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日本サルトル学会会報第60号 [会報]

研究例会のご報告
第43回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では茨木博史氏、水野浩二氏による研究発表が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第43回研究例会
日時:2019年7月13日(土) 14 :00~
場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー(BT) 26階A会議室

研究発表 
茨木博史(在アルジェリア日本大使館) 「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
 茨木博史氏の発表「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」は、アルベール・カミュやマグレブ文学およびアルジェリアの地域文化研究を専門とする茨木氏が、サルトル自身の言説と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響について、言説分析および受容・影響の観点から検討したものである。
 茨木氏はまず、サルトルがアルジェリアについて論じたものとして、『シチュアシオン V 』に所収された「植民地主義はひとつのシステムである」をはじめ、多くの評論が残されている一方、アルジェリアの知識人たちが、サルトルについて直接的に言及している文献はほとんどないという事実を明らかにした。
 サルトルとアルジェリアとの具体的な関わりは、1948年のガルダイアやタマンラセットなどの砂漠地方へのボーヴォワールとの旅行である。一方、茨木氏が引用するヌレッディーヌ・ラムシが指摘する通り、サルトルは1945年のセティフの大虐殺についても同時期に言及をしておらず、彼は1950年代になってからアルジェリアの植民地問題について発言するようになった。茨木氏は、フランシス・ジャンソンらは、サルトル主宰の『レ・タン・モデルヌ』誌でそれ以前に反植民地主義キャンペーンを明確に打ち出しており、サルトルのアルジェリアに関する言説はそのキャンペーンの一環で読まれるべきだと提唱した。
 茨木氏は、これまでサルトル研究ではほぼ扱われていなかった、フェラト・アバース(のちのアルジェリア共和国臨時政府大統領)率いる『ラ・レピュブリック・アルジェリエンヌ』紙に掲載された1953年1月のインタビューを取り上げた。茨木氏はそこからまず、同紙による、国際的名声のあるサルトルが仕事に忙殺されているにもかかわらず、文書で回答いただいた、とする非常に恭しい紹介に着目し、同紙にとってサルトルが距離感のある象徴的存在に祀り上げられていることを明らかにした。また茨木氏は、サルトルが先のインタビューへの回答のなかで、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題がフランス社会の民主主義の問題と分かちがたく結びついており、その植民地の問題は人種主義が支えているという見方を示す一方、この枠組みをジャンソンが52年に『レ・タン・モデルヌ』誌に発表したテクストですでに提示していることを喚起し、それが以降のサルトルにとっての基本的な論調となっていると主張した。
 つぎに茨木氏は、1956年のサルトルのテクスト「植民地はひとつのシステムである」について論じたが、そこでサルトルが「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」という、《改良主義者=新植民地主義者》の欺瞞を批判した有名な言説を分析しつつ、「私は、小役人や、労働者、小さな商店主といった、体制の無実の犠牲者でもあり受益者でもある人たちをコロンとは呼ばない」という文言も取り上げたが、その文言は当時のコロンの事情とは辻褄が合わず、サルトルは「コロン」概念を非常に曖昧で粗雑に扱っているのではないかという問題提起をした。ただし、こうした正確さを欠くイメージはサルトルのみならず、本国で流布しており、茨木氏は、こうした「コロン」のイメージに対するカミュやジャック・デリダの批判などアルジェリア側からの不満を持った反応を紹介した。
 サルトルの「植民地はひとつのシステムである」も発表された1956年1月にパリで開催されたミーティングで、アルジェリアの詩人ジャン・アムルーシュが、アルジェリア人であるとともにフランス人でもあることを信じているという、フランスへの愛着も語りながら、「ヨーロッパのフランス」とともに、「植民地主義のフランス」という側面も持っており、アルジェリアのゲリラが武器を取る相手は後者のフランスなのだと主張している。茨木氏は、アムルーシュをはじめとするアルジェリア人なども含めて、知識人の集いの場がサルトルを中心にしてつくられることも、サルトルの功績のひとつであると指摘するとともに、このアムルーシュの論考をサルトルに関連づけて、サルトル自身が守りたかったのは、アムルーシュのいう「ヨーロッパのフランス」であったのだと強調した。併せて、歴史のなかで自らの存在を認めさせるというのが被植民者たちのスローガンであったし、この時期から多くのアルジェリア人作家たちの重要なテーマとなったことも述べられた。
 さらに茨木氏は、「植民地はひとつのシステムである」以降のアルジェリアについての論考を分析した。サルトルはアルジェリア戦争中、次々に論考を発表していくが、アルベール・メンミなどの色々な本から学びながら、その都度その都度ひとつずつ新たな要素を付け加え、「コロン」についての概念も明確化していくという特徴も示した。1957年、58年ごろから拷問の存在が明らかになっていくが、サルトルがそれを深刻に捉え、植民地主義や「コロン」による人種主義が、本国のフランス人と切り離された問題ではなく、有害なものとして自分たちに到達してしまった問題なのだと危機感を抱き、フランスを恥辱から、アルジェリア人を地獄から救うために交渉を開き、戦争を止めるべきだと本国のフランス人をnous として呼びかけを行っている。こうした事実から茨木氏は、ラムシを引きながら、サルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることが、アルジェリアでの直接的な反応が少ない原因のひとつではないかと導き出した。
 以上から茨木氏は、「100万人のアルジェリア人を殺戮させたという我々の敗北」とサルトルが記した1962年の「夢遊病者たち」に至るまで、アルジェリアに関するサルトルの論考について、アルジルダス・ジュリアン・グレマスの物語分析を援用しながら、我々という sujet が、フランスの解放を、objet として求めて冒険を続けていたが、結局それに敗れてしまうということ、自分たちを妨害する敵とみなしていた「コロン」がしだいしだいに自分たち近づいてきて、自分たちのなかに入り込んでしまうこと、フランスの民主主義の敗北の過程などといった、ひとつの苦い「物語」として読めるのではないかと示唆した。
 茨木氏は最後に、アルジェリア人にとってのサルトルを考えるにあたって、アンガージュマンの問題が戦後の文学に長い間占めてきたがゆえに、アルジェリアの知識人たちがサルトルとどのような距離を取るべきかが課題だったという、作家ムールード・マムリの文章を紹介した。また茨木氏は、サルトルから強い影響を受けたフランツ・ファノンや、サルトルの近くにいたモーリス・マスチノなどの言説も取り上げられ、その後のアルジェリアについても言及をおこなった。そのなかで茨木氏は、アルジェリア戦争には関係者も多く、社会学者ピエール・ブルデューや人類学者ジェルメーヌ・ティヨンなどの優れた論考に比べると、サルトルの思想的独自性は疑わしいが、むしろこのことは、サルトルが運動の中心にあったこと、サルトルが運動の場を作り出したことの大きさを意味するものである。それがサルトルの功績であり、サルトルのアルジェリア論が現在も読まれ続けている要因となっており、サルトルの一連の論考はその運動の一環として読まれるべきであると強調し、本発表を締めくくった。
 本発表は、茨木氏が豊富なアルジェリアの歴史や社会についての知見を基にして、サルトルのアルジェリアについての諸論考を精緻に分析し、サルトルとアルジェリア側の双方の非対称的な見方を露わにするのみならず、サルトルのアンガージュマンの意義そのものを問い直した非常に意義深いものであったと言えよう。 (竹本研史)


水野浩二(札幌国際大学) 「倫理と歴史――1960年代のサルトルの倫理学――」
 2004年に『サルトルの倫理思想−本来的人間から全体的人間へ』(法政大学出版局)を公刊されたあと、水野氏は「全体的人間homme total」に準拠する1960年代の倫理思想を主題に研究を深められ、現在、その成果を著書にまとめておられるところである。今回はその成果の一部として、主に1965年のコーネル大学講演草稿《倫理と歴史》に基づく考察を披露していただいた。《倫理と歴史》には「倫理的案出invention éthique」なる用語が頻出する。さて、「倫理的案出」とは何か。この概念の内実を詳らかにするとともに、それを基軸に展開されるサルトル倫理思想の特徴を明らかにすることが本発表の主題となった。
 講演草稿において「倫理的案出」に言及するとき、サルトルはいくつかの具体例を挙げている。発表では《倫理と歴史》から特に三つの事例が選ばれ、氏による注釈が加えられた。1)病に冒され、余命一年を宣告された妻にその事実を告げぬことを決意する夫の例。もはや真実を受け止められる精神状態にない妻を思いやる夫は、「嘘をついてはならない」という伝統的規範に抗して、新たな規範「人間らしく生きるべきである」を案出している。 2)民主党の大統領候補指名選挙におけるケネディの演説。カトリックである彼は、プロテスタント優位の歴史的伝統のなかで、有権者にカトリックの候補者に対する寛容を要求した。つまり、合衆国の「歴史的伝統」という規範に抗して「寛容」という徳の遂行(=投票)を要求したところに彼の「倫理的案出」があった。3)レジスタンス運動の闘士フチークとブロソレット、アルジェリア独立戦争の闘士アレッグの例。彼らは逮捕されたあと、拷問を受けながらもついに口を割ることがなかった。彼らは「身体的苦痛は避けるべきものである」という普遍的規範に抗し、苦痛に耐えることによって、またさらなる苦痛を回避すること(=自殺すること)によって「口を割らない」という使命に従った。「苦痛」を単に状況に付随する出来事と見なすことによって、また自らが置かれた環境から平時ならば忌避される自死の手段を見いだすことによって、彼らは「倫理的案出」を行った。
 本発表ではさらにこれらの事例に加えて、1964年のローマ講演《倫理の根源》で引用されている女子高校生へのアンケート(95%の生徒が嘘は悪であると考えていながら、実際には90%の生徒が嘘をついた経験があると回答した)や、「リエージュの嬰児殺し事件」(サリドマイドの影響で奇形児を産んだ母親が「生の絶対的価値」に抗し、「人間的に生きる機会を予め奪われている子供の生を引き延ばすことはできない」という規範を案出し、わが子の命を奪った)、また1965年の《命令と価値》で引用されている軍隊の曹長による兵士への命令(曹長が兵士に「箒がない」と叫ぶとき、それは「箒を見つけよ、ゆえに見つけることができる。つまり、何かを使ってこの場で箒を作るべし、ゆえに作ることができる」という、兵士の「案出の自由」への呼びかけである)といった事例も「倫理的案出」の具体例として付け加えられた。
 「人間関係は倫理的規定(déterminations éthiques)によって規制されている」とはサルトルが《倫理と歴史》で明確に述べているところである。水野氏の解釈によれば、普遍性を前提に措定された倫理的規定ないし定言命法はときに特殊な現実から遊離した規範となることがあり、それに従うことが不可能になる場合に「倫理的案出」が現れる。では、規範の遵守が不可能になるとはどういう事態か。それは、人間が人間らしく生きる機会、人間が人間として生きる機会、すなわち「全体的人間」であることを脅かされるような事態である。それゆえ、現実に基づかない観念的な倫理規範の乗り越えを目指したサルトル60年代の具体的倫理(サルトル自身の表現で「弁証法的倫理」とも言われる)において、「倫理的案出」はとりわけ重要な概念になっている。これが本発表の結論である。
発表後の質疑応答では、特に「リエージュの嬰児殺し」を巡って、それが許容される理路に違和感を覚えるとする意見が複数の参加者からあげられた。また、こうした「個人的」な決定を、そもそも倫理規範として認めることができるのかといった問いもこれに付随して発せられた。水野氏からは、「嬰児殺し」についてはそれが犯罪的な行為であることをサルトルも重々承知している、確かに反論を喚起する事例ではあるが、彼がこれを示した意図は「倫理的案出」の主体的決断をことさら強調することにあったのだろうという回答がなされた。さらにこれに対し、マルクスの倫理思想の影響下にあるこの時期のサルトルには、他者を包摂するような倫理を重視する側面もあったはずだという意見が提起された。水野氏は、そうした側面が確かにあることを認められたうえで、本発表の主題からはやや離れるために今回はあえて言及を避けた旨を告げられた。かくして活発な質疑応答が交わされた。60年代の倫理思想の全体像に触れる氏の新たな著書の刊行が大いに待たれるところである。(翠川博之)

サルトル関連文献
・水野浩二『倫理と歴史:一九六〇年代のサルトルの倫理学』月曜社、2019年10月(近刊)
・石崎晴己著『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』吉田書店、2019年6月
・永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社発行、現代書館発売、2019年4月
既刊の2冊について、学会のブログに生方淳子さんによる「新刊のご紹介」が掲載されております。

理事会からのお知らせ
・次回のサルトル学会例会は、12月7日(土)に南山大学(Q棟4F 416教室)にて開催予定です。
 ※名古屋での開催となりますので、ご注意下さい。
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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新刊のご紹介 [サルトル関連出版物]

新刊のご紹介(生方淳子)

 本学会のメンバー二名が最近それぞれ出版した二冊の著書を紹介します。
二冊ともサルトルを中心テーマにした本ではありませんが、実は深いつながりが見出せるサルトリアンならではの本です。


石崎晴己著『ある少年H』、吉田書店
 題名からすると自伝的作品と思われますが、それを越えてまさに「単独的普遍」を語る試みです。第二次世界大戦直後の日本を生きた一少年の体験をとおして紡がれる歴史の証言であり、文明批評であり、人間論・教育論でもあります。サルトルにも少なからぬページが割かれており、『存在と無』、『言葉』、『ユダヤ人問題』、『家の馬鹿息子』が取り上げられ、サルトルの伝記的事実にも考察が加えられています。研究書の枠にとらわれないエッセイならではの自由闊達さで、随所にサルトル思想の神髄が盛り込まれています。
石崎.png
出版社HP
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg730.html


永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』、白澤社発行、現代書館発売
 意表をつく哲学入門書です。お決まりの哲学用語が並び、平易に解説されているのではなく、見事な独断で選ばれたと思われる52のキーワード各々について、マンガや映画や音楽、絵画、そして時事問題をも巻き込んだ思考のエッセンスが披露されています。著者自身が描いた少々謎めいたイラストが項目ごとに添えられ、それに導かれるように普段私たちが見ようとしない世界の側面が顔をのぞかせます。サルトル哲学に関しても「不安と自由」、「対他存在」、「実存と本質」などが(サブ)カルチャーと重ねて語られています。
永野.png
出版社のブログ
https://hakutakusha.hatenablog.com/

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第43回研究例会「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」要旨 [研究例会のお知らせ]

2019年7月13日(土)14 :00~の第43回研究例会
https://ajes.blog.so-net.ne.jp/2019-06-02

茨木博史(在アルジェリア大使館)
「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
司会:竹本研史(法政大学)

要旨
サルトルがアルジェリアの植民地問題について発言するようになるのは、1950年代に入ってからのことである。1954年に勃発したアルジェリア戦争にサルトル自身がコミットしていく前に、彼の主宰する『現代』誌は既に反植民地主義の立場を明確に打ち出していた。1953年1月には、後にアルジェリア共和国臨時政府の首班となるフェラト・アバースが率いるレピュブリック・アルジェリエンヌ紙にサルトルのインタビューが掲載される。この中で彼は、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題はフランスの民主主義のそれと分かちがたく結びついているという見方を示している(1) 。1956年に発表された「植民地主義はシステムである」においては「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」と喝破したうえで、アルジェリア人と本国のフランス人の双方を植民地主義の専制から解放しなければならないと説いた (2)。サルトルが用いる「コロン」の概念は粗雑な面があるものの、「コロン」による被植民者の非人間化、本国の人権や民主主義の原理の植民地での否定という図式に基づき、フランス軍による拷問問題についてもフランスを「恥辱」から救わねばならないとした(3) 。
 フランス本国でアルジェリア戦争の遂行に反対する陣営の中心的存在となったサルトルであったが、当時のアルジェリアでは知識人の著作やFLMの機関紙等において、サルトルに対する直接的な反応は、時おり名前が言及される程度でほとんど見られない。アルジェリアでの直接的な反応は少ない原因としては、ラムシが指摘するようにサルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることを(4) 、その一つとして推定できるだろう。他方で、「植民地主義はシステムである」が発表された1956年1月のパリのミーティングでは、アルジェリア人の詩人ジャン・アムルーシュが招かれ、『現代』誌はやはり作家のカテブ・ヤシンや独立後のアルジェリアで教育相を務めるムスタファ・ラシュラフらに度々執筆の場を与えた。また、サルトルの思想、「人間」の概念に影響を受けたフランツ・ファノンはアルジェリア戦争が始まるとFLNのスポークスマンとなり、党の公式言説もしばしばサルトル-ファノン的な色調を帯びることとなる。ファノンの他にも、やはり『現代』誌に執筆し、FLNと密な交流を持ったモーリス・マスチノのような人物もいる。
本発表では、サルトル自身の言論と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響とはどのようなものであったか、言説分析の観点及び受容・影響の観点からあらためて検討したい。

(1) La République algérienne, le 9 janvier 1953.
(2) « Colonialisme est un système », Situations, V, p.89-111.
(3)« Une Victoire », Ibid, p.326-340.
(4)Lamouchi, Noureddine, Jean-Paul Sartre et le Tiers monde, L’Harmattan, 1996, p.212-216.


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日本サルトル学会会報第59号 [会報]

研究例会のご案内
 第43回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
 今回の研究例会では、茨木博史氏、水野浩二氏の2名による研究発表が行われます。
 当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご来場をお待ちしております。

第43回研究例会
 日時:2019年7月13日(土) 14 :00~
 場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー(BT) 26階A会議室
 交通アクセス
※市ヶ谷キャンパスは現在工事中です。正門(北側、外堀に面した側)もしくは富士見坂門(東側)から入るとわかりにくいので、ボワソナード門(南側、靖国神社側)からお入りください。ボワソナードタワーの玄関から入ってすぐの青いエレヴェータで26階まで御登りください(奥のオレンジ色のエレヴェータは途中までしか行きません)。
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研究発表 
14:00~15:10
発表者:茨木博史(在アルジェリア大使館)
「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
 司会:竹本研史(法政大学)

15:30~16:40
発表者:水野浩二(札幌国際大学)
「倫理と歴史――1960年代のサルトルの倫理学――」
司会:翠川博之(東北大学)

総会 16:50~ 
懇親会 18:00頃~

サルトル関連文献

・Etudes sartriennes, 2018 n°22, sous la direction de Gautier Dassonneville, Classiques Garnier, 2019.[*サルトルのDiplôme d’Etudes Supérieures取得のための論文 « L’Image dans la vie psychologique : rôle et nature »と、サルトルが高等師範学校の図書館で借りたリストが収録された重要な号になっています。この論文によって『イマジネール』 の出発点がよくわかります]
・永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社, 2019年, 158p.[巻末に〈応用編〉として、サルトルの著作解説を兼ねた論文が収録されています]
・納富信留・檜垣立哉・柏端達也編『よくわかる哲学・思想』ミネルヴァ書房, 2019年[「サルトル」の項目があります]
・清眞人「「悲の器」としての人間―高橋和巳における宗教と文学―」『近畿大学日本文化研究所紀要』 (2), pp.85-178.
・小山尚之「『ショア』を相続する ―パトリス・マニグリエとクロード・ランズマン―」『東京海洋大学研究報告』(15), pp.49-60.
・宮子あずさ「40代女性看護師の実存からその人らしい看護を探る : サルトルの「遡行的-前進的かつ分析的-綜合的方法」を用いて」『東京女子医科大学看護学会誌』14(1), pp.1-7.
・藤江泰男「メルロ=ポンティの文学論,あるいは言語とは何か : サルトル側の視点から」『椙山女学園大学研究論集 人文科学篇』(50), pp.29-43.
・ジル・フィリップ(黒川学訳)「サルトルの『アルブマルル女王』における3つの執筆作法」『立教大学フランス文学』48号, pp. 81-98.
・澤田直「サルトルとイタリア(3)」『立教大学フランス文学』48号, pp. 99-124.
・東浦弘樹「カミュ研究者が見たサルトルの『出口なし』」『りずむ』第8号(白樺サロンの会), pp. 43-53.


理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。


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日本サルトル学会会報第58号 [会報]

研究例会のご報告
第42回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、赤阪辰太郎氏、永井玲衣氏による研究発表と、ジル・フィリップ氏による特別講演が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第42回研究例会
日時:2018年12月8日(土) 14 :15~
場所:立教大学 5号館5209教室

研究発表
赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」

赤阪氏は『存在と無』の現象学的存在論の根底でその経験を支えている次元、すなわち形而上学はどうなっているのか、という関心から、前期サルトルの著作を読み解いた。
赤阪氏はこの作業を進めるにあたって、哲学的著作のみならず、文芸批評も考察の対象に入れる。というのも、サルトルは文芸批評を執筆する際、著者の形而上学に着目するという手法をしばしば採用していたからである。赤阪氏によれば、サルトルは、〈ひとは各々の形而上学をもっており、その形而上学はその主体のありかたに相関して形成される〉と考えていた。したがって、その人の形而上学を明らかにすることは、当人の主体のあり方を明らかにすることにつながるのである。
 今回の発表では、赤阪氏は「形而上学」という語の用法を3つの点にまとめた。
第一に「所与の解釈を歪める思弁としての形而上学」である。この意味での用法は『想像力』に見られる。サルトルは心理学者たちを批判する中でこの「形而上学」という語を使っていた。サルトルはそこで、心理学者たちが自分たちの形而上学を無批判に採用し、それをもとに経験的所与の解釈を歪めている点を批判していたのである。
第二の用法は「文学的地平における形而上学」である。文芸批評を執筆する中で、サルトルは、小説作品から読み取れる形而上学は作品内の要素に統一性を与える原理として活用されるべきだ、という考えをとっている。これは小説作品においては形而上学と技法が一致すべきだ、という規範的な考えともいえよう。赤阪氏はさらに『文学とは何か』などの著作を読み解きつつ、作品の形而上学は、作家が置かれた状況への応答でもある、と述べた。
最後に赤阪氏は、『存在と無』に見られる用法として、「根源的な偶然性を語る論理」としての形而上学、という用法をとりあげた。赤阪氏はここで形而上学を、一種の「問いかけをし、答えを引き出す手続き」として解釈する。ここで赤阪氏は、サルトルの「形而上学」という言葉づかいを分析するというよりは、『存在と無』を直接読解し、サルトル自身の形而上学を明らかにしようとする作業に踏み出すのだが、今回の発表ではこの部分の作業はまだ不十分なままにとどまっていたように思われる。現在執筆中の博士論文では、『存在と無』での「形而上学」の用法をより詳細に分析し、サルトルの形而上学観が明らかにされるだろう。
前期サルトルにおいて、「形而上学」という用語の使い方はたしかにいろいろと揺れが見られるものであり、その言葉づかいのぶれを分析することは、前期サルトル理解に多いに資する作業となるだろう(報告者としては、とりわけ「サルトルがフッサール現象学をどう受容したのか」という観点からこの作業を進めることは、サルトルの現象学観を理解する上で非常に重要な作業だろうと期待している)。また、文学批評などとつきあわせながらその形而上学観を考察しようとするチャレンジングな試みについては、当日の質疑の中でも期待が寄せられていた。赤阪氏の今後の博士論文に期待したい。(森功次)


永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル」

永井玲衣氏の発表「哲学プラクティスとサルトル」は、氏が近年全国で非常に精力的に活動している哲学プラクティスと、サルトルとの接合点ないし相違点について検討したものである。前回第41回例会での加藤誠之氏の発表「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」に続き、今回もサルトルと教育との関係について問うたものとなった。
 さて後述するように、哲学プラクティスのなかには、哲学カフェがある。私たちにとっては、哲学カフェで行われる議論と、サルトルたちがドゥ・マゴやカフェ・フロールを初めとするカフェで行なっていた議論とでは、同じカフェを舞台に哲学の議論を行なってはいるものの、かなり位相が異なって見える。これについて永井氏はどのように考えるのだろうか。
 発表にあたり、永井氏はまず、具体的な現在の取り組みも併せて哲学プラクティスに関する紹介を行なった。哲学プラクティスには、①ゲルト・アルヘンバッハにより開設された Philosophical Counseling、②レオナルト・ネルゾンにより始まった Socratic Dialogue、③マルク・ソーテにより開始された Philosophical Café、④マシュー・リップマンの取り組みやフランスのドキュメンタリー映画『ちいさな哲学者たち』などが引き合いに出される Philosophy for Children (P4C) などがある。
 続いて永井氏は、哲学プラクティスとサルトルとの接合点あるいは相違点について討究した。彼女は、「市民」が「自ら」、「哲学」するという哲学プラクティスのような試みに対してサルトルは関心があったのかと問いかける。なぜならば、氏によれば、サルトルには「知識人」としての側面が強く、大衆との乖離が拭い去れず、かろうじて、「アンガジュマン」という、非常に遠回りなかたちで言い表すのみにとどまったからである。
 さらに永井氏は、哲学プラクティスとサルトル研究の接合/相違を超えて、市民へと開かれた場である国際哲学コレージュと哲学プラクティスとの接合ならびに相違についても言及した。国際哲学コレージュはあくまで「若手研究者が自らの研究を市民に訴える場」であり、ここもまた市民自らが主体となって哲学する場ではない。ここで永井氏は、市民とは誰か、知識人とは誰か、研究者とは誰かという古典的かつ決定的な問いを改めて投げかけるのである。
 しかしながら、こうした哲学プラクティスの試みには強い反発も起こっている。永井氏はソーテに対する批判として、市民が「自分で考える」ことについて、自己の意見や感情や好みの単なる表明の権利とみなしているとする、リュック・フェリーとアラン・ルノーの立場を取り上げた。
 最後に永井氏は、サルトルから影響を受けたとされる、ブラジルの教育者・哲学者であるパウロ・フレイレとサルトルとの関係について論じることで、今回の氏の発表のテーマについて可能性を拓いた。サルトルもフレイレも、ラディカルであることは批判的なことであり、人間を自由に解放すること、自由とは人間が自ら選び取り、はっきりとした客観的な現実を変革するための努力とコミットを行うべきだとする点では共通しているが、そのために対話や言語教育を必要とすると主張するフレイレは、ここでサルトルと思想的に意見を異にしている。フレイレにとっては、対話とは世界を媒介する人間同士の出会いであり、世界を「引き受ける」ためのものなのである。
 永井氏の発表に対しては、フロアよりさまざまな観点から質疑がなされて議論が白熱したが、ここでは措く。ただ司会者として一言付け加えるならば、やはりサルトルの教育論というテーマは、50年代のサルトルと共産主義との関係、とりわけ「共産主義者と平和」に見られる「党」と「プロレタリア」、さらには「活動家」との関係と結びつけて考えられないだろうか。
 いずれにしても、永井氏の今回の発表は、サルトル研究の地平を大きく更新するものであり、今後のサルトル研究全体の展望を期待させる非常に意義深い発表だったのは疑いえない。(竹本研史)


ジル・フィリップ氏特別講演
「文体を分析する---サルトルの『アルブマルル女王』をめぐって」
Gilles Philippe, « Analyser les styles : autour de La Reine Albemarle de J.-P. Sartre »

この講演の前日に『レ・タン・モデルヌ』誌の通算第700号が刊行されたが、その巻頭を飾ったのが、ジル・フィリップ氏の手による、『アルブマルル女王』の新たな草稿の発表である。この断片はイタリア日記の冒頭をなすと思われるローマ到着からなり、ナポリのセクションから始まると思われていたこれまでの理解を覆す発見である。ジル・フィリップ氏の講演はこの新資料を踏まえ、この「未だサルトル研究者にも十分には知られていない企て」をサルトルの他の著作との関連において、とりわけ文体の側面から浮き彫りにしていく。
まず、日記のプロトコル(作法)という点から、『嘔吐』のロカンタンの日記、『戦中日記』との比較がなされた。とりわけ動詞の時制への着目があり、この未完の書がもっぱら現在形によって書かれているのは、知覚と記述の同時性を示すためとされる。
 ついで、メモのプロトコルという観点から、この草稿に溢れる断片的記述が論じられた。語句が投げ出されたまま文として完成しないセグメントやコロン(:)の使用が俎上に置かれ、事物が意識に現れてくる様相に応じて、無冠詞、不定冠詞、定冠詞が使い分けられているという冠詞の用法にまで議論は及んだ。
さらに重要なのはアナロジーのプロトコルである。これはサルトルが、ソルボンヌに提出した論文(メモワール)で扱った多重知覚(surperception)がキーワードとなる。これは現在の知覚に、過去の回想が伴う現象を示す(この論文はÉtudes sartriennes に掲載予定とのこと)。この術語そのものはサルトル哲学から消えるが、こうした体験はイタリア紀行の冒頭から頻出する。さらにここでは、『アルブマルル女王』とほぼ同時期に執筆された『聖ジュネ』が召喚された。隠喩に満ちたヴェネツィアの断章に認められるのは、『聖ジュネ』で検討されたジュネの詩的散文と同質のものではないだろうか、と。
このように、ジル・フィリップ教授による特別講演は、新資料を駆使しつつ、該博な知識による幅広い視野から『アルブマルル女王』の精緻な読解を示すものであり、研究の最前線に触れる歓びを与えてくれるものであった。(尚、この翻訳は、『立教大学 フランス文学』に掲載予定)(黒川学)



サルトル関連文献
・ ジャン=ポール・サルトル&ベニィ・レヴィ『いまこそ、希望を』海老坂武訳、2019年
・ ジャック・ランシエール『哲学者とその貧者たち』松葉祥一・上尾真道・澤田哲生・箱田徹訳、航思社、2019.
・ 野崎歓(編著)『フランス文学を旅する60章』明石書店、2018年
・ 沼田千恵「後期サルトルの倫理思想 : 欲求と実践の概念をめぐって」『同志社哲學年報』 (41), 37-53, 2018.

理事会からのお知らせ
・ 次回のサルトル学会例会は、7月上旬に法政大学にて開催予定です。
・ 日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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第42回研究例会 発表要旨 [研究例会のお知らせ]

12月8日に開催の第41回研究例会(14 :15~ 立教大学 5号館5209教室)の、永井玲衣氏(上智大学、立教大学)の発表要旨が届きましたので、掲載致します。
他の発表者の要旨も、届き次第掲載する予定です。


研究発表
14:15~15:00
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」
 司会:森功次(大妻女子大学)

15:15~16:15
発表者:永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル」
司会:竹本研史(法政大学)

 近年、アメリカのリップマンを創始者とする「子どもの哲学(philosophy for children, P4C)」といった哲学教育が、国内でも広く普及する様相を見せている。また、フランスのマルク・ソーテが90年代に拓いた「哲学カフェ」は、00年代に日本に持ち込まれ、今や全国の数百カ所で行われている程に浸透した。国内ではまだメジャーではないものの、80年代ではドイツで、秘教的なあり方へと傾斜してしまった哲学への批判として、実践的な「術」として「哲学カウンセリング」といった方法論も提起され、多方面でその研究が為されている。こういった、哲学的なテーマについて共同で探求を行う活動、もしくは哲学そのものを実践的なものとして位置づけ直す試みは「哲学プラクティス」と総称され、全世界で実践・研究が行われている。
 以上のような試みについて「行動の哲学者」であるサルトルは、どのように接合し得るだろうか。もしくは、どのような影響を与えてきたと考えられるだろうか。本発表は、未だ広くは知られていない哲学プラクティスの状況を概観し、「知識人」サルトルとの接合点を模索しつつ、フロアとのディスカッションの契機としたい。



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2018年11月15日(木) Robert Harvey氏セミナーのお知らせ

以前サルトル学会でもご講演いただいたRobert Harvey先生のセミナーが開催されます。

以下、情報です。
多くの方のご来場をお待ちしております。


公開セミナー
「〈希望〉概念の栄光と悲惨」
Splendeur et misère de l’espoir
(フランス語・入場無料・通訳あり)

講師:ロバート・ハーヴェイRobertHarvey
(ニューヨークヨーク州立大学ストーニーブルック校特別教授)

司会:澤田直(立教大学文学部教授)
通訳:昼間賢(立教大学兼任講師)
日時:2017年11月15日(木)18:30〜20:00
場所:立教大学池袋キャンパス5209教室

主催:立教大学文学部文学科仏文専修
問い合わせ先:立教大学文学部文学科仏文専修
澤田直naosawada@rikkyo.ac.jp

« Splendeur et misère de l’espoir »
・ En pleine atrocité de la Guerre civile espagnole, en 1937, André Malraux écrit et publie L’Espoir, un roman-reportage d’une verve extraordinaire. Or, aujourd’hui, on ne lit plus guère André Malraux.

・Le philosophe marxiste allemand Ernst Bloch fait paraître la plus complète, la plus complexe et la plus intrigante présentation et méditation sur l’espoir qui existe. Le nombre de personnes qui ont lu Das Prinzip Hoffnung, Le Principe espérance dans son intégralité se compte sans doute en dizaines aujourd’hui.

・Tandis que les causes anthropogéniques du réchauffement de la terre sont reconnues de la communauté scientifique sans frontières depuis au moins le quatrième trimestre du XXe siècle, la décision politique actuelle – appuyée par un populisme ignare – oscille entre déni (« fake news », « controverse », etc.) et insouciance cynique. Or, en l’absence d’action globale pour freiner l’effet de serre les villes côtières du monde seront bientôt submergées. Dans ce cas, quel espoir ?

・L’image iconographique de la vague d’enthousiasme qui porta Barack Obama à la présidence des Etats-Unis en 2008 fut l’affiche en bleu et rouge créée par Shepard Fairey du candidat en-dessous duquel le mot « HOPE » défile. Or, aujourd’hui, le refoulé est de retour avec vengeance.

・L’espoir, est-ce une attitude révolue chez l’homme ? Est-ce un état d’esprit disqualifié par la conjoncture anthropocène ? Ou du fait de la persistance du désespoir, l’espoir est-il voué à une survie par rebond dialectique ?
À partir des quatre éléments ci-dessus – deux oeuvres, deux faits historiques – je réfléchirai avec vous sur cette étrange disposition de l’esprit humain dont peu d’entre nous parle : l’espoir.
ハーヴェイ講演会(チラシ)_ページ_1.jpgハーヴェイ講演会(チラシ)2018_ページ_2.jpg
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日本サルトル学会会報第57号(第42会例会のお知らせ) [会報]

研究例会のご案内

第42回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、赤阪辰太郎氏、永井玲衣氏による研究発表と、ジル・フィリップ氏による特別講演が行われます。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご来場をお待ちしております。

第42回研究例会
日時:2018年12月8日(土) 14 :15~
場所:立教大学 5号館5209教室

研究発表
14:15~15:00
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」
 司会:森功次(大妻女子大学)

15:15~16:15
発表者:永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル(仮)」
司会:竹本研史(法政大学)

特別講演
16:30~18:00
ジル・フィリップ Gilles Philippe
« Analyser les styles : autour de La Reine Albemarle de J.-P. Sartre »
「文体を分析する---サルトルの『アルブマルル女王』をめぐって」(フランス語・通訳付き)
司会:澤田直(立教大学)Modérateur : Nao Sawada
通訳:黒川学(青山学院大学)Interprète : Manabu Kurokawa
 ※この特別講演は立教大学文学部文学科との共催で開催されます。

懇親会 18:30 ~

サルトル関連文献

・ 岩田真志「認識者ロカンタンを行動者サルトルにさせたもの」『現代文学史研究』(28), 50-55, 2018.
・ 加藤彰彦「アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスムと無意識」『四天王寺大学紀要』 (66), 119-149, 2018.
・ 鈴木道彦『私の1968年』閏月社、2018年10月
・ 堤久美子『超解釈 サルトルの教え 人類最強の哲学者に学ぶ「自分の本質」のつくり方』光文社、2018年7月
・ 野崎歓編『フランス文学で旅する60章』明石書店、2018年10月(澤田直、「第50章サルトル 永遠の旅行者 束の間の港 ル・アーヴル」)
・ 関 大聡「フランス「68年5月」50周年の報告---〈五月〉はいまでも「実用的」か?」『情況』2018年秋号、p. 118-142.

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日本サルトル学会会報第56号 [会報]

研究例会のご報告
第41回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムが行われました。

第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室

研究発表 「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
13:30 ~ 14:45
 発表者:加藤誠之(高知大学)
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

教育学の立場から不登校の研究をしている加藤氏は、不登校についての実証的研究にハイデガーやサルトルを援用して不登校問題の本質を剔抉しようとする。例えば、不登校の子どもたちは、ハイデガーのいう不安に近いものを抱えており、彼らは世界との日常的な慣れ親しみを失って不気味さ・居心地の悪さを覚えている、と述べる。とりわけサルトルは、加藤氏の議論の展開にとって重要であるように思える。というのも、加藤氏にとって、不登校の子どもたちは、「遊び」という形で「自由」を行使することで不安・居心地の悪さから解放される、というのが本発表の結論であるから。
加藤氏の考察は五段階からなっているように思われる。(1)まず、子どもたちは、慣れ親しんだ家族や地域社会から学校にやってくると、居心地の悪さを感じる。とりわけ思春期になると、第二の自我の目覚めにより、ある程度慣れ親しんでいた学校がより一層居心地の悪いものに思えてくる。(2)しかし、子どもたちは、この世界は「みんな」によって生きられている共同世界であり、「みんな」の可能性を実現するためにある無限の道具複合であることに気づく。こうして世界が再び慣れ親しみのある自分の世界になる。(3)それにもかかわらず、子どもたちは、他者によって利用される道具になることを受け入れるとき、「有用性」によって評価されるという現実も受け入れなければならなくなる。そのとき、他者からの評価のまなざしに苦しむ(罪責感)。(4)そこで子どもたちは、罪責感からのがれるために、現代の日本社会において有用性を体現している子どもである「よい子」を演じる。しかし「よい子」は、サルトルのいう「生真面目な精神」に陥っており、したがって自由を行使していない。(5)結局、子どもたちはこの状況を乗り越えようとして、「非行」に走る。なぜなら非行は自由を追求する「遊び」だからである。社会から逸脱したものである「遊び」を行うことによって、自由を否定する「よい子」から自分を解放しようとする。
論旨は極めて明快であり、また、サルトル哲学が実証的研究にも応用できることを教えてくれる貴重な報告であった。以下、当日会場で出されたいくつかの質問を紹介したい。
まず、思春期の危機の乗り越えに関して、加藤氏の発表を聞いて、不登校の子どもたちにはある種の「逆転」があることが分かった、という指摘に対して、危機の乗り越えには個人差がある、との回答があった。また、不登校の子どももオンラインゲームにはまっているのではないのか、との質問に、不登校の子どものすべてがはまっているわけではない、との回答があった。次に、ジャン・ジュネとの関係で非行についての質問があったが、非行に走る子どもたちには、社会に対する怒り、反発があり、また、彼らにとって非行自体が面白くなる、という側面があるとの回答があった。さらには、非行に走っている子どもたちの内部でいじめはないのかとの質問に、むしろ彼らには仲間に悪いことをするための作法を教える、という側面があることが紹介された。最後に、ひきこもりや不登校の歴史的経緯についての質問があり、不登校は皆が学校に行っていた時代以降の問題である、との回答があった。(報告:水野浩二)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
 パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
  石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
 司会:生方淳子(国士舘大学)

1940年冬、ドイツ軍の捕虜収容所Stalag ⅫDに収容されていたサルトルは、中世以来の伝統の聖史劇の形を借りてレジスタンスを呼びかける演劇の脚本を書き、演出し、捕虜仲間と共に自らも舞台に立った。それが彼の最初の戯曲『バリオナ』である。しかし、この作品はその後、作家本人の意思により公刊されず、上演されることもほとんどなかった。1970年にはミシェル・コンタとミシェル・リバルカによるサルトル著作目録 Les Ecrits de Sartre の付録の一部として掲載を受入れた彼だが、以降もこの作品については否定的な態度を取り続けていた。石崎晴己氏の最近の著書では、この埋もれた作品が翻訳紹介され、詳細な論考が加えられている。氏の言葉を借りれば、この戯曲は作者本人から「不当な仕打ち」を受けたことになるが、氏による翻訳出版はその名誉回復を図ったものと言える。同書の後半には、パリ帰還後のテクストで『自由への道』に関連する「敗走・捕虜日記」と「マチューの日記」の翻訳・論考も収録されているが、今回のシンポジウムでは前半のみを取り上げ、石崎氏のほか、サルトル演劇の研究を専門とする翠川博之氏とサルトル研究全般で活躍する澤田直氏を加えて、多角的にこの作品に迫った。各人の発表およびコメントの論旨は以下のとおりである。

石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
 著書の60頁に渡る多角的で詳細かつ明晰な論考をわずか1時間の発表で要約紹介するのは酷であったと思われるが、二人の主要人物、バリオナとバルタザールの言説の分析を中心に、相矛盾するメッセージの交錯を浮き彫りにしつつ、作品にこめられた意図が探り出された。
 それによれば、ローマの支配下にあるユダヤ人の村の村長バリオナは、圧政に倦み、もはや子孫を作らないことで村が自然消滅するのを待つという消極的集団自殺の道を村びとに強要しようとする。「落下」というキーワードに要約されるその言説を氏はハイデガーの「転落・頽落」Verfallen や「覚悟性」Entschlossenheit といった概念の影響を考慮に入れ、かつニーチェ的「気分」をそこに見出し、『嘔吐』的な自殺の誘惑に対する「ハイデガー・ニーチェ的変奏」と形容する。以降、物語の進行に伴って変化するバリオナの言説を多様な参照体系に基づき、悪を企てるリュシフェール的な神への反逆、全能の神の掟に背く人間の自由の断言、弱者に諦念を説くキリスト教へのニーチェ的批判として読み解いていく。これに対し、神の子の誕生の徴を見たとして東方からやって来た博士たちのひとり、バルタザールが発する希望の言説には、同時期に執筆が進んでいた『存在と無』で提示される「対自存在」の概念、不断に自己を逃れ、他所へと向かう人間のあり方が反映されていることが示される。そして、意外にもそれがキリスト教の教説と矛盾しないとして、「キリストと人間の存在論的な同質性の弁神論」という考え方が提示される。続いて、バリオナの妻サラに体現される母性の論理、イエスの父ヨセフに託された父親像についても時間の制約の中、ごくかいつまんでとは言え解説がなされ、サルトル劇において家族という次元のテーマが空前絶後の位置を占めることが指摘された。著書の論考で縦横かつ整然と語られた内容のごく一部ではあったが、その豊穣さを垣間見ることができ、改めて論考の熟読を私たちに促す発表であった。

翠川博之(東北大学) 『バリオナ』と『蝿』のあいだ
 翠川氏は、数年前に科研費による研究の一環として『バリオナ』を全訳していたが、出版という形での公表はしていなかった。今回はその成果を活かし、また演劇というジャンルに固有の意味作用に関する知見に基づいて手際よい精緻な分析を披露してくれた。特に、演劇記号論の手法を用いて「コード」という概念を軸に作品を読み解き、観客の心理にまで立ち入って受け止め方を推察するという姿勢から、『バリオナ』をその半年後に執筆開始された『蝿』と比較検討し、共通性と対称性をあぶり出した。
 それによれば、両戯曲にはナチス・ドイツの支配に対する抵抗の呼びかけという共通の政治的メッセージと人間の自由をめぐる思想の提示という共通のテーマがある。しかし、各作品を構成するモチーフを整理していくならば、両者間には著しい対称性が現われる。家族関係、眼差し、自由、神の存在、死生観、主人公の社会的地位という六項目の主要モチーフをめぐって、両戯曲は鮮やかな対称性を示すのである。それは何に由来するか。その謎を氏は記号論的に解いていく。演劇舞台は、現実の空間と時間の流れの中に記号の多義性を提示し観客がそれを汲みとることで成立するが、その読み取りの規則として、意味生成と解釈を可能にする社会習慣・規則・規範の体系、「コード」がある。コードには共同体の心性としての家族観・世界観・死生観・宗教観も含まれ、作家はこのコードを守ったり故意に破ったりすることで様々な作品を生み出す。『バリオナ』はその点でコードを尊重し遵守した作品であり、それゆえ観客に一体感と感動をもたらした。これに対して、『蝿』ではコードが破られている。オレステスの自由を象徴する重大な行為としてサルトルはギリシャ悲劇からある「記号」を借用するのだが、その記号は現代のコードに背くものだった。それが、母殺しという記号である。氏は間テクスト性の観点からギリシャ悲劇における三つのオレステス物語と『蝿』を綿密に比較対照し、五点にわたる改変を取り出して『蝿』の独自性を明らかにするが、その中で特に母殺しの正当性をめぐる改変に注目する。アイスキュロスにおいて「神の正義」として正当化される母殺しは、エウリピデスにおいては共同体の法に照らして裁かれる。ところが、サルトルはこうしたコードの時代性を考慮せず、アイスキュロス的な神の正義と家父長制の男尊女卑的規範をそのまま残存させてしまった。サルトル演劇は同時代性への強い依拠を特徴とするが、『蝿』では同時代における意図しないコード破りが生じている。『バリオナ』との対称性はここに起因するのである。
 この発表は、『蝿』の斬新な魅力を浮き彫りにした上で、にもかかわらずなぜ占領下のパリにおいて不首尾に終わったのか、という疑問に明快な答えを与え、かつ演劇記号論という方法のサルトル演劇へのさらなる適用可能性を示唆し、新たな展望を開くものであった。他方、コードを遵守したことで成功を博した『バリオナ』に芸術作品として単なる迎合ではないどのような価値の創造を認めるか、という点は改めて問われねばなるまい。

 パネルディスカッションでは、『バリオナ』の読解にさらに新たな視点が加えられた。澤田直(立教大学)は、この戯曲が「映像提示者」と名づけられた語り手の前口上から始まっていること、劇の途中で何度か顔を出すこの語り手がこの演劇の演劇性を暴露していることに着目した。そしてその人物が目の見えない者と設定されていることから、見えるものと見えないものとの対立の構図があることを指摘、降誕という神話を神の可視化として捉えるこの戯曲に彼の想像力論、イマージュ論とのつながりを見出した。その上で、なぜサルトルがあえてこの芝居が芝居であることを暴露するような手法を用いたのかとの疑問を投げかけたが、これに対して石崎氏は寺山修司などを、翠川氏はブレヒトなどを引き合いに現代演劇の典型的な手法としての異化効果をサルトルが意識していたこともありうるとの見解を述べた。

 会場からは、『バリオナ』に関する研究書や論文の所在情報を求める質問や『バリオナ』において語られる自由と『存在と無』で緻密に概念化される自由との間に単純な対応関係を見ることはできないのではないか、といった意見が寄せられ、発表者もこれらに丁寧に答えていた。ただ、時間切れのため、これ以上論旨や方法論に深く立ち入った質疑応答ができなかったのが心残りであった。(生方淳子)

総会報告
日時:2018年7月7日17時45分〜18時15分
会場:立教大学5306教室

議題
1. 2017年度収支決算
2. 2018年度会計予算案
3. 2018〜19年度理事・監査選任
4. 2018年度 事業案

1. 翠川博之理事より、2017年度収支決算の報告がなされ、水野浩二監事から会計監査報告がなされ、満場異議なく承認された。

2. 翠川博之理事より、2018年度会計予算案の提案があり、満場異議なく承認された。

3. 澤田直代表理事より、2018〜19年度、理事・監査選任として、現行理事は残留とし、新たに水野浩二氏、生方淳子氏を理事とするとの提案があり、満場異議なく承認された。同じく、監査は、竹本研史氏、根木昭英氏とする提案があり、満場異議なく承認された。

4. 澤田直代表理事より、2018年度事業案として、冬の例会は2018年12月8日に立教大学で開催し、 ジル・フィリップ氏の講演を行うことが発表された。来年度は、澤田代表理事がサバティカルで不在だが、事務局はそのままとし、中田麻里氏にこれまで通り、会報の発送などの業務を委託することが説明された。本件について出席の会員からの異議はなく、総会は閉会となった。

役員 会長:鈴木道彦(再任) 代表理事:澤田直(再任) 理事(再任):岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、翠川博之、森功次、理事(新任)生方淳子、水野浩二、監査:竹本研史(再任)、根木昭英(新任)


2018年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2018 )参加報告
関大聡

2018年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月22日と23日の2日間、高等師範学校(パリ)にて開催された。今回は特に統一テーマは置かず、多様な主題からなる全14の発表が行われた。例年に比べると文学に関する発表が多かったように思われる。
今回の報告文では発表の要約に加え参考文献を付すことにした。というのも、本会報向けにも既に何度か書いていて実感することだが、学会の報告文を書くのは中々難しい。外国語での発表を要約可能なレベルで聴取するのが難しいのは勿論だが、学会発表の報告という作業それ自体に伴う困難がある。すべての発表に等しく興味を配分するだけでなく、なるべく中立的・客観的な視点を採用するよう努めなければ、大切な発表の主旨を曲げて伝えることになりかねない。ましてGESの発表は近年専門化が進んでおり、特に哲学系の発表に顕著だが、概念の彫琢は安易な要約を受け付けるものではない。そこで、要約は最小限に留め、その議論に触発された方は、それを(外国語が中心だが)参考論文によって深めていただければと考えた。現在サルトル研究がどのようなアプローチを行っているか、大掴みにでも接していただければ幸いである。

Jean-François Louette, « Erostrate et le langage des Justes »
今年度ソルボンヌ大学でルエット氏の『壁』に関する講義を受講したが、60分という枠のなかで各短編を鮮やかに論じていた。分析の一部は既に刊行された論文に基づいているから、以下の参考文も参照されたい。私見によると近年の氏の関心の主軸は、半ば偏執的なまでのテクスト・間テクスト分析を通してサルトルを文学史のなかに位置づけることにある。今回の「エロストラート」論もこの方向に沿うもので、前半では同短篇に現れる語(« tirer », « cartons », « paquet »)の性的・エクリチュール的な隠語としての側面を分析。後半はこうした殆ど暴力的なまでの言語遊戯が標的とする読者として、掲載誌であるNRFの主要な読者層(合理主義者、シュルレアリスト、ナショナリスト、さらにジッド)が指摘された。発表でも言及され、これまた隠語としても使われるsucerという語を用いるなら、まさに短篇の味わいを「吸い尽くす」ような分析であった。
Jean-François Louetteの論文:
「部屋」:« “La Chambre” de Sartre ou la Folie de Voltaire », dans Traces de Sartre (2009).
「水いらず」:« À propos de “l’Intimite” », dans Europe (no 1014, octobre 2013).
「ある指導者の幼年時代」:« La dialectique dans “L’Enfance d’un chef” », dans Silences de Sartre (1995) ; « “L’Enfance d’un chef” : la fleur et le coin d’acier », dans Traces de Sartre (2009).
短編集全体:« Sartre et la nouvelle », dans Traces de Sartre (2009).
知るかぎり「壁」論は未刊行。今回の「エロストラート」論はLittérature誌に刊行予定。

Samuel Webb, « Sommes-nous délivrés de Proust ? Sartre et l’amour éprouvé ».
ウェッブ氏は英米分析哲学における自己意識論の文脈からサルトルを論ずる博士論文を用意している。発表では情動とりわけ「愛」における自発性と反省性の問題が扱われた。サルトルは『存在と無』など随所で「意欲された感情sentiment voulu」と「体験された感情sentiment éprouvé」に区別はないとするジッドに同意を与えているが、それでは「真の愛」と「演じられた愛」の区別ができないのではないか。この問いを出発点として氏はサルトルによる愛の現象学的分析を浚ってゆく。議論の導きにはプルーストへのサルトルの言及も用いられているが、文学作品の扱いはもう少し慎重であってよいように思う。しかし(分析)哲学と文学作品の出会いとしては興味深い。論点としては(発表者も言及していたように)V. ド・コルビテールの言う「シニスムのアポリア」に通じるものも多く、そこからさらに議論の深まりが期待される。
Vincent de Coorebyter, « La jeune femme et le séducteur : genèse, structure et enjeux », Études sartriennes VI, 1995, p. 27-38.
Vincent de Coorebyter, « Le corps et l’aporie du cynisme dans l’Esquisse d’une théorie des émotions », Bulletin d’analyse phénoménologique VIII 1, 2012 (Actes 5), p. 273-285.
Webb氏の論文についてはAcademia.eduを参照されたい。

Jacques Lecarme, « Nizan revisité par Sartre, ou les bénéfices de la méconnaissance »
サルトルに関する目立った著作こそないが*、ルカルム氏の諸研究は小説家サルトルの理解に有益なものである。しばしば揶揄的にsartrologueとも呼ばれるサルトル主義者とは一線を画し、むしろ文学の愛好者として、氏はサルトルの作家としての技量に疑問を投げかけることも厭わない(一つ目の参考文献参照)。今回の発表はポール・ニザンの『アデン・アラビア』に付されたサルトルの序文(1961年)をめぐるものだが、随所でサルトルよりもニザンの作家としての力量を評価していた(« Le talent du romancier Nizan est incontestable ! »)。発表の趣旨は序文が発表・受容された1960年代前半の雰囲気を再構成するもの。レジス・ドブレやアラン・バディウのような同時代人の政治的態度を引き合いに出しつつ、「非政治的で文学的な」自らの高等師範学校時代をユーモアたっぷりに回想していた。なお発表の一部(小説『トロイの木馬』をめぐる議論)に関してはニザン研究誌Aden掲載の論文を参照されたい。(*あとで教えてくれたことだが、文章を書くのはあくまで仕事で、口頭での発表や対話こそが愉しみだと言う。その愉しみに交われたことは今回の学会で得た貴重な収穫だった。)
Jacques Lecarme, « Le succès et l’insuccès : Sartre et Paulhan », dans Ingrid Galster (dir.), La Naissance du « phénomène Sartre » : Raisons d’un succès (1938-1945), Paris, Seuil, 2001, p. 238-261.
Jacques Lecarme, « Le crime de M. Lange. Sartre dans le texte de Nizan », Aden : Paul Nizan et les années trente, no 1, déc. 2002, p. 89-104.

Antonio Vidal Filho, « La nuit de l’engagement. Textes de Sartre publiés dans Les Lettres Françaises (1943-1944) »
占領下フランスで創刊された雑誌『レットル・フランセーズ』は対独抵抗作家たちが匿名で活動する牙城となり、サルトルもそこに複数の文章を寄せている。ヴィダル・フィルホ氏の発表はこの時期のサルトルのテクストを再読するもの。対独協力作家への攻撃である「ドリュ・ラ・ロシェル、あるいは自己嫌悪」から「文学、この自由」における文学と民主主義の本質的な連帯性の肯定に至るまで、同誌掲載文は『文学とは何か』における新たな戦後的価値の創出を準備するものだと氏は結論する(ジゼル・サピロの言う「新しい精神性」)。ただ同時に付け加えておかねばならないのは、まさにこの文筆上のレジスタンス活動という点において、少なからぬ批評家や歴史家がサルトル批判の論陣を張っていることである。論争の詳細はルカルム氏の論文などに詳しいが、ある意味では非常にフランス的な文脈のなかで展開されているそうした議論には言及することなく、ブラジル出身の氏はテクストそれ自体を読むことによってその意義を改めて強調した。
Gisèle Sapiro, La guerre des écrivains (1940-1953), Paris, Fayard, 1999.
Jacques Lecarme, « Un Sartre clandestin », Médium 2013/4 (no 37-38), p. 270-285.

Jo Bogaerts, « Marthe Robert, critique des biographies existentielles de Sartre »
ボガエルツ氏はフランス実存主義におけるカフカ受容に関する博士論文を2015年に上梓している。フランスにおける初期カフカ受容の特徴はカフカを形而上学的作家と規定したことにあるが、こうした所謂実存主義的解釈に反してカフカの生い立ちなど歴史性を強調したのがマルト・ロベールである。それに対して氏が一貫して強調してきたのは、サルトルのカフカへの関心(及び実存的精神分析の方法)は決して歴史性を軽視するものではなく、むしろロベールと近いということである(この主張は2013年の新版『シチュアシオンIII』 に初収録された「ユダヤ人作家カフカ」によって実証されたと言える)。今回の発表ではロベールのフローベール論(En haine du roman : étude sur Flaubert, 1982)と『家の馬鹿息子』の比較が焦点。ここでもやはりロベールとサルトルの関心は(当時の構造主義的読解と対照的に)生と作品の関係、作家の誕生という側面に向かう点で共通する。だが幼少期のフィクショナルな再構成という点に関して、その虚構性こそ小説の起源と考えるロベール(『起源の小説と小説の起源』も参照)と、しばしばそれを事実として扱おうとするサルトルの間では相違がある。発表はこの点を詳細に検討したもので、その視座が有益たりうるのは『家の馬鹿息子』読解には留まらないだろう。
Jo Bogaerts, « Sartre, Kafka and the Universality of the Literary Work », Sartre Studies International, vol. 20, issue 1, 2014, p. 69-85.
Jo Bogaerts, « Jean-Paul Sartre. Situations III », The Germanic Review: Litterature, Culture, Theory, 90:2, 2015, 145-149.

Jérôme Englebert, « Psychopathologie de l’homme en désituation. »
精神病理・臨床心理の研究者であり臨床心理士でもあるアングルベール氏は、著書Psychopathologie de l’homme en situationで、サルトルに依拠しつつ「状況のなかの人間」の精神病理学を展開している(第五章は『聖ジュネ』を犯罪心理学的観点から考察したもの)。同書とは逆に、本発表では「脱状況désituationのなかの人間」が考察される。氏の指摘によれば、この概念は『方法の問題』及び『家の馬鹿息子』に見出される。前者は社会学者の調査対象に対する距離を、後者はフローベールの非現実的なものを志向する態度を指すものだが、この科学的態度と審美的態度に共通するのは主体と状況の相互性の不在である。特筆すべきは、氏がそこから精神病理学の知見や自ら接する統合失調症患者の臨床例を用い、そこに共通する「脱状況」的性格が現れていることを指摘する点である。サルトル自らはこの概念を統合失調症の説明に用いたわけでは全くないが、議論の構造を取り出すことにより他領域への応用可能性を模索する本発表は、サルトルの「利用法」を考えるうえで一つの手本となるものであった。
Jérôme Englebert, « L’acte incendiaire, son sujet et sa signification : propositions à partir du Saint Genet de Jean-Paul Sartre », dans Psychopathologie de l’homme en situation. Le corps du détenu dans l’univers carcéral, Éditions Hermann, 2013, p. 129-145.

Laurent Husson, « Henri Lefebvre précurseur de Sartre ? Préexistentialisme lefebvrien et existentialisme sartrien »
ユソン氏は別の論文でもサルトルとルフェーヴルの思想を比較検討しているが、今回の発表はルフェーヴルをプレ実存主義者として論じるものであった。ルフェーヴルは1946年の著書L’existentialismeのなかで、 1920-30年代にPhilosophies誌やEsprit誌に集った自分とその周辺の人々の思想には、サルトルらの実存主義のテーマを殆ど先取りするものが含まれていたと主張する。氏は、このルフェーヴルによるサルトルに対する先行者としての権利要求から出発し、ルフェーヴルの初期論文« Position d’attaque et défense de nouveau mysticisme »の検討などを通して、超越や自我批判など両思想家に共通するテーマを明らかにした。実際、『奇妙な戦争手帳』でサルトルはルフェーヴルらの雑誌における「絶対の探求」に同時代的な影響を受けたことを告白しており、フランスにおけるプレ実存主義の系譜はサルトルの知的形成を理解するうえでも重要なものと思われる。なお質疑ではルカルム氏によって、L’existentialisme以降の著書でのルフェーヴルによるニザン=裏切者というレッテル貼りの問題が喚起された。これが別の重要な問題であることは言うまでもなく、鈴木道彦氏の文章はこの点に関して日本語で読める優れた解説になっていることを言い添えておく。
Laurent Husson, « Sartre et Lefebvre : aliénation et quotidienneté » dans Sartre et le marxisme, sous la direction d’Emmanuel Barot, Paris : La Dispute, 2011, p. 217-239.
鈴木道彦「二人のルフェーヴル」、『異郷の季節 新装版』、みすず書房、2007年。

Fabio Recchia, « Pour Sartre. Réponse à Pierre Bourdieu »
レッキア氏の発表はブルデューによるサルトル批判への応答の試みである。ブルデューは『存在と無』における「根源的投企」の観念に「被造物ではない創造者créateur incréé」の神話、つまり、生育環境や社会の影響を受けずに芸術創造を行う孤独な天才という神話の典型を見る。氏はこれに対して、『存在と無』の主要概念が構想される『奇妙な戦争手帳』を参照しながら、サルトルの議論において人間主体は自らの置かれた社会的環境のなかに根本的に根差していることを明らかにしようとした。この応答は、おそらくそれほど異論の余地がない(ブルデューによる批判はサルトルの単純化に基づいている。一つ目の参考文献を参照)だけに、そこからどう議論を拡げるかが肝要になると思われる。ブルデューとサルトルの共通点・対立点は多岐にわたるだけに、質疑も熱がこもったものとなった。
Fabrice Thumerel, « De Sartre à Bourdieu : la fin de l’intellectuel classique ? », Études sartriennes VIII, 2001, p. 131-163.
Gisèle Sapiro, « Pourquoi le monde va-t-il de soi ? De la phénoménologie à la théorie de l’habitus », Études sartriennes VIII, 2001, p. 165-186.

Alexandre Féron, « Un appel au meurtre ? Une relecture de la préface des Damnés de la terre »
フェロン氏の発表は、「『地に呪われた者』序文」におけるスキャンダラスな表現、「反抗の第一段階においては、殺さねばならないil faut tuer」をめぐるものである。一連の文章はテロの暴力を正当化するだけでなく奨励・教唆するものとまで受け止められたが、サルトルの意図はどこにあったのか。氏はこれを『弁証法的理性批判』の理論的構成から理解しようとする。サルトルとテロリズム・暴力の問題に関して重要なのは、サルトルが暴力を正当化したのではなく、いまそこにある暴力(社会構造的な暴力も含む)の存在を、目を背けようのない事実として認め、それを理解する仕方を検討したということであるだろう。この正当化justificationと理解可能性intelligibilitéの違いはしばしば人の目を逃れるもので、質疑でもサルトル及び発表者の議論を暴力の正当化を図るものと早合点した批判が見られた。だが発表者が示唆したように、この序文の意図が誤解されスキャンダルとなることをサルトルが予め見越していたのだとすれば、この発表も同種のスキャンダルの必然性nécessité de scandalisationを含んでいたのかもしれない。
Valentin Schaepelynck, « Sartre avec Fanon : notes et réflexions sur une alliance », Sartre et le marxisme, sous la direction d’Emmanuel Barot, La Dispute, 2011, p. 201-215.
Jean-François Gardeaux, « Sartre et la violence », Jean-Paul Sartre, violence et éthique, sous la direction de Gérard Wormser, Sens Public, 2005.

Alix Bouffard, « Processus et processualité dans la Critique de la raison dialectique »
ブーファール氏の発表はサルトルの著作における過程processus、過程性processualitéを対象としたもの。5月28日、筆者がリエージュで開かれた研究集会「全体性、全体化、非連続性」に参加したときにも、同様のテーマからサルトルとルカーチの比較検討を行っていた。歴史過程processus historiqueの議論は、教条的マルクス主義の文脈では十分に検討されないまま公式化される一方で、実存主義的マルクス主義の文脈では回避されてきたものと理解されがちである。氏の発表は、こうした通説に反して、サルトルの著作における過程/過程性の思考を綿密に追うものである。その明晰な整理のなかで、「実践的惰性態」や「集列性」のような概念が再び位置づけられ、サルトルにおいて過程/過程性は、1) 多次元的なもので、2) 脱線を含むが目的論的構造を持ち、3) 非直線的ダイナミズムを特徴とする、という見取り図が与えられた。
Michael Heinrich, Alix Bouffard, Alexandre Féron, Guillaume Fondu, Ce qu’est Le Capital de Marx, Les Editions sociales, 2017.

Giorgia Vasari, « “Tout est en acte”. Réflexions sur le rapport entre matière, forme et contingence dans l’ontologie de Sartre »
ヴァザーリ氏の発表は、サルトルの存在論における偶然性の直観の問題を扱うものである。『存在と無』において存在の偶然性は彼の存在論の基礎に据えられているが、とりわけ『嘔吐』と比較するとき、偶然性は、その対として把握される「美の必然性」との対置において異なるコントラストを与えられることになる。この、『嘔吐』と『存在と無』の相違という点に関しては、ユソン氏やド・コルビテール氏などの研究において厳密に追究されてきたものでもある。氏の発表は、これらの先行研究を踏まえながら、議論をさらに高い水準に深めてゆこうという意志が感じられるものであった。
Laurent Husson, « L’épreuve d’être : exigence et expérience », Études sartriennes VI, 1995, p. 39-67.
Vincent de Coorebyter, Sartre avant la phénoménologie : autour de « la Nausée » et de la « Légende de la vérité », Bruxelles : Ousia, 2005.
Chiara Collamati, « Hysteresis et anticipation : politiques du temps chez Sartre »
コルマッティ氏の発表はサルトルの歴史的時間性の議論におけるヒステリシス(履歴現象)の意義を扱ったものである。ギリシア語で「遅れ」を意味するヒステリシスは、物理化学においては、効果が原因に対して遅れて(しばしば原因が消滅したあとに)現れる現象を指し、心理学や哲学の領域においても、過去の働きが慣性的・惰性的に物質や心に保存された状態を指す。たとえばブルデューはこの概念をハビトゥス概念に関して用いており、外部環境に対する習慣の不適応状態を論じている(これについてはファビオ氏の発表に付した二つ目の参考文献及びブルーノ・カルサンティの著作を参照)。『存在と無』のサルトルは、ジャック・シュヴァリエの『習慣』に言及しながらこの概念を批判的・否定的に扱っており、過去の現在への惰性的持続として「ねばねばしたもの」の本性に結びつけている。だが、『弁証法的理性批判』の2巻及び『家の馬鹿息子』においては、この概念の生産的側面に着目している。このことはルエット氏の『家の馬鹿息子』論文においても扱われているが、キアラ氏は、このヒステリシスとアンティシパシオン(未来予測)とが構成する時間の弁証法的性格を明らかにしようとしており、多くの著作への言及とともに蒙を啓かれるものであった。
Jean-François Louette, « Revanche de la bêtise dans L’idiot de la famille », Traces de Sartre, ELLUG, 2009, p. 301-324.
Bruno Karsenti, D’une philosophie à l’autre. Les sciences sociales et la politique des modernes, Gallimard, 2013.

Gérard Wormser, « Présence absente des thèses sartriennes sur la Morale de Sartre »
二日間の学会を締めくくるヴォルムセール氏の発表は、アクチュアルな問題を考えるためにサルトルがどのような手掛かりを与えうるかを考察するものであった。とはいえ、サルトルの名前は殆ど出てこない。ブルーノ・ラトゥール(『ガイアと向き合う』)、チャールズ・テイラー(『世俗の時代』)、マルセル・ゴーシェ、ハルトムート・ローザなど現代の理論家を引き合いに出しながら、世俗化と個人主義が展開する現代社会、あるいは<人新世>と呼ばれる新たな年代における*、共生と共働の可能性について氏は考察をめぐらせた。そののちに、氏は、そうした取り組みがサルトルが「倫理の根」講演で示した倫理的展望と深く通底していることを示した。サルトルの著作の直接的検討は欠くにもかかわらず、他のどの発表よりも「サルトル的」と評したくなるような発表として、会の結びには相応しいものであった。(*同じく人新世を見据えたサルトル哲学の可能性としては、未刊だが、2016年の北米サルトル学会でDamon Boriaが考察を行っていた。北米圏はこうした研究により積極的であるように思われる。)
Damon Boria, “The Serialized Individual in the Anthropocene, or, Lessons from and for Sartre’s Social Theory in a Time of Ecological Ruin”, communication given at 22st Annual Meeting of the North American Sartre Society, University of North Caroline, 4 November 2016.
Matthew C. Ally, Ecology and Existence: Bringing Sartre to the Water's Edge, Lexington Books, 2017.

サルトル関連文献
・井上直子「« l'étranger » と世界 : ヴァレリー、サルトル、カミュ」Gallia(大阪大学フランス語フランス文学会)57, pp.65-74, 2018年
・澤田直「サルトルとイタリア(2)」『立教大学フランス文学』(47), pp. 63-91, 2018年
・鈴木正見「サルトルのカント的障壁について ――ジェイムスンとジジェク」『大正大學研究紀要』 (103), pp.215-232, 2018年
理事会からのお知らせ
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
・次回の例会は12月8日(土)、立教大学にて開催の予定です。
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第41回研究例会 加藤誠之氏発表要旨 [研究例会のお知らせ]

7月7日に開催される第41回研究例会(13 :30~ 立教大学 5号館5306教室)の、加藤誠之氏(高知大学)の発表要旨です。
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