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ワークショップ題目

直前になってしまいましたが、12月5日ワークショップの題目をお知らせします。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」 日時:2015年12月5日(土) 場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   受付開始:13:30
   開始:14:00

司会:
北見 秀司(津田塾大学)

発表者:
澤田 哲生(富山大学)
 「自由と眩暈 『弁証法の冒険』から『弁証法的理性批判』へ」

角田 延之(愛知県立芸術大学ほか(非))
 「サルトルとフランス革命-近年の革命史研究からの考察-」

竹本 研史(南山大学ほか(非)、本学会会員)
 「関係性としての「環境」――『弁証法的理性批判』を内側から切り開く」

懇親会:18:30

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日本サルトル学会会報第45号 [会報]

次回例会のお知らせ
第36回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。次回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」 日時:2015年12月5日(土) 場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)
   受付開始:13:30
   開始:14:00

オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師)
登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)
     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)
司会:北見秀司(津田塾大学)

懇親会:18:30

※各発表者の発表タイトル等の詳細は、学会のブログで告知する予定です。
本会は非会員の方の聴講を歓迎いたします。事前の申込等は一切不要です。当日会場へお越しください。聴講は無料です。

研究例会報告
第35回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は『サルトル読本』の刊行記念として合評会を兼ねたシンポジウムとして開催されました。
日時:2015年7月18日(土) 10:00~18:15
会場:立教大学キャンパス7号館7301教室
第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』第I部、VI部)
第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)
第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV,V部)
総会 18 :00~18:15
懇親会 19:00

第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00
登壇者:永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直(『サルトル読本』第I部、VI部執筆者)
   特定質問者:関大聡
   司会:森功次

第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30
登壇者:谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次(『サルトル読本』第II部、III部執筆者)
特定質問者:赤阪辰太郎
司会:永野潤

第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00
登壇者:加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人(『サルトル読本』第IV部、V部執筆者)
特定質問者:栗脇永翔
司会:澤田直

以下、各特定質問者による報告文を掲載します。

第1部 サルトルの全体像
シンポジウムの第一部「サルトルの全体像」では、『サルトル読本』の主に第I部(「サルトルの可能性をめぐって」)と第VI部(「作家サルトル──文学論・芸術論」)の論考を中心に議論が行われた。各部で問題になっているのは、大まかに言って、一つの時代を代表した知識人としてのサルトルと、作家・芸術家としてのサルトルであり、石崎晴己氏も述べているように、両者の結び付きは不可分なものである(自己という独自な存在を通じて普遍的なものを描くことを職分とする作家は、「本質的に」知識人である)。戦後世界を席巻した「サルトル現象」もこの知的覇権の産物であるが、知の細分化が進む今日では、それと同じ規模での成功を望むことは難しい、また逆に言えば、サルトルの成功も時代的要請の後押しがなければ考えられなかったはずである。
しかしだからと言って、サルトルの全体的参加の在りようが意義を失うということはない。むしろ、知識人が来るべき普遍性としての「我々」の姿を模索することを自らの使命としていたとするならば、知が細分化したと同時に広く普及したがゆえに誰もが知の担い手になりうるようになった今日においても、独自性を見失わぬままに普遍的なものを考えるという課題は一人ひとりにそのまま残されているのではないか。そしてサルトルを読むことはこうした問いについて――もちろんそこに収まりきらない様々に新鮮な発見とあわせて――今日の読者たちにも多くの示唆を与えうるはずである。このような確信を、登壇された先生方と、若輩ながら質問者も共有できるものと考えており、先達を仰ぐつもりで、今日サルトルを読むことの可能性について質問させていただいた。
まず澤田直氏が、ヨーロッパの知識人モデルには宗教的起源、すなわち神なき世俗社会において人々を結び合わせる役割が要請されていたことを指摘し、質問者の問いの全体像に明快な見取り図を与えてくれた。この近代的文脈のなかでのサルトルの立ち位置を正確に把握しながら、同時にアクチュアルな問題に直面する現代の読者としてそのテクストを読むためにはどうすればよいのか。この問いに関して、論文「小説家サルトル」のなかで論じられていた「廃墟」という概念が再説された。第二次世界大戦の最中で予期しえない出来事の連鎖に翻弄されながら苦闘する『自由への道』の登場人物たちを待ち構えているものを、後世の読者である私たちは既に知ってしまっており、そこに必然的な破局を重ね見ざるをえない。しかしそこに見出されているのは、歴史の進行に対して盲目な私たち自身の命運でもあり、その意味で、「廃墟として読む」という行為は、審美主義的な読書ではありえず、現代に刺激を与えうるものであることが強調された。こうした読み方を、『自由への道』だけでなくサルトルとその作品全体に適用することは、極めて魅力的なものと思われる。
永野潤氏の論文「サルトルの知識人論と日本社会」は、しばしば「既に乗り越えられた」ものとして論じられる「サルトル的知識人」というラベリングの不適切さを、サルトル自身の知識人論でもって反駁し、実践において本当の意味でサルトルを「乗り越える」ことこそが必要だと指摘したものである。質問者からは、実践におけるサルトルの乗り越えとは正確に言ってどのような事態を意味しているのか、どのような実践がそれを可能にするのか、について問いを投げかけた。これについては、学術的舞台と街頭でのデモを分けるような外挿的区別に甘んじることなく、各人が自らの持ち場での実践のかたちを発見することが重要であるという応答を得た。また、本論では「古典的知識人」と「新しい知識人」というサルトルの区別が紹介され、後者の例として、工場労働者とともにあることで、自己批判を通じて「知識人としての自己を抹消」する青年が挙げられているが、それは今日でも有効なモデルたりうるのかという点についての議論がなされ、現代の政治参加の問題にも接続してゆくなど、刺激的な展開があった。
翠川博之氏の論文(「サルトルの演劇理論」)は、「距離」とそれによって可能になる「参加」の概念を中心に、一般にはあまり知られていないサルトルの演劇理論に焦点をあてたものである。細かい点では、論文の中で触れられている「神話演劇」というコンセプトの重要性について問いを投げかけた。それは三単一の規則や様式的側面に関するだけではなく、神話的精神のなかでの「我々」の創造という意味をも担うものではないか、という問いかけに対して、一面では確かに宗教儀式的側面が認められるとして、『蠅』のある場面が黒人の霊的熱狂を意識しているという挿話が挙がった(ここから『弁証法的理性批判』における溶解集団についての議論と結ぶこともできよう)。また、サルトルとブレヒトの演劇観の相違が問われたときには、ブレヒトともジャン・ジュネとも異なるものとしてサルトルは自らの演劇/演劇論を構築しているという応答があり、こうした演劇理論からサルトル自身の劇作を再検討する作業はますます必要であるように思われる。会場からも、近年再び上演機会を得つつあるサルトル劇の作劇法についての意見が求められ、やはり演劇理論との照合を行う必要があるのではないかと述べられていた。
永井敦子氏の「サルトルの美術論の射程」は、共産党との関係のような社会的・政治的コンテクストやシュルレアリスム美術との両義的関係を意識しつつ、サルトルの美術論を扱ったものである。質問は、永井氏が論じている芸術鑑賞における「我々」の体験の位相において、サルトルがしばしば超越的な意味を有する語や宗教的な語彙・比喩を用いているという事実は、シュルレアリストたちが聖なるものに依拠したのと同じ系統の関心を見ることができるのではないか、というものであった。これについては、シュルレアリストの神話への関心やマルローの芸術論に触れつつ、神の不在以後というパラダイムが西欧の美術批評においても影響を及ぼしていることについての解説がなされた。また、「我々」という普遍的な語が美術鑑賞のパンフレットに用いられているときには、それが読者として想定しうる「我々」が、あくまで展覧会や個展という小規模システムに参加する、一部特権的な層であることにも改めて注意が促された。
同時に、本論からは少し脱線するかたちで永井氏が述べられたのは、この「我々」の様々な形態を考えるとき、『恭しき娼婦』と『水いらず』に現れてくる、「みなしご」としての私たち、という経験が注目に値するのではないか、ということである。父=神を持たない切り離された個でありながら、他者と出会い、我々を育むということへのサルトルの関心がここに見られるのではないか。この指摘に対しては、翠川氏も同じ関心を表明され、サルトルのような知識人は人間の問題を一緒くたに論じてしまうというスピヴァクの批判に対して、孤児として出会うという思考がサルトルには秘められているのではないかと述べられた。
黒川氏の論文「『家の馬鹿息子』の「真実の小説」という問題」は、フローベール論で用いられている前進的・遡行的方法という分析・叙述法を、小説における語りの問題に対するサルトルの批判的関心に引き付け論じたものである。結論として氏は同書の語りの方法を(批判的)小説のそれであると述べる。しかしその場合、伝記というジャンルと小説というジャンルの違いをどのように考えるべきなのか。この問いに対しては、伝記一般と小説の関係というよりは、文学者の伝記と小説の関係として考えるとき、一方では文学テクストの読解において遡行的分析が行われ、他方で作家の伝記的生について時間軸に沿った前進的分析を行うときに物語るという要素が不可避に浮上することが重要であるという応答があった。この物語るという問題について、『家の馬鹿息子』はその不可能性を提示しているのだと黒川氏は述べられ、それがどのような理路から論証されるのかという点については会場とのあいだでも活発な議論がなされたが、これはいまだに邦訳が完結したわけではない同書に対する関心の高さを裏打ちするものでもあろう。
こうしてまとめてみるとき、個々の論文はそれ自体で極めて密度の高いものでありながら、論文相互のあいだにも深い連関が存在しており、シンポジウムを通してその点が浮かび上がってきたのではないかと思う。そのダイナミズムを暗示的な仕方以上に書き留められた自信は報告者にはないが、普段は別々に研究を行っている者同士が意見を交わしあうという貴重な場がさらに開かれたものとなり、多くの関心を惹くものになるために、この報告文が貢献できることを期待したいと思う。
(関大聡・東京大学)

第2部「サルトルの哲学」
第2部「サルトルの哲学」では、『サルトル読本』第Ⅱ部「サルトル解釈の現状」、第Ⅲ部「サルトルの問題構成」の執筆者から、谷口佳津宏氏(「サルトルの栄光と不幸――『存在と無』をめぐって」)、清眞人氏(「媒介者としての『倫理学ノート』」)、水野浩二氏(「倫理と歴史の弁証法――「第二の倫理学」をめぐって」)、森功次氏(「芸術は道徳に寄与するのか――中期サルトルにおける芸術論と道徳論との関係」)、竹本研史氏(「サルトルの「応答」――『弁証法的理性批判』における「集団」と「第三者」」)、生方淳子氏(「エピステモロジーとしてのサルトル哲学──『弁証法的理性批判』に潜むもうひとつの次元」)が登壇された。
登壇者による論文の趣旨説明の後、特定質問者は各論文について次のような質問を行い、執筆者がこれに応答した。以下、主要なもののみを簡潔に紹介する。
谷口氏の論考についてなされたのは、『存在と無』の哲学者たちによる受容と、哲学史的な評価についての質問であった。谷口氏の論考で詳論されるように、『存在と無』は発表当初よりいくつかの仕方でやや偏向した解釈がなされてきた。そこで谷口氏が提案するのは、従来の解釈を批判的に分析しながら、こうした評価に左右されずにテクストを読み解く態度である。これをうけて質問者は、純粋なテクストとしての『存在と無』を読みとくと同時に、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、デリダらの哲学者の思想形成期におけるサルトル受容を考慮に入れつつ、サルトル以後の哲学者たちへの影響という観点から『存在と無』の哲学史的再評価が可能ではないかと問うた。これについて谷口氏は、『存在と無』が与えた影響をテクスト上で跡づけることには慎重を要すると指摘された上で、哲学者たちへの影響が『存在と無』から発するものであるのか、あるいはいわゆる時代の寵児としての〈哲学者サルトル〉像についてのものか見極める必要があると述べられた。サルトルと哲学者との関係については第3部のセッションに引き継がれ、継続して議論された。
清氏の論考についてなされた質問は、サルトル特有の「回心」のプログラムにとって他者(Autre)と他人(autrui)がどのように関わるかを問うものであった。これについて清氏は、ある時期のサルトルにとって、他者とは自己の内に見られる他なるものを意味し、いわばそれが理想的な自己として考えられるのだ、と自身の考えを述べられた。さらに、この理想的自己は到達不可能なものであるため、その追求の試みは挫折する。そして、自己による自己の追求というナルシシスム的回路を断ち切り、回心へ導くのが他人たちである。
水野氏の論考は主にサルトルの1960年代の倫理学を扱ったものであった。質問者は、そこで語られる、ある種の限界状況における倫理的判断が新しい倫理を創出するという事例の含意について質問した。これについて水野氏は、この時期のサルトルの倫理とは、一定期間有効な、人々の生きづらさに対する抗議としての側面をもつものであり、修正と惰性化を繰り返してゆくものであると述べられた。また、状況に即した創出という側面をもつ判断が〈倫理〉と呼ばれる基準については、全体的人間という理念や、人間以下の人間であることへの抵抗という点が一定の基準を作っていると指摘された。規範と齟齬をきたす価値判断が倫理的と呼ばれるための基準をめぐっては、フロアから『倫理学ノート』を中心とする「第一の倫理学」の時期との相違が指摘されたように、サルトル自身の思想の変遷に即して今後も研究が続けられることが期待される。
森氏の論文について、質問者は中期思想における「事物化」の意味について質問した。森氏の論考で示されるように、『倫理学ノート』の時期のサルトルは他者との交渉に際して自己事物化の契機を積極的に語る。事物化は、バスに飛び乗る人に向けて自ら手を差し出す、という日常的な場面から、芸術作品の創造にいたるまで広く認められるものだが、この事物化に際して自由の承認がどのように行われるのか、またその自由とはどのようなものかを問うた。これについて森氏は、作家が何のために書くのか、という観点から回答された。事物化されたもののなかに見いだされる自由とは、人間存在のもつ案出能力や、独自性の発露と関わっている。事物の看取は意識の自由や意志の自由の承認につながるわけではないが、事物を差し出す者を、行為や作品を通じて承認する。
竹本氏の論考は『弁証法的理性批判』における集団形成論をメルロ=ポンティによるサルトル批判「サルトルとウルトラボルシェヴィスム」への応答という観点から読みとくものであった。質問は、メルロ=ポンティのサルトル批判のなかで竹本氏が論考において言及しなかったものについての意見を求めるものであった。質問について竹本氏は、サルトルの保持する、社会性を眼差しという観点から捉える点、行為における目的を理論に取り入れる点などについては今後も検討が必要であると述べられた。また、サルトルの論述が非歴史的であるというメルロ=ポンティからの批判については、サルトルによるカミュ批判に言及しながら、サルトルが常に歴史のなかで、状況に向けて書いてきた、という点が強調された。
生方氏の論考については、生方氏の提唱されるサルトル的エピステモロジーを遂行する者にとって、専門性ないし職能がどのような役割をもつかが問われた。これについて生方氏はまず、現代において社会は一つのディシプリンから見通すことができないほど複雑なものとなっており、単一の専門分野によって可知性に到達することがますます困難となっていることを指摘された。こうした現状認識のもとで、特権化されない、誰でもない者としての複数的な主体が、全体化する者なき全体化を行う、というビジョンに仮託して、ありうべきサルトル的エピステモロジーの姿を提示された。
登壇者諸氏のいずれの論考も現状におけるサルトル哲学研究の水準の高さを示すものであり、また議論を通じて、今後、継続的に追究されるべき論点が明らかとなった。その意味で、実りの多いセッションとなったのではないかと思われる。最後に、研究歴の短い若輩者による不慣れな質問に対し、真摯に回答してくださった先生方にお礼申し上げます。(赤阪辰太郎・大阪大学)

第3部「サルトルと哲学者たち」
 「現代思想」とサルトルの関係が取り上げられるようになってからすでに久しい。デリダとサルトル、バルトとサルトル、ドゥルーズとサルトル…。「研究」という観点からすれば、この分野に関しては、日本国内でも海外でも、すでに一定の成果が上がっているというのが現状であろう。『サルトル読本』Ⅳ部・Ⅴ部に投稿された各論文も概ねこうした文脈の中での成果として捉えることが出来るように思われる。シンポジウム第3部は必然的に(ゴルツを取り上げた鈴木正道氏を除けば)「サルトル研究者」ではない研究者に質問を投げかけることになった。紙幅が限られているため質疑応答の全容を記載することは出来ないが、以下、報告者が投げかけた質問を中心に会の様子を書き留めることにしたい。
 まず、サルトルとメルロ=ポンティの身体論を比較された加國尚志氏には、サルトルにおける「傷つけられ得る身体(corps qui peut être blessé)」とでも呼ぶべき主題に関する質問と、メルロ=ポンティの「蝶番(charnière)」やサルトルの「回転装置(tourniquet)」等、二項対立を攪乱させる概念装置の思想史的意味に関する質問を投げかけた。加國氏からの応答では、両哲学者における文学の影響や20世紀のフランス哲学におけるヘーゲル主義の受容に関していくつかの論点が指摘された。
鈴木正道氏の論考はサルトルに影響を受けたアンドレ・ゴルツの思想を手掛かりに実存主義と「(反資本主義としての)エコロジー」の関係を問うものであった。日本国内でゴルツに関する研究は少なく、貴重な研究であると考えられるが、シンポジウムではあえて、ゴルツを含む20世紀の様々な分野の思想家――たとえば「アフォーダンス理論」のギブソン等も思い浮かぶ――が「エコロジー」というキーワードをもとに、独自の理論を構築したことの思想史的意味について質問を投げかけた。鈴木氏からは、日本語輸入されるとどうしても環境保護の理念やその運動に結び付けて理解されがちなこの語が西欧語では「エコノミー」等とも語源的に近い意味の広がりを持つことが指摘された他、20世紀に注目が集まったこの問題が決して過去のものではなく、現在も継続中の困難な問題であることが強調された。
論文を投稿されていない松葉祥一氏からは、現在翻訳中のランシエールの著作におけるサルトルの知識人論の批判的扱いに関して紹介がなされ、報告者からは、(松葉氏のこれまでの仕事を鑑み)ふたりのポストモダニスト――クリステヴァとリオタール――とサルトルの関係に関する質問を投げかけた。クリステヴァの著作のタイトルを念頭に置くならば、サルトルは「女性の天才(génie féminin)」に影響を与えた思想家であったと言えるかもしれない。生涯の伴侶・ボーヴォワールは言うまでもなく、ジュディス・バトラーがその初期の仕事でしばしばサルトルに言及していることも広く知られている。60年代~70年代にかけての言語学的・記号分析的な仕事からはやや意外な印象を与えるかもしれないが、クリステヴァ自身、90年代にいくつかのテクストで明示的にサルトルに言及している。それに対し、もう一人のポストモダニスト・リオタールはサルトル同様に幅広い仕事を展開しながらも、いずれの文脈においても、サルトルに対して冷やかであるように感じられる。これらふたりの思想家とサルトルの関係をいま、いかに考えることが出来るだろうか? 松葉氏の応答では、小説を書き始めてからのクリステヴァには確かにサルトル(あるいはボーヴォワール)を意識した様子が見られることが確認された一方、そもそもサルトルの論敵であったルフォール等とも近い位置にいたリオタールは、その出自からしても、知識人論などいくつかの文脈で批判こそしているものの、どちらかというとサルトルに対し無視・無関心というような側面の方が強かったのではないかという指摘がなされた。
ルエットやナンシーのテクストを参照しつつ、サルトルとバタイユの近年の比較を問題にされた岩野卓司氏には、両思想家の比較の一例としてイタリアの美学者マリオ・ペルニオーラの『無機的なもののセックスアピール』における両者への言及を参照しつつ、両者の中心概念である「まなざし」あるいは「眼球」に関する質問を投げかけた。岩野氏からはバタイユにおける「眼球」の問題系に関する丁寧な解説をいただいたほか、氏が、現実的な出会いやテクストにおける言及関係等とは別に、今だからこそ見えてくるふたりの思想家の比較の可能性を模索することの重要性――あるいは面白さ――を強調されていたことが印象的であった。
最後に、すでに多くの著作でサルトルとレヴィナスの比較を行っている合田正人氏には、合田氏自身の研究のスタイルの変遷に関する質問に加え、レヴィナスとサルトルを比較する際にしばしば取り上げられる「可傷性/傷つきやすさ(vulnérabilité)」というキーワードに関する質問を投げかけた。合田氏からは、それほど知られていないが重要だと考えている思想家たちに関する興味が近年両者を比較する論考にも深く関わってきていることや、レヴィナスにおけるスピノザの影響の重要性を――レヴィナス自身に反して――感じるようになったことが自身の研究のひとつの転換点であったと返答がなされた。また、vulnérabilitéに関してもひょっとしたらスピノザにヒントがあるのではないかという――ともすれば意外な――応答がなされた。「スピノザであると同時にスタンダールでありたい」という今や伝説的な台詞を解釈する際の導きの糸にもなり得るだろうか。
 特定質問者としては、全体として投稿された論文からやや離れた質問になってしまったことに対する反省がないでもないが、ぎりぎりのところで、報告者自身の研究・関心と関連させながら、サルトルを読むための新しいヒントを引き出すことを試みたつもりである。少なくとも、「サルトル研究」の外部からもたらされる視点が内部のそれとは異なる刺激を持つものであることは改めて確認できたのではなかろうか。個人的には、今後もこうした研究が発表されることを楽しみにしている。
なお、当日欠席された檜垣立哉氏に対して考えていたのは以下のような質問である。ドゥルーズとサルトルに関してもすでにいくつかの論点での比較の蓄積があるが、『アンチ・オイディプス』における『弁証法的理性批判』への言及や、フランシス・ベーコン論の脚注における『家の馬鹿息子』への参照など、あまり考察が深められていない領域もあるように思われる。このあたりに関し、ドゥルーズ研究での動向を聞いてみたかった。あるいは、檜垣氏自身が日本哲学等を論じる際に注目する「偶然(性)」の主題はサルトルにおいてもいくつかの次元で問題になるものであろう。例えば、初期の短編「壁」のラスト・シーン等、賭博の哲学者はいかに解釈するだろうか。機会があれば聞いてみたい。
(栗脇永翔・東京大学)

サルトル関連文献
・ ジャン=ポール・サルトル『主体性とは何か?』澤田直・水野浩二訳、白水社
・ 海老坂武『サルトル『実存主義とは何か』』2015年11月(100分de名著)NHK出版
・ 澤田直「戦争と戦争のあいだ サルトルのアンガジュマン思想」、齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機』講談社選書メチエ
・ 森功次『前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳』東京大学人文社会系研究科・博士論文
・  Gerhard Preyer, Subjektivität als präreflexives Bewusstsein Jean-Paul Sartres „bleibende Einsicht“. Zu Manfred Frank, Präreflexives Selbstbewusstsein. Vier Vorlesungen, Stuttgart: Reclam 2015

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。
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日本サルトル学会会報第44号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°44 mai 2015
日本サルトル学会会報     第44号 2015年 5月

次回研究例会のお知らせ

第35回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。今回は『サルトル読本』http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-15069-2.htmlの刊行記念企画として、合評会を兼ねたシンポジウムを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

『サルトル読本』出版記念シンポジウム

日時:2014年7月18日(土)10 :00~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス7号館 7301号教室
池袋キャンパスへのアクセスhttp://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/
キャンパスマップhttp://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/

受付開始 9 :30
第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』I部、VI部)
第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)
第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV部、V部)
総 会 18 :00~18:15
懇親会 19:00

第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00
 登壇予定者: 永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直 (『サルトル読本』I部、VI部執筆者)
   特定質問者: 関大聡
   司 会: 森 功次

第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30
 登壇予定者: 谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次 (『サルトル読本』II部、III部執筆者)
  特定質問者: 赤阪辰太郎
  司会: 永野潤

第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00
 登壇予定者: 加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人、檜垣立哉 (『サルトル読本』IV部、V部執筆者)
  特定質問者: 栗脇永翔
  司会: 澤田直
本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。
当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

お知らせ
・クロード・ランズマン氏が6月に来日されます。広島(22日、国際会議場)、東京(26日、日仏会館、28日、アンスティテュ・フランセ)で講演される予定です。日仏会館の講演の詳細は以下のとおりです。その他の講演の詳細については各会場のHPをご参照ください。
2015年6月26日(金)15 :00-17 :00 日仏会館 1Fホール
講演会「記憶の映画について語る---「ショア」 から「不正義の果て」まで」
講師:クロード・ランズマン(映画監督、作家)【司会】澤田直(立教大学)
主催:(公財)日仏会館、日仏会館フランス事務所

・フィリップ・フォレスト氏(作家、ナント大学教授)が来日し、講演される予定です。
2015年7月9日(木) 18:30~20:00  立教大学池袋キャンパス5210教室
「文学に(いまなお)何ができるか? サルトルの50年後に Que peut (encore) la littérature?: 50 ans après Sartre」

サルトル関連出版物
・アニー・コーエン=ソラル『サルトル伝』(上・下)、石崎晴己訳、藤原書店
・合田正人『フラグメンテ』、法政大学出版局(第五部に「文学的想像力と政治──サルトルと石原慎太郎」という章があります)
・市野川容孝・渋谷望編著『労働と思想』、堀之内出版(永野潤「サルトル──ストライキは無理くない!」)

発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。
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オックスフォード国際シンポジウム「今日、サルトルとともに考える」参加報告(生方淳子) [サルトル関連情報]

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オックスフォード国際シンポジウム「今日、サルトルとともに考える」参加報告
シンポジウム参加報告(pdf)
シンポジウムプログラム(pdf)

 1 月 30 日(金)と 31 日(土)の二日間にわたって、英国オックスフォードの Maison française においてサルトルをめぐる国際シンポジウムが開かれた。日本からの参加者はたった1名であったので、多分に主観、雑感も混じえてだが、以下の通り報告をさせて頂く。

主催:オックスフォード大学ウェイダム・カレッジ、セントクロス・カレッジ、英国サルトル学会など計7つの組織

テーマ:Penser avec Sartre aujourd’hui : De nouvelles approches pour les études sartriennes ?
参加者:一部のみ参加した人も含めて 100 名ほどで、年配の方々から 20 代の人々まで、幅広い世代が集まった。約 40 名の発表者の大多数は英、仏、ベルギーの大学に所属する研究者ないし博士課程の学生だったが、それ以外にもドイツ、イタリア、スイス、アメリカ、カナダ、ブラジル、イスラエルと世界各地から集まっていた。アジアからは唯一、上海の大学の女性研究者が発表をする予定だったが、残念ながらキャンセルとなった。企業に勤務する人も 2 名ほど発表者として名を連ねていた。発表しなかった人の中にも、学生時代に『弁証法的理性批判』を熱心に読んだというスコットランドの老紳士やソウル大学出身で現在オックスフォード大学でフランス思想についての博士論文を執筆中という韓国の女性研究者など、何らかの形でサルトルと関わっている人々の姿があった。

発表英語ないしフランス語のいずれかで行われ、発表者によっては双方が入り混じった。質疑応答も人により英語またはフランス語でなされ、通訳は特になかった。両日の最初と最後の講演以外は二つの会場で並行して発表がなされたため、すべてを聞くことは叶わず、また英語での発表の理解には限界があったが、自分にとってに面白かった発表をいくつか、理解しえた範囲で簡単に紹介したい。

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クリスティーナ・ハウェルズ(オックスフォード大学) 『美学の倫理学 ― サルトルとアンガージュマンの主体』
「神の死」、「人間の死」、「主体の死」という三つの「有名な死」をめぐってサルトルとデリダが何を語ったかを比較することから始め、それらの概念的な死にも増して考えるべき現実の歴史上の暴力と死があること、サルトルのアンガージュマンは常にこの死と向き合っていたことを確認。その上で政治的・人道的アンガージュマンと「個人独自の大義」のためのそれを区別し、『文学とは何か』における定義にもかかわらず、サルトルが扱った作家たちはみな前者の意味ではなく後者の意味でアンガジェした作家たちであり、そこに独自の意味があると結論付けた。

コリン・パリッシュ(ローザンヌ大学博士課程) 『人間の死をめぐって ― フーコーとの論争』
 1966 年から 68 年にかけて『ラルク』誌、『ラ・キャンゼーヌ・リテレール』誌を舞台にサルトルとフーコーの間で交わされた論争を辿り直し、フーコーの方法論的立場という観点から新たに見直そうとしたもの。サルトル思想を「19 世紀の遺物」と言い切ったフーコーはあえて戦略的な攻撃を選んだと見なされているが、実は、内在性、合理性、歴史性という3つの前提に向けられた認識論的かつ動的な批判を行なっていたのだとする。しかし、それがサルトル研究に何をもたらすかという問いに対しては答は開かれたままであった。

バヤ・メサウディ(パリ第 8 大学博士課程) 『サルトルの眼の中に』
 昨年 12 月に来日したフランソワ・ヌーデルマン氏の下で博士論文を書き終えたアルジェリア出身の女性で、ヌーデルマン氏と同じく「人間と動物との境界線を問い直す」という視点から『ヴェネチア、わが窓から』、『嘔吐』、『自由への道』などにおける水と水生動物の描写を取り上げ、サルトル的イマジネールの変幻自在なありようが語られた。サルトル文学の汲み尽くし難い豊かさを改めて実感させるものだった。

ベネディクト・オードノヒュー(サセックス大学) 『舞台とスクリーンのサルトル』
 映画に魅了されていたサルトルが、『出口なし』、『汚れた手』、『アルトナの幽閉者』などの戯曲の中でいかに映画的手法を用いたか、いかに映画特有の美学がそこに反映しているか、またこれらの作品がいかに映画化しやすく書かれているかを検証した発表。特にサスペンスやフラッシュバックの手法の多用などについて、興味深い指摘が多かった。「常に成功しているとは限らないが革新的な意味があった」と締めくくった。

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ジュリエット・シモン(ブリュッセル自由大学) 『カントとサルトルにおける道徳的命令』
 「虚言」という問題を中心に①『実存主義とは何か』、②『道徳論ノート』、そして③文学作品という三つの方向からサルトルの道徳論を検討。まず、①の大戦直後の講演にいかにカント的な道徳的命題が潜んでいるか、にもかかわらずどのようなカント批判がなされているかが示され、続いて②のもはや明確な「敵」がいなくなった時代においていかに道徳の模索が困難になったかについて考察がなされ、最後に③『壁』、『汚れた手』、『墓場なき死者』において「虚言」がどのように用いられているかを例証しながら、三作品に共通する場違いな笑いが道徳的不安の演劇的表現であることを説いた。

ジョン・ギレスピー(アルスター大学) 『サルトルと神の死』
 19 世紀にニーチェによって語られた『神の死』がすでに終わった物語では決してなく、現代の西洋人はいまだその陰の中に生きており、サルトルの「無神論」はまさに 20 世紀ヨーロッパが信仰の誘惑と闘い続けていたことを証言するものだったとする。『存在と無』、『蠅』、バタイユ論、『道徳論ノート』、『悪魔と神』そしてマラルメ論を参照しつつ、サルトルは「神の死」という概念を時代の分析道具として用い、人間が神なき時代をいかに苦悩しながら生きたかを示した、20 世紀における「神なき人間の悲惨」を証言した、と主張。北アイルランドに身を置く人ならではの現実を背景とした重い説得力があった。

アレクシ・シャボ(パリ第 1 大学) 『過酷な無神論』
 現代世界において改めて宗教、反宗教、原理主義が深刻な問題を招いていることを踏まえ、サルトルが生涯かけて追い続けた神との決別というテーマを検討。ジョン・ギレスピー同様に、サルトルの無神論は軽やかな神の忘却ではなく、神を払い除けようとする過酷な闘いの形跡であるとの見解を披露。『一指導者の幼年時代』、『蠅』、『言葉』、『家の馬鹿息子』を取り上げ、それらのテクストにキリスト教的な“chute” の概念やキリスト教神学の代替物としての「絶対」の概念、神を失うことに恐怖を覚える人物たちの描写等々が闘いの形跡として多々残されていることを示した。

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ジャン=フランソワ・ルエット(パリ第 4 大学) 『猶予 ― 歴史小説とマスコミ報道の間で』
 『自由への道』第二部『猶予』を「マスコミ的理性批判」という観点から読み直す、と独特のユーモアをにじませた口調で、この小説に登場する当時の新聞、ラジオなどマスコミの状況と社会へのその浸透具合を実証的に精査した結果を紹介。それを踏まえて、登場人物らがどのようにマスコミ報道とかかわり、どのように受けとめているかを具体的に示した。また大戦前夜のヨーロッパの状況を伝えるアメリカ人ジャーナリストをどう描いているか、そこにジャーナリズム言語のパスティッシュがどう盛り込まれているかなどを滔々と語り、聴衆を最後まで惹きつけていた。

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雑感:フランス語圏以外の国々におけるサルトル研究の近況や研究者同士の交流については、なかなか知る機会がなかったが、今回のシンポジウムに参加したことで、フランスに劣らず活発なその状況を垣間見ることができた。多くの国でサルトル研究が大学という場に浸透し、アカデミックな研究の対象になっていることが伺われた。取り上げられたテーマやアプローチは多岐にわたったが、質的には率直なところ玉石混淆で、息を呑むほど面白いものもあれば得るところの少ないものもあった。しかし、いずれにしてもサルトル研究の現状を知る上で貴重な情報だった。
 他方、シンポジウム全体のテーマに「今日」という言葉が入っていたことから、サルトルと共に現代の問題を考える熱い議論が繰り広げられるのではないか、テロ、イスラム原理主義、反イスラムに揺れるヨーロッパを意識した発言が聞かれるのではないかと期待していたが、残念ながら拝聴した範囲ではごく僅かに遠慮がちな言及があったのみだった。サルトルの概念や理念を用いて現代世界の貧困と暴力の問題や「表現の自由」や 21 世紀の資本主義と格差の問題等々を根底から論ずることもできたはずだが、そのような盛り上がりには程遠く、慎重で手堅いアカデミズムの枠を超え得なかった感がある。
 とは言え、今回は発表者にも聴衆にも 20 代と思われる人が多く、サルトルが新しい世代の関心を惹き、より愛着を持って読まれていることを実感できた。博士論文準備中の院生たちの発表は、たしかに概して未整理で抽象的で生硬であったが、5 年後、10 年後にこうした人たちの中から本格的な優れた研究が現れることを期待したい。
 二日間の日程の最後には、ウェイダム・カレッジでイギリス恒例の Port and Cheese と呼ばれる打ち上げがあり、友好的で賑やかな歓談のもとに会は幕を閉じた。 主催者から、もっと日本からも参加してほしかったとのコメントがあったことも付け加えておこう。
  (国士舘大学 生方淳子)
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日本サルトル学会会報第43号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°43 février 2015

日本サルトル学会会報              第43号 2015年 2月

研究例会報告

第34回研究例会が脱構築研究会との共同で、以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時:2014年12月6日(土) 13:00~18:00
会場:立教大学キャンパス5号館5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

 ヌーデルマン氏は、フランスではあいかわらずデリダ世代の思想とサルトル思想の間には断絶が色濃く残っており、今回のような試み、すなわちサルトル×デリダを学術的に対峙させようという試みは想像すらできない状態だというコメントから始めた。この機会に、デリダとサルトルを動物という切り口から語ることができるのは日本という場所のお陰であるという氏の前口上は、多少のリップサービスはあるとしても、偽らざる気持ちであろう。
 晩年に動物の主題をきわめて重要な問題として論じたデリダとは異なり、一般にサルトルは動物にほとんど関心がなかったと思われているが、ヌーデルマン氏は、『倫理学ノート』や『家の馬鹿息子』に潜む犬の姿を焙り出しながら、まずは聴衆を驚かせた。両者に共通する「まなざし」というきわめてサルトル的な主題から、さらに考察を続けつつ、一見すると、猫に見られる自分を語るデリダは動物と親密的であり、他方、飼い主に向けられた犬の視線によって偽りの主観性を語るサルトルは動物に対して疎遠な思想家のようにも見えるが、はたしてそうであろうか、と氏は問い、両者のテクストをつぶさに検討すれば、じつはサルトルもまた旧来の人間と動物の区別という形而上学を別の角度から崩していることが見てとれると指摘する。たしかに、人間以外のものを排除するanimalという語をanimotsという語に置き換えたデリダが、より明示的に、この区別の意味を問い直していることは確かだとしても、『家の馬鹿息子』で、犬の倦怠について語るとき、サルトルもまたきわめてラディカルな仕方で、人間/動物という区別に疑問を突きつけているというのだ。
 このように人間/動物の形而上学的境界がぼやけてくれば、必然的に人間が動物との関係でもつ倫理的/政治的な問題が問われざるをえなくなるだろう、とヌーデルマン氏は述べた上で、とはいえ、フランスにおいては、70年代から動物の権利が顕在化したアングロサクソン系の思想と比べると、必ずしも倫理・政治的なアプローチとはならず、サルトルもデリダもその例外ではないとする。それでもサルトルがすでに47年執筆の『真理と実存』において、ステーキと屠殺の問題に触れていたことは特筆すべきことだと述べた。いずれにせよ、デリダもサルトルも菜食主義者にまではならなかった、というユーモアに溢れた指摘で氏は発表を締めくくった。
 質疑の際に、デリダを語るのに、主体といった従来の哲学的語彙を用いるのは不適切ではないか、という質問もあったが、ヌーデルマン氏は、デリダを語るからといって、デリダ派的な語法にこだわる必要はなく、むしろより広い文脈からアプローチすることが重要であると説いたのが印象的であった。(澤田直)

第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

 本ワークショップ「サルトル×デリダ」は、サルトル学会の二名と脱構築研究会の二名の発表で進められた。
 はじめに西山雄二氏による発表が行われたが、デリダのサルトルへの言及を準網羅的に汲み上げるものとして幕開けに相応しいものであった。改めて驚かされるのは、あまり強調されていないながらもデリダが青年期以来サルトルに対して一貫した言及を続けているという事実である。その関係には「ある種の距離」が留保されてはいるものの、ユダヤ性、現象学、人間主義とハイデガー、文学とアンガジュマン等、両者の関心がつねに近傍をなぞっており、単に「乗り越えられたもの」としてサルトルのデリダへの影響を斥けるにはあまりに惜しい。とりわけ69年の『嘔吐』に関する講演は「私の講演の中で一度も出版しようと思わなかった唯一のもの」として今日に至るまで公開されていないが、この拒絶の身振りにこそ注目する必要があるだろう。発表後半ではエドワード・ベアリングのThe Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968 (Cambridge University Press, 2011)という最新の研究に即して、青年期のデリダを「ポスト実存主義者」と捉える試みがなされた。教師からたしなめられるほどサルトルに傾倒していたデリダが、それでも彼と分かたれていたのは、キリスト教実存主義というもう一つの軸によるものだという。まだ参照できないテクストも多いが、両者の関係を執念深く問うてゆくことは、戦後フランスの知的動向の見方をも変革しうるきわめて意義の高い試みだと確信できる発表であった。
 『サルトルとマルクス』(春風社、2010-2011年)でサルトルにおける「ポスト脱構築的なもの」に注目していた北見秀司氏の発表は、繊細な議論としては同書を参照されたいが、脱構築への「挑戦状」といった趣があり、固唾を飲んでその展開を見守った。北見氏はまず、サルトルとマルクスの論における非現前的なものとしての他者性を指摘する。サルトルにとっては対他存在と言語の規定によって、マルクスにとっては市場の交換価値に由来して、<他者>=「疎遠な力」が社会関係において支配的なものとなる。これを否定するのがコミュニズムの理念であったわけだが、『マルクスの亡霊』のデリダはこれを他者性を否定する「脱構築以前」的なものと見做す。しかし北見氏によれば、「疎遠な力」とは他者性そのものではなく、それが乗り越えられることで初めて個々の他者の自由と特異性を肯定しうるものである。逆にデリダは、他者の非現前的な現前性を擁護するにしても、それと複数の具体的な他者を区別・記述できるのか。これが北見氏の問いかけであり、「来るべき民主主義」をさらに推進するために有効な議論として『弁証法的理性批判』の<同等者>概念が提示された。全体討論では藤本氏から、脱構築だけでは不十分だということはデリダも述べており、「ポスト脱構築」は双方に共通する課題であることが示された。「挑戦状」は友愛的な雰囲気に雪崩れていったわけだが、さらに議論を尽したいという欲望も残る。たとえば北見氏は前著に引き続き『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(共著、作品社、2014年)でもフランスの社会運動ATTACに関心を示されているが、デリダも晩年に同団体の動きに「新しいインターナショナル」の可能性を見ていた。両者の理論が実践運動と取り結ぶ関係の検討を通じて、その有効性を問うことも期待できそうである。
 藤本一勇氏の発表は表題の示すとおり両者における視覚の問題を取り上げたものである。まず、サルトルにおける対自と即自の関係が視覚的な構成を伴うものであることが指摘される。対自同士の関係も同じ構成において把握されるのだが、ここで藤本氏は「遠隔操作性」という概念を導入し、視覚が「触れずに触れる」幻想を与えるものだと論じたうえで、眼差し論における「石化」をそこに位置付ける。対自の石化はこうした対象操作の位相で捉えられるのか、その是非は全体討論の議題の一つとなったが、視覚の問いが隣接する様々な諸感覚と響きあい、出席者もそれに引き込まれてゆくという意味で、まさしく「触発」的な問いとなったように思う。一方、現前の形而上学の批判者であるデリダにとって視覚的現前性は痕跡に向けた絶えざるずらしの対象となる。眼が描き出す線traitは退引/引き直しretraitによって立体化され、そのretraitの痕跡として他者との出会いがある。また石のテーマが「墓石」のそれとして変奏されることも興味深い。そして、ある種連想的な議論の流れのなかで一貫していたのは「視覚と他者」への関心であるだろう。最後にふたたびサルトルの他者論に立ち返った藤本氏は、サルトルにおける対他関係の葛藤について、まず自己の自由があって次いで他者の自由があり両者が葛藤する、というのではなく、まず他者性との視覚的・トラウマ的な出会いがあり、それが反照的に自己の自由の意識を芽生えさせるのではないか、と提起することで発表を結ばれた。討論ではこの提起がサルトルについての読解なのかそれとも藤本氏自身の立場なのかが問われたほか、遠隔操作性と窃視との関係が取り沙汰されるなど、活発な議論が展開されたことを報告しておく。
 最後に澤田直氏の発表では、デリダとサルトルによるフランシス・ポンジュ論(『シニェポンジュ』と『シチュアシオンⅠ』所収の「人と物」)が検討された。二つのテクストは両者の哲学観・文学観を露わにしている。サルトルが非人間的な物(事象)そのものに接近するポンジュを「自然の現象学」者として評価すれば、デリダは署名、法、固有性=清潔さといった観点からアプローチする。一見したところ交差するところのない両者の議論に、澤田氏は細やかな読解を行うことで争点を探ってゆく。たとえば「命名」への関心は彼らに共通するものに見える。しかし、ポンジュ自身が名付けを通じての「物の本性について」の探究に意欲的であり、サルトルもそれを現象学的観点から受け入れているのに対して、デリダは、問題は事物の本性ではなく、他者としての事物が我々に命ずる法なのだと反駁する。ここに浮き彫りにされているのは、現象学をめぐる両者の(間接的な)対峙であり、それが命名という言語の問いを介在することで、「言語が指示しているものは物なのか、それとも物の観念なのか」と要約されうるような言葉-物-観念の三項関係を湧出させる。そしてこの三項関係は、サルトルの『家の馬鹿息子』やデリダの最初の博士論文のタイトル(『文学的対象のイデア性』)にまで延べ拡げて論じられるべきだろう、という展望が明らかにされた。時間の都合で展開されない項目も残ったが、明言しないながらもデリダがサルトルに挑む仕草がスリリングに論じられた。澤田氏はその戦略を、サルトルの署名に対抗し、それを消し去ろうとしながら、かつ副署する、という意味で、contresigneと名付けられたが、これを読解一般の方法論にまで高めることもできよう。密度の高い発表であった。
 最後に少し感想を。報告者にとって本ワークショップは寝耳に水というべきものであり、いったいどのような発表が聞けるのかと当日まで只々受け身に待ち構えていたが、いずれもこれまでにない仕方でサルトルとデリダを結び合わせるものであった。これまでほとんど顧みられなかった関係性がこのように問い直されたことの背景としては、思想の世界の地盤変化を指摘することもできよう。つまりいま、生きていける思想とそうでない思想とが厳しく選別される過程にあるのであって、それぞれのポテンシャルが試されている。そしてそれが災難となるかそうでなくなるかは、研究者の手に委ねられていると言っても言い過ぎではあるまい。ワークショップを聞く者としては、デリダ研究もサルトル研究もすぐれた研究者に恵まれたものだと感嘆することができた。しかし私(私たち)はたんなる傍観者ではありえないので、この場のなかで自分に何ができるか、おおいに考えるよう刺激された思いである。(関大聡)


サルトル関連出版物

・ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子』第四巻、鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳、人文書院、2015年2月刊行予定
・ 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年2月刊行予定
・松葉類「「自由」の哲学者たち:レヴィナスとサルトル」、『宗教学研究室紀要』vol.11、京都大学、2014年

退会者

朝西柾氏が退会されました。なお、朝西氏からは退会時に1万円の寄付を頂きました。ここにご厚意に感謝の意を表するとともに、ご報告いたします。

逝去者

 会員の片山洋之介氏(茨城大学名誉教授)が2014年12月に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

今後の研究例会予定のお知らせ
 次回の研究例会は、7月11日(土)を予定しています。会場は立教大学の予定です。
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UTCP若手研究者ワークショップ「サルトルと共生の哲学」 [事務局よりお知らせ]

UTCP若手研究者ワークショップ「サルトルと共生の哲学」

1月25日(日)、東京大学駒場キャンパスにおきましてワークショップが以下の内容で開催されます。ぜひご来場ください。


日時:2015年1月25日(日)13:30~18:30
場所:東京大学駒場キャンパス駒場ファカルティハウスセミナー室

発表者:

関大聡(東京大学)
「透明と障害、もしくはサルトルにおける嘘」

栗脇永翔(東京大学)
「他者・障害・歴史――ヴィルヘルム二世を分析するサルトル」

赤阪辰太郎(大阪大学)
「不在の他者とのコンタクト――初期サルトルにおける」

高山花子(東京大学)
「未聞の音――サルトルがブランショに見出すファンタスティックなもの」

小林成彬(一橋大学)
「「アンガジュマン文学」とは別の仕方で――ヴェネツィアにいるサルトル」

中村彩(東京大学)
「ボーヴォワールから見たサルトル――『別れの儀式』を中心に」



コメンテーター:澤田直(立教大学)



使用言語日本語|入場無料|予約不要


主催:共生のための国際哲学研究センター(UTCP)L2プロジェクト「共生のための障害の哲学」



詳しくは以下のページをご覧ください。

http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2015/01/utcp_workshop_by_young_scholar_1/

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日本サルトル学会会報第42号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°42 Nobembre 2014
日本サルトル学会会報              第42号 2014年 11月

次回研究例会のお知らせ
第33回研究例会が下記の通り、脱構築研究会との共同で開催されますので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)
司会:澤田直(立教大学)

15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

要旨
西山雄二「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
今年刊行された、Edward Baring, The Young Derrida and French Philosophy, 1945–1968 (Cambridge U.P., 2014)は、デリダ・アーカイヴの資料群を調べ上げ、若きデリダがいかに自己形成したのかをテクストの変遷とパリの知識社会の分析から描き出した労作である。デリダは構造主義における現前性の要素を批判し、「ポスト構造主義」を切り開いたとされる。だが、アルジェリアの高校時代から1952年に高等師範学校に入学するまで、若きデリダはサルトルやヴェイユの思想、エチエンヌ・ボルヌのキリスト教実存主義から強い知的刺激を受けている。Baringは、少なくとも1964年に高等師範学校の講師になるまで、デリダは「ポスト実存主義者」と呼称されるような立場にいたと主張する。Baringの著作を紹介する形で、若きデリダと実存主義の関係について発表をおこなう。

北見秀司「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
 本発表では、まず、『存在と無』が「超現象的なもの les transphénoménaux 」すなわち「現れないもの」の存在論であり、そこで展開される他者論がデリダの言う「現前性の形而上学」を超えていること、したがってサルトル哲学がポスト脱構築的なものであることを示したい。
ついで、サルトルとデリダのマルクス解釈における相違を指摘したい。共産主義社会は「透明かつ単純」になるというマルクスの発言をもって、マルクスの理論は「脱構築以前 prédéconstructif 」にとどまるとデリダは断ずるが、サルトル弁証法は、この共産主義社会においても他者の他者性・意識の絶対的複数性を保持する理論を提供していることを論じたい。ここから明らかになるのは、現前野を超える他者との関係がどのような場合、抑圧的になるか、またいかなる関係において万人の生と自由を肯定しうるものとなりうるか、ということである。これは、「現前性の形而上学」の脱構築の後に来る、「来たるべき民主主義」のための理論的作業であると見なしうる。サルトルの非人間中心主義的疎外論と弁証法は、今なお猛威を振るい続ける新自由主義の自由観に対抗する上で、重要な復権すべき思想であると思われる。

藤本一勇
「サルトルとデリダの間――他者の複数性」 La pluralité de l’autre ― entre Sartre et Derrida
デリダは伝統的な「自己」の哲学に対して「他者」の哲学を展開したとよく言われる。個々人であれ集団であれ、自己の論理に閉塞し、他者を抑圧・排除する体制・システムの暴力構造を暴き、他者の声=痕跡を拾い上げ、他者への歓待によってシステムの自閉を防ぐのだ、と。それが「差異の政治」と呼ばれることもある。しかしそのとき問題になっている「他者」とは、「他性」とはいったい何なのか。体制から排除される他者もあれば、むしろ体制を保持し強化する他者もある(ラカンやアルチュセールが論じるような大文字の《他者》、大他者)。自己や自律に対置された他者や他律は「疎外」の別名ではないのか。他者や他性は根源的に複数的である。では他性の複数性のなかで、どのようにして抑圧的・暴力的な他者とそうでない他者とを区別するのか。開放的な他性と抑圧的な他性の境界線はどこにあるのか。サルトルは『弁証法的理性批判』でこの問題を論じた。はたしてデリダはこの他者の複数性と他者内部の多様な境界線の問いにどこまで答えられているのか。そしてサルトルは? サルトルとデリダにおける他者の複数性の問題を比較検討し、自己の反射装置ではない他者論の可能性を探ってみたい。

澤田直「文学と哲学の分有 デリダとサルトルの文学論」Partage de la littérature et de la philosophie : Derrida contresigne Sartre
デリダとサルトルが分有する領域は多岐にわたるが、本発表では、二人の哲学者にとっての文学の位置を中心に考察してみたい。デリダが若い頃から文学に強い関心を持っていたことは本人の証言からも明らかだし、作家でもあるサルトルにおいて文学が若き日から中心的な関心事であったことは言うまでもない。だとすれば、彼らにとって哲学と文学との関係はどのようなものであったのだろうか。キルケゴール・ニーチェ以降、二つの領域はクロスオーバーすることが頻繁になったとはいえ、プラトンを思い起こすまでもなく、哲学と文学は長らく相容れぬものとされてきた。哲学者が文学について語ることの意味は何か? 自伝的なものという問題構成も重要ではあるが、本発表では、評論を中心に考察してみたい。デリダが論じた作家たちが、サルトルが取り上げたものと重なっているのは、果たして単なる偶然だろうか。マラルメ、ボードレール、カフカ、ポンジュ、フローベール、ジュネ、ブランショといった両者によって論じられた詩人、作家が提起する問題を糸口に、両哲学者のアプローチ追いながら、文学と哲学の分有について論じることにしたい。
発表者略歴
西山雄二(Yuji Nishiyama)
首都大学東京・准教授。専門はフランス思想。1971年生まれ。一橋大学言語社会研究科博士課程修了(学術博士)。著書に、『カタストロフィと人文学』(編著、勁草書房、2014年)、『人文学と制度』(編著、未來社、2013年)、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、ほか。訳書に、ジャック・デリダ『獣と主権者 第1巻』(白水社)、『哲学への権利 第1巻』(みすず書房)、『条件なき大学』(月曜社)、『名を救う』(未來社)、ほか。

北見秀司 (Shuji Kitami)
津田塾大学国際関係学科教授。専攻:哲学・社会思想史。1960年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程、単位取得の上、満期退学。パリ第10大学(ナンテール)哲学科博士課程修了。主な著書・論文に、『サルトルとマルクス』(全2巻、春風社、2010−2011年)、「アタック・フランスとフランス緑の党の政策提案」(長砂・荒木・聴濤・岩田・大西・北見『ポスト資本主義を構想する』本の泉社、2014年)、 « Sartre et Merleau-Ponty : l’Autre entre le Visible et l’Invisible --- Démocratie et construction d’une Raison » (Les Temps Modernes, Gallimard, no.572, 1994)など。

藤本一勇(Kazuisa Fujimoto)
早稲田大学文学学術院教授。専門は哲学、表象・メディア論。1966年生まれ。パリ社会科学高等研究院DEA。著書に『情報のマテリアリズム』(NTT出版)、『外国語学』(岩波書店)、『批判感覚の再生』(白澤社)、訳書に、デリダ『プシュケーI』、デリダ『アデュー』、デリダ/ハーバーマス『テロルの時代と哲学の使命』(以上、岩波書店)、デリダ『散種』(共訳)、デリダ『哲学の余白』(以上、法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(藤原書店)、フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)など。

澤田直(Nao Sawada)
立教大学文学部教授。専門はフランス現代思想、フランス語圏文学。1959年生まれ。パリ第1大学哲学科博士課程修了(哲学博士)。著書に『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社)、訳書に、ジャン=ポール・サルトル『言葉』『真理と実存』(以上、人文書院)、『自由への道』(共訳、岩波文庫)、フェルナンド・ペソア『ペソア詩集』(思潮社)『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)『荒木経惟 つひのはてに』『夢、ゆきかひて』(以上、共訳、白水社)など。

フランソワ・ヌーデルマン氏滞在中の予定

フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)教授の滞日中の講演は次の通りです(共同ワークショップ「サルトル/デリダ」特別講演を含む)。多くの皆様のご参加をお待ちしております。

略歴: 1958年生まれ。大学教授資格保持者(文学、1986)、哲学博士(パリ第四大学、1992)。専攻は哲学・文学だが、芸術にも造詣が深く、その分野での著作も多い。ジャック・デリダの後を受け国際哲学コレージュ院長(2001〜2004)、ジョン・ホプキンス大学、ニューヨーク大学の客員教授などを歴任。エドゥアール・グリッサンが設立した全—世界学院のセミナーの責任者も務める。2002年からは、ラジオ・フランス・キュルチュールの哲学番組Les vendredis de la philosophieを制作し、人気を博した。邦訳には、哲学者と音楽との関係を多角的に論じた『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』(太田出版)など。

12月6日(土)13:00〜14:30
特別講演 « Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal » 
日本サルトル学会/脱構築研究会/立教大学文学部フランス文学専修主催
共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
立教大学池袋キャンパス 5501教室 逐次通訳

12月7日(日)17:00 
セミナー « Philosophes à personnalités multiples »
日仏会館 501号室 通訳なし 人文科学系若手研究者セミナー  
司会:澤田直(立教大学・日仏会館学術委員)

12月9日(火)18:00 
一般向け講演 « Penser, jouer, délirer : quand les philosophes touchent à la musique »
日仏会館 1階ホール 同時通訳有り 
司会:クリストフ・マルケ(日仏会館)、ディスカッサント澤田直(立教大学)

12月11日(木)17:00〜19:00  
講演 « Le mensonge, un génie philosophique »
東京大学UTCP主催 東京大学駒場キャンパス 
司会:桑田光平(東大)

サルトル関連出版物
 フランソワ・ヌーデルマン 『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』橘明美訳、太田出版、2014年11月
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年1月刊行予定

退会者
・ 箱石匡行氏が退会されました。

発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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フランソワ・ヌーデルマン氏滞日中の予定 [事務局よりお知らせ]

共同ワークショップ「サルトル/デリダ」特別講演を含む
フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)教授の滞日中の講演は次の通りです。
多くの皆様のご参加をお待ちしております。

12月6日(土)13:00〜14:30
特別講演 « Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal » 
日本サルトル学会/脱構築研究会/立教大学文学部フランス文学専修主催
共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
立教大学池袋キャンパス 5501教室 逐次通訳

12月7日(日)17:00 
セミナー « Philosophes à personnalités multiples »
日仏会館 501号室 通訳なし 人文科学系若手研究者セミナー  
司会:澤田直(立教大学・日仏会館学術委員)

12月9日(火)18:00 
一般向け講演 « Penser, jouer, délirer : quand les philosophes touchent à la musique »
日仏会館 1階ホール 通訳有り 
司会:クリストフ・マルケ(日仏会館)、ディスカッサント澤田直(立教大学)

12月11日(木)17:00〜19:00  
講演 « Le mensonge, un génie philosophique »
東京大学UTCP主催 東京大学駒場キャンパス 
司会:桑田光平(東大)

略歴: 1958年生まれ。大学教授資格保持者(文学、1986)、哲学博士(パリ第四大学、1992)。専攻は哲学・文学だが、芸術にも造詣が深く、その分野での著作も多い。ジャック・デリダの後を受け国際哲学コレージュ院長(2001〜2004)、ジョン・ホプキンス大学、ニューヨーク大学の客員教授などを歴任。エドゥアール・グリッサンが設立した全—世界学院のセミナーの責任者も務める。2002年からは、ラジオ・フランス・キュルチュールの哲学番組Les vendredis de la philosophieを制作し、人気を博した。邦訳には、哲学者と音楽との関係を多角的に論じた『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』(太田出版)など。

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日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」

次回の第34回研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。

日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修
入場無料・事前予約不要


13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマンFrancois Noudelmann(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)Moderateur: Nao Sawada (Université Rikkyo)
フランス語使用・通訳有り

15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会


以下に要旨を掲載しておきます。


「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
西山雄二(首都大学東京)

 今年刊行された、Edward Baring, The Young Derrida and French Philosophy, 1945–1968 (Cambridge U.P., 2014)は、デリダ・アーカイヴの資料群を調べ上げ、若きデリダがいかに自己形成したのかをテクストの変遷とパリの知識社会の分析から描き出した労作である。デリダは構造主義における現前性の要素を批判し、「ポスト構造主義」を切り開いたとされる。だが、アルジェリアの高校時代から1952年に高等師範学校に入学するまで、若きデリダはサルトルやヴェイユの思想、エチエンヌ・ボルヌのキリスト教実存主義から強い知的刺激を受けている。Baringは、少なくとも1964年に高等師範学校の講師になるまで、デリダは「ポスト実存主義者」と呼称されるような立場にいたと主張する。Baringの著作を紹介する形で、若きデリダと実存主義の関係について発表をおこなう。


「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
北見秀司

 本発表では、まず、『存在と無』が「超現象的なもの les transphénoménaux 」すなわち「現れないもの」の存在論であり、そこで展開される他者論がデリダの言う「現前性の形而上学」を超えていること、したがってサルトル哲学がポスト脱構築的なものであることを示したい。
 ついで、サルトルとデリダのマルクス解釈における相違を指摘したい。共産主義社会は「透明かつ単純」になるというマルクスの発言をもって、マルクスの理論は「脱構築以前 prédéconstructif 」にとどまるとデリダは断ずるが、サルトル弁証法は、この共産主義社会においても他者の他者性・意識の絶対的複数性を保持する理論を提供していることを論じたい。ここから明らかになるのは、現前野を超える他者との関係がどのような場合、抑圧的になるか、またいかなる関係において万人の生と自由を肯定しうるものとなりうるか、ということである。これは、「現前性の形而上学」の脱構築の後に来る、「来たるべき民主主義」のための理論的作業であると見なしうる。サルトルの非人間中心主義的疎外論と弁証法は、今なお猛威を振るい続ける新自由主義の自由観に対抗する上で、重要な復権すべき思想であると思われる。


サルトルとデリダの間――他者の複数性
La pluralité de l’autre ― entre Sartre et Derrida
藤本一勇

 デリダは伝統的な「自己」の哲学に対して「他者」の哲学を展開したとよく言われる。個々人であれ集団であれ、自己の論理に閉塞し、他者を抑圧・排除する体制・システムの暴力構造を暴き、他者の声=痕跡を拾い上げ、他者への歓待によってシステムの自閉を防ぐのだ、と。それが「差異の政治」と呼ばれることもある。しかしそのとき問題になっている「他者」とは、「他性」とはいったい何なのか。体制から排除される他者もあれば、むしろ体制を保持し強化する他者もある(ラカンやアルチュセールが論じるような大文字の《他者》、大他者)。自己や自律に対置された他者や他律は「疎外」の別名ではないのか。他者や他性は根源的に複数的である。では他性の複数性のなかで、どのようにして抑圧的・暴力的な他者とそうでない他者とを区別するのか。開放的な他性と抑圧的な他性の境界線はどこにあるのか。サルトルは『弁証法的理性批判』でこの問題を論じた。はたしてデリダはこの他者の複数性と他者内部の多様な境界線の問いにどこまで答えられているのか。そしてサルトルは? サルトルとデリダにおける他者の複数性の問題を比較検討し、自己の反射装置ではない他者論の可能性を探ってみたい。


文学と哲学の分有 デリダとサルトルの文学論
Partage de la littérature et de la philosophie : Derrida contresigne Sartre
澤田直

 デリダとサルトルが分有する領域は多岐にわたるが、本発表では、二人の哲学者にとっての文学の位置を中心に考察してみたい。デリダが若い頃から文学に強い関心を持っていたことは本人の証言からも明らかだし、作家でもあるサルトルにおいて文学が若き日から中心的な関心事であったことは言うまでもない。だとすれば、彼らにとって哲学と文学との関係はどのようなものであったのだろうか。キルケゴール・ニーチェ以降、二つの領域はクロスオーバーすることが頻繁になったとはいえ、プラトンを思い起こすまでもなく、哲学と文学は長らく相容れぬものとされてきた。哲学者が文学について語ることの意味は何か? 自伝的なものという問題構成も重要ではあるが、本発表では、評論を中心に考察してみたい。デリダが論じた作家たちが、サルトルが取り上げたものと重なっているのは、果たして単なる偶然だろうか。マラルメ、ボードレール、カフカ、ポンジュ、フローベール、ジュネ、ブランショといった両者によって論じられた詩人、作家が提起する問題を糸口に、両哲学者のアプローチ追いながら、文学と哲学の分有について論じることにしたい。



発表者略歴

西山雄二(Yuji Nishiyama)
首都大学東京・准教授。専門はフランス思想。1971年生まれ。一橋大学言語社会研究科博士課程修了(学術博士)。著書に、『カタストロフィと人文学』(編著、勁草書房、2014年)、『人文学と制度』(編著、未來社、2013年)、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、ほか。訳書に、ジャック・デリダ『獣と主権者 第1巻』(白水社)、『哲学への権利 第1巻』(みすず書房)、『条件なき大学』(月曜社)、『名を救う』(未來社)、ほか。

北見秀司 (Shuji Kitami)
津田塾大学国際関係学科教授。専攻:哲学・社会思想史。1960年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程、単位取得の上、満期退学。パリ第10大学(ナンテール)哲学科博士課程修了。主な著書・論文に、『サルトルとマルクス』(全2巻、春風社、2010−2011年)、「アタック・フランスとフランス緑の党の政策提案」(長砂・荒木・聴濤・岩田・大西・北見『ポスト資本主義を構想する』本の泉社、2014年)、 « Sartre et Merleau-Ponty : l’Autre entre le Visible et l’Invisible --- Démocratie et construction d’une Raison » (Les Temps Modernes, Gallimard, no.572, 1994)など。

藤本一勇(Kazuisa Fujimoto)
早稲田大学文学学術院教授。専門は哲学、表象・メディア論。1966年生まれ。パリ社会科学高等研究院DEA。著書に『情報のマテリアリズム』(NTT出版)、『外国語学』(岩波書店)、『批判感覚の再生』(白澤社)、訳書に、デリダ『プシュケーI』、デリダ『アデュー』、デリダ/ハーバーマス『テロルの時代と哲学の使命』(以上、岩波書店)、デリダ『散種』(共訳)、デリダ『哲学の余白』(以上、法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(藤原書店)、フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)など。

澤田直(Nao Sawada)
立教大学文学部教授。専門はフランス現代思想、フランス語圏文学。1959年生まれ。パリ第1大学哲学科博士課程修了(哲学博士)。著書に『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社)、訳書に、ジャン=ポール・サルトル『言葉』『真理と実存』(以上、人文書院)、『自由への道』(共訳、岩波文庫)、フェルナンド・ペソア『ペソア詩集』(思潮社)『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)『荒木経惟 つひのはてに』『夢、ゆきかひて』(以上、共訳、白水社)など。

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会報41号 [会報]

Bulletin de l' Japonaise d’Etudes Sartriennes N°41 octobre 2014
日本サルトル学会会報            第41号 2014年 10月

研究例会報告

第33回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 7月12日(土) 13:30~18:00
会場: 立教大学キャンパス5号館5210教室

研究発表1
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻里(立教大学 大学院博士後期課程)
司会:黒川学(青山学院大学)

『聖ジュネ』がジュネ受容の大きな土台を作ったのは確かにしても、ジュネの死後、伝記的事実が次々と明らかになるなかで、少なくとも伝記的記述については大幅な見直しが迫られることになった。『聖ジュネ』は今日のジュネ研究においてどのような意味をもっているのだろうか? 中田氏はジュネにおけるセクシュアリティの問題に焦点を当てて、『聖ジュネ』が今日のジュネ研究といかに関わっているのかを明らかにしようとした。
まず中田氏は「コミュニケーション」という問題に着目する。これはバタイユのジュネ論においてすでに提起されていたものである。「ジュネはコミュニケーションを拒否している」というのがバタイユの論であるが、そうしたバタイユの主張はそもそも作者と読者の間の対等な関係を前提としている。これに対し、『聖ジュネ』はジュネ自身が属する「倒錯者たち」と読者を指す「あなたたち」の間の非対称的な関係に対し意識的である点が異なる。その意味で、『聖ジュネ』は異性愛者と同性愛者の非対称的コミュニケーションをいち早く論じたものであると中田氏は指摘する。
そうした『聖ジュネ』の「コミュニケーション」のあり方が引き継がれたものとして、ケイト・ミレットとレオ・ベルサーニのジュネ論を中田氏は挙げる。
ミレットはジュネ作品を、生物学的に男である登場人物たちによって男女の非対称的関係が誇張して示すものであり、そのために異性愛社会に生きる私たちに洞察を与えうるものであると評価する。中田氏によれば、このようなミレットの主張は、サルトルのジュネ論における同性愛の認識が反映されているものである。
つづいて中田氏はベルサーニのジュネ論を検討する。ベルサーニは、小説『葬儀』の読解を通し、ジュネにおける同性愛は孤独への指向であり、同性愛の性行為は「反関係性」を意味するものであると述べている。すなわち、ベルサーニもジュネ作品に「コミュニケーション」の拒否を見出しているのである。ベルサーニはそれを、悪に到達しようする試みとして評価している。この点はサルトルとも類似した点であるが、ベルサーニはジュネにおける悪を、善に対置されるものとしてではなく、外へ向かう運動として捉える点でサルトルとは異なる。サルトルは異性愛社会との対立においてジュネの同性愛を位置づけたが、ベルサーニはそこに異性愛社会からの逃走の意志を見出すのである。ジュネにおける「悪」解釈の方向性こそ異なるが、ベルサーニはジュネの同性愛に異性愛に対する否定的契機を見出しているという点で、『聖ジュネ』を継承しているのではないか、というのが中田氏の主張である。
『聖ジュネ』のみならず、サルトルは『存在と無』においても「現存在」が性的であると主張しており、とりわけ「現存在」に性別を認めなかった(あるいは「中性性」とした)ハイデガーと好対照をなしている。また、サルトルは『嘔吐』や『自由への道』でも同性愛者を登場させている。セクシュアリティについては、サルトル研究においてもよりアクチュアルな議論とつきあわせて考えていく必要性があるのではないか、と筆者は感じた。
質疑応答では、膨大なジュネ研究の中でなぜとりわけミレットとベルサーニが取り上げられたのか等、全体の枠組みの提示が不十分であるのではないかという指摘がなされたほか、フェミニズム研究やクィア理論についてもう少し予備的な説明が欲しいという声があった。しかし、サルトルをアクチュアルなセクシュアリティの議論と結び付けて考えていく上でも有益な発表であったと筆者は考えた。(小林成彬)


ワークショップ
「サルトル研究の現在」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

本ワークショップ開催の契機は、2013年7月6日におこなわれた日本サルトル学会第31回例会の総会に遡る。会長の鈴木道彦氏より、「討論塾」主宰で、サルトル研究の大家でもある竹内芳郎氏による次のような批判が紹介された。「[…]自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(「塾報176」)。こうした発言に対して、学会として批判にどう応えるか、一度議論すべきだと鈴木会長から提起された。それに対して、永野潤氏からは竹内氏の批判を真摯に受け止めるべきだとする発言が、森功次氏からは、特定の政治的立場に偏らず、学問的中立を重んずるべきだという批判がそれぞれなされた。今回は、時間の都合上、同日にはそれ以上深められなかった議論を改めておこなったものである。

司会の翠川博之氏による趣旨説明のあと、鈴木会長から改めて問題提起がなされた。鈴木会長は、竹内氏がサルトル学会の実情を知らないのではないかと疑義を呈したうえで、氏による批判を次のように読み解いた。1:文学・哲学研究一般はどのようにおこなわれるべきか。2:サルトル研究は、とくにどうあるべきか。それを承けて、鈴木会長は、自分にとって、いかにサルトルの思想を正確に読み正しく伝えるかが課題だったと述懐し、自身にとって、生きた同時代人、危険な思想の持ち主であったサルトルが、現在死んだ対象として分析されている現状に違和感があると表明した。
その遠因として、鈴木会長は、上田敏『うづまき』や中島健蔵を援用しながら、東大仏文が大正期より主導的役割を果たし、文学研究に強い影響を与えた日本の文学・哲学研究における一種のディレッタンティズムの陥穽を指摘した。そのうえで彼は、自身の若い頃を振り返り、この陥穽に対してどう対抗すべきかという問題に直面していたと語った。彼によれば、サルトルやプルーストらに強い影響を受けた結果、自らの実存に降り掛かってきた、「在日というマイノリティ」の問題に取り組むことになったそうである。最後に鈴木会長は、サルトルの同時代の人間とサルトル死後の研究者とのあいだでまったく異なるありようを踏まえ、これからのサルトル研究をどう考えるべきかという問いを会場に投げかけた。

続いて、竹内氏からの批判を真摯に受け止めたという永野氏は、自身の論考である「サルトルの知識人論と日本の社会」を提示しながら、大学に入学した1985年ごろ受けた、1:「サルトルは二流の哲学者である」という周囲の哲学・フランス文学専攻の人間からの評価、2:「政治など糞食らえ」という風潮という、「サルトル・バッシング」、「サルトル・フォビア」という現象について振り返った。
さらに永野氏は、森氏の「サルトル学会を、何らかの価値観にコミットした人でしか参加できないような雰囲気にしてしまうのは、学術的にまったく有益ではないので反対」とする主張について、永野氏はそうした意図を否定したうえで、森氏のあげる「何らかの価値観、特定の価値観」に対して、どこにも属していない「中立な」立場などというものは存在しないというのがサルトル自身の主張だったと訴えた。また、『ミシェル・フーコー思考集成』に寄せた松浦寿輝氏の解説を紹介し、フーコーの知識人論に拠りながら、大衆運動を政治的に煽動し、普遍性の番人を僭称する真理と正義の知識人として回収されるような古くさい人間としてサルトル的知識人が描かれていると批判した。これは、サルトルをねじ曲げたうえで、サルトル当人が批判の対象としたものがサルトルのありようとされてバッシングされており、「サルトル・フォビア」や、政治的態度の表明に対する否定的風潮と重なっていると警鐘を鳴らした。

最後に、哲学的なアーギュメントの精査を自身の研究とする森氏が、前回の発言にあった2つの論点を敷衍するかたちで、1:哲学的議論一般に関わる問題、2:左記についてのサルトル研究に内在的な点からそれぞれ論じた。
まず森氏は、〈主張する者〉と〈主張の内容〉と結びつけて倫理的な拒否感に訴える論法が、政治や裁判のような場では機能していることを指摘した。彼は、こうした拒否感を学術的討論の場に持ち込むことに疑問を投げかけ、少なくとも哲学や歴史学などの一部でおこなわれる基礎的な作業に実存を絡める必要はないと主張した。またその作業が、知識人的態度を振舞う人たちの重要な下支えになっていることを忘れてはならず、特定の思想的・倫理的態度を要求しない作業を排除すべきではないと強調した。学会は知識人の集まりではなく、あくまで技術的言語を洗練させる場であると述べた。
次に森氏は、サルトル自身も「人格から乖離された言葉」を用いる作業を哲学の基礎作業として認めていたとして、その理由を2点あげた。1:サルトルは理論的にではあれ、哲学と文学を峻別し、哲学を、専門家のあいだで議論をおこなうための共有可能性を担保する技術的な言語を用いる場だとみなしている点。2:個性と結びついた言語の場合、言語の独創的・芸術的使用を通じてなされるため、哲学とは別の言語使用であるとサルトルが考えている点。以上からサルトルは、ニザンとは異なり、脱個性的な言語使用を哲学に認めていると森氏は指摘した。

報告者たちからの発表後、会場および報告者たちからは、自らとサルトル研究との関わりについて語りながら、サルトル研究のあり方、および学会という組織のあり方などについて次のような活発な意見を交わしあった。
学会と知識人との関係については、学会とは研究者の集まりであり、サルトル的コンテクストで語られるような「知識人」の集まりではないという意見が出る一方、インターネット時代の現代において、アカデミックな言語と知識人をどうつなぐかという課題も提起された。
サルトル研究そのものに関しては、フランスのGES(Groupe d’études sartriennes)においても、サルトルを実際に知っている人たちから、サルトルを研究対象とみなす若手の研究者たちに中心が変化してきている点、ならびに文学(仏)と哲学(ベルギー)でわけられており、相互交渉がうまく成り立たっていないという情況が紹介された。またサルトル研究においては、彼の根幹に関わる部分やノイズのようなものは無視できないのではないかという主張も提唱された。一方、サルトル思想については、これまで実践の側面ばかりが強調されてきたが、むしろ理論のほうをまずは捉えるべきではないかという意見も投げかけられた。さらに、これまでの日本におけるサルトル研究の蓄積を踏まえ、サルトルと同時代に生きたサルトル研究者たちのオーラル・アーカイヴ保存の必要性が訴えられた。
   
上述のように、報告者のみならず、会場のサルトル研究者たちも巻き込んで白熱した本ワークショップについて、サルトル学会ならでのテーマ設定であるというコメントが会場から寄せられたが、たしかに、のちのサルトル研究においても、必ず語り継がれるであろう討議であった。(竹本研史)


講演
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

ジャン=ピエール・ブーレ氏は、サルトルの自伝『言葉』のロシア語への翻訳者であるレナ・ゾニナをめぐって発表を行った。『言葉』にZ夫人宛ての献辞があることは知られているが、その当の相手レナ・ゾニナ(1922-1985)がどのような人物なのかについては、これまで多くのことは語られてこなかった。
彼女は、サルトルがソ連に公式訪問した際の通訳であり、『言葉』の翻訳者でもあった。サルトルが何度もソ連を訪問したのは、彼のアメリカ滞在がドロレス・ヴァネッティのためであったように、レナ・ゾニナに会うことが主要な目的だったという。人民の敵と目されたユダヤ人家庭に生まれた彼女は、苦労してモスクワ大学に入学し、文学の博士号を取得。イリヤ・エレンブルクの秘書となった後、ソ連作家連合の外国部署でフランス担当コンサルタントとして務め、サルトルが1962年にソ連を訪問した際に、通訳兼ガイドとなり、サルトルの愛人となり、長年交際した。
ブーレ氏は、ボーヴォワールの回想録や、サルトルとゾニナの往復書簡(未刊)、さらにはボーヴォワールが1967年に書いた小説「モスクワでの誤解」(1992年刊行)を用いながら、サルトル、ボーヴォワール、ゾニナの関係を分析。他のトリオの場合とは異なり、ボーヴォワールがゾニナをきわめて知性に富んだ教養ある女性として認め、自分亡き後はサルトルのパートナーだとまで言った点に着目した。ブーレ氏は、デブラ・ベルゴーフェンのシモーヌ・ド・ボーヴォワール研究である『シモーヌ・ド・ボーヴォワールの哲学、現象学化ジェンダー化した現象学、エロス的贈与性』(The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, 1997)などを手がかりに、サルトル、ボーヴォワール、レナ・ゾニナが織りなすトリオの意味に関して考察を展開した。ボーヴォワールの態度のうちに、彼女が『両義性のモラルのために』で素描したgénérosité(鷹揚さ、贈与性)が見出されると指摘するとともに、サルトルが『倫理学ノート』(Cahiers pour une morale)で展開したgénérositéのモチーフがいかにそこに響き合っているかをたいへん積極的に提示した。質疑応答も活発に行われ、サルトルがソ連に対して抱いていた幻想を批判し、現実の姿を知らしめたのが彼女であったことなど、あまり知られていない事実も満載で、たいへん有意義な講演であった。(澤田直)


総会報告
7月12日の例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の改選が行われ、承認されました。
     会長:鈴木道彦(留任)
     代表理事:澤田直(留任)
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次(すべて留任)、翠川博之(新たに就任)
     会計監査:竹本研史、水野浩二(新たに就任)



今後の研究例会予定のお知らせ

次回の研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。
日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)
15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

※発表要旨は出揃い次第、学会ブログに掲載します。


サルトル関連出版物
 ポール・ストラザーン『90分でわかるサルトル』浅見昇吾訳、WAVE出版、2014年10月 (以前、青山出版社から出ていたものの再刊だと思われます)
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2014年12月刊行予定

新規入会者
・ 栗脇永翔氏、永井玲衣氏、中田麻理氏の3名が入会されました。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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