑では、ヘーゲル、マルクス的な語彙である「欲求」と、『存在と無』いらいの用語である「欲望(désir)」、さらに「要求(exigence)」との関係をどのように切り分けるか、また、『批判』とこれに先立つ「共産主義者と平和」(1952)における階級論との差異をどう考えるか、といった質問が挙げられた。

 続く澤田哲生氏による提題は、専門であるメルロー=ポンティのサルトル批判から出発し、それに対する『批判』の応答(あるいはその不在)を探った発表であった。澤田氏によれば、メルロー=ポンティの著作は、多かれ少なかれサルトル哲学との対峙という色彩を帯びている。だがそのなかでも、「サルトルとウルトラ・ボルシェヴィスム」(『弁証法の冒険』(1955))における批判は、特権的な位置を占めていると澤田氏は言う。澤田氏はまず、この著作が書かれるにいたった歴史的背景――反リッジウェイ・デモと共産党書記J. デュクロの逮捕、それに続くサルトル「共産主義者と平和」における共産党の意義の擁護――を確認したのち、『冒険』におけるサルトル批判を参照する。澤田氏によれば、そこでメルロー=ポンティは、サルトルが『情緒論素描』(1939)において用いた語彙(「魔術的(magique)」、「魔法使い(sorcier)」など)をそのままサルトルの姿勢に適用し、これをひとつの「病理」として批判している。『情緒論』は、『知覚の現象学』幻影肢論において「魔術的行為」という語彙が用いられていたことからも分かるように、サルトル思想のうちメルロー=ポンティが肯定的に受け入れた部分であったと考えられるだけに、こうした批判方法は、象徴的というべき重要性を持つものだと澤田氏は指摘した。
 この点を確認したのち、発表は『弁証法的理性批判』の検討へと移った。澤田氏は、『批判』に見られる情緒論の語彙を拾い出しながら、以上の批判にもかかわらず、そこで「魔術」、あるいはその背景をなす「想像」の契機はけっして手放されておらず、そこにメルロー=ポンティへの応答は見出せないように見える点をまずは明らかにする。だがつづいて澤田氏は、『批判』にはこうした魔術性が解消される場面もまた見いだされることに注意を喚起した。「溶解集団」をめぐる記述がそれであり、そこでサルトルは溶解集団の発生を、それ自体としては魔術的なものを何ら持たない、共同的個人の各人への受肉として提示しているのである。この点を見たうえで澤田氏は、こうした魔術の解消が、(その極限においては虐殺にいたるような)「外部からの」可能的否定を出発点とするとされていることも指摘し、そこに党の大衆指導性を強調する「共産主義者と平和」からの変化、つまりはメルロー=ポンティによる批判への応答を見ることも可能なのではないかと述べた。
 以上の分析を踏まえて、最後に澤田氏は、『一指導者の幼年時代』や『蠅』といった文学作品に目を転じ、そこに見られる自由の突発性あるいは「回心」といった断絶のモチーフが、媒介の契機を重視するメルロー=ポンティにはもっとも縁遠いものであったこと、そしてそこに、今回の提題で分析されたような対立の背景をなす、両思想家の決定的な差異が見いだされるのではないかとの提起を行って発表の結論とした。
 発表後の個別質疑では、澤田氏の着目する「魔術」の語が、「疎外」という文脈を共有しつつも、それぞれの箇所によって微妙に異なった意味を与えられているのではないかという指摘、他方では、「外部の絶対的な他者性」というサルトルの視点が、『存在と無』の「われわれ」の形成をめぐる議論とも通底しており興味深いとのコメント、さらには、サルトルが直接批判に答えたC. ルフォールとの論争を以上の文脈においてどう位置付けるかという質問などが寄せられた。

 最後の角田延之氏の提題は、専門であるフランス革命史の観点から、『批判』における革命史理解の妥当性と現代性とを吟味する論考であった。氏は初めに、近年の革命研究において、『批判』への言及がほとんど見られない点を示した。と同時に、歴史学の立場から『批判』を扱った研究が存在しないわけではない点も指摘し、それらの研究の紹介を行った。第一は、サルトルが同時代の歴史研究者から受けた影響について分析しつつ、彼の考察の現代性を探るマゾリクの論考である。マゾリクは、近年公刊されたサルトルの手稿(「1789年5月-6月」、「〈自由〉-〈平等〉」、「シナリオ『ジョゼフ・ル・ボン』断片」)を中心に検討しつつ、サルトルが同時代のフランス革命研究についてたしかな知識を有していたこと、なかでもG. ルフェーヴルのブルジョワ革命論にもっとも影響を受けたと見られる点を指摘している。第二は、「方法の問題」(1957)と『批判』におけるゲラン批判、および両者の論争を取り扱うデュカンジュの研究である。それによれば、サルトルは、恐怖政治に関するゲランの考察の影響を受けているものの、これを還元主義的であるとして批判的に扱っている。また両者の論争は、そもそもの問題意識の違い(マルクス主義の方法/恐怖政治の問題)からすれ違いの様相を呈している。最後に、ヴァニシュのセミナー記録においては、ムーニエを同時に自由でありかつ歴史的な主体として提示するサルトルの分析が評価されるとともに、サルトルの考察を、「アラブの春」といった当時の情勢分析に役立てることができるという結論が導かれているとのことである。
 角田氏は、以上の先行研究において、革命研究におけるサルトルの分析の有用性が必ずしも正面からは問われていないことを指摘し、「方法の問題」および『批判』におけるフランス革命分析の妥当性について、直接検討することを試みた。角田氏は、サルトルによるゲラン批判(革命戦争は、当時の経済状況には還元されない)にあらためて立ち返るとともに、現在の革命研究においては、経済的利害を代表する人物が実在したことも一方では明らかにされていることを指摘した。また、「ジロンド派」の定義、およびその存在そのものに関する歴史家の論争が起こったことに触れ、ジロンド派をプチブル階級の観点から語ろうとするサルトルの叙述に対する一定の懸念を示した。さらに、サルトルがルフェーヴルの解釈に依拠しつつ、他方でジロンド派と連邦主義者を同一視しているように見えることには、ルフェーヴルが両者を区別していたことを考え合わせるならば、若干の疑義があるとした。このようにサルトルの革命理解にいくつかの留保を加えつつも、角田氏は、革命期の民衆の心性に「保守性」を見出すサルトルの見解は、すでに農民の保守性を指摘していたルフェーヴルの立場と通じるものであるだけでなく、今日の革命研究から見ても、斬新とも言える視点を含んでいる点を指摘した。連邦主義者の反乱を直接民主主義によって説明する研究があり、それによれば、じっさい、反乱において要求された直接民主主義的「自治」は保守性によって特徴づけられるとされているのだと角田氏は言う。そして角田氏はさらに、この保守性の論点を、愛国主義とジャコバン主義を「反政治」の観点から説明しようとする研究と接続することも可能であるかもしれないとの展望を示すことで、提題の締めくくりとした。
個別質疑では、ルフェーヴルによる四つの革命論(貴族/ブルジョワ/民衆/農民)との関連をどのように考えるか、また、『批判』がフランス革命を主要な分析対象の一つとしていることの妥当性について、歴史学の立場からどう考えるか、といった質問が出た。

 個別提題に続く全体討議では、個別質疑で寄せられた質問に加え、三氏の発表を踏まえた質疑応答と議論が行われた。討議の要点は、おおむねつぎのようなものであった。[稀少性概念の位置づけ]。マルクスにおいては主題化されなかったこの概念が、なぜ『批判』の出発点に置かれたのかという点が問題とされた。それに対し、何よりも論理的要請によるものであろうとの意見も出されたが、最終的には、「稀少性」の位置づけを確定するには、『批判』の錯綜した記述のより踏み込んだ解釈が必要になるだろうとの点が確かめられるにとどまった。[メルロー=ポンティとの関係]サルトル自身の問題意識によって書かれた『批判』が、メルローポンティの批判に対する回答(の不在)であったと考える必要はそもそもないのではないかとの指摘がなされた。その一方で、追悼文「メルロー=ポンティ」第一稿から伺われるように、サルトルがメルロー=ポンティの立場を深く意識していたこともまた事実であろうという意見も出された。両者においては、フッサール受容に関して決定的差異(前期/後期)があるという点も、あらためて確認された。/[階級存在の概念について]「自らを組織する(ça s’organise)」といった表現に見られるように、「階級」が所与ではなく、あくまで主体的「自発性」によって説明される点に、客観主義的な傾向を残すルカーチといった思想家とは異なる、サルトルの独自性があるとの指摘がなされた。と同時に、この自発性が、「自然発生性」と同一視されるわけではない点が興味深いとの見解も示された。/[『批判』と歴史学との関係]『批判』を歴史書として読むことをどのように考えるかという問題が提起され、それが可能であるにもかかわらず、歴史学の領域において、『批判』が過小評価されているかもしれないといった意見が出された。

 以上、提題は三者三様であったが、その後の討議において、「稀少性」の位置づけや歴史学との関係といった、『批判』の本質に関わる論点が浮かび上がってきた点が、たいへん印象的であった。各発表者の独自な視点と、聴衆の質疑とがしっかり噛み合った、まことに意義深いワークショップであったと言えよう。(文責:根木昭英)

サルトル関連文献
・フィリップ・フォレスト「文学は(いまなお)何ができるか──サルトルの五〇年後に」、澤田直訳、『すばる』2016年1月号
・森功次「「サルトルの芸術作品とは非現実的な存在である」という主張をどのように受け止めるべきか」、小熊正久・清塚邦彦編著『画像と知覚の哲学――現象学と分析哲学からの接近』東信堂、2015年12月

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ワークショップ題目

直前になってしまいましたが、12月5日ワークショップの題目をお知らせします。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」 日時:2015年12月5日(土) 場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   受付開始:13:30
   開始:14:00

司会:
北見 秀司(津田塾大学)

発表者:
澤田 哲生(富山大学)
 「自由と眩暈 『弁証法の冒険』から『弁証法的理性批判』へ」

角田 延之(愛知県立芸術大学ほか(非))
 「サルトルとフランス革命-近年の革命史研究からの考察-」

竹本 研史(南山大学ほか(非)、本学会会員)
 「関係性としての「環境」――『弁証法的理性批判』を内側から切り開く」

懇親会:18:30

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日本サルトル学会会報第45号 [会報]

次回例会のお知らせ
第36回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。次回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」 日時:2015年12月5日(土) 場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   受付開始:13:30
   開始:14:00

オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師)
登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
司会:北見秀司(津田塾大学)

懇親会:18:30

※各発表者の発表タイトル等の詳細は、学会のブログで告知する予定です。
本会は非会員の方の聴講を歓迎いたします。事前の申込等は一切不要です。当日会場へお越しください。聴講は無料です。

研究例会報告
第35回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は『サルトル読本』の刊行記念として合評会を兼ねたシンポジウムとして開催されました。
日時:2015年7月18日(土) 10:00~18:15
会場:立教大学キャンパス7号館7301教室
第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』第I部、VI部)
第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)
第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV,V部)
総会 18 :00~18:15
懇親会 19:00

第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00
登壇者:永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直(『サルトル読本』第I部、VI部執筆者)
   特定質問者:関大聡
   司会:森功次

第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30
登壇者:谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次(『サルトル読本』第II部、III部執筆者)
特定質問者:赤阪辰太郎
司会:永野潤

第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00
登壇者:加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人(『サルトル読本』第IV部、V部執筆者)
特定質問者:栗脇永翔
司会:澤田直

以下、各特定質問者による報告文を掲載します。

第1部 サルトルの全体像
シンポジウムの第一部「サルトルの全体像」では、『サルトル読本』の主に第I部(「サルトルの可能性をめぐって」)と第VI部(「作家サルトル──文学論・芸術論」)の論考を中心に議論が行われた。各部で問題になっているのは、大まかに言って、一つの時代を代表した知識人としてのサルトルと、作家・芸術家としてのサルトルであり、石崎晴己氏も述べているように、両者の結び付きは不可分なものである(自己という独自な存在を通じて普遍的なものを描くことを職分とする作家は、「本質的に」知識人である)。戦後世界を席巻した「サルトル現象」もこの知的覇権の産物であるが、知の細分化が進む今日では、それと同じ規模での成功を望むことは難しい、また逆に言えば、サルトルの成功も時代的要請の後押しがなければ考えられなかったはずである。
しかしだからと言って、サルトルの全体的参加の在りようが意義を失うということはない。むしろ、知識人が来るべき普遍性としての「我々」の姿を模索することを自らの使命としていたとするならば、知が細分化したと同時に広く普及したがゆえに誰もが知の担い手になりうるようになった今日においても、独自性を見失わぬままに普遍的なものを考えるという課題は一人ひとりにそのまま残されているのではないか。そしてサルトルを読むことはこうした問いについて――もちろんそこに収まりきらない様々に新鮮な発見とあわせて――今日の読者たちにも多くの示唆を与えうるはずである。このような確信を、登壇された先生方と、若輩ながら質問者も共有できるものと考えており、先達を仰ぐつもりで、今日サルトルを読むことの可能性について質問させていただいた。
まず澤田直氏が、ヨーロッパの知識人モデルには宗教的起源、すなわち神なき世俗社会において人々を結び合わせる役割が要請されていたことを指摘し、質問者の問いの全体像に明快な見取り図を与えてくれた。この近代的文脈のなかでのサルトルの立ち位置を正確に把握しながら、同時にアクチュアルな問題に直面する現代の読者としてそのテクストを読むためにはどうすればよいのか。この問いに関して、論文「小説家サルトル」のなかで論じられていた「廃墟」という概念が再説された。第二次世界大戦の最中で予期しえない出来事の連鎖に翻弄されながら苦闘する『自由への道』の登場人物たちを待ち構えているものを、後世の読者である私たちは既に知ってしまっており、そこに必然的な破局を重ね見ざるをえない。しかしそこに見出されているのは、歴史の進行に対して盲目な私たち自身の命運でもあり、その意味で、「廃墟として読む」という行為は、審美主義的な読書ではありえず、現代に刺激を与えうるものであることが強調された。こうした読み方を、『自由への道』だけでなくサルトルとその作品全体に適用することは、極めて魅力的なものと思われる。
永野潤氏の論文「サルトルの知識人論と日本社会」は、しばしば「既に乗り越えられた」ものとして論じられる「サルトル的知識人」というラベリングの不適切さを、サルトル自身の知識人論でもって反駁し、実践において本当の意味でサルトルを「乗り越える」ことこそが必要だと指摘したものである。質問者からは、実践におけるサルトルの乗り越えとは正確に言ってどのような事態を意味しているのか、どのような実践がそれを可能にするのか、について問いを投げかけた。これについては、学術的舞台と街頭でのデモを分けるような外挿的区別に甘んじることなく、各人が自らの持ち場での実践のかたちを発見することが重要であるという応答を得た。また、本論では「古典的知識人」と「新しい知識人」というサルトルの区別が紹介され、後者の例として、工場労働者とともにあることで、自己批判を通じて「知識人としての自己を抹消」する青年が挙げられているが、それは今日でも有効なモデルたりうるのかという点についての議論がなされ、現代の政治参加の問題にも接続してゆくなど、刺激的な展開があった。
翠川博之氏の論文(「サルトルの演劇理論」)は、「距離」とそれによって可能になる「参加」の概念を中心に、一般にはあまり知られていないサルトルの演劇理論に焦点をあてたものである。細かい点では、論文の中で触れられている「神話演劇」というコンセプトの重要性について問いを投げかけた。それは三単一の規則や様式的側面に関するだけではなく、神話的精神のなかでの「我々」の創造という意味をも担うものではないか、という問いかけに対して、一面では確かに宗教儀式的側面が認められるとして、『蠅』のある場面が黒人の霊的熱狂を意識しているという挿話が挙がった(ここから『弁証法的理性批判』における溶解集団についての議論と結ぶこともできよう)。また、サルトルとブレヒトの演劇観の相違が問われたときには、ブレヒトともジャン・ジュネとも異なるものとしてサルトルは自らの演劇/演劇論を構築しているという応答があり、こうした演劇理論からサルトル自身の劇作を再検討する作業はますます必要であるように思われる。会場からも、近年再び上演機会を得つつあるサルトル劇の作劇法についての意見が求められ、やはり演劇理論との照合を行う必要があるのではないかと述べられていた。
永井敦子氏の「サルトルの美術論の射程」は、共産党との関係のような社会的・政治的コンテクストやシュルレアリスム美術との両義的関係を意識しつつ、サルトルの美術論を扱ったものである。質問は、永井氏が論じている芸術鑑賞における「我々」の体験の位相において、サルトルがしばしば超越的な意味を有する語や宗教的な語彙・比喩を用いているという事実は、シュルレアリストたちが聖なるものに依拠したのと同じ系統の関心を見ることができるのではないか、というものであった。これについては、シュルレアリストの神話への関心やマルローの芸術論に触れつつ、神の不在以後というパラダイムが西欧の美術批評においても影響を及ぼしていることについての解説がなされた。また、「我々」という普遍的な語が美術鑑賞のパンフレットに用いられているときには、それが読者として想定しうる「我々」が、あくまで展覧会や個展という小規模システムに参加する、一部特権的な層であることにも改めて注意が促された。
同時に、本論からは少し脱線するかたちで永井氏が述べられたのは、この「我々」の様々な形態を考えるとき、『恭しき娼婦』と『水いらず』に現れてくる、「みなしご」としての私たち、という経験が注目に値するのではないか、ということである。父=神を持たない切り離された個でありながら、他者と出会い、我々を育むということへのサルトルの関心がここに見られるのではないか。この指摘に対しては、翠川氏も同じ関心を表明され、サルトルのような知識人は人間の問題を一緒くたに論じてしまうというスピヴァクの批判に対して、孤児として出会うという思考がサルトルには秘められているのではないかと述べられた。
黒川氏の論文「『家の馬鹿息子』の「真実の小説」という問題」は、フローベール論で用いられている前進的・遡行的方法という分析・叙述法を、小説における語りの問題に対するサルトルの批判的関心に引き付け論じたものである。結論として氏は同書の語りの方法を(批判的)小説のそれであると述べる。しかしその場合、伝記というジャンルと小説というジャンルの違いをどのように考えるべきなのか。この問いに対しては、伝記一般と小説の関係というよりは、文学者の伝記と小説の関係として考えるとき、一方では文学テクストの読解において遡行的分析が行われ、他方で作家の伝記的生について時間軸に沿った前進的分析を行うときに物語るという要素が不可避に浮上することが重要であるという応答があった。この物語るという問題について、『家の馬鹿息子』はその不可能性を提示しているのだと黒川氏は述べられ、それがどのような理路から論証されるのかという点については会場とのあいだでも活発な議論がなされたが、これはいまだに邦訳が完結したわけではない同書に対する関心の高さを裏打ちするものでもあろう。
こうしてまとめてみるとき、個々の論文はそれ自体で極めて密度の高いものでありながら、論文相互のあいだにも深い連関が存在しており、シンポジウムを通してその点が浮かび上がってきたのではないかと思う。そのダイナミズムを暗示的な仕方以上に書き留められた自信は報告者にはないが、普段は別々に研究を行っている者同士が意見を交わしあうという貴重な場がさらに開かれたものとなり、多くの関心を惹くものになるために、この報告文が貢献できることを期待したいと思う。
(関大聡・東京大学)

第2部「サルトルの哲学」
第2部「サルトルの哲学」では、『サルトル読本』第Ⅱ部「サルトル解釈の現状」、第Ⅲ部「サルトルの問題構成」の執筆者から、谷口佳津宏氏(「サルトルの栄光と不幸――『存在と無』をめぐって」)、清眞人氏(「媒介者としての『倫理学ノート』」)、水野浩二氏(「倫理と歴史の弁証法――「第二の倫理学」をめぐって」)、森功次氏(「芸術は道徳に寄与するのか――中期サルトルにおける芸術論と道徳論との関係」)、竹本研史氏(「サルトルの「応答」――『弁証法的理性批判』における「集団」と「第三者」」)、生方淳子氏(「エピステモロジーとしてのサルトル哲学──『弁証法的理性批判』に潜むもうひとつの次元」)が登壇された。
登壇者による論文の趣旨説明の後、特定質問者は各論文について次のような質問を行い、執筆者がこれに応答した。以下、主要なもののみを簡潔に紹介する。
谷口氏の論考についてなされたのは、『存在と無』の哲学者たちによる受容と、哲学史的な評価についての質問であった。谷口氏の論考で詳論されるように、『存在と無』は発表当初よりいくつかの仕方でやや偏向した解釈がなされてきた。そこで谷口氏が提案するのは、従来の解釈を批判的に分析しながら、こうした評価に左右されずにテクストを読み解く態度である。これをうけて質問者は、純粋なテクストとしての『存在と無』を読みとくと同時に、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、デリダらの哲学者の思想形成期におけるサルトル受容を考慮に入れつつ、サルトル以後の哲学者たちへの影響という観点から『存在と無』の哲学史的再評価が可能ではないかと問うた。これについて谷口氏は、『存在と無』が与えた影響をテクスト上で跡づけることには慎重を要すると指摘された上で、哲学者たちへの影響が『存在と無』から発するものであるのか、あるいはいわゆる時代の寵児としての〈哲学者サルトル〉像についてのものか見極める必要があると述べられた。サルトルと哲学者との関係については第3部のセッションに引き継がれ、継続して議論された。
清氏の論考についてなされた質問は、サルトル特有の「回心」のプログラムにとって他者(Autre)と他人(autrui)がどのように関わるかを問うものであった。これについて清氏は、ある時期のサルトルにとって、他者とは自己の内に見られる他なるものを意味し、いわばそれが理想的な自己として考えられるのだ、と自身の考えを述べられた。さらに、この理想的自己は到達不可能なものであるため、その追求の試みは挫折する。そして、自己による自己の追求というナルシシスム的回路を断ち切り、回心へ導くのが他人たちである。
水野氏の論考は主にサルトルの1960年代の倫理学を扱ったものであった。質問者は、そこで語られる、ある種の限界状況における倫理的判断が新しい倫理を創出するという事例の含意について質問した。これについて水野氏は、この時期のサルトルの倫理とは、一定期間有効な、人々の生きづらさに対する抗議としての側面をもつものであり、修正と惰性化を繰り返してゆくものであると述べられた。また、状況に即した創出という側面をもつ判断が〈倫理〉と呼ばれる基準については、全体的人間という理念や、人間以下の人間であることへの抵抗という点が一定の基準を作っていると指摘された。規範と齟齬をきたす価値判断が倫理的と呼ばれるための基準をめぐっては、フロアから『倫理学ノート』を中心とする「第一の倫理学」の時期との相違が指摘されたように、サルトル自身の思想の変遷に即して今後も研究が続けられることが期待される。
森氏の論文について、質問者は中期思想における「事物化」の意味について質問した。森氏の論考で示されるように、『倫理学ノート』の時期のサルトルは他者との交渉に際して自己事物化の契機を積極的に語る。事物化は、バスに飛び乗る人に向けて自ら手を差し出す、という日常的な場面から、芸術作品の創造にいたるまで広く認められるものだが、この事物化に際して自由の承認がどのように行われるのか、またその自由とはどのようなものかを問うた。これについて森氏は、作家が何のために書くのか、という観点から回答された。事物化されたもののなかに見いだされる自由とは、人間存在のもつ案出能力や、独自性の発露と関わっている。事物の看取は意識の自由や意志の自由の承認につながるわけではないが、事物を差し出す者を、行為や作品を通じて承認する。
竹本氏の論考は『弁証法的理性批判』における集団形成論をメルロ=ポンティによるサルトル批判「サルトルとウルトラボルシェヴィスム」への応答という観点から読みとくものであった。質問は、メルロ=ポンティのサルトル批判のなかで竹本氏が論考において言及しなかったものについての意見を求めるものであった。質問について竹本氏は、サルトルの保持する、社会性を眼差しという観点から捉える点、行為における目的を理論に取り入れる点などについては今後も検討が必要であると述べられた。また、サルトルの論述が非歴史的であるというメルロ=ポンティからの批判については、サルトルによるカミュ批判に言及しながら、サルトルが常に歴史のなかで、状況に向けて書いてきた、という点が強調された。
生方氏の論考については、生方氏の提唱されるサルトル的エピステモロジーを遂行する者にとって、専門性ないし職能がどのような役割をもつかが問われた。これについて生方氏はまず、現代において社会は一つのディシプリンから見通すことができないほど複雑なものとなっており、単一の専門分野によって可知性に到達することがますます困難となっていることを指摘された。こうした現状認識のもとで、特権化されない、誰でもない者としての複数的な主体が、全体化する者なき全体化を行う、というビジョンに仮託して、ありうべきサルトル的エピステモロジーの姿を提示された。
登壇者諸氏のいずれの論考も現状におけるサルトル哲学研究の水準の高さを示すものであり、また議論を通じて、今後、継続的に追究されるべき論点が明らかとなった。その意味で、実りの多いセッションとなったのではないかと思われる。最後に、研究歴の短い若輩者による不慣れな質問に対し、真摯に回答してくださった先生方にお礼申し上げます。(赤阪辰太郎・大阪大学)

第3部「サルトルと哲学者たち」
 「現代思想」とサルトルの関係が取り上げられるようになってからすでに久しい。デリダとサルトル、バルトとサルトル、ドゥルーズとサルトル…。「研究」という観点からすれば、この分野に関しては、日本国内でも海外でも、すでに一定の成果が上がっているというのが現状であろう。『サルトル読本』Ⅳ部・Ⅴ部に投稿された各論文も概ねこうした文脈の中での成果として捉えることが出来るように思われる。シンポジウム第3部は必然的に(ゴルツを取り上げた鈴木正道氏を除けば)「サルトル研究者」ではない研究者に質問を投げかけることになった。紙幅が限られているため質疑応答の全容を記載することは出来ないが、以下、報告者が投げかけた質問を中心に会の様子を書き留めることにしたい。
 まず、サルトルとメルロ=ポンティの身体論を比較された加國尚志氏には、サルトルにおける「傷つけられ得る身体(corps qui peut être blessé)」とでも呼ぶべき主題に関する質問と、メルロ=ポンティの「蝶番(charnière)」やサルトルの「回転装置(tourniquet)」等、二項対立を攪乱させる概念装置の思想史的意味に関する質問を投げかけた。加國氏からの応答では、両哲学者における文学の影響や20世紀のフランス哲学におけるヘーゲル主義の受容に関していくつかの論点が指摘された。
鈴木正道氏の論考はサルトルに影響を受けたアンドレ・ゴルツの思想を手掛かりに実存主義と「(反資本主義としての)エコロジー」の関係を問うものであった。日本国内でゴルツに関する研究は少なく、貴重な研究であると考えられるが、シンポジウムではあえて、ゴルツを含む20世紀の様々な分野の思想家――たとえば「アフォーダンス理論」のギブソン等も思い浮かぶ――が「エコロジー」というキーワードをもとに、独自の理論を構築したことの思想史的意味について質問を投げかけた。鈴木氏からは、日本語に輸入されるとどうしても環境保護の理念やその運動に結び付けて理解されがちなこの語が西欧語では「エコノミー」等とも語源的に近い意味の広がりを持つことが指摘された他、20世紀に注目が集まったこの問題が決して過去のものではなく、現在も継続中の困難な問題であることが強調された。
論文を投稿されていない松葉祥一氏からは、現在翻訳中のランシエールの著作におけるサルトルの知識人論の批判的扱いに関して紹介がなされ、報告者からは、(松葉氏のこれまでの仕事を鑑み)ふたりのポストモダニスト――クリステヴァとリオタール――とサルトルの関係に関する質問を投げかけた。クリステヴァの著作のタイトルを念頭に置くならば、サルトルは「女性の天才(génie féminin)」に影響を与えた思想家であったと言えるかもしれない。生涯の伴侶・ボーヴォワールは言うまでもなく、ジュディス・バトラーがその初期の仕事でしばしばサルトルに言及していることも広く知られている。60年代~70年代にかけての言語学的・記号分析的な仕事からはやや意外な印象を与えるかもしれないが、クリステヴァ自身、90年代にいくつかのテクストで明示的にサルトルに言及している。それに対し、もう一人のポストモダニスト・リオタールはサルトル同様に幅広い仕事を展開しながらも、いずれの文脈においても、サルトルに対して冷やかであるように感じられる。これらふたりの思想家とサルトルの関係をいま、いかに考えることが出来るだろうか? 松葉氏の応答では、小説を書き始めてからのクリステヴァには確かにサルトル(あるいはボーヴォワール)を意識した様子が見られることが確認された一方、そもそもサルトルの論敵であったルフォール等とも近い位置にいたリオタールは、その出自からしても、知識人論などいくつかの文脈で批判こそしているものの、どちらかというとサルトルに対し無視・無関心というような側面の方が強かったのではないかという指摘がなされた。
ルエットやナンシーのテクストを参照しつつ、サルトルとバタイユの近年の比較を問題にされた岩野卓司氏には、両思想家の比較の一例としてイタリアの美学者マリオ・ペルニオーラの『無機的なもののセックスアピール』における両者への言及を参照しつつ、両者の中心概念である「まなざし」あるいは「眼球」に関する質問を投げかけた。岩野氏からはバタイユにおける「眼球」の問題系に関する丁寧な解説をいただいたほか、氏が、現実的な出会いやテクストにおける言及関係等とは別に、今だからこそ見えてくるふたりの思想家の比較の可能性を模索することの重要性――あるいは面白さ――を強調されていたことが印象的であった。
最後に、すでに多くの著作でサルトルとレヴィナスの比較を行っている合田正人氏には、合田氏自身の研究のスタイルの変遷に関する質問に加え、レヴィナスとサルトルを比較する際にしばしば取り上げられる「可傷性/傷つきやすさ(vulnérabilité)」というキーワードに関する質問を投げかけた。合田氏からは、それほど知られていないが重要だと考えている思想家たちに関する興味が近年両者を比較する論考にも深く関わってきていることや、レヴィナスにおけるスピノザの影響の重要性を――レヴィナス自身に反して――感じるようになったことが自身の研究のひとつの転換点であったと返答がなされた。また、vulnérabilitéに関してもひょっとしたらスピノザにヒントがあるのではないかという――ともすれば意外な――応答がなされた。「スピノザであると同時にスタンダールでありたい」という今や伝説的な台詞を解釈する際の導きの糸にもなり得るだろうか。
 特定質問者としては、全体として投稿された論文からやや離れた質問になってしまったことに対する反省がないでもないが、ぎりぎりのところで、報告者自身の研究・関心と関連させながら、サルトルを読むための新しいヒントを引き出すことを試みたつもりである。少なくとも、「サルトル研究」の外部からもたらされる視点が内部のそれとは異なる刺激を持つものであることは改めて確認できたのではなかろうか。個人的には、今後もこうした研究が発表されることを楽しみにしている。
なお、当日欠席された檜垣立哉氏に対して考えていたのは以下のような質問である。ドゥルーズとサルトルに関してもすでにいくつかの論点での比較の蓄積があるが、『アンチ・オイディプス』における『弁証法的理性批判』への言及や、フランシス・ベーコン論の脚注における『家の馬鹿息子』への参照など、あまり考察が深められていない領域もあるように思われる。このあたりに関し、ドゥルーズ研究での動向を聞いてみたかった。あるいは、檜垣氏自身が日本哲学等を論じる際に注目する「偶然(性)」の主題はサルトルにおいてもいくつかの次元で問題になるものであろう。例えば、初期の短編「壁」のラスト・シーン等、賭博の哲学者はいかに解釈するだろうか。機会があれば聞いてみたい。
(栗脇永翔・東京大学)

サルトル関連文献
・ ジャン=ポール・サルトル『主体性とは何か?』澤田直・水野浩二訳、白水社
・ 海老坂武『サルトル『実存主義とは何か』』2015年11月(100分de名著)NHK出版
・ 澤田直「戦争と戦争のあいだ サルトルのアンガジュマン思想」、齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機』講談社選書メチエ
・ 森功次『前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳』東京大学人文社会系研究科・博士論文
・  Gerhard Preyer, Subjektivität als präreflexives Bewusstsein Jean-Paul Sartres „bleibende Einsicht“. Zu Manfred Frank, Präreflexives Selbstbewusstsein. Vier Vorlesungen, Stuttgart: Reclam 2015

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。
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日本サルトル学会会報第44号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°44 mai 2015
日本サルトル学会会報     第44号 2015年 5月

次回研究例会のお知らせ

第35回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。今回は『サルトル読本』http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15069-2.htmlの刊行記念企画として、合評会を兼ねたシンポジウムを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

『サルトル読本』出版記念シンポジウム

日時:2014年7月18日(土)10 :00~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス7号館 7301号教室
池袋キャンパスへのアクセスhttp://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/
キャンパスマップhttp://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/

受付開始 9 :30
第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』I部、VI部)
第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)
第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV部、V部)
総 会 18 :00~18:15
懇親会 19:00

第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00
 登壇予定者: 永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直 (『サルトル読本』I部、VI部執筆者)
   特定質問者: 関大聡
   司 会: 森 功次

第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30
 登壇予定者: 谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次 (『サルトル読本』II部、III部執筆者)
  特定質問者: 赤阪辰太郎
  司会: 永野潤

第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00
 登壇予定者: 加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人、檜垣立哉 (『サルトル読本』IV部、V部執筆者)
  特定質問者: 栗脇永翔
  司会: 澤田直
本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。
当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

お知らせ
・クロード・ランズマン氏が6月に来日されます。広島(22日、国際会議場)、東京(26日、日仏会館、28日、アンスティテュ・フランセ)で講演される予定です。日仏会館の講演の詳細は以下のとおりです。その他の講演の詳細については各会場のHPをご参照ください。
2015年6月26日(金)15 :00-17 :00 日仏会館 1Fホール
講演会「記憶の映画について語る---「ショア」 から「不正義の果て」まで」
講師:クロード・ランズマン(映画監督、作家)【司会】澤田直(立教大学)
主催:(公財)日仏会館、日仏会館フランス事務所

・フィリップ・フォレスト氏(作家、ナント大学教授)が来日し、講演される予定です。
2015年7月9日(木) 18:30~20:00  立教大学池袋キャンパス5210教室
「文学に(いまなお)何ができるか? サルトルの50年後に Que peut (encore) la littérature?: 50 ans après Sartre」

サルトル関連出版物
・アニー・コーエン=ソラル『サルトル伝』(上・下)、石崎晴己訳、藤原書店
・合田正人『フラグメンテ』、法政大学出版局(第五部に「文学的想像力と政治──サルトルと石原慎太郎」という章があります)
・市野川容孝・渋谷望編著『労働と思想』、堀之内出版(永野潤「サルトル──ストライキは無理くない!」)

発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。
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オックスフォード国際シンポジウム「今日、サルトルとともに考える」参加報告(生方淳子) [サルトル関連情報]

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オックスフォード国際シンポジウム「今日、サルトルとともに考える」参加報告
シンポジウム参加報告(pdf)
シンポジウムプログラム(pdf)

 1 月 30 日(金)と 31 日(土)の二日間にわたって、英国オックスフォードの Maison française においてサルトルをめぐる国際シンポジウムが開かれた。日本からの参加者はたった1名であったので、多分に主観、雑感も混じえてだが、以下の通り報告をさせて頂く。

主催:オックスフォード大学ウェイダム・カレッジ、セントクロス・カレッジ、英国サルトル学会など計7つの組織

テーマ:Penser avec Sartre aujourd’hui : De nouvelles approches pour les études sartriennes ?
参加者:一部のみ参加した人も含めて 100 名ほどで、年配の方々から 20 代の人々まで、幅広い世代が集まった。約 40 名の発表者の大多数は英、仏、ベルギーの大学に所属する研究者ないし博士課程の学生だったが、それ以外にもドイツ、イタリア、スイス、アメリカ、カナダ、ブラジル、イスラエルと世界各地から集まっていた。アジアからは唯一、上海の大学の女性研究者が発表をする予定だったが、残念ながらキャンセルとなった。企業に勤務する人も 2 名ほど発表者として名を連ねていた。発表しなかった人の中にも、学生時代に『弁証法的理性批判』を熱心に読んだというスコットランドの老紳士やソウル大学出身で現在オックスフォード大学でフランス思想についての博士論文を執筆中という韓国の女性研究者など、何らかの形でサルトルと関わっている人々の姿があった。

発表:英語ないしフランス語のいずれかで行われ、発表者によっては双方が入り混じった。質疑応答も人により英語またはフランス語でなされ、通訳は特になかった。両日の最初と最後の講演以外は二つの会場で並行して発表がなされたため、すべてを聞くことは叶わず、また英語での発表の理解には限界があったが、自分にとってに面白かった発表をいくつか、理解しえた範囲で簡単に紹介したい。

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クリスティーナ・ハウェルズ(オックスフォード大学) 『美学の倫理学 ― サルトルとアンガージュマンの主体』
「神の死」、「人間の死」、「主体の死」という三つの「有名な死」をめぐってサルトルとデリダが何を語ったかを比較することから始め、それらの概念的な死にも増して考えるべき現実の歴史上の暴力と死があること、サルトルのアンガージュマンは常にこの死と向き合っていたことを確認。その上で政治的・人道的アンガージュマンと「個人独自の大義」のためのそれを区別し、『文学とは何か』における定義にもかかわらず、サルトルが扱った作家たちはみな前者の意味ではなく後者の意味でアンガジェした作家たちであり、そこに独自の意味があると結論付けた。

コリン・パリッシュ(ローザンヌ大学博士課程) 『人間の死をめぐって ― フーコーとの論争』
 1966 年から 68 年にかけて『ラルク』誌、『ラ・キャンゼーヌ・リテレール』誌を舞台にサルトルとフーコーの間で交わされた論争を辿り直し、フーコーの方法論的立場という観点から新たに見直そうとしたもの。サルトル思想を「19 世紀の遺物」と言い切ったフーコーはあえて戦略的な攻撃を選んだと見なされているが、実は、内在性、合理性、歴史性という3つの前提に向けられた認識論的かつ動的な批判を行なっていたのだとする。しかし、それがサルトル研究に何をもたらすかという問いに対しては答は開かれたままであった。

バヤ・メサウディ(パリ第 8 大学博士課程) 『サルトルの眼の中に』
 昨年 12 月に来日したフランソワ・ヌーデルマン氏の下で博士論文を書き終えたアルジェリア出身の女性で、ヌーデルマン氏と同じく「人間と動物との境界線を問い直す」という視点から『ヴェネチア、わが窓から』、『嘔吐』、『自由への道』などにおける水と水生動物の描写を取り上げ、サルトル的イマジネールの変幻自在なありようが語られた。サルトル文学の汲み尽くし難い豊かさを改めて実感させるものだった。

ベネディクト・オードノヒュー(サセックス大学) 『舞台とスクリーンのサルトル』
 映画に魅了されていたサルトルが、『出口なし』、『汚れた手』、『アルトナの幽閉者』などの戯曲の中でいかに映画的手法を用いたか、いかに映画特有の美学がそこに反映しているか、またこれらの作品がいかに映画化しやすく書かれているかを検証した発表。特にサスペンスやフラッシュバックの手法の多用などについて、興味深い指摘が多かった。「常に成功しているとは限らないが革新的な意味があった」と締めくくった。

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ジュリエット・シモン(ブリュッセル自由大学) 『カントとサルトルにおける道徳的命令』
 「虚言」という問題を中心に①『実存主義とは何か』、②『道徳論ノート』、そして③文学作品という三つの方向からサルトルの道徳論を検討。まず、①の大戦直後の講演にいかにカント的な道徳的命題が潜んでいるか、にもかかわらずどのようなカント批判がなされているかが示され、続いて②のもはや明確な「敵」がいなくなった時代においていかに道徳の模索が困難になったかについて考察がなされ、最後に③『壁』、『汚れた手』、『墓場なき死者』において「虚言」がどのように用いられているかを例証しながら、三作品に共通する場違いな笑いが道徳的不安の演劇的表現であることを説いた。

ジョン・ギレスピー(アルスター大学) 『サルトルと神の死』
 19 世紀にニーチェによって語られた『神の死』がすでに終わった物語では決してなく、現代の西洋人はいまだその陰の中に生きており、サルトルの「無神論」はまさに 20 世紀ヨーロッパが信仰の誘惑と闘い続けていたことを証言するものだったとする。『存在と無』、『蠅』、バタイユ論、『道徳論ノート』、『悪魔と神』そしてマラルメ論を参照しつつ、サルトルは「神の死」という概念を時代の分析道具として用い、人間が神なき時代をいかに苦悩しながら生きたかを示した、20 世紀における「神なき人間の悲惨」を証言した、と主張。北アイルランドに身を置く人ならではの現実を背景とした重い説得力があった。

アレクシ・シャボ(パリ第 1 大学) 『過酷な無神論』
 現代世界において改めて宗教、反宗教、原理主義が深刻な問題を招いていることを踏まえ、サルトルが生涯かけて追い続けた神との決別というテーマを検討。ジョン・ギレスピー同様に、サルトルの無神論は軽やかな神の忘却ではなく、神を払い除けようとする過酷な闘いの形跡であるとの見解を披露。『一指導者の幼年時代』、『蠅』、『言葉』、『家の馬鹿息子』を取り上げ、それらのテクストにキリスト教的な“chute” の概念やキリスト教神学の代替物としての「絶対」の概念、神を失うことに恐怖を覚える人物たちの描写等々が闘いの形跡として多々残されていることを示した。

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ジャン=フランソワ・ルエット(パリ第 4 大学) 『猶予 ― 歴史小説とマスコミ報道の間で』
 『自由への道』第二部『猶予』を「マスコミ的理性批判」という観点から読み直す、と独特のユーモアをにじませた口調で、この小説に登場する当時の新聞、ラジオなどマスコミの状況と社会へのその浸透具合を実証的に精査した結果を紹介。それを踏まえて、登場人物らがどのようにマスコミ報道とかかわり、どのように受けとめているかを具体的に示した。また大戦前夜のヨーロッパの状況を伝えるアメリカ人ジャーナリストをどう描いているか、そこにジャーナリズム言語のパスティッシュがどう盛り込まれているかなどを滔々と語り、聴衆を最後まで惹きつけていた。

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雑感:フランス語圏以外の国々におけるサルトル研究の近況や研究者同士の交流については、なかなか知る機会がなかったが、今回のシンポジウムに参加したことで、フランスに劣らず活発なその状況を垣間見ることができた。多くの国でサルトル研究が大学という場に浸透し、アカデミックな研究の対象になっていることが伺われた。取り上げられたテーマやアプローチは多岐にわたったが、質的には率直なところ玉石混淆で、息を呑むほど面白いものもあれば得るところの少ないものもあった。しかし、いずれにしてもサルトル研究の現状を知る上で貴重な情報だった。
 他方、シンポジウム全体のテーマに「今日」という言葉が入っていたことから、サルトルと共に現代の問題を考える熱い議論が繰り広げられるのではないか、テロ、イスラム原理主義、反イスラムに揺れるヨーロッパを意識した発言が聞かれるのではないかと期待していたが、残念ながら拝聴した範囲ではごく僅かに遠慮がちな言及があったのみだった。サルトルの概念や理念を用いて現代世界の貧困と暴力の問題や「表現の自由」や 21 世紀の資本主義と格差の問題等々を根底から論ずることもできたはずだが、そのような盛り上がりには程遠く、慎重で手堅いアカデミズムの枠を超え得なかった感がある。
 とは言え、今回は発表者にも聴衆にも 20 代と思われる人が多く、サルトルが新しい世代の関心を惹き、より愛着を持って読まれていることを実感できた。博士論文準備中の院生たちの発表は、たしかに概して未整理で抽象的で生硬であったが、5 年後、10 年後にこうした人たちの中から本格的な優れた研究が現れることを期待したい。
 二日間の日程の最後には、ウェイダム・カレッジでイギリス恒例の Port and Cheese と呼ばれる打ち上げがあり、友好的で賑やかな歓談のもとに会は幕を閉じた。 主催者から、もっと日本からも参加してほしかったとのコメントがあったことも付け加えておこう。
  (国士舘大学 生方淳子)
Affiche Colloque Oxford.jpeg
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日本サルトル学会会報第43号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°43 février 2015

日本サルトル学会会報              第43号 2015年 2月

研究例会報告

第34回研究例会が脱構築研究会との共同で、以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時:2014年12月6日(土) 13:00~18:00
会場:立教大学キャンパス5号館5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

 ヌーデルマン氏は、フランスではあいかわらずデリダ世代の思想とサルトル思想の間には断絶が色濃く残っており、今回のような試み、すなわちサルトル×デリダを学術的に対峙させようという試みは想像すらできない状態だというコメントから始めた。この機会に、デリダとサルトルを動物という切り口から語ることができるのは日本という場所のお陰であるという氏の前口上は、多少のリップサービスはあるとしても、偽らざる気持ちであろう。
 晩年に動物の主題をきわめて重要な問題として論じたデリダとは異なり、一般にサルトルは動物にほとんど関心がなかったと思われているが、ヌーデルマン氏は、『倫理学ノート』や『家の馬鹿息子』に潜む犬の姿を焙り出しながら、まずは聴衆を驚かせた。両者に共通する「まなざし」というきわめてサルトル的な主題から、さらに考察を続けつつ、一見すると、猫に見られる自分を語るデリダは動物と親密的であり、他方、飼い主に向けられた犬の視線によって偽りの主観性を語るサルトルは動物に対して疎遠な思想家のようにも見えるが、はたしてそうであろうか、と氏は問い、両者のテクストをつぶさに検討すれば、じつはサルトルもまた旧来の人間と動物の区別という形而上学を別の角度から崩していることが見てとれると指摘する。たしかに、人間以外のものを排除するanimalという語をanimotsという語に置き換えたデリダが、より明示的に、この区別の意味を問い直していることは確かだとしても、『家の馬鹿息子』で、犬の倦怠について語るとき、サルトルもまたきわめてラディカルな仕方で、人間/動物という区別に疑問を突きつけているというのだ。
 このように人間/動物の形而上学的境界がぼやけてくれば、必然的に人間が動物との関係でもつ倫理的/政治的な問題が問われざるをえなくなるだろう、とヌーデルマン氏は述べた上で、とはいえ、フランスにおいては、70年代から動物の権利が顕在化したアングロサクソン系の思想と比べると、必ずしも倫理・政治的なアプローチとはならず、サルトルもデリダもその例外ではないとする。それでもサルトルがすでに47年執筆の『真理と実存』において、ステーキと屠殺の問題に触れていたことは特筆すべきことだと述べた。いずれにせよ、デリダもサルトルも菜食主義者にまではならなかった、というユーモアに溢れた指摘で氏は発表を締めくくった。
 質疑の際に、デリダを語るのに、主体といった従来の哲学的語彙を用いるのは不適切ではないか、という質問もあったが、ヌーデルマン氏は、デリダを語るからといって、デリダ派的な語法にこだわる必要はなく、むしろより広い文脈からアプローチすることが重要であると説いたのが印象的であった。(澤田直)

第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

 本ワークショップ「サルトル×デリダ」は、サルトル学会の二名と脱構築研究会の二名の発表で進められた。
 はじめに西山雄二氏による発表が行われたが、デリダのサルトルへの言及を準網羅的に汲み上げるものとして幕開けに相応しいものであった。改めて驚かされるのは、あまり強調されていないながらもデリダが青年期以来サルトルに対して一貫した言及を続けているという事実である。その関係には「ある種の距離」が留保されてはいるものの、ユダヤ性、現象学、人間主義とハイデガー、文学とアンガジュマン等、両者の関心がつねに近傍をなぞっており、単に「乗り越えられたもの」としてサルトルのデリダへの影響を斥けるにはあまりに惜しい。とりわけ69年の『嘔吐』に関する講演は「私の講演の中で一度も出版しようと思わなかった唯一のもの」として今日に至るまで公開されていないが、この拒絶の身振りにこそ注目する必要があるだろう。発表後半ではエドワード・ベアリングのThe Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968 (Cambridge University Press, 2011)という最新の研究に即して、青年期のデリダを「ポスト実存主義者」と捉える試みがなされた。教師からたしなめられるほどサルトルに傾倒していたデリダが、それでも彼と分かたれていたのは、キリスト教実存主義というもう一つの軸によるものだという。まだ参照できないテクストも多いが、両者の関係を執念深く問うてゆくことは、戦後フランスの知的動向の見方をも変革しうるきわめて意義の高い試みだと確信できる発表であった。
 『サルトルとマルクス』(春風社、2010-2011年)でサルトルにおける「ポスト脱構築的なもの」に注目していた北見秀司氏の発表は、繊細な議論としては同書を参照されたいが、脱構築への「挑戦状」といった趣があり、固唾を飲んでその展開を見守った。北見氏はまず、サルトルとマルクスの論における非現前的なものとしての他者性を指摘する。サルトルにとっては対他存在と言語の規定によって、マルクスにとっては市場の交換価値に由来して、<他者>=「疎遠な力」が社会関係において支配的なものとなる。これを否定するのがコミュニズムの理念であったわけだが、『マルクスの亡霊』のデリダはこれを他者性を否定する「脱構築以前」的なものと見做す。しかし北見氏によれば、「疎遠な力」とは他者性そのものではなく、それが乗り越えられることで初めて個々の他者の自由と特異性を肯定しうるものである。逆にデリダは、他者の非現前的な現前性を擁護するにしても、それと複数の具体的な他者を区別・記述できるのか。これが北見氏の問いかけであり、「来るべき民主主義」をさらに推進するために有効な議論として『弁証法的理性批判』の<同等者>概念が提示された。全体討論では藤本氏から、脱構築だけでは不十分だということはデリダも述べており、「ポスト脱構築」は双方に共通する課題であることが示された。「挑戦状」は友愛的な雰囲気に雪崩れていったわけだが、さらに議論を尽したいという欲望も残る。たとえば北見氏は前著に引き続き『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(共著、作品社、2014年)でもフランスの社会運動ATTACに関心を示されているが、デリダも晩年に同団体の動きに「新しいインターナショナル」の可能性を見ていた。両者の理論が実践運動と取り結ぶ関係の検討を通じて、その有効性を問うことも期待できそうである。
 藤本一勇氏の発表は表題の示すとおり両者における視覚の問題を取り上げたものである。まず、サルトルにおける対自と即自の関係が視覚的な構成を伴うものであることが指摘される。対自同士の関係も同じ構成において把握されるのだが、ここで藤本氏は「遠隔操作性」という概念を導入し、視覚が「触れずに触れる」幻想を与えるものだと論じたうえで、眼差し論における「石化」をそこに位置付ける。対自の石化はこうした対象操作の位相で捉えられるのか、その是非は全体討論の議題の一つとなったが、視覚の問いが隣接する様々な諸感覚と響きあい、出席者もそれに引き込まれてゆくという意味で、まさしく「触発」的な問いとなったように思う。一方、現前の形而上学の批判者であるデリダにとって視覚的現前性は痕跡に向けた絶えざるずらしの対象となる。眼が描き出す線traitは退引/引き直しretraitによって立体化され、そのretraitの痕跡として他者との出会いがある。また石のテーマが「墓石」のそれとして変奏されることも興味深い。そして、ある種連想的な議論の流れのなかで一貫していたのは「視覚と他者」への関心であるだろう。最後にふたたびサルトルの他者論に立ち返った藤本氏は、サルトルにおける対他関係の葛藤について、まず自己の自由があって次いで他者の自由があり両者が葛藤する、というのではなく、まず他者性との視覚的・トラウマ的な出会いがあり、それが反照的に自己の自由の意識を芽生えさせるのではないか、と提起することで発表を結ばれた。討論ではこの提起がサルトルについての読解なのかそれとも藤本氏自身の立場なのかが問われたほか、遠隔操作性と窃視との関係が取り沙汰されるなど、活発な議論が展開されたことを報告しておく。
 最後に澤田直氏の発表では、デリダとサルトルによるフランシス・ポンジュ論(『シニェポンジュ』と『シチュアシオンⅠ』所収の「人と物」)が検討された。二つのテクストは両者の哲学観・文学観を露わにしている。サルトルが非人間的な物(事象)そのものに接近するポンジュを「自然の現象学」者として評価すれば、デリダは署名、法、固有性=清潔さといった観点からアプローチする。一見したところ交差するところのない両者の議論に、澤田氏は細やかな読解を行うことで争点を探ってゆく。たとえば「命名」への関心は彼らに共通するものに見える。しかし、ポンジュ自身が名付けを通じての「物の本性について」の探究に意欲的であり、サルトルもそれを現象学的観点から受け入れているのに対して、デリダは、問題は事物の本性ではなく、他者としての事物が我々に命ずる法なのだと反駁する。ここに浮き彫りにされているのは、現象学をめぐる両者の(間接的な)対峙であり、それが命名という言語の問いを介在することで、「言語が指示しているものは物なのか、それとも物の観念なのか」と要約されうるような言葉-物-観念の三項関係を湧出させる。そしてこの三項関係は、サルトルの『家の馬鹿息子』やデリダの最初の博士論文のタイトル(『文学的対象のイデア性』)にまで延べ拡げて論じられるべきだろう、という展望が明らかにされた。時間の都合で展開されない項目も残ったが、明言しないながらもデリダがサルトルに挑む仕草がスリリングに論じられた。澤田氏はその戦略を、サルトルの署名に対抗し、それを消し去ろうとしながら、かつ副署する、という意味で、contresigneと名付けられたが、これを読解一般の方法論にまで高めることもできよう。密度の高い発表であった。
 最後に少し感想を。報告者にとって本ワークショップは寝耳に水というべきものであり、いったいどのような発表が聞けるのかと当日まで只々受け身に待ち構えていたが、いずれもこれまでにない仕方でサルトルとデリダを結び合わせるものであった。これまでほとんど顧みられなかった関係性がこのように問い直されたことの背景としては、思想の世界の地盤変化を指摘することもできよう。つまりいま、生きていける思想とそうでない思想とが厳しく選別される過程にあるのであって、それぞれのポテンシャルが試されている。そしてそれが災難となるかそうでなくなるかは、研究者の手に委ねられていると言っても言い過ぎではあるまい。ワークショップを聞く者としては、デリダ研究もサルトル研究もすぐれた研究者に恵まれたものだと感嘆することができた。しかし私(私たち)はたんなる傍観者ではありえないので、この場のなかで自分に何ができるか、おおいに考えるよう刺激された思いである。(関大聡)


サルトル関連出版物

・ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子』第四巻、鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳、人文書院、2015年2月刊行予定
・ 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年2月刊行予定
・松葉類「「自由」の哲学者たち:レヴィナスとサルトル」、『宗教学研究室紀要』vol.11、京都大学、2014年

退会者

朝西柾氏が退会されました。なお、朝西氏からは退会時に1万円の寄付を頂きました。ここにご厚意に感謝の意を表するとともに、ご報告いたします。

逝去者

 会員の片山洋之介氏(茨城大学名誉教授)が2014年12月に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

今後の研究例会予定のお知らせ
 次回の研究例会は、7月11日(土)を予定しています。会場は立教大学の予定です。
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