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フランソワ・ヌーデルマン氏滞日中の予定 [事務局よりお知らせ]

共同ワークショップ「サルトル/デリダ」特別講演を含む
フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学)教授の滞日中の講演は次の通りです。
多くの皆様のご参加をお待ちしております。

12月6日(土)13:00〜14:30
特別講演 « Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal » 
日本サルトル学会/脱構築研究会/立教大学文学部フランス文学専修主催
共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
立教大学池袋キャンパス 5501教室 逐次通訳

12月7日(日)17:00 
セミナー « Philosophes à personnalités multiples »
日仏会館 501号室 通訳なし 人文科学系若手研究者セミナー  
司会:澤田直(立教大学・日仏会館学術委員)

12月9日(火)18:00 
一般向け講演 « Penser, jouer, délirer : quand les philosophes touchent à la musique »
日仏会館 1階ホール 通訳有り 
司会:クリストフ・マルケ(日仏会館)、ディスカッサント澤田直(立教大学)

12月11日(木)17:00〜19:00  
講演 « Le mensonge, un génie philosophique »
東京大学UTCP主催 東京大学駒場キャンパス 
司会:桑田光平(東大)

略歴: 1958年生まれ。大学教授資格保持者(文学、1986)、哲学博士(パリ第四大学、1992)。専攻は哲学・文学だが、芸術にも造詣が深く、その分野での著作も多い。ジャック・デリダの後を受け国際哲学コレージュ院長(2001〜2004)、ジョン・ホプキンス大学、ニューヨーク大学の客員教授などを歴任。エドゥアール・グリッサンが設立した全—世界学院のセミナーの責任者も務める。2002年からは、ラジオ・フランス・キュルチュールの哲学番組Les vendredis de la philosophieを制作し、人気を博した。邦訳には、哲学者と音楽との関係を多角的に論じた『哲学者とピアノ サルトル、ニーチェ、バルト』(太田出版)など。

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日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」

次回の第34回研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。

日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修
入場無料・事前予約不要


13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマンFrancois Noudelmann(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)Moderateur: Nao Sawada (Université Rikkyo)
フランス語使用・通訳有り

15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会


以下に要旨を掲載しておきます。


「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
西山雄二(首都大学東京)

 今年刊行された、Edward Baring, The Young Derrida and French Philosophy, 1945–1968 (Cambridge U.P., 2014)は、デリダ・アーカイヴの資料群を調べ上げ、若きデリダがいかに自己形成したのかをテクストの変遷とパリの知識社会の分析から描き出した労作である。デリダは構造主義における現前性の要素を批判し、「ポスト構造主義」を切り開いたとされる。だが、アルジェリアの高校時代から1952年に高等師範学校に入学するまで、若きデリダはサルトルやヴェイユの思想、エチエンヌ・ボルヌのキリスト教実存主義から強い知的刺激を受けている。Baringは、少なくとも1964年に高等師範学校の講師になるまで、デリダは「ポスト実存主義者」と呼称されるような立場にいたと主張する。Baringの著作を紹介する形で、若きデリダと実存主義の関係について発表をおこなう。


「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
北見秀司

 本発表では、まず、『存在と無』が「超現象的なもの les transphénoménaux 」すなわち「現れないもの」の存在論であり、そこで展開される他者論がデリダの言う「現前性の形而上学」を超えていること、したがってサルトル哲学がポスト脱構築的なものであることを示したい。
 ついで、サルトルとデリダのマルクス解釈における相違を指摘したい。共産主義社会は「透明かつ単純」になるというマルクスの発言をもって、マルクスの理論は「脱構築以前 prédéconstructif 」にとどまるとデリダは断ずるが、サルトル弁証法は、この共産主義社会においても他者の他者性・意識の絶対的複数性を保持する理論を提供していることを論じたい。ここから明らかになるのは、現前野を超える他者との関係がどのような場合、抑圧的になるか、またいかなる関係において万人の生と自由を肯定しうるものとなりうるか、ということである。これは、「現前性の形而上学」の脱構築の後に来る、「来たるべき民主主義」のための理論的作業であると見なしうる。サルトルの非人間中心主義的疎外論と弁証法は、今なお猛威を振るい続ける新自由主義の自由観に対抗する上で、重要な復権すべき思想であると思われる。


サルトルとデリダの間――他者の複数性
La pluralité de l’autre ― entre Sartre et Derrida
藤本一勇

 デリダは伝統的な「自己」の哲学に対して「他者」の哲学を展開したとよく言われる。個々人であれ集団であれ、自己の論理に閉塞し、他者を抑圧・排除する体制・システムの暴力構造を暴き、他者の声=痕跡を拾い上げ、他者への歓待によってシステムの自閉を防ぐのだ、と。それが「差異の政治」と呼ばれることもある。しかしそのとき問題になっている「他者」とは、「他性」とはいったい何なのか。体制から排除される他者もあれば、むしろ体制を保持し強化する他者もある(ラカンやアルチュセールが論じるような大文字の《他者》、大他者)。自己や自律に対置された他者や他律は「疎外」の別名ではないのか。他者や他性は根源的に複数的である。では他性の複数性のなかで、どのようにして抑圧的・暴力的な他者とそうでない他者とを区別するのか。開放的な他性と抑圧的な他性の境界線はどこにあるのか。サルトルは『弁証法的理性批判』でこの問題を論じた。はたしてデリダはこの他者の複数性と他者内部の多様な境界線の問いにどこまで答えられているのか。そしてサルトルは? サルトルとデリダにおける他者の複数性の問題を比較検討し、自己の反射装置ではない他者論の可能性を探ってみたい。


文学と哲学の分有 デリダとサルトルの文学論
Partage de la littérature et de la philosophie : Derrida contresigne Sartre
澤田直

 デリダとサルトルが分有する領域は多岐にわたるが、本発表では、二人の哲学者にとっての文学の位置を中心に考察してみたい。デリダが若い頃から文学に強い関心を持っていたことは本人の証言からも明らかだし、作家でもあるサルトルにおいて文学が若き日から中心的な関心事であったことは言うまでもない。だとすれば、彼らにとって哲学と文学との関係はどのようなものであったのだろうか。キルケゴール・ニーチェ以降、二つの領域はクロスオーバーすることが頻繁になったとはいえ、プラトンを思い起こすまでもなく、哲学と文学は長らく相容れぬものとされてきた。哲学者が文学について語ることの意味は何か? 自伝的なものという問題構成も重要ではあるが、本発表では、評論を中心に考察してみたい。デリダが論じた作家たちが、サルトルが取り上げたものと重なっているのは、果たして単なる偶然だろうか。マラルメ、ボードレール、カフカ、ポンジュ、フローベール、ジュネ、ブランショといった両者によって論じられた詩人、作家が提起する問題を糸口に、両哲学者のアプローチ追いながら、文学と哲学の分有について論じることにしたい。



発表者略歴

西山雄二(Yuji Nishiyama)
首都大学東京・准教授。専門はフランス思想。1971年生まれ。一橋大学言語社会研究科博士課程修了(学術博士)。著書に、『カタストロフィと人文学』(編著、勁草書房、2014年)、『人文学と制度』(編著、未來社、2013年)、『哲学への権利』(勁草書房、2011年)、『哲学と大学』(編著、未來社、2009年)、『異議申し立てとしての文学――モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房、2007年)、ほか。訳書に、ジャック・デリダ『獣と主権者 第1巻』(白水社)、『哲学への権利 第1巻』(みすず書房)、『条件なき大学』(月曜社)、『名を救う』(未來社)、ほか。

北見秀司 (Shuji Kitami)
津田塾大学国際関係学科教授。専攻:哲学・社会思想史。1960年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程、単位取得の上、満期退学。パリ第10大学(ナンテール)哲学科博士課程修了。主な著書・論文に、『サルトルとマルクス』(全2巻、春風社、2010−2011年)、「アタック・フランスとフランス緑の党の政策提案」(長砂・荒木・聴濤・岩田・大西・北見『ポスト資本主義を構想する』本の泉社、2014年)、 « Sartre et Merleau-Ponty : l’Autre entre le Visible et l’Invisible --- Démocratie et construction d’une Raison » (Les Temps Modernes, Gallimard, no.572, 1994)など。

藤本一勇(Kazuisa Fujimoto)
早稲田大学文学学術院教授。専門は哲学、表象・メディア論。1966年生まれ。パリ社会科学高等研究院DEA。著書に『情報のマテリアリズム』(NTT出版)、『外国語学』(岩波書店)、『批判感覚の再生』(白澤社)、訳書に、デリダ『プシュケーI』、デリダ『アデュー』、デリダ/ハーバーマス『テロルの時代と哲学の使命』(以上、岩波書店)、デリダ『散種』(共訳)、デリダ『哲学の余白』(以上、法政大学出版局)、ラクー=ラバルト『歴史の詩学』(藤原書店)、フランク・パブロフ『茶色の朝』(大月書店)など。

澤田直(Nao Sawada)
立教大学文学部教授。専門はフランス現代思想、フランス語圏文学。1959年生まれ。パリ第1大学哲学科博士課程修了(哲学博士)。著書に『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』(人文書院)、『新・サルトル講義』(平凡社)、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社)、訳書に、ジャン=ポール・サルトル『言葉』『真理と実存』(以上、人文書院)、『自由への道』(共訳、岩波文庫)、フェルナンド・ペソア『ペソア詩集』(思潮社)『新編 不穏の書、断章』(平凡社)、フィリップ・フォレスト『さりながら』(白水社)『荒木経惟 つひのはてに』『夢、ゆきかひて』(以上、共訳、白水社)など。

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会報41号 [会報]

Bulletin de l' Japonaise d’Etudes Sartriennes N°41 octobre 2014
日本サルトル学会会報            第41号 2014年 10月

研究例会報告

第33回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 7月12日(土) 13:30~18:00
会場: 立教大学キャンパス5号館5210教室

研究発表1
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻里(立教大学 大学院博士後期課程)
司会:黒川学(青山学院大学)

『聖ジュネ』がジュネ受容の大きな土台を作ったのは確かにしても、ジュネの死後、伝記的事実が次々と明らかになるなかで、少なくとも伝記的記述については大幅な見直しが迫られることになった。『聖ジュネ』は今日のジュネ研究においてどのような意味をもっているのだろうか? 中田氏はジュネにおけるセクシュアリティの問題に焦点を当てて、『聖ジュネ』が今日のジュネ研究といかに関わっているのかを明らかにしようとした。
まず中田氏は「コミュニケーション」という問題に着目する。これはバタイユのジュネ論においてすでに提起されていたものである。「ジュネはコミュニケーションを拒否している」というのがバタイユの論であるが、そうしたバタイユの主張はそもそも作者と読者の間の対等な関係を前提としている。これに対し、『聖ジュネ』はジュネ自身が属する「倒錯者たち」と読者を指す「あなたたち」の間の非対称的な関係に対し意識的である点が異なる。その意味で、『聖ジュネ』は異性愛者と同性愛者の非対称的コミュニケーションをいち早く論じたものであると中田氏は指摘する。
そうした『聖ジュネ』の「コミュニケーション」のあり方が引き継がれたものとして、ケイト・ミレットとレオ・ベルサーニのジュネ論を中田氏は挙げる。
ミレットはジュネ作品を、生物学的に男である登場人物たちによって男女の非対称的関係が誇張して示すものであり、そのために異性愛社会に生きる私たちに洞察を与えうるものであると評価する。中田氏によれば、このようなミレットの主張は、サルトルのジュネ論における同性愛の認識が反映されているものである。
つづいて中田氏はベルサーニのジュネ論を検討する。ベルサーニは、小説『葬儀』の読解を通し、ジュネにおける同性愛は孤独への指向であり、同性愛の性行為は「反関係性」を意味するものであると述べている。すなわち、ベルサーニもジュネ作品に「コミュニケーション」の拒否を見出しているのである。ベルサーニはそれを、悪に到達しようする試みとして評価している。この点はサルトルとも類似した点であるが、ベルサーニはジュネにおける悪を、善に対置されるものとしてではなく、外へ向かう運動として捉える点でサルトルとは異なる。サルトルは異性愛社会との対立においてジュネの同性愛を位置づけたが、ベルサーニはそこに異性愛社会からの逃走の意志を見出すのである。ジュネにおける「悪」解釈の方向性こそ異なるが、ベルサーニはジュネの同性愛に異性愛に対する否定的契機を見出しているという点で、『聖ジュネ』を継承しているのではないか、というのが中田氏の主張である。
『聖ジュネ』のみならず、サルトルは『存在と無』においても「現存在」が性的であると主張しており、とりわけ「現存在」に性別を認めなかった(あるいは「中性性」とした)ハイデガーと好対照をなしている。また、サルトルは『嘔吐』や『自由への道』でも同性愛者を登場させている。セクシュアリティについては、サルトル研究においてもよりアクチュアルな議論とつきあわせて考えていく必要性があるのではないか、と筆者は感じた。
質疑応答では、膨大なジュネ研究の中でなぜとりわけミレットとベルサーニが取り上げられたのか等、全体の枠組みの提示が不十分であるのではないかという指摘がなされたほか、フェミニズム研究やクィア理論についてもう少し予備的な説明が欲しいという声があった。しかし、サルトルをアクチュアルなセクシュアリティの議論と結び付けて考えていく上でも有益な発表であったと筆者は考えた。(小林成彬)


ワークショップ
「サルトル研究の現在」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

本ワークショップ開催の契機は、2013年7月6日におこなわれた日本サルトル学会第31回例会の総会に遡る。会長の鈴木道彦氏より、「討論塾」主宰で、サルトル研究の大家でもある竹内芳郎氏による次のような批判が紹介された。「[…]自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(「塾報176」)。こうした発言に対して、学会として批判にどう応えるか、一度議論すべきだと鈴木会長から提起された。それに対して、永野潤氏からは竹内氏の批判を真摯に受け止めるべきだとする発言が、森功次氏からは、特定の政治的立場に偏らず、学問的中立を重んずるべきだという批判がそれぞれなされた。今回は、時間の都合上、同日にはそれ以上深められなかった議論を改めておこなったものである。

司会の翠川博之氏による趣旨説明のあと、鈴木会長から改めて問題提起がなされた。鈴木会長は、竹内氏がサルトル学会の実情を知らないのではないかと疑義を呈したうえで、氏による批判を次のように読み解いた。1:文学・哲学研究一般はどのようにおこなわれるべきか。2:サルトル研究は、とくにどうあるべきか。それを承けて、鈴木会長は、自分にとって、いかにサルトルの思想を正確に読み正しく伝えるかが課題だったと述懐し、自身にとって、生きた同時代人、危険な思想の持ち主であったサルトルが、現在死んだ対象として分析されている現状に違和感があると表明した。
その遠因として、鈴木会長は、上田敏『うづまき』や中島健蔵を援用しながら、東大仏文が大正期より主導的役割を果たし、文学研究に強い影響を与えた日本の文学・哲学研究における一種のディレッタンティズムの陥穽を指摘した。そのうえで彼は、自身の若い頃を振り返り、この陥穽に対してどう対抗すべきかという問題に直面していたと語った。彼によれば、サルトルやプルーストらに強い影響を受けた結果、自らの実存に降り掛かってきた、「在日というマイノリティ」の問題に取り組むことになったそうである。最後に鈴木会長は、サルトルの同時代の人間とサルトル死後の研究者とのあいだでまったく異なるありようを踏まえ、これからのサルトル研究をどう考えるべきかという問いを会場に投げかけた。

続いて、竹内氏からの批判を真摯に受け止めたという永野氏は、自身の論考である「サルトルの知識人論と日本の社会」を提示しながら、大学に入学した1985年ごろ受けた、1:「サルトルは二流の哲学者である」という周囲の哲学・フランス文学専攻の人間からの評価、2:「政治など糞食らえ」という風潮という、「サルトル・バッシング」、「サルトル・フォビア」という現象について振り返った。
さらに永野氏は、森氏の「サルトル学会を、何らかの価値観にコミットした人でしか参加できないような雰囲気にしてしまうのは、学術的にまったく有益ではないので反対」とする主張について、永野氏はそうした意図を否定したうえで、森氏のあげる「何らかの価値観、特定の価値観」に対して、どこにも属していない「中立な」立場などというものは存在しないというのがサルトル自身の主張だったと訴えた。また、『ミシェル・フーコー思考集成』に寄せた松浦寿輝氏の解説を紹介し、フーコーの知識人論に拠りながら、大衆運動を政治的に煽動し、普遍性の番人を僭称する真理と正義の知識人として回収されるような古くさい人間としてサルトル的知識人が描かれていると批判した。これは、サルトルをねじ曲げたうえで、サルトル当人が批判の対象としたものがサルトルのありようとされてバッシングされており、「サルトル・フォビア」や、政治的態度の表明に対する否定的風潮と重なっていると警鐘を鳴らした。

最後に、哲学的なアーギュメントの精査を自身の研究とする森氏が、前回の発言にあった2つの論点を敷衍するかたちで、1:哲学的議論一般に関わる問題、2:左記についてのサルトル研究に内在的な点からそれぞれ論じた。
まず森氏は、〈主張する者〉と〈主張の内容〉と結びつけて倫理的な拒否感に訴える論法が、政治や裁判のような場では機能していることを指摘した。彼は、こうした拒否感を学術的討論の場に持ち込むことに疑問を投げかけ、少なくとも哲学や歴史学などの一部でおこなわれる基礎的な作業に実存を絡める必要はないと主張した。またその作業が、知識人的態度を振舞う人たちの重要な下支えになっていることを忘れてはならず、特定の思想的・倫理的態度を要求しない作業を排除すべきではないと強調した。学会は知識人の集まりではなく、あくまで技術的言語を洗練させる場であると述べた。
次に森氏は、サルトル自身も「人格から乖離された言葉」を用いる作業を哲学の基礎作業として認めていたとして、その理由を2点あげた。1:サルトルは理論的にではあれ、哲学と文学を峻別し、哲学を、専門家のあいだで議論をおこなうための共有可能性を担保する技術的な言語を用いる場だとみなしている点。2:個性と結びついた言語の場合、言語の独創的・芸術的使用を通じてなされるため、哲学とは別の言語使用であるとサルトルが考えている点。以上からサルトルは、ニザンとは異なり、脱個性的な言語使用を哲学に認めていると森氏は指摘した。

報告者たちからの発表後、会場および報告者たちからは、自らとサルトル研究との関わりについて語りながら、サルトル研究のあり方、および学会という組織のあり方などについて次のような活発な意見を交わしあった。
学会と知識人との関係については、学会とは研究者の集まりであり、サルトル的コンテクストで語られるような「知識人」の集まりではないという意見が出る一方、インターネット時代の現代において、アカデミックな言語と知識人をどうつなぐかという課題も提起された。
サルトル研究そのものに関しては、フランスのGES(Groupe d’études sartriennes)においても、サルトルを実際に知っている人たちから、サルトルを研究対象とみなす若手の研究者たちに中心が変化してきている点、ならびに文学(仏)と哲学(ベルギー)でわけられており、相互交渉がうまく成り立たっていないという情況が紹介された。またサルトル研究においては、彼の根幹に関わる部分やノイズのようなものは無視できないのではないかという主張も提唱された。一方、サルトル思想については、これまで実践の側面ばかりが強調されてきたが、むしろ理論のほうをまずは捉えるべきではないかという意見も投げかけられた。さらに、これまでの日本におけるサルトル研究の蓄積を踏まえ、サルトルと同時代に生きたサルトル研究者たちのオーラル・アーカイヴ保存の必要性が訴えられた。
   
上述のように、報告者のみならず、会場のサルトル研究者たちも巻き込んで白熱した本ワークショップについて、サルトル学会ならでのテーマ設定であるというコメントが会場から寄せられたが、たしかに、のちのサルトル研究においても、必ず語り継がれるであろう討議であった。(竹本研史)


講演
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

ジャン=ピエール・ブーレ氏は、サルトルの自伝『言葉』のロシア語への翻訳者であるレナ・ゾニナをめぐって発表を行った。『言葉』にZ夫人宛ての献辞があることは知られているが、その当の相手レナ・ゾニナ(1922-1985)がどのような人物なのかについては、これまで多くのことは語られてこなかった。
彼女は、サルトルがソ連に公式訪問した際の通訳であり、『言葉』の翻訳者でもあった。サルトルが何度もソ連を訪問したのは、彼のアメリカ滞在がドロレス・ヴァネッティのためであったように、レナ・ゾニナに会うことが主要な目的だったという。人民の敵と目されたユダヤ人家庭に生まれた彼女は、苦労してモスクワ大学に入学し、文学の博士号を取得。イリヤ・エレンブルクの秘書となった後、ソ連作家連合の外国部署でフランス担当コンサルタントとして務め、サルトルが1962年にソ連を訪問した際に、通訳兼ガイドとなり、サルトルの愛人となり、長年交際した。
ブーレ氏は、ボーヴォワールの回想録や、サルトルとゾニナの往復書簡(未刊)、さらにはボーヴォワールが1967年に書いた小説「モスクワでの誤解」(1992年刊行)を用いながら、サルトル、ボーヴォワール、ゾニナの関係を分析。他のトリオの場合とは異なり、ボーヴォワールがゾニナをきわめて知性に富んだ教養ある女性として認め、自分亡き後はサルトルのパートナーだとまで言った点に着目した。ブーレ氏は、デブラ・ベルゴーフェンのシモーヌ・ド・ボーヴォワール研究である『シモーヌ・ド・ボーヴォワールの哲学、現象学化ジェンダー化した現象学、エロス的贈与性』(The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, 1997)などを手がかりに、サルトル、ボーヴォワール、レナ・ゾニナが織りなすトリオの意味に関して考察を展開した。ボーヴォワールの態度のうちに、彼女が『両義性のモラルのために』で素描したgénérosité(鷹揚さ、贈与性)が見出されると指摘するとともに、サルトルが『倫理学ノート』(Cahiers pour une morale)で展開したgénérositéのモチーフがいかにそこに響き合っているかをたいへん積極的に提示した。質疑応答も活発に行われ、サルトルがソ連に対して抱いていた幻想を批判し、現実の姿を知らしめたのが彼女であったことなど、あまり知られていない事実も満載で、たいへん有意義な講演であった。(澤田直)


総会報告
7月12日の例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の改選が行われ、承認されました。
     会長:鈴木道彦(留任)
     代表理事:澤田直(留任)
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次(すべて留任)、翠川博之(新たに就任)
     会計監査:竹本研史、水野浩二(新たに就任)



今後の研究例会予定のお知らせ

次回の研究例会は、脱構築研究会との共同で開催されます。
日本サルトル学会/脱構築研究会 共同ワークショップ「サルトル/デリダ」
日時:2014年12月6日(土)13 : 00-18 : 00
場所:立教大学池袋キャンパス 5501教室
主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修

13 : 00-14 :30
第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)
« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »
司会:澤田直(立教大学)
15:00-17 :00
第2部 サルトル×デリダ
西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」
北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」
藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」
澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」
17 :15 -18 :00
第3部 全体討論「サルトルとデリダ」

18:30 懇親会

※発表要旨は出揃い次第、学会ブログに掲載します。


サルトル関連出版物
 ポール・ストラザーン『90分でわかるサルトル』浅見昇吾訳、WAVE出版、2014年10月 (以前、青山出版社から出ていたものの再刊だと思われます)
 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2014年12月刊行予定

新規入会者
・ 栗脇永翔氏、永井玲衣氏、中田麻理氏の3名が入会されました。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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講演会「サルトルと戦争」

11月4日(火)、東京大学本郷キャンパスにおきまして講演会が以下の内容で開催されます。ぜひご来場ください。

日時:2014年11月4日(火) 18:00~19:30

場所:東京大学本郷キャンパス 法文1号館3階317番教室

講演者:ロラン・ジェニー(ジュネーヴ大学名誉教授)    

題目:「サルトルと戦争」

*入場無料、通訳なし、予約不要

詳細につきましては、こちらのファイルをご覧ください。


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国際コロック(オックスフォード)のお知らせ、Penser avec Sartre aujourd’hui. De nouvelles approches pour les études sartriennes ?

オックスフォードのMaison française d’Oxfordで開催されるサルトル関連のコロックの発表募集が出ています。
Penser avec Sartre aujourd’hui. De nouvelles approches pour les études sartriennes ?
Colloque international

開催は2015年の1月30-31日。
発表は英語もしくはフランス語で行われます。
募集の締め切りは9月末です。

詳しくは以下のページを御覧ください。
http://www.fabula.org/actualites/penser-avec-sartre-aujourd-hui-de-nouvelles-approches-pour-les-etudes-sartriennes_64030.php

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会報40号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°40 juin 2014
日本サルトル学会会報            第40号 2014年 6月


次回研究例会のお知らせ

第33回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2014年7月12日(土)13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス5号館 5210号教室

受付開始 13 :00
1. 研究発表 13 :30 ~ 14 :15
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻理(立教大学 大学院博士後期課程)
司会: 黒川学(青山学院大学)

2. ワークショップ「サルトル研究のあり方」 14 :30 ~ 16 :30
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

3. 講演 16 :45 ~ 17 :30
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

総会 17 :40 ~ 18 :00
懇親会 18 :30 ~(会場近くの店を予定しております)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。
当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。



発表要旨

「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻理(立教大学 大学院博士後期課程)

 J-Pサルトルは『聖ジュネ』において、ジュネにとって泥棒であることは、同性愛者であることに先立つとしている。すなわち、孤児で里子であったジュネは、「お前は泥棒だ」という言葉によって決定的に社会から切り離され、その後同性愛者となったのもその延長線上のできごとであるというのである。サルトルによるこうした分析は、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)の決定という点に関しては議論の余地があるものの、ジュネにおける同性愛の本質をマイノリティであることとして見抜いていた点は注目に値する。とりわけ、小説における「語り」に注目するときにそれは重要である。というのもジュネの小説は、同性愛者である語り手が異性愛者である「あなたがた」に語りかけるという形式を有しているが、このとき語り手と読者の関係は、全く対称な二者同士の関係ではありえないためである。同性愛者として語ることは、社会の外からマジョリティである「あなたがた」に語りかけるという非対称的な関係を意味する。サルトルの視点は、こうした関係の非対称性に関して意識的であるため、ジュネにおける「語り」を読み解くに当たって不可欠なのではないだろうか。
 本発表では、こうした見解に基づき、従来ジュネにおける同性愛あるいは作者と読者の関係性を問題にしてきたバタイユ、ミレット、ベルサーニによるジュネ論と対照させ、サルトル的解釈がどのように反映・解釈されてきたのかを検証し、同性愛者として語ることがいかなることであるのかを再考したい。

ワークショップ「サルトル研究のあり方」
司会:翠川博之(東北大学)  
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
  永野潤(フェリス女学院大学他) 
  森功次(日本学術振興会)

  「『語る主体の存在からの言葉の乖離』の問題は、私が戦後サルトルから学んだ<実存主義>の核心的思想−−「世界=内=存在としての己れ自身の存在に責任をとる思想」(それがサルトルのengagementなるものの真義)によってこそ、真の解決を得ると考える。ただ、サルトルが戦後日本の思想界で流行した時には、それは新たに輸入された新衣裳の一つでしかなかったし、そのように自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(討論塾 塾報176より )。『サルトル哲学序説』(1966)、『サルトルとマルクス主義』(1966)の著者である討議塾主宰、竹内芳郎氏によるこの学会批判にどう応えるか。
昨年7月6日の総会で鈴木道彦会長より問題提起が行われ、短い時間のなかで永野潤氏と森功次氏が意見をぶつけあった。本ワークショップは、中断された議論の続きを一同で行うために企画したものである。前半に、鈴木道彦会長、永野潤氏、森功次氏より全体議論に向けて提議をしていただく。


“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University, chercheur invité de l’Université Rikkyo)

Cette communication se concentre sur la relation entre Sartre et Lena Zonina, son interprète lors de ses voyages en URSS et la traductrice des Mots. Guidé par le livre de Debra Bergoffen publié en 1997 The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, [Phénoménologies genrées et générosités érotiques], j’examine également le rôle de Simone de Beauvoir dans cette relation et montre que Beauvoir, de par son attitude, exemplifie le concept de générosité du don que l’on trouve dans Pour une Morale de L’Ambiguïté. Ce texte est mis en dialogue avec Cahiers pour une morale pour montrer que Sartre fait écho à Beauvoir dans sa description de l’amour dans ces cahiers et illustre certains de ses propos théoriques dans sa relation avec Zonina. Les sources utilisées pour examiner cette relation seront les Mémoires de Beauvoir, la correspondance entre Sartre et Zonina (restée inédite) mais aussi la nouvelle de Simone de Beauvoir, Malentendu à Moscou, écrite en 1967 mais qui n’a été publiée qu’en 1992.

 定例会に先だって法政大学においてJean-Pierre Boulé氏の講演と討論会が催されます。併せてご参加ください 。
日時:2014年7月4日(金)17 :00~19 :00. 場所:法政大学市ヶ谷キャンパス富士見坂校舎F310
講演:“Camus and Sartre : Similarities amongst differences.Differences amongst similarities”
討論会;「実存主義の現況」
提題発表:「実存主義の遺産:自由という重荷」司会および提題発表:鈴木正道
講演は英語で行なわれますが日本語の通訳を添えます。討論会の提題発表は日本語で行なわれますが、ブレ教授にはあらかじめ内容を伝えておきます。討論会には来場者が自由に参加できます。発言には適宜通訳を添えます。
予約不要、入場無料。お問い合わせは法政大学 言語・文化センター TEL 03(3264)4742まで



サルトル関連出版物
鈴木恵美「初期大江文学とサルトル受容 : 『鳩』を視軸として」、『日本女子大学大学院文学研究科紀要』 20, 63-76.
関大聡「アメリカン・ウェイ・オブ・アンガジュマン : ジャン=ポール・サルトル『恭しき娼婦』とボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』におけるアメリカの「真実」」、『れにくさ = Реникса : 現代文芸論研究室論集』 5 (3), 256-275.
竹本研史「ジャン=ポール・サルトルと共産党――1946-1957」、『国際関係・比較文化研究』、静岡県立大学国際関係学部、12(2)、71(353)-87(369).


発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。


合同ワークショップのご案内・発表者募集
デリダとサルトルをテーマにしたワークショップを、脱構築研究会と合同で開催いたします。日程は、12月6日(土)、場所は立教大学の予定です。詳細は次号にてお知らせいたします。
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GESのBulletinについて [事務局よりお知らせ]

代表理事の澤田が6月17日火曜日からパリに行き、GESの大会に参加します。Bulletinをご希望の方は、事務局ajes.office★gmail.com(★を@に)までご連絡ください。
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会報39号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°39 mars 2014
日本サルトル学会会報              第39号 2014年 3月

研究例会報告

第32回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 12月7日(土) 13:30~17:00
会場: 関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪

研究発表1
「読書における共感と距離―『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)

赤阪氏は、本発表において、サルトルが、読書における距離をどう考えていたかを明らかにすることを試みる。この問題は、自由や他者との関係などサルトルの思想にとっての主要な主題に関わる。氏は『文学とは何か』および『存在と無』を中心としながら他の作品にも考察の範囲を広げる。
赤阪氏は、「読者における共感」が、読者が自由を放棄して作品に入り込む第一の水準、作品世界を登場人物の観点から経験する第二の水準、三人称や過去時制などの形式によって距離を取ることになる第三の水準から成立つと考える。第一の水準は自由を自らの意思で手放すという意味でサルトルの言う「受難」である。第二の水準では、サルトルが『想像力の問題』において関係や規則をつかむ「純粋知」と区別する「想像的知」によって読者は、未だ定まらない登場人物の世界を生きる。しかし読者は登場人物と完全に一体化することはありえない。第三の水準において読者は人物自身になりながらも他者であるという美的な隔たり(recul esthétique)を持つことになる。赤阪氏はこれを一体化の挫折であるとしながらも、作品の構造や主題を読者が把握するのに役立つ効果であると言う。
赤阪氏は、この後退としての隔たりと、『存在と無』で述べられている、対自存在が世界内存在に対して距離をとる無化的後退(recul néantisant)を比べる。対自は「問いかけ」や「時間化」により、存在と親密な関係を保ちながらも「無化」することで距離を持つのである。美的隔たりと無化的後退は、どちらも意識の成立に関わり、存在との一体化から生じる距離を捉え、さらにこの隔たりが行為の条件となると言う点で共通している。しかし読書ではまず自由の放棄による対象との一体化があり、対象からの離脱は二次的な作用であり、条件付けられる行為も限定されたものである。それに対して、無化的な後退では、離脱は対自の出現そのものを意味し、それにより行為そのものが条件付けられる。
赤阪氏はさらに、『想像力の問題』と『文学とは何か』で表わされたサルトルの読書論を比べる。前者でサルトルは、対象との距離がない夢と、アナロゴンを通して鑑賞者と対象との間に距離が生まれる文学作品やその他の芸術作品を対比する。後者では、あくまでも作者の書いた枠内にありながら、読者が創り出す対象は作家自身の意図と必ずしも一致しないことがある。その意味で「読書は方向づけられた創造」なのである。
赤阪氏は、作品との距離というテーマは、サルトルの哲学の中心を成すものではないが、彼の生涯を貫くテーマであると指摘する。またこれは他者論という彼の中心主題に関わる。他方、体験の分析から作品を評価する手法は、現れた差異に注目してその成立条件を探る現象学的方法にも通じる。氏は、サルトルの他の批評作品などにも分析を広げたいと述べる。
会場からは、サルトルは美的隔たりを読者というよりも作者が置くものとして論じているのではないか、視点と言うよりも単に技法の問題ではないか、サルトルは演劇に比べて小説においてこそ受け手は登場人物と距離が取りにくいと述べているのではないかとの指摘がなされた。司会者から見ると、これまで注目されていない点に焦点を当てて様々な作品を参照した上で、考えを構成した点で、分かりやすく興味を書き立てる発表であった。(鈴木正道)


研究発表2
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場寛(大谷大学)
司会:澤田直(立教大学)

番場氏の発表は、サルトルとラカンがほぼ同時代を生き、かつラカンのほうがサルトルより年長にもかかわらず、実存主義と構造主義のタイムラグのために、むしろサルトルのほうが年上であるかのような錯覚が起こる、という点の指摘から始まった。番場氏は、両者は相互に理論的影響を与えながらも、フロイトの精神分析受容という点では、まったく相容れないことを指摘し、その意味を考察した。
サルトルは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているにも拘わらず、なぜ彼は「実存的精神分析」という呼称を用いるのか、と問いかけながら、その答を番場氏は、『情動論粗描』のうちに探る。この初期の著作の結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定している点に注目したうえで、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす、と指摘した。
続いて、シナリオ『フロイト』をとりあげ、そこでの「抑圧」や「転移」などの基本概念がフロイトにきわめて忠実であることを確認した。ところで、ラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張するが、その点に番場氏は疑問を投げかける。
その後、「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』をとりあげ、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明が行われていることを確認するとともに、ラカンへの言及箇所が見られることを指摘した。
最後に、ラカンがサルトルの「眼差しと目の分裂」を認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定することなどの考察に移り、『存在と無』に見られる「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面があるという指摘がされた。
本会で、ラカンとサルトルとの関係が主題的に論じられた初めての発表であり、内容も盛りだくさんであったため、消化でき切れない部分もあったが、充実した対話となった。(澤田直)


合評会
清眞人『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』(藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

清氏のサルトル論として4冊目となる同書が刊行されてから1年、少々遅ればせながら、この書をめぐって著者本人の参加のもとに議論が交わされた。まず司会者が著書の骨子をまとめ、注目すべき論点を洗い出して著者に疑問を投げかけ、それに対して著者が答え、さらに会場の参加者から質問や意見が寄せられ、著者が答える、という流れで活発なやり取りが進められた。
この著書の中心となる主張は、サルトルがニーチェと対決し、ニーチェを乗り越えることでサルトルとして誕生した、というもので、清氏はその足跡を初期の『想像力の問題』から晩年の『家の馬鹿息子』に至るまで、サルトルの哲学的・伝記的著作の各処に見い出す。特に、想像力論を踏まえてジュネ論で展開される想像的人間という人間造形がニーチェの『ツァラトゥストラ』の読書をとおして生まれたこと、『存在と無』の「存在欲望」という概念がニーチェの「力への意志」を批判的に取り込んだものであること、道徳論の試みをとおして形成される「相互性のモラル」という思想の背景に、ニーチェの「主人道徳」のモラルとの対決があること、『弁証法的理性批判』の暴力論がニーチェの汎暴力的世界観を批判的に乗り越えたものであること、そして、フロベール論における母性愛経験の重視が「相互承認と理解のモラル」へと結びつく点にもニーチェの「性愛還元主義」からの離脱が指摘されること、こうした論点が確認された。
これらの論点について、司会者からは、サルトルの暴力論にはニーチェと直接かかわりのない多くの要素があることや「母性愛」と「相互性のモラル」を直接結びつけることは出来ない等の反論を投げかけ、会場からもサルトルとニーチェの間には初期から対立があった訳ではない、という指摘や、事実と推測との境界が不明瞭で学術的に検証することが難しいとの批判も寄せられた。これらに対して清氏はていねいに回答し、一連の議論をとおして、サルトルとニーチェというテーマが今後さらにアカデミックな手法で深められるべきであるとの方向性が示された。
同書には、バタイユ、レヴィナス、三島も絡んで親和性と差異の織りなす清氏ならではの世界も綴られているが、今回はそこまで深く踏み込むには至らなかった。
なお、この合評会に関連して『週刊読書人』2014年3月7日号に掲載された同書の書評も参照されたい。(生方淳子)



今後の研究例会予定のお知らせ
次回の研究例会は、7月12日(土)を予定しています。開催場所は立教大学です。
1. 研究発表
中田麻理(立教大学大学院) 
「ジュネ研究史における『聖ジュネ』とその今日性」(仮)
2. 講演
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
“Sartre et la traductrice des Mots”
3. ワークショップ「サルトル研究のあり方」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)、永野潤(フェリス女学院大学他)、森功次(日本学術振興会)

サルトル関連出版物
 Jean-Paul Sartre, Qu'est-ce que la subjectivité?, Les Prairies Ordinaire, 2013
 Jean-Paul Sartre, Situations, tome III : Littérature et engagement (février 1947 - avril 1949), Nouvelle édition revue et augmentée par Arlette Elkaïm-Sartre, Gallimard, 2013
 有田英也「サルトル『ユダヤ人問題の考察』再読(上):大量死と社会契約の再構築」、『思想』、2013年8月
 有田英也「サルトル『ユダヤ人問題の考察』再読(下):大量死と社会契約の再構築」、『思想』、2013年9月
 澤田直「サルトルのイマージュ論——不在の写真をめぐって」、塚本昌則編『写真と文学 何がイメージの価値を決めるのか』平凡社、2013年
 竹本研史「稀少性と余計者—―サルトルにおける『集列性』から『集団』へ」、『Résonances ――東京大学大学院総合文化研究科フランス語系学生論文集』、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、第8号、2014年1月
 竹本研史「ジャン=ポール・サルトルと共産党――1946-1957」、『国際関係・比較文化研究』、静岡県立大学国際関係学部、第12巻2号、2014年3月
 根木昭英「ジュネの読者、バタイユとサルトル F. ビゼ『交換=応酬』なきコミュニカシオン』によせて」、Résonances、第8号

論文情報についてのお願い
日本サルトル学会では、日本におけるサルトル関連の発表論文について、国際サルトル学会GESのBulletinに掲載するためにGESに報告しています。論文・著書を発表された方は、著者名/論文名/掲載誌名(提出大学/出版社名)を日本語および欧文にて明記の上、事務局までご連絡ください。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/
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新国立劇場「アルトナの幽閉者」上演中 [演劇]

 以前当ブログでお知らせした(http://ajes.blog.so-net.ne.jp/2013-01-19)新国立劇場での「アルトナの幽閉者」の上演がはじまっています。(特設サイト→http://atre.jp/14daltona/index.html
 3月9日(日)までです。当日学生割引や、25歳以下(社会人も可)向けのアカデミックプランなどもあるそうですので、以下の特設サイトブログ記事をごらんください。
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「アルトナの幽閉者」特設サイトブログ
<当日学生割引(50%OFF)のご案内>
http://atre.jp/14daltona/blog/?p=299
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会場:新国立劇場 小劇場
公演日程:2月19日(水)~3月9日(日)
作 ジャン=ポール・サルトル
翻訳 岩切正一郎
演出 上村聡史
出演:岡本健一、美 波、横田栄司、吉本菜穂子、北川 響、西村壮悟、辻 萬長
料金:A席 5,250 円 B席 3,150 円

【チケット申し込み・問い合わせ】
新国立劇場ボックスオフィス TEL:03-5352-9999 (10:00~18:00)
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第31回研究例会のお知らせ・発表要旨 [研究例会のお知らせ]

●研究例会のお知らせ
 先にお知らせした第31回研究例会ですが、発表者お二方の発表要旨がそろいましたので、あらためて以下の通りご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:12月7日(土) 13:30~17:00
会場:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪 13階・11号室(※)
アクセスマップ(http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html)

受付開始  13:00
研究発表1 13:30~14:30
「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)
(要旨は下記)

研究発表2 14:40~15:40
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場 寛(大谷大学)
司 会:澤田直(立教大学)

合 評 会 16:00~16:50
清 眞人 『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』 (藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

懇 親 会  17:30 (会場近くの店を予定しております。)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

発表要旨

赤阪辰太郎「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
 本発表は、サルトルが1940年代の著作において、読書行為を問題とする際に用いるrecul esthéthique概念を中心的に扱う。発表者は、この概念が読者と文学作品とのあいだにあらかじめ設定される距離を意味するのではなく、距離の発生を問題化する際に導入された概念である、と主張する。
 上の主張を、以下の2つの観点からの考察を通じて裏付けする。①読書行為における共感sympathieについてのサルトルの議論を参照する。発表者は、サルトルのいう共感を、作品の信憑という水準から、作品から適切な距離をとりながら作品について評価を下しうる立場へと移り変わることで到達できるものであると主張するだろう。この移行の過程にrecul esthéthiqueが関連する。②『存在と無』において用いられるrecul néantisantが静的な距離ではなく、距離を発生させるという意味で動的な概念であることを示し、両概念の共通点と違いを明確化する。そのなかで、サルトルがreculという語にもたせた含意を明らかにする。
 発表の後半では、戦前の著作である『想像力の問題』と戦後に刊行された『文学とは何か』に見られる論述の差異に着目し、読書行為の構造についての共通点を指摘すると同時に、読書を通じて出会う対象について差異があることを示し、サルトルの読書行為論の発展の過程を辿る。

番場寛「ラカンと/のサルトル」
 本発表は、ラカンがサルトルからいかに理論的影響を受けながらも、共にフロイトの精神分析という点では、むしろ相容れない二人の理論的特徴を際立たせることである。
 サルトルの唱える「実存的精神分析」とは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているという点でいわゆる精神分析とは矛盾しているがそれにも拘わらず、かれがフロイト理論に執着するのはなぜなのであろうか?
 サルトルは『情動論粗描』においての結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定するのだが、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす。
 サルトルは依頼された仕事とはいえ『フロイト』というシナリオにおいては、登場人物に、「抑圧」や「転移」などフロイトの基本概念を忠実に言わせていることに驚かされる。
 フロイトを引き継いだラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張する。
 「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』を読むことができるが、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明している。また、この著作においては、サルトル自身がラカンに言及している箇所が見られる。サルトルが引き合いに出している箇所は現在のところ発見できていないが、彼がラカンを意識していたことは分かる。
 では、ラカンはサルトルの理論をどのように理解し、それをどのように自らのものとし、さらにそれを元に自己の理論を発展させていったのかを、「狂気に対する考え方」「眼差しと眼」「不安の原因」「欲望」「二つの存在欠如」という点に注目して、二人の理論の類似点と差異を明らかにしたい。
ラカンはサルトルの「眼差しと目の分裂」は認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定する。
 サルトルにおいては「存在欠如」が「欲望」の源泉とされたが、「人間の欲望は<他者Autre>の欲望である」と断言するラカンにとっての「他者」とは「シニフィアンの宝庫」である。この両者の「他者」概念の違いは「主体」概念の違いにおいても顕著である。「あるシニフィアンはもう一つの別のシニフィアンに対し主体を代理表象するreprésenter」と定義するラカンにとって、主体とはシニフィアンの連鎖の効果として生じる存在なのである。
「無」を前にした実存が覚えるものとして「不安」を捉えたのに対し、ラカンにとっては、「欠如」の意識である「欲望」にとっての必要条件である「欠如」がなくなることが「不安」を引き起こすという論理である。ラカンによれば、その不安を引き起こす対象は「モノ La Chose」 であり、「対象a」とも呼ばれるものである。 
 サルトルが『存在と無』で「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面も見ることができるように思える。
 また、デリダ『真理の配達人』でのラカンの精神分析の批判は、サルトルが一貫して否定し続けた「フロイト的無意識」への批判とも繋がるのではないかと思える。
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