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講演会「サルトルと戦争」

11月4日(火)、東京大学本郷キャンパスにおきまして講演会が以下の内容で開催されます。ぜひご来場ください。

日時:2014年11月4日(火) 18:00~19:30

場所:東京大学本郷キャンパス 法文1号館3階317番教室

講演者:ロラン・ジェニー(ジュネーヴ大学名誉教授)    

題目:「サルトルと戦争」

*入場無料、通訳なし、予約不要

詳細につきましては、こちらのファイルをご覧ください。


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国際コロック(オックスフォード)のお知らせ、Penser avec Sartre aujourd’hui. De nouvelles approches pour les études sartriennes ?

オックスフォードのMaison française d’Oxfordで開催されるサルトル関連のコロックの発表募集が出ています。
Penser avec Sartre aujourd’hui. De nouvelles approches pour les études sartriennes ?
Colloque international

開催は2015年の1月30-31日。
発表は英語もしくはフランス語で行われます。
募集の締め切りは9月末です。

詳しくは以下のページを御覧ください。
http://www.fabula.org/actualites/penser-avec-sartre-aujourd-hui-de-nouvelles-approches-pour-les-etudes-sartriennes_64030.php

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会報40号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°40 juin 2014
日本サルトル学会会報            第40号 2014年 6月


次回研究例会のお知らせ

第33回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:2014年7月12日(土)13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス5号館 5210号教室

受付開始 13 :00
1. 研究発表 13 :30 ~ 14 :15
「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻理(立教大学 大学院博士後期課程)
司会: 黒川学(青山学院大学)

2. ワークショップ「サルトル研究のあり方」 14 :30 ~ 16 :30
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
永野潤(フェリス女学院大学他)
森功次(日本学術振興会)

3. 講演 16 :45 ~ 17 :30
“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
Modérateur : Nao Sawada (Université Rikkyo)

総会 17 :40 ~ 18 :00
懇親会 18 :30 ~(会場近くの店を予定しております)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。
当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。



発表要旨

「『聖ジュネ』とホモセクシュアリティ」
発表者:中田麻理(立教大学 大学院博士後期課程)

 J-Pサルトルは『聖ジュネ』において、ジュネにとって泥棒であることは、同性愛者であることに先立つとしている。すなわち、孤児で里子であったジュネは、「お前は泥棒だ」という言葉によって決定的に社会から切り離され、その後同性愛者となったのもその延長線上のできごとであるというのである。サルトルによるこうした分析は、性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)の決定という点に関しては議論の余地があるものの、ジュネにおける同性愛の本質をマイノリティであることとして見抜いていた点は注目に値する。とりわけ、小説における「語り」に注目するときにそれは重要である。というのもジュネの小説は、同性愛者である語り手が異性愛者である「あなたがた」に語りかけるという形式を有しているが、このとき語り手と読者の関係は、全く対称な二者同士の関係ではありえないためである。同性愛者として語ることは、社会の外からマジョリティである「あなたがた」に語りかけるという非対称的な関係を意味する。サルトルの視点は、こうした関係の非対称性に関して意識的であるため、ジュネにおける「語り」を読み解くに当たって不可欠なのではないだろうか。
 本発表では、こうした見解に基づき、従来ジュネにおける同性愛あるいは作者と読者の関係性を問題にしてきたバタイユ、ミレット、ベルサーニによるジュネ論と対照させ、サルトル的解釈がどのように反映・解釈されてきたのかを検証し、同性愛者として語ることがいかなることであるのかを再考したい。

ワークショップ「サルトル研究のあり方」
司会:翠川博之(東北大学)  
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)
  永野潤(フェリス女学院大学他) 
  森功次(日本学術振興会)

  「『語る主体の存在からの言葉の乖離』の問題は、私が戦後サルトルから学んだ<実存主義>の核心的思想−−「世界=内=存在としての己れ自身の存在に責任をとる思想」(それがサルトルのengagementなるものの真義)によってこそ、真の解決を得ると考える。ただ、サルトルが戦後日本の思想界で流行した時には、それは新たに輸入された新衣裳の一つでしかなかったし、そのように自分自身の実存とは無関係に彼の実存主義をとり上げる態度は、わが国では最近の若い研究者たちの作る『サルトル研究会』にさえも形を変えて継承されている」(討論塾 塾報176より )。『サルトル哲学序説』(1966)、『サルトルとマルクス主義』(1966)の著者である討議塾主宰、竹内芳郎氏によるこの学会批判にどう応えるか。
昨年7月6日の総会で鈴木道彦会長より問題提起が行われ、短い時間のなかで永野潤氏と森功次氏が意見をぶつけあった。本ワークショップは、中断された議論の続きを一同で行うために企画したものである。前半に、鈴木道彦会長、永野潤氏、森功次氏より全体議論に向けて提議をしていただく。


“Sartre et la traductrice des Mots”
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University, chercheur invité de l’Université Rikkyo)

Cette communication se concentre sur la relation entre Sartre et Lena Zonina, son interprète lors de ses voyages en URSS et la traductrice des Mots. Guidé par le livre de Debra Bergoffen publié en 1997 The Philosophy of Simone de Beauvoir, Gendered Phenomenologies, Erotic Generosities, [Phénoménologies genrées et générosités érotiques], j’examine également le rôle de Simone de Beauvoir dans cette relation et montre que Beauvoir, de par son attitude, exemplifie le concept de générosité du don que l’on trouve dans Pour une Morale de L’Ambiguïté. Ce texte est mis en dialogue avec Cahiers pour une morale pour montrer que Sartre fait écho à Beauvoir dans sa description de l’amour dans ces cahiers et illustre certains de ses propos théoriques dans sa relation avec Zonina. Les sources utilisées pour examiner cette relation seront les Mémoires de Beauvoir, la correspondance entre Sartre et Zonina (restée inédite) mais aussi la nouvelle de Simone de Beauvoir, Malentendu à Moscou, écrite en 1967 mais qui n’a été publiée qu’en 1992.

 定例会に先だって法政大学においてJean-Pierre Boulé氏の講演と討論会が催されます。併せてご参加ください 。
日時:2014年7月4日(金)17 :00~19 :00. 場所:法政大学市ヶ谷キャンパス富士見坂校舎F310
講演:“Camus and Sartre : Similarities amongst differences.Differences amongst similarities”
討論会;「実存主義の現況」
提題発表:「実存主義の遺産:自由という重荷」司会および提題発表:鈴木正道
講演は英語で行なわれますが日本語の通訳を添えます。討論会の提題発表は日本語で行なわれますが、ブレ教授にはあらかじめ内容を伝えておきます。討論会には来場者が自由に参加できます。発言には適宜通訳を添えます。
予約不要、入場無料。お問い合わせは法政大学 言語・文化センター TEL 03(3264)4742まで



サルトル関連出版
鈴木恵美「初期大江文学とサルトル受容 : 『鳩』を視軸として」、『日本女子大学大学院文学研究科紀要』 20, 63-76.
関大聡「アメリカン・ウェイ・オブ・アンガジュマン : ジャン=ポール・サルトル『恭しき娼婦』とボリス・ヴィアン『墓に唾をかけろ』におけるアメリカの「真実」」、『れにくさ = Реникса : 現代文芸論研究室論集』 5 (3), 256-275.
竹本研史「ジャン=ポール・サルトルと共産党――1946-1957」、『国際関係・比較文化研究』、静岡県立大学国際関係学部、12(2)、71(353)-87(369).


発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行っております。


合同ワークショップのご案内・発表者募集
デリダとサルトルをテーマにしたワークショップを、脱構築研究会と合同で開催いたします。日程は、12月6日(土)、場所は立教大学の予定です。詳細は次号にてお知らせいたします。
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GESのBulletinについて [事務局よりお知らせ]

代表理事の澤田が6月17日火曜日からパリに行き、GESの大会に参加します。Bulletinをご希望の方は、事務局ajes.officegmail.com(★を@に)までご連絡ください。
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会報39号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°39 mars 2014
日本サルトル学会会報              第39号 2014年 3月

研究例会報告

第32回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
日時: 12月7日(土) 13:30~17:00
会場: 関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪

研究発表1
「読書における共感と距離―『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)

赤阪氏は、本発表において、サルトルが、読書における距離をどう考えていたかを明らかにすることを試みる。この問題は、自由や他者との関係などサルトルの思想にとっての主要な主題に関わる。氏は『文学とは何か』および『存在と無』を中心としながら他の作品にも考察の範囲を広げる。
赤阪氏は、「読者における共感」が、読者が自由を放棄して作品に入り込む第一の水準、作品世界を登場人物の観点から経験する第二の水準、三人称や過去時制などの形式によって距離を取ることになる第三の水準から成立つと考える。第一の水準は自由を自らの意思で手放すという意味でサルトルの言う「受難」である。第二の水準では、サルトルが『想像力の問題』において関係や規則をつかむ「純粋知」と区別する「想像的知」によって読者は、未だ定まらない登場人物の世界を生きる。しかし読者は登場人物と完全に一体化することはありえない。第三の水準において読者は人物自身になりながらも他者であるという美的な隔たり(recul esthétique)を持つことになる。赤阪氏はこれを一体化の挫折であるとしながらも、作品の構造や主題を読者が把握するのに役立つ効果であると言う。
赤阪氏は、この後退としての隔たりと、『存在と無』で述べられている、対自存在が世界内存在に対して距離をとる無化的後退(recul néantisant)を比べる。対自は「問いかけ」や「時間化」により、存在と親密な関係を保ちながらも「無化」することで距離を持つのである。美的隔たりと無化的後退は、どちらも意識の成立に関わり、存在との一体化から生じる距離を捉え、さらにこの隔たりが行為の条件となると言う点で共通している。しかし読書ではまず自由の放棄による対象との一体化があり、対象からの離脱は二次的な作用であり、条件付けられる行為も限定されたものである。それに対して、無化的な後退では、離脱は対自の出現そのものを意味し、それにより行為そのものが条件付けられる。
赤阪氏はさらに、『想像力の問題』と『文学とは何か』で表わされたサルトルの読書論を比べる。前者でサルトルは、対象との距離がない夢と、アナロゴンを通して鑑賞者と対象との間に距離が生まれる文学作品やその他の芸術作品を対比する。後者では、あくまでも作者の書いた枠内にありながら、読者が創り出す対象は作家自身の意図と必ずしも一致しないことがある。その意味で「読書は方向づけられた創造」なのである。
赤阪氏は、作品との距離というテーマは、サルトルの哲学の中心を成すものではないが、彼の生涯を貫くテーマであると指摘する。またこれは他者論という彼の中心主題に関わる。他方、体験の分析から作品を評価する手法は、現れた差異に注目してその成立条件を探る現象学的方法にも通じる。氏は、サルトルの他の批評作品などにも分析を広げたいと述べる。
会場からは、サルトルは美的隔たりを読者というよりも作者が置くものとして論じているのではないか、視点と言うよりも単に技法の問題ではないか、サルトルは演劇に比べて小説においてこそ受け手は登場人物と距離が取りにくいと述べているのではないかとの指摘がなされた。司会者から見ると、これまで注目されていない点に焦点を当てて様々な作品を参照した上で、考えを構成した点で、分かりやすく興味を書き立てる発表であった。(鈴木正道)


研究発表2
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場寛(大谷大学)
司会:澤田直(立教大学)

番場氏の発表は、サルトルとラカンがほぼ同時代を生き、かつラカンのほうがサルトルより年長にもかかわらず、実存主義と構造主義のタイムラグのために、むしろサルトルのほうが年上であるかのような錯覚が起こる、という点の指摘から始まった。番場氏は、両者は相互に理論的影響を与えながらも、フロイトの精神分析受容という点では、まったく相容れないことを指摘し、その意味を考察した。
サルトルは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているにも拘わらず、なぜ彼は「実存的精神分析」という呼称を用いるのか、と問いかけながら、その答を番場氏は、『情動論粗描』のうちに探る。この初期の著作の結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定している点に注目したうえで、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす、と指摘した。
続いて、シナリオ『フロイト』をとりあげ、そこでの「抑圧」や「転移」などの基本概念がフロイトにきわめて忠実であることを確認した。ところで、ラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張するが、その点に番場氏は疑問を投げかける。
その後、「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』をとりあげ、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明が行われていることを確認するとともに、ラカンへの言及箇所が見られることを指摘した。
最後に、ラカンがサルトルの「眼差しと目の分裂」を認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定することなどの考察に移り、『存在と無』に見られる「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面があるという指摘がされた。
本会で、ラカンとサルトルとの関係が主題的に論じられた初めての発表であり、内容も盛りだくさんであったため、消化でき切れない部分もあったが、充実した対話となった。(澤田直)


合評会
清眞人『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』(藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

清氏のサルトル論として4冊目となる同書が刊行されてから1年、少々遅ればせながら、この書をめぐって著者本人の参加のもとに議論が交わされた。まず司会者が著書の骨子をまとめ、注目すべき論点を洗い出して著者に疑問を投げかけ、それに対して著者が答え、さらに会場の参加者から質問や意見が寄せられ、著者が答える、という流れで活発なやり取りが進められた。
この著書の中心となる主張は、サルトルがニーチェと対決し、ニーチェを乗り越えることでサルトルとして誕生した、というもので、清氏はその足跡を初期の『想像力の問題』から晩年の『家の馬鹿息子』に至るまで、サルトルの哲学的・伝記的著作の各処に見い出す。特に、想像力論を踏まえてジュネ論で展開される想像的人間という人間造形がニーチェの『ツァラトゥストラ』の読書をとおして生まれたこと、『存在と無』の「存在欲望」という概念がニーチェの「力への意志」を批判的に取り込んだものであること、道徳論の試みをとおして形成される「相互性のモラル」という思想の背景に、ニーチェの「主人道徳」のモラルとの対決があること、『弁証法的理性批判』の暴力論がニーチェの汎暴力的世界観を批判的に乗り越えたものであること、そして、フロベール論における母性愛経験の重視が「相互承認と理解のモラル」へと結びつく点にもニーチェの「性愛還元主義」からの離脱が指摘されること、こうした論点が確認された。
これらの論点について、司会者からは、サルトルの暴力論にはニーチェと直接かかわりのない多くの要素があることや「母性愛」と「相互性のモラル」を直接結びつけることは出来ない等の反論を投げかけ、会場からもサルトルとニーチェの間には初期から対立があった訳ではない、という指摘や、事実と推測との境界が不明瞭で学術的に検証することが難しいとの批判も寄せられた。これらに対して清氏はていねいに回答し、一連の議論をとおして、サルトルとニーチェというテーマが今後さらにアカデミックな手法で深められるべきであるとの方向性が示された。
同書には、バタイユ、レヴィナス、三島も絡んで親和性と差異の織りなす清氏ならではの世界も綴られているが、今回はそこまで深く踏み込むには至らなかった。
なお、この合評会に関連して『週刊読書人』2014年3月7日号に掲載された同書の書評も参照されたい。(生方淳子)



今後の研究例会予定のお知らせ
次回の研究例会は、7月12日(土)を予定しています。開催場所は立教大学です。
1. 研究発表
中田麻理(立教大学大学院) 
「ジュネ研究史における『聖ジュネ』とその今日性」(仮)
2. 講演
Jean-Pierre Boulé (Nottingham Trent University)
“Sartre et la traductrice des Mots”
3. ワークショップ「サルトル研究のあり方」
司会:翠川博之(東北大学)
話題提供者:鈴木道彦(獨協大学名誉教授)、永野潤(フェリス女学院大学他)、森功次(日本学術振興会)

サルトル関連出版物
 Jean-Paul Sartre, Qu'est-ce que la subjectivité?, Les Prairies Ordinaire, 2013
 Jean-Paul Sartre, Situations, tome III : Littérature et engagement (février 1947 - avril 1949), Nouvelle édition revue et augmentée par Arlette Elkaïm-Sartre, Gallimard, 2013
 有田英也「サルトル『ユダヤ人問題の考察』再読(上):大量死と社会契約の再構築」、『思想』、2013年8月
 有田英也「サルトル『ユダヤ人問題の考察』再読(下):大量死と社会契約の再構築」、『思想』、2013年9月
 澤田直「サルトルのイマージュ論——不在の写真をめぐって」、塚本昌則編『写真と文学 何がイメージの価値を決めるのか』平凡社、2013年
 竹本研史「稀少性と余計者—―サルトルにおける『集列性』から『集団』へ」、『Résonances ――東京大学大学院総合文化研究科フランス語系学生論文集』、東京大学教養学部フランス語・イタリア語部会、第8号、2014年1月
 竹本研史「ジャン=ポール・サルトルと共産党――1946-1957」、『国際関係・比較文化研究』、静岡県立大学国際関係学部、第12巻2号、2014年3月
 根木昭英「ジュネの読者、バタイユとサルトル F. ビゼ『交換=応酬』なきコミュニカシオン』によせて」、Résonances、第8号

論文情報についてのお願い
日本サルトル学会では、日本におけるサルトル関連の発表論文について、国際サルトル学会GESのBulletinに掲載するためにGESに報告しています。論文・著書を発表された方は、著者名/論文名/掲載誌名(提出大学/出版社名)を日本語および欧文にて明記の上、事務局までご連絡ください。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/
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新国立劇場「アルトナの幽閉者」上演中 [演劇]

 以前当ブログでお知らせした(http://ajes.blog.so-net.ne.jp/2013-01-19)新国立劇場での「アルトナの幽閉者」の上演がはじまっています。(特設サイト→http://atre.jp/14daltona/index.html
 3月9日(日)までです。当日学生割引や、25歳以下(社会人も可)向けのアカデミックプランなどもあるそうですので、以下の特設サイトブログ記事をごらんください。
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「アルトナの幽閉者」特設サイトブログ
<当日学生割引(50%OFF)のご案内>
http://atre.jp/14daltona/blog/?p=299
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会場:新国立劇場 小劇場
公演日程:2月19日(水)~3月9日(日)
作 ジャン=ポール・サルトル
翻訳 岩切正一郎
演出 上村聡史
出演:岡本健一、美 波、横田栄司、吉本菜穂子、北川 響、西村壮悟、辻 萬長
料金:A席 5,250 円 B席 3,150 円

チケット申し込み・問い合わせ】
新国立劇場ボックスオフィス TEL:03-5352-9999 (10:00~18:00)
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第31回研究例会のお知らせ・発表要旨 [研究例会のお知らせ]

●研究例会のお知らせ
 先にお知らせした第31回研究例会ですが、発表者お二方の発表要旨がそろいましたので、あらためて以下の通りご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:12月7日(土) 13:30~17:00
会場:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪 13階・11号室(※)
アクセスマップ(http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html)

受付開始  13:00
研究発表1 13:30~14:30
「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院
司会:鈴木正道(法政大学)
(要旨は下記)

研究発表2 14:40~15:40
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場 寛(大谷大学)
司 会:澤田直(立教大学)

合 評 会 16:00~16:50
清 眞人 『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』 (藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

懇 親 会  17:30 (会場近くの店を予定しております。)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

発表要旨

赤阪辰太郎「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
 本発表は、サルトルが1940年代の著作において、読書行為を問題とする際に用いるrecul esthéthique概念を中心的に扱う。発表者は、この概念が読者と文学作品とのあいだにあらかじめ設定される距離を意味するのではなく、距離の発生を問題化する際に導入された概念である、と主張する。
 上の主張を、以下の2つの観点からの考察を通じて裏付けする。①読書行為における共感sympathieについてのサルトルの議論を参照する。発表者は、サルトルのいう共感を、作品の信憑という水準から、作品から適切な距離をとりながら作品について評価を下しうる立場へと移り変わることで到達できるものであると主張するだろう。この移行の過程にrecul esthéthiqueが関連する。②『存在と無』において用いられるrecul néantisantが静的な距離ではなく、距離を発生させるという意味で動的な概念であることを示し、両概念の共通点と違いを明確化する。そのなかで、サルトルがreculという語にもたせた含意を明らかにする。
 発表の後半では、戦前の著作である『想像力の問題』と戦後に刊行された『文学とは何か』に見られる論述の差異に着目し、読書行為の構造についての共通点を指摘すると同時に、読書を通じて出会う対象について差異があることを示し、サルトルの読書行為論の発展の過程を辿る。

番場寛「ラカンと/のサルトル」
 本発表は、ラカンがサルトルからいかに理論的影響を受けながらも、共にフロイトの精神分析という点では、むしろ相容れない二人の理論的特徴を際立たせることである。
 サルトルの唱える「実存的精神分析」とは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているという点でいわゆる精神分析とは矛盾しているがそれにも拘わらず、かれがフロイト理論に執着するのはなぜなのであろうか?
 サルトルは『情動論粗描』においての結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定するのだが、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす。
 サルトルは依頼された仕事とはいえ『フロイト』というシナリオにおいては、登場人物に、「抑圧」や「転移」などフロイトの基本概念を忠実に言わせていることに驚かされる。
 フロイトを引き継いだラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張する。
 「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』を読むことができるが、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明している。また、この著作においては、サルトル自身がラカンに言及している箇所が見られる。サルトルが引き合いに出している箇所は現在のところ発見できていないが、彼がラカンを意識していたことは分かる。
 では、ラカンはサルトルの理論をどのように理解し、それをどのように自らのものとし、さらにそれを元に自己の理論を発展させていったのかを、「狂気に対する考え方」「眼差しと眼」「不安の原因」「欲望」「二つの存在欠如」という点に注目して、二人の理論の類似点と差異を明らかにしたい。
ラカンはサルトルの「眼差しと目の分裂」は認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定する。
 サルトルにおいては「存在欠如」が「欲望」の源泉とされたが、「人間の欲望は<他者Autre>の欲望である」と断言するラカンにとっての「他者」とは「シニフィアンの宝庫」である。この両者の「他者」概念の違いは「主体」概念の違いにおいても顕著である。「あるシニフィアンはもう一つの別のシニフィアンに対し主体を代理表象するreprésenter」と定義するラカンにとって、主体とはシニフィアンの連鎖の効果として生じる存在なのである。
「無」を前にした実存が覚えるものとして「不安」を捉えたのに対し、ラカンにとっては、「欠如」の意識である「欲望」にとっての必要条件である「欠如」がなくなることが「不安」を引き起こすという論理である。ラカンによれば、その不安を引き起こす対象は「モノ La Chose」 であり、「対象a」とも呼ばれるものである。 
 サルトルが『存在と無』で「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面も見ることができるように思える。
 また、デリダ『真理の配達人』でのラカンの精神分析の批判は、サルトルが一貫して否定し続けた「フロイト的無意識」への批判とも繋がるのではないかと思える。
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日本サルトル学会会報第38号 [研究例会のお知らせ]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°38 Novembre 2013
日本サルトル学会会報              第38号 2013年 11月

●研究例会のお知らせ

 第31回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:12月7日(土) 13:30~17:00
会場:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪 13階・11号室(※)
アクセスマップ(http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html)

受付開始  13:00
研究発表1 13:30~14:30
「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)
(要旨は下記)

研究発表2 14:40~15:40
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場 寛(大谷大学)
司 会:澤田直(立教大学)

合 評 会 16:00~16:50
清 眞人 『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』 (藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

懇 親 会  17:30 (会場近くの店を予定しております。)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

発表要旨

赤阪辰太郎「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」

 本発表は、サルトルが1940年代の著作において、読書行為を問題とする際に用いるrecul esthéthique概念を中心的に扱う。発表者は、この概念が読者と文学作品とのあいだにあらかじめ設定される距離を意味するのではなく、距離の発生を問題化する際に導入された概念である、と主張する。
 上の主張を、以下の2つの観点からの考察を通じて裏付けする。①読書行為における共感sympathieについてのサルトルの議論を参照する。発表者は、サルトルのいう共感を、作品の信憑という水準から、作品から適切な距離をとりながら作品について評価を下しうる立場へと移り変わることで到達できるものであると主張するだろう。この移行の過程にrecul esthéthiqueが関連する。②『存在と無』において用いられるrecul néantisantが静的な距離ではなく、距離を発生させるという意味で動的な概念であることを示し、両概念の共通点と違いを明確化する。そのなかで、サルトルがreculという語にもたせた含意を明らかにする。
 発表の後半では、戦前の著作である『想像力の問題』と戦後に刊行された『文学とは何か』に見られる論述の差異に着目し、読書行為の構造についての共通点を指摘すると同時に、読書を通じて出会う対象について差異があることを示し、サルトルの読書行為論の発展の過程を辿る。

●GES国際サルトル学会から発表公募のお知らせ

Groupe d’Etudes Sartriennesから以下の要領で発表の公募がありましたので、お知らせします。関心のある方は奮ってご応募ください。テーマの詳細は日本サルトル学会のホームページに掲載します。

Appel à communications

Le Groupe d’Études Sartriennes se propose, pour son colloque annuel qui aura lieu les 20 et 21 juin 2014 à la Sorbonne, d’organiser une série de conférences sur les thèmes suivants :

1. Philosophie : Le rôle de l’exemple dans la pensée de Sartre
2. Littérature : Sartre, un théâtre en situation(s)
3. Varia

Les propositions de communication sont à faire parvenir à l’un des secrétaires du GES pour le 31 janvier 2014. Les communications ne devront pas excéder 30 mn.

Prière de faire parvenir vos propositions de communication (titre et résumé en un paragraphe) à l’adresse électronique personnelle des secrétaires, et non à l’adresse du GES. En cas d’envoi postal, merci de les adresser à Florence Caeymaex.

Président du GES :
Michel Contat

Secrétariat du GES :
Alexis Chabot

Florence Caeymaex )
7, Pl. du XX août (A1) 4000 Liège (Belgique)

●理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、ajes.office★gmail.com(★を半角の@に直してください)までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

(※)先に郵送された紙版の会報では「関西学院大学」が「関西大学」になっていました。お詫びして訂正いたします。
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日本サルトル学界会報第37号 [会報]

研究例会の報告

 第31回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 7月6日(日) 14:00~17:00
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5210教室

研究発表1
「サルトル/ファノン試論」
発表:中村隆之(大東文化大学)
司会:鈴木正道(法政大学)

 中村氏は、サルトルの反植民地主義という戦いをフランツ・ファノンとの関係を軸に考える。二人の思想家の互いに投げかけた呼びかけを、当時の読み手の姿勢を視点に入れながら辿り、さらに現代に結び付けて考えようとする発表である。
 中村氏は、まずサルトルの状況論を分析する。サルトルは戦後すぐに、アンガージュマンという考えを掲げ、時代に即して書くことを心がけ、それゆえに時代状況の変化にともない忘れられる傾向があった。またユダヤ人問題に関して「本源的ユダヤ人/非本源的ユダヤ人」という軸で考察しているように、実践的というよりも倫理的な観点から彼の状況に対するアンガージュマンは展開した。
 レオポルド・サンゴールの詩選集への序文「黒いオルフェ」は、サルトルの、ネグリチュードという呼びかけに対する答えと考えることができる。ユダヤ性とは異なり見た目で明らかな肌の色がここでは扱われている。しかし白と黒の対立は止揚されるべきものとして捉えられ、また階級の対立という普遍的な問題に対して個別的で二義的な問題とされる点で、思弁的な結論となっていると中村氏は指摘する。
 歴史における止揚の一段階としてのネグリチュードという考えは、ファノンにとっては受け入れがたかったと中村氏は続ける。サルトルは、ファノンの『血に呪われたる者』の序文(1961年)を彼と対話を行なった後で書いた。アルジェリア問題にも取り組んでいたサルトルは、ファノンの著作の要を成す暴力がフランス側の暴力の跳ね返りであると述べ、アフリカにおけるフランス植民地の問題に正面から組み合う。その意味でサルトルはファノンの呼びかけを受けた上で、フランスの左派知識人に呼びかけを行なったと言える。
 会場からは、はたしてサルトルにとって、階級問題こそが普遍的で他の人種問題などは個別問題にすぎなかったのかという疑問が出された。あの時代においては確かにそう考える傾向があったようだが、ファノンの影響もあり、アルジェリア問題などから考え方が変っていったのではないかという答えがやはり会場から出た。また発表には、二人の思想上の交換に関する具体的な考察が足りないのではないのかという指摘もあった。司会者としては、自分の扱う題材に関して様々な資料を集め、頭の中で消化し整理した上で行なった好発表だったと考えた。(鈴木正道)


研究発表2
「サルトルの思想と生における「遊戯」について」
発表者:関大聡(東京大学大学院)
司会:翠川博之(東北大学)

 サルトルの生を理解するうえでは「遊戯jeu」が鍵語となる。その根拠として、関氏はまず『奇妙な戦争』から40年3月9日の日記を引用した。「私の人生に何かしら一貫性があるとすれば、それは私がかつて一度も真面目に生きたいとは思わなかったことである」。一般に「遊戯」は楽しみ以外に目的を持たない非現実的活動とみなされるが、この戦中日記でサルトルは「遊戯」の対極に「くそ真面目な精神」を置いて、むしろ後者を批判している。決定論的な「くそ真面目な精神」に対し、「遊戯」とは自由な自律的行為であり、だからこそ彼は、続く11日の日記に「人は遊戯しているときにしか十全に人間ではない」というシラーの言葉を引き、これに「全面的に同意する」と記しているのである。
 「遊戯」をめぐるサルトルとシラーの思想的近親性を論じた先行研究、ならびにシラーとニーチェの「遊戯」を比較した先行研究に導かれ、関氏はそこからさらにニーチェとサルトルを同じ系譜のなかに位置づけようとする。シラーは『人間の美的教育について』で、人間の現実的「素材衝動」と理念的「形式衝動」の間に、現実性と形式性の調和、偶然性と必然性の調和、忍従と自由の調和としての「遊戯衝動」を設定した。これを模してニーチェは『悲劇の誕生』を著し、「素材衝動」に「アポロン的衝動」を、「形式衝動」に「ディオニュソス的衝動」をそれぞれ対応させて、その間に「美的遊戯としての芸術」を位置づけている。彼から強い影響を受けたサルトルは、芸術の創造という美的遊戯を『嘔吐』の創作で実践したのではあるまいか。これが関氏の見立てである。
実際、サルトルは『存在と無』で「遊戯=スキー」を論じ、「スポーツは芸術と同様、創作的である」と表現している。ただし、問題がひとつ。ここでは「遊戯=スキー」が自然の「我有化」をめざす活動として記述されてしまっている。関氏によれば、これは現実世界に根をおろすことを拒絶する「滑走的遊戯」、「ひとり遊び」である。「本来的遊戯」とは、世界や他者の我有化を目指すものではなく、世界と他者に開かれたそれ自体自由な活動でなければならない。以後のサルトルの著作は、芸術創作と政治の領野を通じて、そのような「本来的遊戯」を追求してゆくものになるだろう。今後の研究をこのように展望するかたちで本研究発表は閉じられた。
 続く質疑応答では、引用箇所の適切さに関する疑義、発表で使用された語彙の正確な説明を求める質問が提起された他、« jeu » という語が含む「賭け」や「演戯」といった多様な意味にも目配りが必要ではないかという意見も出された。これまであまり俎上に載せられたことのない主題に着目したユニークな研究に、さらなる発展を期待するコメントが質問や意見とともに多く寄せられた。(翠川博之)


研究発表3
「サルトルとバタイユ――不可能な交わりをめぐって」
発表:岩野卓司(明治大学)
司会:澤田直(立教大学)

 サルトルとバタイユが同時代の思想や文学のステージでどのように関わったのか? この大きな問いに岩野氏はきわめて明確なパースペクティヴを引きながら、とくに戦中期から戦後すぐの時期にかけての両者の作品に焦点をあてて、見事なサーベイを行った。
 サルトルとバタイユは、ある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている、と岩野氏は指摘し、ブランショの小説『アミナダブ』に対する二人の解釈から考察を始める。サルトルは、『アミナダブ』をカフカの『城』に似た幻想文学と捉え解読を試みるのだが、その根底にあるのは「表」と「裏」の二元論である。幻想文学が示しているのは、「裏側」の「あべこべの世界」であり、それをひっくり返せば「表側」の日常の世界となる。一方、バタイユは『有罪者』の中で、『アミナダブ』の世界を日常の世界を反転したものとはとらえずに、「夜」の神秘経験としてそのまま肯定する、という違いがある。
 同様の違いは「新しい神秘家」での、サルトルによるバタイユ批判にも現われている。バタイユの「非-知」、「非―意味」、「無」を、サルトルはそれらの実体化して批判するが、その理論的根拠は、「存在は存在し、無は存在しない」というパルメニデス以来のテーゼだ、と岩野氏は述べる。つまりバタイユが「存在」でも「無」でもなければ、「存在」でも「無」でもあるような何か、知でもなければ非-知でもなく知でもあれば非-知でもある何かを語ろうとしているのに、サルトルはそれを二元論で割り切ろうとしているのだ。
 『嘔吐』と『内的経験』の間には、「瞬間」、「沈黙」、「絶対的なものの魅惑」、「木々を通しての神秘体験」といった類似が見られるが、決定的な相違もある。そのなかでも最も重要なものが、サルトルにおける「余計なもの」とバタイユにおける「最後の人」の違いであり、これはコミュニケーションという重要な問題系へとつながっている。
 岩野氏は両者のテクストを丹念につきあわせ、丁寧に跡づけながら、バタイユが、極点に向けて問いを徹底する傾向をもつのにたいし、サルトルのほうは究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者と見なすことができると結論づける。ただし、このサルトルの不徹底さこそがサルトルの多元性、多産性の源であると補足もする。
 発表に続く、質疑でも多くの発展的な対話が続けられ、このような同時代の思想家や作家との関係を再検討することの意義が十分に感じられた。たいへん充実した発表と討議であった。(澤田直)

総会報告
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。
・ 総会の最後には、竹内芳郎著『討論 野望と実践』閨月社(p.845)で述べられていた近年のサルトル研究に対する批判をめぐって、少しながらディスカッションが行われました。
次回研究例会のお知らせ
次回の研究例会は12月を予定しています。


サルトル関連出版
 渡部佳延 『サルトル、存在と自由の思想家』 トランスビュー 2013年8月.
 渡部佳延 『サルトル、世界をつかむ言葉 』 トランスビュー 2013年8月.
(渡部佳延氏は、1998年「朝西柾」の筆名で『サルトル 知の帝王の誕生』(新評論)を出版されています)。
 西永良成 『グロテスクな民主主義/文学の力 ユゴー、サルトル、トクヴィル』 ぷねうま舎 2013年8月.

また、Études sartriennesの最新号に、サルトルのル・アーブル時代の講演草稿が掲載されております。
・ Jean-Paul Sartre, « La technique du roman et les grands courants de la pensée contemporaine. Conférences de la Lyre havraise, novembre 1932-mars 1933», in Études sartriennes, no16, Ousia, 2012.
アンドレ・ジィド、オルダス・ハクスリー、エドゥアール・デュジャルダン、ジェイムズ・ジョイス、ヴァージニア・ウルフ、ジョン・ドス・パソスらに触れながら、サルトルの小説観・文化論が語られています。初期サルトルの思考が読み取れる貴重な論考がこのたび初めて公開されておりますので、関心をお持ちの方はぜひ御覧ください。(http://www.ges-sartre.fr/etudes-sartriennes.html


発表者募集のお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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第31回研究例会のお知らせ+発表要旨 [研究例会のお知らせ]

次回研究例会のお知らせ

 第31回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 7月6日(土) 14:00~17:00

会場 : 立教大学 池袋キャンパス 5号館 5210教室


研究発表1 「サルトル/ファノン試論」

発表者:中村隆之(大東文化大学)

司会:鈴木正道(法政大学)





研究発表2 「サルトルの思想と生における「遊戯」について 」

発表者:関 大聡(東京大学大学院)

司会:翠川博之(東北大学)



研究発表3 「サルトルとバタイユ ―不可能な交わりをめぐってー」  

発表者:岩野卓司(明治大学)

 司会:澤田直

総会:17:30
懇親会 18:00


以下、各発表者の要旨を掲載しておきます。



「サルトル/ファノン試論」
中村隆之(大東文化大学)

 この発表では、最初に、サルトルの状況論を手がかりに、サルトルの反植民地主義の戦いを、主にカリブ・アフリカの文脈から振り返る。
 そのうえで、今度はファノンに注目する。マルティニックに生まれてアルジェリア解放闘争をFLN側の人間として闘うファノンは、サルトルの思想と行動をどう見たのか。反対にサルトルはファノンをどう評価したのか。
 脱植民地化運動を背景にした両者の関係性を考えてみたい。



「サルトルの思想と生における「遊戯」について」
関 大聡(東京大学大学院)

 必ずしも思想として彫琢されていないように思えるが、しかし、サルトルの生を理解す るために重要なキーフレーズとして「遊戯」を提示すること、それが今発表の本旨である。 サルトルの思想のなかで「遊戯」とはどのような役割を果たしているだろう。代表的な 例としては『存在と無』における記述がある。スポーツを例に挙げての印象的な記述に沿って、それが「為す」ことのうちでもきわめて脱我有化的傾向が強いことを確認しつつも、「やはり、根本的に」それが我有化的傾向から免れえない、という曖昧な結論を下す。そ してそれ以後「遊戯」というものが俎上に載せられる機会はなくなるように思われる。そ のため「遊戯」とはサルトルの現象学的分析の一例にすぎず、特権的なものたりえないよ うにも思われるが、果たしてそうだろうか。
 当時の思索、とりわけ『奇妙な戦争日記』を読み進めるうちに、「遊戯」とは当時の、そ してそれまでのサルトルの思索において決定的に重要な役割を果たしており、きわめて倫理的な問題系のなかで問い直されるべきものだということが露わになる。そこには、ボー ヴォワールの「かつての我々の関心は、遊戯やごまかしや嘘によって、状況と距離をとる ことにあったからだ」(『事物の力』)という回想にみられる自己欺瞞や虚偽意識への反省対 象としてではなく、むしろ「くそ真面目」に対峙するための決定的な装置としての「遊戯」 の新たな層がうかがえるはずである。
 また、『存在と無』及び『奇妙な戦争日記』において「遊戯」に属するあるいは類似する ものとされた属性は、創作行為や始原性、それに若さといったものであるが、それらの諸属性はサルトルの後の思索においても再度現れることが確認できる(『文学とは何か』『弁 証法的理性批判』及び多くの伝記的作品群)。それはつまり、遊戯がすがたを変えながらも、 常にサルトルにとって一つの軸でありつづけた、ということを証立てるものに他ならない。 これまでサルトルにおいて jeu, jouer といえば「演技」「賭け」を意味することがもっぱらであって、それがまた「遊び」をも意味するという側面が看過されてきたように思われる。本発表はそれを補うものだが、他方、それら三つの jeu は相互に如何なる関係を持つの か、という問いかけもさらに生じてこよう。この問いに全面的に応答することは、まとまった一つ発表のかたちでは難しく、今後の課題としてすすめていきたいと思うが、そのた めの予備的考察も念頭に置いている。
 これらの検討は、サルトルを思想史における「遊戯」の系譜に組み込むことを可能にし てくれる。そのための準備作業として、サルトルが言及しているフリードリヒ・シラーの『人間の美的教育について』や、いくつかの箇所にサルトルへの言及が見られる西村清和 の『遊びの現象学』に依拠しつつ、広い展望のもとでサルトルの論を捉えることを目指す。



「サルトルとバタイユ ―――不可能な交わりをめぐって」
岩野卓司(明治大学)

 ブランショの小説『アミナダブ』をサルトルはカフカの『城』に似た幻想文学と捉え解読を試みるのだが、その根底にあるのは「表」と「裏」の二元論である。幻想文学が示しているのは、「裏側」の「あべこべの世界」であり、それをひっくり返せば「表側」の日常の世界である。それに対し、バタイユは『有罪者』の中で、『アミナダブ』の世界を日常の世界を反転したものとはとらえずに、「夜」の神秘経験としてそのまま肯定している。この差は何を表わしているのであろうか。
 この違いは「新しい神秘家」での、サルトルによるバタイユ批判にも現われている。この批判にはいくつかの論点があるが、本稿では「無」について検討していく。バタイユは恍惚や笑いという内的経験を語るとき、「非-知」、「非―意味」、「無」を問題にする。『内的経験』では、ブランショの助言のみならずその小説『謎の男トマ』も援用されており、これらの問題系にはブランショも関係しているので、彼もまた槍玉に上がっている。サルトルはバタイユが「非-知」や「無」を実体化していると論難するのだが、それは「非-知」や「無」が思考や知や存在の側にあり、その意味で「虚妄な実体」だからだ。こういったサルトルの批判が依拠しているのは、『存在と無』の中で引かれている「存在は存在し、無は存在しない」というパルメニデス以来のテーゼである。ただ、バタイユが述べようとしたことは、「存在」でも「無」でもなければ「存在」でも「無」でもあるような何か、知でもなければ非-知でもなく知でもあれば非-知でもある何か――後にブランショは「中性的」という言葉をあてている――なのだ。これをサルトルは『アミナダブ』同様に二元論で割り切ろうとしている。
 どうしてこういった距離が生じるのだろうか。フランソワ・ルエットが『サルトルの沈黙』(増補版)で説明している、サルトル自身のかつての自分に対する「自己批判」という解釈は説得力のあるものだろう。『嘔吐』と『内的経験』の間には、「瞬間」、「沈黙」、「絶対的なものの魅惑」、「木々を通しての神秘体験」といった類似があるだろう。この意味で、かつてのサルトルとバタイユは似た者どうしであったのだろう。しかし、こういった近さの中にはすでに遠さがやどっていないのだろうか。『嘔吐』でロカンタンが感じるのは「存在」へのむかつきであり、むしろどうにも逃れられない「存在」への固執である。それは、「存在」の意味がずらされ、「無」と区別できなくするような、ある意味で「存在」の枠組みを破壊するような考え方ではない。サルトルがバタイユに感じたのは、かつての自分への単なる批判だけでなく、存在への嘔吐感すらも壊しかねない自己破壊的な何かではなかったのではないのだろうか。存在の枠組みをずらしたり超え出たりしようとするものへの自己防衛だったのではないのだろうか。
 『嘔吐』と『内的経験』の近くて遠い関係は、「余計なもの」と「最後の人」との違いにも見出せる。『嘔吐』は「余計なもの」の物語とも言える。働かないでぶらぶらしているロカンタンは、社会からすれば「余計なもの」であり、「余計なもの」に関して、サルトルはさらに深く「存在」のレヴェルまで掘り下げている。存在に理由のないことを発見したロカンタンは、木々、柵、小石などの存在が「余計なもの」であるように感じてくるのだ。『内的経験』を執筆しているバタイユも孤独を味わっている。彼は書くことで他者に呼びかけて「交流」しようとするが、また同時に孤独にさいなまれている。この孤独は、「最後の人」かどうかというあり方を前提にしている。内的経験の孤独は、あらゆる他者が不在となった「最後の人」であるかどうかという問いの試練を経たものであり、他者との「交流」の考えもこの問いの上に成立している。『嘔吐』のロカンタンの「余計なもの」という考えよりも、「最後の人」であるかどうかという問いの方が、他者が完全に消失する危険性にさらされているという点で、掘り下げかたが徹底しているのではないのだろうか。そうだからバタイユのテクストを彩っているのは、「極点」、「可能事の極限」、「可能な限り遠くまでいくこと」、「既知の地平を越えていくこと」という、極端さを指し示す言葉の群れである。バタイユは存在の伝統的な枠組みを破壊しかねないぐらい思考を極端に推し進めるとともに、至高な孤独を「最後の人」かどうかの次元にまで徹底するのだ。こういった点を考慮にいれれば、『嘔吐』と『内的経験』の近さには、ここでも既に遠さが孕まれていると言えるだろう。
 しかし、極限にまで行かないことは、サルトルの思想の多様さの源泉ではないのだろうか。小説、劇作、現象学哲学、ヒューマニズムとアンガージュマンの理論、文芸批評、社会哲学など、彼は時代の要請に応じて多岐の分野で多様な思想を展開している。また、予告し書き始めて思想を展開しても、最後までやりとげてない仕事も多い。徹底しないで未完に終わることが多様なかたちで展開していく彼の思想を形作っているのではないのだろうか。この多様な書き手としてのサルトルに対し、バタイユはまったく理解を示さない。『クリティック』誌に発表された論文「実存主義」では、バタイユはサルトルのことを「最高度に」知性の勝った男で「純粋に感覚的なもの」に対して嫌悪感を示す傾向があると考えている。知性の人サルトルの実存主義は、「純粋に感覚的なもの」、すなわち内的経験や「非-知」の排除のうえに成立しており、知の極限への冒険もなく相変わらず知の領域に留まっている。しかしこの知を注意深く調べてみると、この実存の哲学者は知の領域のなかでいくつもの分野を移動しながら豊かな世界を生み出していることがわかる。バタイユは徹底しないことで産みだされる複数の多様な可能性について完全に盲目になっているのではないのだろうか。
サルトルとバタイユ。彼らはある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている。後者は、極点に向けて問いを徹底するし、前者は、究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者である。彼らの近さには本質的にお互いを遠ざけてしまうような何かがあるのだ。それでは、バタイユの徹底とサルトルの多様さ――これを現代のわれわれはどう捉えていけばよいのであろうか。サルトルとバタイユの不可能な交わり、あるいは交わりの不可能性がもたらしてくれる可能性をどう探っていけばいいのであろうか。

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