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日本サルトル学会会報第56号 [会報]

研究例会のご報告
第41回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムが行われました。

第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室

研究発表 「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
13:30 ~ 14:45
 発表者:加藤誠之(高知大学)
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

教育学の立場から不登校の研究をしている加藤氏は、不登校についての実証的研究にハイデガーやサルトルを援用して不登校問題の本質を剔抉しようとする。例えば、不登校の子どもたちは、ハイデガーのいう不安に近いものを抱えており、彼らは世界との日常的な慣れ親しみを失って不気味さ・居心地の悪さを覚えている、と述べる。とりわけサルトルは、加藤氏の議論の展開にとって重要であるように思える。というのも、加藤氏にとって、不登校の子どもたちは、「遊び」という形で「自由」を行使することで不安・居心地の悪さから解放される、というのが本発表の結論であるから。
加藤氏の考察は五段階からなっているように思われる。(1)まず、子どもたちは、慣れ親しんだ家族や地域社会から学校にやってくると、居心地の悪さを感じる。とりわけ思春期になると、第二の自我の目覚めにより、ある程度慣れ親しんでいた学校がより一層居心地の悪いものに思えてくる。(2)しかし、子どもたちは、この世界は「みんな」によって生きられている共同世界であり、「みんな」の可能性を実現するためにある無限の道具複合であることに気づく。こうして世界が再び慣れ親しみのある自分の世界になる。(3)それにもかかわらず、子どもたちは、他者によって利用される道具になることを受け入れるとき、「有用性」によって評価されるという現実も受け入れなければならなくなる。そのとき、他者からの評価のまなざしに苦しむ(罪責感)。(4)そこで子どもたちは、罪責感からのがれるために、現代の日本社会において有用性を体現している子どもである「よい子」を演じる。しかし「よい子」は、サルトルのいう「生真面目な精神」に陥っており、したがって自由を行使していない。(5)結局、子どもたちはこの状況を乗り越えようとして、「非行」に走る。なぜなら非行は自由を追求する「遊び」だからである。社会から逸脱したものである「遊び」を行うことによって、自由を否定する「よい子」から自分を解放しようとする。
論旨は極めて明快であり、また、サルトル哲学が実証的研究にも応用できることを教えてくれる貴重な報告であった。以下、当日会場で出されたいくつかの質問を紹介したい。
まず、思春期の危機の乗り越えに関して、加藤氏の発表を聞いて、不登校の子どもたちにはある種の「逆転」があることが分かった、という指摘に対して、危機の乗り越えには個人差がある、との回答があった。また、不登校の子どももオンラインゲームにはまっているのではないのか、との質問に、不登校の子どものすべてがはまっているわけではない、との回答があった。次に、ジャン・ジュネとの関係で非行についての質問があったが、非行に走る子どもたちには、社会に対する怒り、反発があり、また、彼らにとって非行自体が面白くなる、という側面があるとの回答があった。さらには、非行に走っている子どもたちの内部でいじめはないのかとの質問に、むしろ彼らには仲間に悪いことをするための作法を教える、という側面があることが紹介された。最後に、ひきこもりや不登校の歴史的経緯についての質問があり、不登校は皆が学校に行っていた時代以降の問題である、との回答があった。(報告:水野浩二)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
 パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
  石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
 司会:生方淳子(国士舘大学)

1940年冬、ドイツ軍の捕虜収容所Stalag ⅫDに収容されていたサルトルは、中世以来の伝統の聖史劇の形を借りてレジスタンスを呼びかける演劇の脚本を書き、演出し、捕虜仲間と共に自らも舞台に立った。それが彼の最初の戯曲『バリオナ』である。しかし、この作品はその後、作家本人の意思により公刊されず、上演されることもほとんどなかった。1970年にはミシェル・コンタとミシェル・リバルカによるサルトル著作目録 Les Ecrits de Sartre の付録の一部として掲載を受入れた彼だが、以降もこの作品については否定的な態度を取り続けていた。石崎晴己氏の最近の著書では、この埋もれた作品が翻訳紹介され、詳細な論考が加えられている。氏の言葉を借りれば、この戯曲は作者本人から「不当な仕打ち」を受けたことになるが、氏による翻訳出版はその名誉回復を図ったものと言える。同書の後半には、パリ帰還後のテクストで『自由への道』に関連する「敗走・捕虜日記」と「マチューの日記」の翻訳・論考も収録されているが、今回のシンポジウムでは前半のみを取り上げ、石崎氏のほか、サルトル演劇の研究を専門とする翠川博之氏とサルトル研究全般で活躍する澤田直氏を加えて、多角的にこの作品に迫った。各人の発表およびコメントの論旨は以下のとおりである。

石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
 著書の60頁に渡る多角的で詳細かつ明晰な論考をわずか1時間の発表で要約紹介するのは酷であったと思われるが、二人の主要人物、バリオナとバルタザールの言説の分析を中心に、相矛盾するメッセージの交錯を浮き彫りにしつつ、作品にこめられた意図が探り出された。
 それによれば、ローマの支配下にあるユダヤ人の村の村長バリオナは、圧政に倦み、もはや子孫を作らないことで村が自然消滅するのを待つという消極的集団自殺の道を村びとに強要しようとする。「落下」というキーワードに要約されるその言説を氏はハイデガーの「転落・頽落」Verfallen や「覚悟性」Entschlossenheit といった概念の影響を考慮に入れ、かつニーチェ的「気分」をそこに見出し、『嘔吐』的な自殺の誘惑に対する「ハイデガー・ニーチェ的変奏」と形容する。以降、物語の進行に伴って変化するバリオナの言説を多様な参照体系に基づき、悪を企てるリュシフェール的な神への反逆、全能の神の掟に背く人間の自由の断言、弱者に諦念を説くキリスト教へのニーチェ的批判として読み解いていく。これに対し、神の子の誕生の徴を見たとして東方からやって来た博士たちのひとり、バルタザールが発する希望の言説には、同時期に執筆が進んでいた『存在と無』で提示される「対自存在」の概念、不断に自己を逃れ、他所へと向かう人間のあり方が反映されていることが示される。そして、意外にもそれがキリスト教の教説と矛盾しないとして、「キリストと人間の存在論的な同質性の弁神論」という考え方が提示される。続いて、バリオナの妻サラに体現される母性の論理、イエスの父ヨセフに託された父親像についても時間の制約の中、ごくかいつまんでとは言え解説がなされ、サルトル劇において家族という次元のテーマが空前絶後の位置を占めることが指摘された。著書の論考で縦横かつ整然と語られた内容のごく一部ではあったが、その豊穣さを垣間見ることができ、改めて論考の熟読を私たちに促す発表であった。

翠川博之(東北大学) 『バリオナ』と『蝿』のあいだ
 翠川氏は、数年前に科研費による研究の一環として『バリオナ』を全訳していたが、出版という形での公表はしていなかった。今回はその成果を活かし、また演劇というジャンルに固有の意味作用に関する知見に基づいて手際よい精緻な分析を披露してくれた。特に、演劇記号論の手法を用いて「コード」という概念を軸に作品を読み解き、観客の心理にまで立ち入って受け止め方を推察するという姿勢から、『バリオナ』をその半年後に執筆開始された『蝿』と比較検討し、共通性と対称性をあぶり出した。
 それによれば、両戯曲にはナチス・ドイツの支配に対する抵抗の呼びかけという共通の政治的メッセージと人間の自由をめぐる思想の提示という共通のテーマがある。しかし、各作品を構成するモチーフを整理していくならば、両者間には著しい対称性が現われる。家族関係、眼差し、自由、神の存在、死生観、主人公の社会的地位という六項目の主要モチーフをめぐって、両戯曲は鮮やかな対称性を示すのである。それは何に由来するか。その謎を氏は記号論的に解いていく。演劇舞台は、現実の空間と時間の流れの中に記号の多義性を提示し観客がそれを汲みとることで成立するが、その読み取りの規則として、意味生成と解釈を可能にする社会習慣・規則・規範の体系、「コード」がある。コードには共同体の心性としての家族観・世界観・死生観・宗教観も含まれ、作家はこのコードを守ったり故意に破ったりすることで様々な作品を生み出す。『バリオナ』はその点でコードを尊重し遵守した作品であり、それゆえ観客に一体感と感動をもたらした。これに対して、『蝿』ではコードが破られている。オレステスの自由を象徴する重大な行為としてサルトルはギリシャ悲劇からある「記号」を借用するのだが、その記号は現代のコードに背くものだった。それが、母殺しという記号である。氏は間テクスト性の観点からギリシャ悲劇における三つのオレステス物語と『蝿』を綿密に比較対照し、五点にわたる改変を取り出して『蝿』の独自性を明らかにするが、その中で特に母殺しの正当性をめぐる改変に注目する。アイスキュロスにおいて「神の正義」として正当化される母殺しは、エウリピデスにおいては共同体の法に照らして裁かれる。ところが、サルトルはこうしたコードの時代性を考慮せず、アイスキュロス的な神の正義と家父長制の男尊女卑的規範をそのまま残存させてしまった。サルトル演劇は同時代性への強い依拠を特徴とするが、『蝿』では同時代における意図しないコード破りが生じている。『バリオナ』との対称性はここに起因するのである。
 この発表は、『蝿』の斬新な魅力を浮き彫りにした上で、にもかかわらずなぜ占領下のパリにおいて不首尾に終わったのか、という疑問に明快な答えを与え、かつ演劇記号論という方法のサルトル演劇へのさらなる適用可能性を示唆し、新たな展望を開くものであった。他方、コードを遵守したことで成功を博した『バリオナ』に芸術作品として単なる迎合ではないどのような価値の創造を認めるか、という点は改めて問われねばなるまい。

 パネルディスカッションでは、『バリオナ』の読解にさらに新たな視点が加えられた。澤田直(立教大学)は、この戯曲が「映像提示者」と名づけられた語り手の前口上から始まっていること、劇の途中で何度か顔を出すこの語り手がこの演劇の演劇性を暴露していることに着目した。そしてその人物が目の見えない者と設定されていることから、見えるものと見えないものとの対立の構図があることを指摘、降誕という神話を神の可視化として捉えるこの戯曲に彼の想像力論、イマージュ論とのつながりを見出した。その上で、なぜサルトルがあえてこの芝居が芝居であることを暴露するような手法を用いたのかとの疑問を投げかけたが、これに対して石崎氏は寺山修司などを、翠川氏はブレヒトなどを引き合いに現代演劇の典型的な手法としての異化効果をサルトルが意識していたこともありうるとの見解を述べた。

 会場からは、『バリオナ』に関する研究書や論文の所在情報を求める質問や『バリオナ』において語られる自由と『存在と無』で緻密に概念化される自由との間に単純な対応関係を見ることはできないのではないか、といった意見が寄せられ、発表者もこれらに丁寧に答えていた。ただ、時間切れのため、これ以上論旨や方法論に深く立ち入った質疑応答ができなかったのが心残りであった。(生方淳子)

総会報告
日時:2018年7月7日17時45分〜18時15分
会場:立教大学5306教室

議題
1. 2017年度収支決算
2. 2018年度会計予算案
3. 2018〜19年度理事・監査選任
4. 2018年度 事業案

1. 翠川博之理事より、2017年度収支決算の報告がなされ、水野浩二監事から会計監査報告がなされ、満場異議なく承認された。

2. 翠川博之理事より、2018年度会計予算案の提案があり、満場異議なく承認された。

3. 澤田直代表理事より、2018〜19年度、理事・監査選任として、現行理事は残留とし、新たに水野浩二氏、生方淳子氏を理事とするとの提案があり、満場異議なく承認された。同じく、監査は、竹本研史氏、根木昭英氏とする提案があり、満場異議なく承認された。

4. 澤田直代表理事より、2018年度事業案として、冬の例会は2018年12月8日に立教大学で開催し、 ジル・フィリップ氏の講演を行うことが発表された。来年度は、澤田代表理事がサバティカルで不在だが、事務局はそのままとし、中田麻里氏にこれまで通り、会報の発送などの業務を委託することが説明された。本件について出席の会員からの異議はなく、総会は閉会となった。

役員 会長:鈴木道彦(再任) 代表理事:澤田直(再任) 理事(再任):岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、翠川博之、森功次、理事(新任)生方淳子、水野浩二、監査:竹本研史(再任)、根木昭英(新任)


2018年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2018 )参加報告
関大聡

2018年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月22日と23日の2日間、高等師範学校(パリ)にて開催された。今回は特に統一テーマは置かず、多様な主題からなる全14の発表が行われた。例年に比べると文学に関する発表が多かったように思われる。
今回の報告文では発表の要約に加え参考文献を付すことにした。というのも、本会報向けにも既に何度か書いていて実感することだが、学会の報告文を書くのは中々難しい。外国語での発表を要約可能なレベルで聴取するのが難しいのは勿論だが、学会発表の報告という作業それ自体に伴う困難がある。すべての発表に等しく興味を配分するだけでなく、なるべく中立的・客観的な視点を採用するよう努めなければ、大切な発表の主旨を曲げて伝えることになりかねない。ましてGESの発表は近年専門化が進んでおり、特に哲学系の発表に顕著だが、概念の彫琢は安易な要約を受け付けるものではない。そこで、要約は最小限に留め、その議論に触発された方は、それを(外国語が中心だが)参考論文によって深めていただければと考えた。現在サルトル研究がどのようなアプローチを行っているか、大掴みにでも接していただければ幸いである。

Jean-François Louette, « Erostrate et le langage des Justes »
今年度ソルボンヌ大学でルエット氏の『壁』に関する講義を受講したが、60分という枠のなかで各短編を鮮やかに論じていた。分析の一部は既に刊行された論文に基づいているから、以下の参考文も参照されたい。私見によると近年の氏の関心の主軸は、半ば偏執的なまでのテクスト・間テクスト分析を通してサルトルを文学史のなかに位置づけることにある。今回の「エロストラート」論もこの方向に沿うもので、前半では同短篇に現れる語(« tirer », « cartons », « paquet »)の性的・エクリチュール的な隠語としての側面を分析。後半はこうした殆ど暴力的なまでの言語遊戯が標的とする読者として、掲載誌であるNRFの主要な読者層(合理主義者、シュルレアリスト、ナショナリスト、さらにジッド)が指摘された。発表でも言及され、これまた隠語としても使われるsucerという語を用いるなら、まさに短篇の味わいを「吸い尽くす」ような分析であった。
Jean-François Louetteの論文:
「部屋」:« “La Chambre” de Sartre ou la Folie de Voltaire », dans Traces de Sartre (2009).
「水いらず」:« À propos de “l’Intimite” », dans Europe (no 1014, octobre 2013).
「ある指導者の幼年時代」:« La dialectique dans “L’Enfance d’un chef” », dans Silences de Sartre (1995) ; « “L’Enfance d’un chef” : la fleur et le coin d’acier », dans Traces de Sartre (2009).
短編集全体:« Sartre et la nouvelle », dans Traces de Sartre (2009).
知るかぎり「壁」論は未刊行。今回の「エロストラート」論はLittérature誌に刊行予定。

Samuel Webb, « Sommes-nous délivrés de Proust ? Sartre et l’amour éprouvé ».
ウェッブ氏は英米分析哲学における自己意識論の文脈からサルトルを論ずる博士論文を用意している。発表では情動とりわけ「愛」における自発性と反省性の問題が扱われた。サルトルは『存在と無』など随所で「意欲された感情sentiment voulu」と「体験された感情sentiment éprouvé」に区別はないとするジッドに同意を与えているが、それでは「真の愛」と「演じられた愛」の区別ができないのではないか。この問いを出発点として氏はサルトルによる愛の現象学的分析を浚ってゆく。議論の導きにはプルーストへのサルトルの言及も用いられているが、文学作品の扱いはもう少し慎重であってよいように思う。しかし(分析)哲学と文学作品の出会いとしては興味深い。論点としては(発表者も言及していたように)V. ド・コルビテールの言う「シニスムのアポリア」に通じるものも多く、そこからさらに議論の深まりが期待される。
Vincent de Coorebyter, « La jeune femme et le séducteur : genèse, structure et enjeux », Études sartriennes VI, 1995, p. 27-38.
Vincent de Coorebyter, « Le corps et l’aporie du cynisme dans l’Esquisse d’une théorie des émotions », Bulletin d’analyse phénoménologique VIII 1, 2012 (Actes 5), p. 273-285.
Webb氏の論文についてはAcademia.eduを参照されたい。

Jacques Lecarme, « Nizan revisité par Sartre, ou les bénéfices de la méconnaissance »
サルトルに関する目立った著作こそないが*、ルカルム氏の諸研究は小説家サルトルの理解に有益なものである。しばしば揶揄的にsartrologueとも呼ばれるサルトル主義者とは一線を画し、むしろ文学の愛好者として、氏はサルトルの作家としての技量に疑問を投げかけることも厭わない(一つ目の参考文献参照)。今回の発表はポール・ニザンの『アデン・アラビア』に付されたサルトルの序文(1961年)をめぐるものだが、随所でサルトルよりもニザンの作家としての力量を評価していた(« Le talent du romancier Nizan est incontestable ! »)。発表の趣旨は序文が発表・受容された1960年代前半の雰囲気を再構成するもの。レジス・ドブレやアラン・バディウのような同時代人の政治的態度を引き合いに出しつつ、「非政治的で文学的な」自らの高等師範学校時代をユーモアたっぷりに回想していた。なお発表の一部(小説『トロイの木馬』をめぐる議論)に関してはニザン研究誌Aden掲載の論文を参照されたい。(*あとで教えてくれたことだが、文章を書くのはあくまで仕事で、口頭での発表や対話こそが愉しみだと言う。その愉しみに交われたことは今回の学会で得た貴重な収穫だった。)
Jacques Lecarme, « Le succès et l’insuccès : Sartre et Paulhan », dans Ingrid Galster (dir.), La Naissance du « phénomène Sartre » : Raisons d’un succès (1938-1945), Paris, Seuil, 2001, p. 238-261.
Jacques Lecarme, « Le crime de M. Lange. Sartre dans le texte de Nizan », Aden : Paul Nizan et les années trente, no 1, déc. 2002, p. 89-104.

Antonio Vidal Filho, « La nuit de l’engagement. Textes de Sartre publiés dans Les Lettres Françaises (1943-1944) »
占領下フランスで創刊された雑誌『レットル・フランセーズ』は対独抵抗作家たちが匿名で活動する牙城となり、サルトルもそこに複数の文章を寄せている。ヴィダル・フィルホ氏の発表はこの時期のサルトルのテクストを再読するもの。対独協力作家への攻撃である「ドリュ・ラ・ロシェル、あるいは自己嫌悪」から「文学、この自由」における文学と民主主義の本質的な連帯性の肯定に至るまで、同誌掲載文は『文学とは何か』における新たな戦後的価値の創出を準備するものだと氏は結論する(ジゼル・サピロの言う「新しい精神性」)。ただ同時に付け加えておかねばならないのは、まさにこの文筆上のレジスタンス活動という点において、少なからぬ批評家や歴史家がサルトル批判の論陣を張っていることである。論争の詳細はルカルム氏の論文などに詳しいが、ある意味では非常にフランス的な文脈のなかで展開されているそうした議論には言及することなく、ブラジル出身の氏はテクストそれ自体を読むことによってその意義を改めて強調した。
Gisèle Sapiro, La guerre des écrivains (1940-1953), Paris, Fayard, 1999.
Jacques Lecarme, « Un Sartre clandestin », Médium 2013/4 (no 37-38), p. 270-285.

Jo Bogaerts, « Marthe Robert, critique des biographies existentielles de Sartre »
ボガエルツ氏はフランス実存主義におけるカフカ受容に関する博士論文を2015年に上梓している。フランスにおける初期カフカ受容の特徴はカフカを形而上学的作家と規定したことにあるが、こうした所謂実存主義的解釈に反してカフカの生い立ちなど歴史性を強調したのがマルト・ロベールである。それに対して氏が一貫して強調してきたのは、サルトルのカフカへの関心(及び実存的精神分析の方法)は決して歴史性を軽視するものではなく、むしろロベールと近いということである(この主張は2013年の新版『シチュアシオンIII』 に初収録された「ユダヤ人作家カフカ」によって実証されたと言える)。今回の発表ではロベールのフローベール論(En haine du roman : étude sur Flaubert, 1982)と『家の馬鹿息子』の比較が焦点。ここでもやはりロベールとサルトルの関心は(当時の構造主義的読解と対照的に)生と作品の関係、作家の誕生という側面に向かう点で共通する。だが幼少期のフィクショナルな再構成という点に関して、その虚構性こそ小説の起源と考えるロベール(『起源の小説と小説の起源』も参照)と、しばしばそれを事実として扱おうとするサルトルの間では相違がある。発表はこの点を詳細に検討したもので、その視座が有益たりうるのは『家の馬鹿息子』読解には留まらないだろう。
Jo Bogaerts, « Sartre, Kafka and the Universality of the Literary Work », Sartre Studies International, vol. 20, issue 1, 2014, p. 69-85.
Jo Bogaerts, « Jean-Paul Sartre. Situations III », The Germanic Review: Litterature, Culture, Theory, 90:2, 2015, 145-149.

Jérôme Englebert, « Psychopathologie de l’homme en désituation. »
精神病理・臨床心理の研究者であり臨床心理士でもあるアングルベール氏は、著書Psychopathologie de l’homme en situationで、サルトルに依拠しつつ「状況のなかの人間」の精神病理学を展開している(第五章は『聖ジュネ』を犯罪心理学的観点から考察したもの)。同書とは逆に、本発表では「脱状況désituationのなかの人間」が考察される。氏の指摘によれば、この概念は『方法の問題』及び『家の馬鹿息子』に見出される。前者は社会学者の調査対象に対する距離を、後者はフローベールの非現実的なものを志向する態度を指すものだが、この科学的態度と審美的態度に共通するのは主体と状況の相互性の不在である。特筆すべきは、氏がそこから精神病理学の知見や自ら接する統合失調症患者の臨床例を用い、そこに共通する「脱状況」的性格が現れていることを指摘する点である。サルトル自らはこの概念を統合失調症の説明に用いたわけでは全くないが、議論の構造を取り出すことにより他領域への応用可能性を模索する本発表は、サルトルの「利用法」を考えるうえで一つの手本となるものであった。
Jérôme Englebert, « L’acte incendiaire, son sujet et sa signification : propositions à partir du Saint Genet de Jean-Paul Sartre », dans Psychopathologie de l’homme en situation. Le corps du détenu dans l’univers carcéral, Éditions Hermann, 2013, p. 129-145.

Laurent Husson, « Henri Lefebvre précurseur de Sartre ? Préexistentialisme lefebvrien et existentialisme sartrien »
ユソン氏は別の論文でもサルトルとルフェーヴルの思想を比較検討しているが、今回の発表はルフェーヴルをプレ実存主義者として論じるものであった。ルフェーヴルは1946年の著書L’existentialismeのなかで、 1920-30年代にPhilosophies誌やEsprit誌に集った自分とその周辺の人々の思想には、サルトルらの実存主義のテーマを殆ど先取りするものが含まれていたと主張する。氏は、このルフェーヴルによるサルトルに対する先行者としての権利要求から出発し、ルフェーヴルの初期論文« Position d’attaque et défense de nouveau mysticisme »の検討などを通して、超越や自我批判など両思想家に共通するテーマを明らかにした。実際、『奇妙な戦争手帳』でサルトルはルフェーヴルらの雑誌における「絶対の探求」に同時代的な影響を受けたことを告白しており、フランスにおけるプレ実存主義の系譜はサルトルの知的形成を理解するうえでも重要なものと思われる。なお質疑ではルカルム氏によって、L’existentialisme以降の著書でのルフェーヴルによるニザン=裏切者というレッテル貼りの問題が喚起された。これが別の重要な問題であることは言うまでもなく、鈴木道彦氏の文章はこの点に関して日本語で読める優れた解説になっていることを言い添えておく。
Laurent Husson, « Sartre et Lefebvre : aliénation et quotidienneté » dans Sartre et le marxisme, sous la direction d’Emmanuel Barot, Paris : La Dispute, 2011, p. 217-239.
鈴木道彦「二人のルフェーヴル」、『異郷の季節 新装版』、みすず書房、2007年。

Fabio Recchia, « Pour Sartre. Réponse à Pierre Bourdieu »
レッキア氏の発表はブルデューによるサルトル批判への応答の試みである。ブルデューは『存在と無』における「根源的投企」の観念に「被造物ではない創造者créateur incréé」の神話、つまり、生育環境や社会の影響を受けずに芸術創造を行う孤独な天才という神話の典型を見る。氏はこれに対して、『存在と無』の主要概念が構想される『奇妙な戦争手帳』を参照しながら、サルトルの議論において人間主体は自らの置かれた社会的環境のなかに根本的に根差していることを明らかにしようとした。この応答は、おそらくそれほど異論の余地がない(ブルデューによる批判はサルトルの単純化に基づいている。一つ目の参考文献を参照)だけに、そこからどう議論を拡げるかが肝要になると思われる。ブルデューとサルトルの共通点・対立点は多岐にわたるだけに、質疑も熱がこもったものとなった。
Fabrice Thumerel, « De Sartre à Bourdieu : la fin de l’intellectuel classique ? », Études sartriennes VIII, 2001, p. 131-163.
Gisèle Sapiro, « Pourquoi le monde va-t-il de soi ? De la phénoménologie à la théorie de l’habitus », Études sartriennes VIII, 2001, p. 165-186.

Alexandre Féron, « Un appel au meurtre ? Une relecture de la préface des Damnés de la terre »
フェロン氏の発表は、「『地に呪われた者』序文」におけるスキャンダラスな表現、「反抗の第一段階においては、殺さねばならないil faut tuer」をめぐるものである。一連の文章はテロの暴力を正当化するだけでなく奨励・教唆するものとまで受け止められたが、サルトルの意図はどこにあったのか。氏はこれを『弁証法的理性批判』の理論的構成から理解しようとする。サルトルとテロリズム・暴力の問題に関して重要なのは、サルトルが暴力を正当化したのではなく、いまそこにある暴力(社会構造的な暴力も含む)の存在を、目を背けようのない事実として認め、それを理解する仕方を検討したということであるだろう。この正当化justificationと理解可能性intelligibilitéの違いはしばしば人の目を逃れるもので、質疑でもサルトル及び発表者の議論を暴力の正当化を図るものと早合点した批判が見られた。だが発表者が示唆したように、この序文の意図が誤解されスキャンダルとなることをサルトルが予め見越していたのだとすれば、この発表も同種のスキャンダルの必然性nécessité de scandalisationを含んでいたのかもしれない。
Valentin Schaepelynck, « Sartre avec Fanon : notes et réflexions sur une alliance », Sartre et le marxisme, sous la direction d’Emmanuel Barot, La Dispute, 2011, p. 201-215.
Jean-François Gardeaux, « Sartre et la violence », Jean-Paul Sartre, violence et éthique, sous la direction de Gérard Wormser, Sens Public, 2005.

Alix Bouffard, « Processus et processualité dans la Critique de la raison dialectique »
ブーファール氏の発表はサルトルの著作における過程processus、過程性processualitéを対象としたもの。5月28日、筆者がリエージュで開かれた研究集会「全体性、全体化、非連続性」に参加したときにも、同様のテーマからサルトルとルカーチの比較検討を行っていた。歴史過程processus historiqueの議論は、教条的マルクス主義の文脈では十分に検討されないまま公式化される一方で、実存主義的マルクス主義の文脈では回避されてきたものと理解されがちである。氏の発表は、こうした通説に反して、サルトルの著作における過程/過程性の思考を綿密に追うものである。その明晰な整理のなかで、「実践的惰性態」や「集列性」のような概念が再び位置づけられ、サルトルにおいて過程/過程性は、1) 多次元的なもので、2) 脱線を含むが目的論的構造を持ち、3) 非直線的ダイナミズムを特徴とする、という見取り図が与えられた。
Michael Heinrich, Alix Bouffard, Alexandre Féron, Guillaume Fondu, Ce qu’est Le Capital de Marx, Les Editions sociales, 2017.

Giorgia Vasari, « “Tout est en acte”. Réflexions sur le rapport entre matière, forme et contingence dans l’ontologie de Sartre »
ヴァザーリ氏の発表は、サルトルの存在論における偶然性の直観の問題を扱うものである。『存在と無』において存在の偶然性は彼の存在論の基礎に据えられているが、とりわけ『嘔吐』と比較するとき、偶然性は、その対として把握される「美の必然性」との対置において異なるコントラストを与えられることになる。この、『嘔吐』と『存在と無』の相違という点に関しては、ユソン氏やド・コルビテール氏などの研究において厳密に追究されてきたものでもある。氏の発表は、これらの先行研究を踏まえながら、議論をさらに高い水準に深めてゆこうという意志が感じられるものであった。
Laurent Husson, « L’épreuve d’être : exigence et expérience », Études sartriennes VI, 1995, p. 39-67.
Vincent de Coorebyter, Sartre avant la phénoménologie : autour de « la Nausée » et de la « Légende de la vérité », Bruxelles : Ousia, 2005.
Chiara Collamati, « Hysteresis et anticipation : politiques du temps chez Sartre »
コルマッティ氏の発表はサルトルの歴史的時間性の議論におけるヒステリシス(履歴現象)の意義を扱ったものである。ギリシア語で「遅れ」を意味するヒステリシスは、物理化学においては、効果が原因に対して遅れて(しばしば原因が消滅したあとに)現れる現象を指し、心理学や哲学の領域においても、過去の働きが慣性的・惰性的に物質や心に保存された状態を指す。たとえばブルデューはこの概念をハビトゥス概念に関して用いており、外部環境に対する習慣の不適応状態を論じている(これについてはファビオ氏の発表に付した二つ目の参考文献及びブルーノ・カルサンティの著作を参照)。『存在と無』のサルトルは、ジャック・シュヴァリエの『習慣』に言及しながらこの概念を批判的・否定的に扱っており、過去の現在への惰性的持続として「ねばねばしたもの」の本性に結びつけている。だが、『弁証法的理性批判』の2巻及び『家の馬鹿息子』においては、この概念の生産的側面に着目している。このことはルエット氏の『家の馬鹿息子』論文においても扱われているが、キアラ氏は、このヒステリシスとアンティシパシオン(未来予測)とが構成する時間の弁証法的性格を明らかにしようとしており、多くの著作への言及とともに蒙を啓かれるものであった。
Jean-François Louette, « Revanche de la bêtise dans L’idiot de la famille », Traces de Sartre, ELLUG, 2009, p. 301-324.
Bruno Karsenti, D’une philosophie à l’autre. Les sciences sociales et la politique des modernes, Gallimard, 2013.

Gérard Wormser, « Présence absente des thèses sartriennes sur la Morale de Sartre »
二日間の学会を締めくくるヴォルムセール氏の発表は、アクチュアルな問題を考えるためにサルトルがどのような手掛かりを与えうるかを考察するものであった。とはいえ、サルトルの名前は殆ど出てこない。ブルーノ・ラトゥール(『ガイアと向き合う』)、チャールズ・テイラー(『世俗の時代』)、マルセル・ゴーシェ、ハルトムート・ローザなど現代の理論家を引き合いに出しながら、世俗化と個人主義が展開する現代社会、あるいは<人新世>と呼ばれる新たな年代における*、共生と共働の可能性について氏は考察をめぐらせた。そののちに、氏は、そうした取り組みがサルトルが「倫理の根」講演で示した倫理的展望と深く通底していることを示した。サルトルの著作の直接的検討は欠くにもかかわらず、他のどの発表よりも「サルトル的」と評したくなるような発表として、会の結びには相応しいものであった。(*同じく人新世を見据えたサルトル哲学の可能性としては、未刊だが、2016年の北米サルトル学会でDamon Boriaが考察を行っていた。北米圏はこうした研究により積極的であるように思われる。)
Damon Boria, “The Serialized Individual in the Anthropocene, or, Lessons from and for Sartre’s Social Theory in a Time of Ecological Ruin”, communication given at 22st Annual Meeting of the North American Sartre Society, University of North Caroline, 4 November 2016.
Matthew C. Ally, Ecology and Existence: Bringing Sartre to the Water's Edge, Lexington Books, 2017.

サルトル関連文献
・井上直子「« l'étranger » と世界 : ヴァレリー、サルトル、カミュ」Gallia(大阪大学フランス語フランス文学会)57, pp.65-74, 2018年
・澤田直「サルトルとイタリア(2)」『立教大学フランス文学』(47), pp. 63-91, 2018年
・鈴木正見「サルトルのカント的障壁について ――ジェイムスンとジジェク」『大正大學研究紀要』 (103), pp.215-232, 2018年
理事会からのお知らせ
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
・次回の例会は12月8日(土)、立教大学にて開催の予定です。
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第41回研究例会 加藤誠之氏発表要旨 [研究例会のお知らせ]

7月7日に開催される第41回研究例会(13 :30~ 立教大学 5号館5306教室)の、加藤誠之氏(高知大学)の発表要旨です。
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日本サルトル学会会報第55号 [会報]

研究例会のお知らせ
第41回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムを開催致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。
第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室
研究発表
13:30 ~ 14:45
発表者:加藤誠之(高知大学)
「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
司会:生方淳子(国士舘大学)

総会 17:40 ~

懇親会 18:30 ~

※ 発表要旨につきましては、後日サルトル学会のブログに掲載いたします。
                     http://ajes.blog.so-net.ne.jp/
サルトル関連文献
・ 中田光雄『意味と脱–意味: ソシュール、現代哲学、そして……』水声社、2018年
・ ジュリア・クリステヴァ『ボーヴォワール』栗脇永翔・中村彩訳、法政大学出版局、2018年
・ シモーヌ・ド ボーヴォワール『モスクワの誤解』井上たか子訳、人文書院、2018年
・ 川神傳弘「『歴史的なもの』と『歴史主義』の懸隔 : ベルジャーエフ、サルトル、カミュ、ポンティ、アロン」『仏語仏文学』(44), 1-32, 2018.
・ Hiroaki Seki “Sartre et la figure de Cassandre” Sartre Studies International 23(2) : 36-57, 2017.
・ 関大聡「大地への慎重な接近:サン=テグジュペリを読むサルトル」『年報地域文化研究』20 : 1-23, 2018.

講演会のご案内
法政大学言語・文化センター主催講演会
ジル・フィリップ氏 後援会

日時:6月7日(木)17:30より
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)
ボアソナードタワー3階 マルディメディア教室0300

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Entre édition scientifique et édition commerciale : dans les coulisses de la Pléiade »
司会:澤田直(立教大学文学部)

講演はフランス語・通訳なし
参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:鈴木正道(法政大学国際文化学部)
e-mail : masamiti[at]hosei.ac.jp

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。


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2018-06-04

研究例会のお知らせ
第41回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムを開催致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室

研究発表
13:30 ~ 14:45
発表者:加藤誠之(高知大学)
「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
司会:生方淳子(国士舘大学)

総会 17:40 ~
懇親会 18:30 ~

※ 発表要旨につきましては、後日サルトル学会のブログに掲載いたします。
                     http://ajes.blog.so-net.ne.jp/
サルトル関連文献
・ 中田光雄『意味と脱–意味: ソシュール、現代哲学、そして……』水声社、2018年
・ ジュリア・クリステヴァ『ボーヴォワール』栗脇永翔・中村彩訳、法政大学出版局、2018年
・ シモーヌ・ド ボーヴォワール『モスクワの誤解』井上たか子訳、人文書院、2018年
・ 川神傳弘「『歴史的なもの』と『歴史主義』の懸隔 : ベルジャーエフ、サルトル、カミュ、ポンティ、アロン」『仏語仏文学』(44), 1-32, 2018.
・ Hiroaki Seki “Sartre et la figure de Cassandre” Sartre Studies International 23(2) : 36-57, 2017.
・ 関大聡「大地への慎重な接近:サン=テグジュペリを読むサルトル」『年報地域文化研究』20 : 1-23, 2018.
講演会のご案内
法政大学言語・文化センター主催講演会
ジル・フィリップ氏 後援会

日時:6月7日(木)17:30より
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)
ボアソナードタワー3階 マルディメディア教室0300

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Entre édition scientifique et édition commerciale : dans les coulisses de la Pléiade »
司会:澤田直(立教大学文学部)

講演はフランス語・通訳なし
参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:鈴木正道(法政大学国際文化学部)
e-mail : masamiti@hosei.ac.jp

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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6月2日、6月7日Gilles Philippe氏講演会のお知らせ

Gilles Philippe氏の二つの講演会をお知らせします。
獨協大学(仏文学会)講演会.pdf
法政大学講演会.pdf

【講演1】
-----------------------------------------------------
獨協大学外国語学部フランス語学科講演会
[日本フランス語フランス文学会2018年度春季大会内での開催となります]

日時:6月2日(土)16:30-17:45
場所:
獨協大学(〒 340-0042 埼玉県草加市学園町1-1)
西棟1階W-102教室

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Style littéraire et norme langagière »
司会:根木昭英(獨協大学)

講演はフランス語・通訳なし

参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:
獨協大学外国語学部フランス語学科共同研究室
e-mail : labofre[at]ml.dokkyo.ac.jp


* 日本フランス語フランス文学会2018年度春季大会内での開催となります。以下の学会プログラムも合わせてご覧ください。

http://www.sjllf.org/taikai/?action=common_download_main&upload_id=1479
-----------------------------------------------------



【講演2】
-----------------------------------------------------
法政大学言語・文化センター主催講演会

日時:6月7日(木)17:30より
場所:
法政大学市ヶ谷キャンパス(東京都千代田区富士見2-17-1)
ボアソナードタワー3階 マルディメディア教室0300

講演者:Gilles Philippe (Université de Lausanne)
演題:« Entre édition scientifique et édition commerciale : dans les
coulisses de la Pléiade »
司会:澤田直(立教大学文学部)

講演はフランス語・通訳なし

参加費:無料
事前申し込み:不要

お問い合わせ先:鈴木正道(法政大学国際文化学部)
e-mail : masamiti[at]hosei.ac.jp
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日本サルトル学会会報第54号 [会報]

研究例会のご報告
第40回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、南コニー氏、堀田新五郎氏による研究発表が行われました。

第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~17:00
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15
発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師)
「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)

 南氏の発表は1967年にストックホルム法廷、東京法廷、ロスキレ法廷と三回にわたって開催された民衆法廷、ラッセル法廷を材料にサルトルの思想面、とりわけ中期サルトルの倫理的思想を考察するものであった。
 南氏はまず「民衆法廷」という枠組みが要求された当時の社会・政治状況を説明した上で、民衆法廷の思想史的意義を考察した。従来、知識人・思想家が国家権力から裁かれる存在であったことをふまえると、民衆法廷とはそうした知識人・思想家が国家を裁く主体となったという点で画期的な転換点といえる、という南氏の主張は非常に興味深いものであった。
じっさい、民衆法廷という従来になかったシステムを立ち上げるに当たっては、数々の政治的・制度的困難があったという。そのとき、そうした困難を乗り越えるにあたって拠り所となった思想的指針は、「真実を民衆側から生成する」というものだった。刑の執行、法的意義などについては特に効力を持たない民衆裁判にとって、重要なのは、大衆側から真理を生成していくという点だったのである。
発表の後半では南氏は、その「真理の生成」という点からサルトルとキルケゴールの思想的近親性を指摘した。南氏のまとめによれば、キルケゴールのいう主体的真理とは、客観的真理と違い、「関わる対象が非真理であっても主体の関わり方が真理であるかが重要」なものである。キルケゴールは宗教的なものへの関わり方を、この「主体的真理」という概念で説明したのだった。さらに南氏は、サルトルの「キルケゴールは、単独者が歴史のうちに普遍者として自己を設定する限りにおいて、普遍者が単独者として歴史に入ってきたことを示したおそらく最初の人である」という文章を引きつつ、キルケゴールの「主体的真理」の概念を「単独的普遍者」概念と結びつけ、そこからラッセル法廷をサルトル的モラルの実践の場として読み解いた。ラッセル法廷とは人々が主体的に真理を生成しようとした社会的・倫理的実践の場だったのだ、というのが南氏の発表のひとつの結論である。
最後にいくつか申し添えておくと、全体として南氏の発表は、従来あまり内容が知られてなかったラッセル法廷の様子とその反響具合を、新聞記事、写真、映像等の各種資料とともに入念に紹介する、非常に資料的価値の高いものであった。さらに発表の最後に南氏は、現代の民衆法廷の事例を紹介しつつ、現在彼女が関わっている民衆法廷プロジェクトの様子も紹介していたが、彼女のこうしたプロジェクトへの関わりは、単なるリサーチを越えて彼女自身が行う一つの実践的活動でもある。資料的リサーチと社会運動を結びつける南氏の発表は、現代におけるアカデミシャンのひとつのあり方を示していた点で非常に刺激的であった。今後のさらなる成果に期待したい。(森功次)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか)

 サルトルは『倫理学ノート』で探求した倫理的要請から、倫理を裏切らないために倫理学を放棄し、そして、倫理学は政治思想と評伝に転化されねばならなかった。本報告において堀田氏はそう論じ、それによって、サルトルの政治思想を「主体の決断主義」とする解釈を批判する。サルトルの倫理・政治思想は「非主体的決断による主体の構成」として捉えなおされるが、しかし、それはなおもメシア主義の危険をはらんでいる、と氏は結論する。多くの示唆に富む刺激的な報告であった。
 堀田氏はまず、「倫理」と「倫理学」はどのように違うのか、そして「倫理学」はなぜ「倫理」を裏切るのか、ということを、聖書の「善きサマリア人の譬え」を用いて説明する。「私の隣人とはだれですか」とイエスに尋ねた律法学者は、「義人となる」ことを目的とし、事前に「愛すべき隣人」が誰かを同定しようとしている。同じく、「倫理学者」は、「倫理」それ自体を対象とし、事前に同定することを目的とすることで、かえって「倫理」を裏切ることになる。一方、旅人を「助けるがために助けた」サマリア人にとって、目的は「倫理」ではなく、今ここでの「具体的な苦しみの除去」でしかない。倫理は、「過去」の具体例を媒介に誘っていく事柄であり、その意味で倫理は「倫理学」ではなく、「評伝」で伝えられねばならない。サルトルが『倫理学ノート』冒頭で言うように「『倫理的であるために倫理を為す』という金言は毒にまみれている」のであり、「倫理は倫理以外の目的へと止揚されなければならない」のである。
 しかし、今ここでの具体的苦しみが継続的・構造的な暴力によって生み出されているとすれば、倫理においては、「この私」の単独的行為ではなく、暴力のメカニズムを暴き出し、他者たちに世界変革を呼びかけることが要請される。倫理は、構造的暴力を媒介に、政治思想へと止揚される。サルトルの「倫理とは、倫理の選択ではなく、世界の選択でなければならない」(CM)という言葉もその意味で理解されるべきであり、政治思想とは、「あるべき世界」を提示することとして「未来」形で倫理を語ることでもある。
 このように「倫理」そのもの、「être authentique」そのものをポジティヴに「事前に」提示することは不可能である。ところが、サルトルの倫理思想を「être authentique の探求」と捉えてしまうところから、「サルトル=無からの決断主義者」というサルトル像が生まれてしまうが、そうした解釈はサルトルの思想をとらえそこなっている。
 一方で、氏は『文学とは何か』、『倫理学ノート』を読み解くことで、その政治思想的帰結がウルトラ・ボルシェヴィズムとなってしまう点を指摘する。『文学とは何か』では、無からの価値の選択が提起されているが、ただしそこには羅針盤があり、存在的次元での具体的な自由が選択の価値基準なのである。その意味でそれは政治と不可分の関係を持つ。しかし、その「政治」とは、既存の秩序を前提に、価値の権威的配分をめぐる「技術的な政治」ではない。それは、既存の法秩序を無化し、新たなそれを構成する革命的な暴力violence(『倫理学ノート』では「一撃としての贈与」)に基づく政治である。『共産主義者と平和』においては、この主体的ないしは主権的自由は、〈党〉 (Parti)の自由として現れるのではないか。ここに、メルロ=ポンティが批判したウルトラ・ボルシェヴィズムの危険性を看取すべきではないか。
 その上で氏は、サルトルのアブラハム解釈の、「主体の決断主義」から「非主体的決断による主体の構成」への転回をたどり、また、デリダのアブラハム論を参照することによって、サルトルの立場を「非・主体の決断主義」として提示する(この観点から、メルロ=ポンティのウルトラ・ボルシェヴィズム解釈は批判される)。『実存主義とは何か』でのアブラハムの叙述においては、(単独者として無根拠に)「決断するのはつねに私」という形で「決断主体」としての〈私〉が召喚されているが、『聖ジュネ』においては、〈私〉が事後的にしか成立しえないことが強調されている。前者とは違い、『聖ジュネ』では「私はアブラハムだろうか?」という問いが否定され、「神のまなざしが、外部から彼を構成した」のであり「アブラハムは客体なのだ」と言われる(SG)。決断の瞬間にはアブラハムは決断主体の〈私〉ではなく〈客体〉にすぎない。これは、内在的他性としての〈それÇa〉に突き動かされる瞬間(狂気の瞬間)である。しかも、事後的に構成された主体は、一切の「責任」を引き受けて現れる。デリダがアブラハム論で言うように、決断は、「私の中における他者の決断」でありつつも、それは、無責任や受動性を意味しないのであり「『それが私にまなざしを向けるÇa me regarde』が『それは私の問題だ、私に関係することだ、私の責任事だ』と私に語らせる(『死を与える』)」のである。このように、サルトルとデリダはそのアブラハム論において邂逅する。ただし、こうした「非主体的な決断」は、デリダがいうように、シュミット流の主体的決断主義を批判するものだとしても、氏はそこにむしろメシア主義の完成を見る。メシア主義的な思想は、主体性ではなく他者性が強調されるとき、より強度を高めるのであり、『聖ジュネ』(『共産主義者と平和』と同時期に書かれている)末尾の「モラルが我々にとって不可避であると同時に不可能」に関しても「他律的な決断の否応なさ」が強調されているのではないか、と氏は考える。最後に、メシア主義をめぐるサルトルとデリダの相違が指摘されることで発表は締めくくられた。
 質疑応答では次のような指摘があった。「『実存主義とは何か』を見ると、主体の決断主義に見えるが、その立場が変わったともいえない。『存在と無』では、対自は自分が決めるわけではなく、常に前の自分と切られてしまっている。ただしそれを、Ça(それ)あるいはフロイト的エスに繋げるのはサルトル的ではない。むしろ〈私〉、自我自体が他者であるという、『自我の超越』で言われている非人称的意識のあり方ではないか。」「サルトルの主体性はデカルト的コギトではなく〈社会的主体性〉。そこには、無意識・歴史・身体が含まれている。それをサルトルは明確に60年代、後期になって明確にとらえた。」「最終的に第三の倫理まで含めた場合、サルトルがこだわっているのは、52年のころの〈党〉とは異なり、〈左翼gauche〉である。」「50年代にサルトルは過去の自分自身に逆らって『ジュネ論』を展開した。そこでは、他者性の引き受け、受動性をポジティブに方向転換することとして〈回心〉が論じられている。ところが(非主体的だとしても)〈決断〉、という言葉を使うと、やはり主体的なものが念頭に置かれているように感じられてしまう。」
 最後に、今回の発表における「他者のまなざしによる倫理的主体の構成」という議論と、前回の例会との関係についても指摘しておきたい。竹内芳郎もまた、他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」にサルトルの「実存的倫理」の根源を見ていたのである。(永野潤)

サルトル研究関連文献
・ J-P・サルトル『敗走と捕虜のサルトル 〔戯曲『バリオナ』「敗走・捕虜日記」「マチューの日記」〕』石崎晴己(編訳)、藤原書店、2018年
・ 鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』閏月社、2018年
・ 海老坂武『戦争文化と愛国心 非戦を考える』みすず書房、2018年
・ 澤田直編『異貌のパリ 1919-1939 シュルレアリスム、黒人芸術、大衆文化』水声社、2017年

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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研究例会のお知らせ(発表梗概) [研究例会のお知らせ]

12月9日の研究例会の発表梗概を公開します。
第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15 発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師) 「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)
世界で初めて行われた「民衆法廷」は、今年で50周年を迎える。この「民衆法廷」は、1966年にバートランド・ラッセルによって提唱されたことから別名「ラッセル法廷」とも呼ばれ、現在もなお世界各地で開かれている。民衆法廷とは国家や国際機関によって設置されている法廷とは異なり、主催者が公的機関ではないため法的拘束力は伴わないものの、国際的な人道問題が発生している地帯に関する情報を一般に広く知らしめるとともに、問題の所在を明らかにし、現状を糾弾することで和平を促す試みである。1967年に最初に開かれた「ラッセル法廷」は、ジャン=ポール・サルトルを裁判長に迎え、ベトナムに対するアメリカ合衆国の戦争犯罪を裁く目的で第一回をストックホルム、第二回は東京、第三回はデンマークのロスキレで開かれた。本発表では、この裁判において裁判長を務めたサルトルのグローバル・ジャスティスとしてのアンガージュマンに焦点を当てながら、「真理の生成」という思想学的な分析と市民社会におけるモラルの問題からラッセル法廷の意義とその展開について考察する。また、ラッセル法廷で発表された『ジェノサイド』にサルトルの後期思想における「単独的普遍」(l’universel singulier) の概念の展開と発展が見られることを検証、分析しつつ、『生けるキルケゴール』において課題として残されていた最後の問いに対する答えの一つが、この法廷の主催と参加、社会的呼びかけを通して示されたということを証明したい。また同様にこの民衆法廷の開催が、サルトルにおける倫理的課題に答える具現化としてのプロセスであることも、あわせて究明する。尚、社会学的アプローチから、ストックホルム、東京、ロスキレと三都市において開催された法廷の記録、とりわけロスキレ市立図書館所蔵の未公刊資料や証言集をもとにラッセル法廷に関してこれまで知られていなかった事実関係を明らかにするとともに、その同時代的な背景と時代精神をも分析したい。そして、現在もなお開催され続けている民衆法廷の今日的な役割について、サルトルの思想と関連付けつつ論じる予定である。       
南コニー(神戸大学非常勤講師)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授) 「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか(非))
 大戦後サルトルは、レジスタンスという「幸福な時代」の終焉を宣告した。確かに第四共和政の混迷した政治状況は、単独イシューの追求が可能であったレジスタンス期とは異なり、緊迫化する冷戦および激化する民族解放闘争への対応は、左翼・民主主義勢力の分裂を余儀なくしたのである。特に1952年、所謂「サルトル・カミュ論争」によって両者は袂を分かち、また同じ年に『レ・タン・モデルヌ』に掲載されたサルトルの「共産主義者と平和」は、メルロ=ポンティによって「ウルトラ・ボルシェヴィズム」として断罪されることとなった。本報告では、50年代初頭のサルトルが、何故これまでの立場を翻しマルクス主義へと接近したのか、その理由を思想内在的に探求したい。
 その際、本報告では「倫理学から政治思想へ」という視角を取ることとする。サルトルは『存在と無』の末尾で、自身の次の著作として倫理学を約束するが、その企図は結局放棄されることとなった。死後3年を経て膨大な草稿が『倫理学ノート』(執筆1947-8年)として刊行されるが、そこには倫理学という営為の自己矛盾が集約的に表現されているのである。では文学作品の他、サルトルは、倫理学を書く代わりに何を書いたのか。それは、「政治思想」と「評伝」である。多くの時事評論に加えて、「唯物論と革命」(46年)「共産主義者と平和」(52年)等で論じられた政治思想、就中マルクス主義との関係は、大著『弁証法的理性批判』(60年)として結実する。同時にサルトルは、ボードレール、マラルメ、ジュネ等のアンガージュマンを執拗に跡づけ、こちら側の歩みもまた大著『家の馬鹿息子』(ギュスターヴ・フロベール論)を形づくっていった。
 これは何故なのか。何故、倫理学は放棄され、政治思想と評伝が書かれたのか。思うにそれは、サルトル自身が『倫理学ノート』で探求した倫理的要請からである。倫理を裏切らないためには、倫理学を放棄し、政治思想ないし評伝が書かれなければならない。しかもそれらは、極端なボリュームの大著として現れるのである。
 こうした視角の下、本報告は次の3つの問題を考察する。①倫理と倫理学の違いはどこにあるのか。何故倫理学は、政治思想と評伝へと転化すべきなのか。②サルトルの政治思想がマルクス主義によって方向づけられるのは何故か。何故マルクス主義は、我々の時代の乗り越え不可能な哲学なのか。③サルトルの政治思想と評伝が、極端な大著となる理由は何か。そこには何らかの必然性が認められるのか。
 これらの問いを考察することによって、本報告では最後に、サルトル1952年の政治思想を「ウルトラ・ボルシェヴィズム」とする判断の妥当性について考察を加えたい。
堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
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日本サルトル学会会報第53号 [会報]

研究例会のご報告
第40回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、南コニー氏、堀田新五郎氏による研究発表が行われます。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します。多くの方のご来場をお待ちしております。

第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15
発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師)
「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか(非))

※発表の梗概はブログhttp://blog.so-net.ne.jp/ajes/に掲載します。

事務連絡 16:50 ~
懇親会 17:30 ~

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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日本サルトル学会会報第52号 [会報]

研究例会のご報告
 第39回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムが開催されました。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われました。多くの方々にご来場頂き、感謝申し上げます。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)
16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Harvey  State University of New York Stony Brook, Distinguished University Professor
ロバート・ハーヴェイ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授)
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
   通訳:黒木秀房(立教大学兼任講師)
司会:澤田直(立教大学)

シンポジウム「竹内芳郎に応える」
 2017年7月15日、日本サルトル学会の第39回研究例会にて、シンポジウム「竹内芳郎に応える」が開かれた。
 ここで、シンポジウム開催に至るまでの経緯などを少し記してみようと思う。
昨年11月竹内芳郎が亡くなった。それは私(小林)にとって、衝撃だった。その理由は様々あるが、そのうちで最も大きなものは、近いうちに竹内芳郎に会いにいこうと思っていたからだった。結局、実際に竹内芳郎と会うことは出来なかった。
 今年の2月から、本シンポジウムの企画を練り始め、企画に賛同し、発表を行ってくれる人を探し始めた。発表者が決定してからは、何度もメールして意見交換を行い、また実際に会合をして合計十時間以上に及ぶ意見交換会を行った。
 私は竹内芳郎の全著作を読み込む作業を行った。そのうちに、竹内の個人史的側面にも関心を抱くようになり、討論塾のかつてのメンバーだった人や、討論塾の中核を担っていた人たちに取材を行った。また、竹内が生まれた岐阜県の資料を漁り、生い立ちなどが徐々に明らかになった。竹内自身は著作で個人史的なことをほとんど書くことがなかったので分からなかったのだ。なお、シンポジウム後のことになるが、親族の方にも取材を行うことも出来て、より立体的に竹内の姿が分かるようになった。また、取材を進めていくうちに、興味深い遺稿の存在することも明らかとなった。今回のシンポジウムで活用することはほとんど出来なかったが、将来に向けて、それは日本におけるサルトル受容史を解明する上でも極めて重要なものとなるだろうと思う。

 さて、今回のシンポジウムでは、はじめに小林が、以上の取材などを元にして、竹内芳郎の生涯を紹介し、現代において竹内芳郎を読むことの意味について、また本シンポジウムの意義について説明した。
 それに続いて、三つの発表が行われた。以下にそれぞれ発表者自身による詳細な報告文があるが、私なりにまとめると、(1)永野氏はサルトルから影響を受けた竹内芳郎の倫理思想を解明することで、そこから逆照射するようにしてサルトルの新しい読解を提示しようと試みた。(2)小林は、竹内芳郎のサルトル受容を日本哲学史の文脈から再構成することで戦後思想としてのサルトルの斬新さを明らかにしようとした。(3)鈴木氏は実際に長年に渡る討論塾の参加の経験をもとにして、竹内芳郎が「討論塾」という営為をもとに問題提起したことを要約的に提示しつつ、現代のアカデミズムに対する鋭い問いを突き付けた、というものであっただろう。
 当日は、会場を含めて活発な議論が行われた。だが、生方氏の報告文にもあるように、「あまりに時間が不足していた」。だが、どれほど時間があっても足りなかったであろう。議論が「実を結ぶ」ことはなかったかもしれないが、様々な思考の「種」を私は貰うことが出来たように思う。今後、それを育てていきたい。
 最後に、このような企画を受け入れてくださったサルトル学会、それから度重なる議論に付き合い、また発表を行ってくださった永野潤氏、鈴木一郎氏、また司会を引き受けてくださった生方淳子氏に、大きな謝意を表したい。(文責:小林成彬)

1) 「竹内芳郎とサルトル哲学」(永野潤)
 かつて「サルトルを再評価するならば竹内芳郎的な読解とは違う新たなサルトルの読み方を提示しなければ」というようなことを言われたことがある。このように、竹内芳郎は、かつて主流だったが今は古くなってしまったサルトル読解の典型、としてしばしばとらえられている。しかし、はたして竹内、あるいは竹内的サルトル読解は、そもそも「古くなる」前に「主流」だった時代があるのだろうか。むしろ、竹内思想の本質的部分は、一度も受け止められることなく「黙殺」されてきたのではないのか。本発表では、サルトル哲学の影響を受けた、竹内の思想の核となる倫理思想の枠組みをとらえなおし、それが、どのように現代と「出会う」のか、ということを考察した。
 竹内によると、サルトルの他者論は、私の自由を否定する他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」を秘めている。竹内は、「相剋」を「善用」し、「相剋」を通じて自由を獲得するというこの逆転劇に「実存的倫理」の根拠の一つを認めるのだが、ただし彼は、こうした実存的倫理が真に確立されるためには『存在と無』における他者論だけでは不十分である、と考える。「相剋」を引き起こすためには、実は「他者もまた私と同じまなざし得る主体なのだ」という「相互性」の認知が必要なのであり、それを自覚するところに真の実存的倫理が(サルトルの場合は『弁証法的理性批判』の段階に至って)成立する、と竹内は考える。
 とはいえ、ここで竹内が倫理の根底にとらえる「相互性」とは、「相剋」を隠蔽するところに成り立つ自己欺瞞的な人間関係、すなわち「馴れ合い的」な「共生」とはまったく異なったものである。竹内は、実存的倫理が「裸形の人間」から出発するものであることを繰り返し強調するが、裸形の人間とは、単なる「個人」ということではなく、共同体から排除された「構造からの食み出し者」(『文化の理論のために』)でもある。そして竹内は、近代的な人権思想の原点には、裸形の人間=食み出し者を救済する「普遍宗教」の成立と、その中で確立した「超越性原理」がある、と考える。竹内は、後年の討論塾における発言の中で、「構造からの食み出し者」に立脚した、ラディカルな労働運動、ラディカルなヒューマニズムの展望をしめしているが、その意味でそれは人権思想のはるかな原点に帰ることでもある。一方で竹内は、「裸形の個人」と対立するものとしての日本の伝統的な人間関係である「集団同調主義」を「天皇教」と呼んで一貫して激しく批判し続けた。それは、対立や矛盾を隠蔽する「欺瞞の体系」であり「無責任の体系」である。天皇教的なものが、権力側も反権力側も共通に支配する「日本的現実」と竹内は格闘し続けた。2000年に発表した文章の中で、竹内は、「ヴェ平連」系の団体が1991年に「この憲法のもとにあった45年間、日本はただの一人も軍隊によって人間を殺したことはありませんでした」という米紙への意見広告を出したことを例に、日本の市民運動の「自己矛盾への鈍感さ」を痛烈に批判している。ところで、例えばデモにこれだけの人数が集まった、と運動が誇り、また逆にこれだけしか集まっていない、とそれを批判するような状況がある。しかし、主流から食み出し、食み出した孤独の中でかえって普遍につながっていくという竹内の思想は、そうした発想の対局にある。(文責:永野潤)

2) 「竹内芳郎と「戦後」」(小林成彬)
 戦後日本にサルトルは大きな影響を与えた、と言われる。だが、それは具体的にどのような影響であったのだろうか。あるいは、サルトル受容は実際どのようなものであったのだろうか。このような問いを立てた時、私は呆然とせざるをえない。第一に、その受容はあまりに広汎に渡っているからであり、第二に、それがゆえに、その「大きな影響」の具体的な内実については暗闇の中にあるように思えるからだ。
 しかし、戦後思想、とりわけ丸山眞男などを代表とする、いわゆる「戦後民主主義」との緊張関係においてサルトルの影響を考察してみると、サルトルが戦後日本に与えた影響の意味が明らかになってくるように私には思われた。例えば、竹内芳郎は「日本的現実との闘い」としてサルトルの思想を受け止めたが、この「日本的現実」の内実を見てみると、「戦後民主主義」思想家たちが徹底して分析し批判しようとした対象とほとんど同じように思われたからである。しかし、竹内芳郎は「戦後民主主義者」からも一定の距離を置いていた。この「距離」を分析することで、サルトル受容を先鋭的に提示することは出来ないだろうかと最初私は考えた。
 しかし、歩みを進めていくうちに、「戦後思想」そのものが、彼らの「戦争体験」に根差し、また、戦前の思想たちへの対立のうちで育まれているということが明らかになった。「戦後思想」の成立の条件には、「戦争体験」と「戦前思想」があったのではないか。
 「竹内芳郎の「戦後」」と題した本発表で扱ったのは、竹内芳郎にとっての「戦後」が可能となった条件を明らかにすることである。それを明らかにすることで、「戦後日本におけるサルトル受容」の生産的側面を明確化できるのではないかと私は期待した。探究を進めていくうちに、竹内芳郎においても、「戦前思想」と「戦争体験」の二つの軸から「戦後」の意味を明らかにできるように思われた。戦前の京都学派の思索に竹内芳郎は大きな影響を受けていた。だが、自身の「戦争体験」を基盤として、それを徹底的に批判しようとし、「戦後」にサルトルを発見し、受容したことが明らかになった。竹内芳郎は「戦争体験」についてほとんど公で語ることはなかったが、晩年の『討論塾』などでの述懐や遺稿をもとに「戦争体験」の再構成を試みた。京都学派と竹内芳郎の関係も極めて複雑なものである。図式的に言えば、竹内芳郎は和辻哲郎の思索に対するラディカルな批判意識を持ち、それへの批判としてサルトルを武器としたと言えるだろうが、竹内のサルトルの受容には九鬼周造への大きな依拠が認められる。根底に横たわっている問題とは、一言でいえば、「他者」をどのように考えればよいか、「根源的社会性」をどのように考えればよいのか、というものであっただろう。
 日本の「哲学」界において、サルトルには厳しい判定がこれまで様々な形で下されてきた。竹内芳郎はその法廷でサルトルの要求を護ってきた。サルトルの要求に異議を唱える、反対側の席には誰がいるのだろうか。その暗闇の席に光を当ててみると、そこに座している最も大きな人物として、西田幾多郎とハイデガーが見えてくるように思われる。私は再審請求を行ってみたい。それによって、「日本におけるサルトル受容」の歴史的側面をより明らかにし得るであろう。また同時に、サルトル自身の哲学的生産性を新たに明らかにし得るのではないか。本発表を通して抱いた感想である。(文責:小林成彬)

3) 「竹内芳郎と討論塾の実践」(鈴木一郎)
 竹内芳郎は、1989年に討論塾を創設した。討論塾は、論争や討論がすっかり消滅してしまった日本の言論空間に抵抗して、討論を通じて日本社会独特の精神風土である集団同調主義=天皇教を克服することを目指した教育機関である。また、討論塾は、1960年代後半の我が国の大学闘争の挫折を教訓として踏まえたものである。この点で、大学闘争によって提起された課題を殆どすべて放置してきたため、昨今の所謂<大学問題>と称される様々な矛盾に直面せざるを得なくなっている大学アカデミズムの在り方と鋭く対立する。討論塾の目指す所は、<真理性>という基準を立て、異なる思想・意見を持つ者同士が、「相互吟味」(ソクラテス・林竹二)を通じて行う真理追求の営為である。この場合の真理とは絶対的なものではなく、あくまで、討論の過程で認識し得る根拠のある確からしさ(明証性)であり、何時でも検証によって更新され得る暫定的なものである。討論において、こうした真理性を基準として設けることによってプロタゴラス的な相対主義を克服することができる。さらに、真理に恭順であるためには、人類史の中で普遍宗教の成立とともに生まれた超越性原理に従う必要があり、この原理の徹底化による自己批判を通して我執を去ることが求められる。これによって、異質な他者との間で、暴力を回避しつつ、言論による共通認識を形成していくことが可能となる。討論では、専門家と非専門家の垣根を超えた対話を行うことによって脱タコツボ化を目指すとともに、明示性言語の行使によって、含意性言語に基づく<察しの文化>(昨今の言われるKYや忖度の文化)の排他性をも克服する。この営みを重ねることによって、公論形成と真の民主主義精神の確立を目指す。他方、大学闘争の経験から学ぶことを怠ってきた大学アカデミズムは、一般的には、このような討論塾の目指した理念とは逆の方向を辿った。即ち、研究者集団は、専門性を口実に、ひたすら市民社会の日常との関連を絶ち、ますます疎外された知の中に逃げ込み、その自信の無さから異質な他者との討論・論争を避けてきた(だから、異論に応える(répondre)責任(responsabilité)を放棄し黙殺を以て応じるのが慣例。この黙殺文化の根底には対他存在を希薄化してしまう天皇教の無責任文化がある。)。もし今後も、異質な他者や市民社会との相克の中で自らの営みを真摯に検証し、生きた知的営為を回復する契機を失するのであれば、少子化や財政難といった社会構造の変化の中で、市民社会での自らの立脚点を失い、政治権力側の圧力に抵抗する事もできずに、嘗て福沢諭吉が揶揄した幕末・開国時の卑屈な漢学者のように歴史の中で淘汰されていくことであろう。

【質疑応答】(鈴木に対するもの)
問:大学の研究会などに出てみても、海外の思想の紹介などはあっても研究者自身がどう考えているかが見えない事が多いし、現実の喫緊の課題を考えていることも少ない。 答:研究者と市民との対話の機会を創り出して行かなければ研究者集団の先行きはどん詰まりとなるだろう。 
問:絶対的真理は否定されるべきものだが、真理への意志が人間の中にあるからこそ討論が行われると理解した。真理への欲求をどう考えるか? 答:共同主観性の中で真理はその時点で見えている確からしさだ。その根拠が変われば真理は更新される。現象学的に言えば、真理への意志を成り立たせているのは<射映>という認識の構造だ。サルトルに従えば、現れていないものに向かっていく指向性とも言えるだろう。 
問:竹内の『言語・その解体と創造』における文学言語論は哲学・思想的には啓発的だが、象徴派などのフランス文学の流れの厚みの理解が足りない印象があるがどう思うか? 答:同著の第二論文「アンガージュマン文学の言語論的再検討」は、詩的言語をアンガージュマン文学から排除するサルトルを批判し、詩的言語の可能性を高く評価したもの。逆に文学に対する大きな理解を示すものだ。
問:現在、竹内の著作は読まれていないが、その思想が日本社会を変えていない理由は何か? 答:そもそもある思想が日本社会を変えるなどということは戦後日本の中では未だかつて無かったのではないか? それは竹内個人の思想云々ではなく、日本の思想風土全体の問題だ。他方、竹内の思想自体は現実変革に極めて有効だ(例えば直接民主主義による代議制批判等)。
(文責:鈴木一郎)
4) 司会者からの報告
 今回の例会は、サルトル学会の20年あまりに及ぶ活動の中でも稀に見る挑戦的な異色のシンポジウムとなった。大学院生による発案と準備のもと、在野で哲学思想を研究する人々をパネリストおよび聴衆の中に迎えて、戦後の日本思想から最新の時事問題に至るまで、サルトル研究の枠を超えて縦横に議論が交わされた。その中心に置かれたのが竹内芳郎の業績である。竹内は日本におけるサルトル哲学研究の先駆者のひとりで、『サルトル哲学序説』(1956年)や『サルトルとマルクス主義』(1965年)など本格的な研究書の著者であり、『自我の超越』、『情動論粗描』や『弁証法的理性批判』などの翻訳・注釈者であり、また戦後日本の「近代性」に辛辣な批判を向ける思想家でもあった。90歳を超えてなお健在ぶりが伝えられていたが、昨年11月に不慮の死を遂げられたことから、追悼とオマージュの意味も込めて、彼が提起した問題、今も決着がつくどころかさらに重みを増している問いに新たに向き合おうと試みたのである。
 最初に、発案者の小林成彬氏から、この会の趣旨、竹内芳郎の生涯、そして彼が取り組んだ問題について導入的な解説があり、続いて、サルトル研究者としてすでに多くの著作を公刊している永野潤氏から、存在論と倫理を踏まえて共同体からの「食み出し」や民主主義の欺瞞という問題をめぐってサルトルと竹内芳郎との接点を探る洞察に満ちた発表があった。続いて再び小林氏から、竹内がいかにサルトルを武器として戦後日本の現実の中にあった「愚劣さ」と戦おうとしたかということについて多くの貴重な指摘がなされ、そして最後に、竹内芳郎の主催する「討論塾」に、その発足時より長年にわたって参加してきた鈴木一郎氏から、考えの異なる者同士が討論をするということの意味について、サルトルの他者論やソクラテスの対話を引きつつ問いが発され、門外者との議論を避けようとする研究者の閉鎖性や外部へのコミュニケーションの意図を欠いたアカデミズムの不毛に対して忌憚ない批判が寄せられた。サルトル学会のあり方に対しても、質問状(「塾報」など)を送っても反応がなかったとして容赦ない批判が浴びせられた。この点、サルトル学会は大いに反省し、外部との対話のパイプを確保するため早急に検討をせねばなるまい。
 会場からは、竹内のサルトル論の不備も指摘されるとともに、竹内の思想に真に現実を変える力があったのか、といった疑問の声や、指導的思想が日本を大きく変えたことが一体あったのか、といった根本的問いかけも出された。論点は、発表内容を受けて安全保障関連法反対運動やいわゆる「共謀罪」をめぐるメディアのあり方や日本的精神風土と天皇制にまで及び、刺激的な「対話」が素描されかけたが、残念ながらそれが何らかの実を結ぶには、あまりに時間が不足していた。
 今回のシンポジウムは、サルトル学会に思いがけない風を吹き込み新しい地平を開いたものとして特記すべき「事件」でさえある。今回を単なる例外とせず、ぜひとも第2回、第3回のセッションを企画し、討論を深めていくことを切望する。(文責:生方淳子)

ロバート・ハーヴェイ 「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」

 ハーヴェイ氏は、サルトルの最も有名な概念の一つである「自己欺瞞」と、私たちの身近な現状との間にいかなるつながりがあるのか、というシンプルな問いを立てることから始めた。
 ハーヴェイ氏は、「自己欺瞞」概念の受容を辿り直すことで、この概念が古びてしまうどころか、神経解剖学等による新たな発見に裏打ちされる形で、その妥当性がより強く示されてきたことを指摘した。その「自己欺瞞」とは、「自分以外のものになる可能性」というポジティヴなものであるというよりは、むしろ「取るべき決定を退ける」というネガティブなものであり、「自由」と弁証法的な対立関係にあるものだった。
 このように「自己欺瞞」概念を再確認した上で、再び現実世界の方を見るならば、ポピュリズムやナショナリズム、外国人排斥等が世界中で蔓延する現状は、まさに自己欺瞞的状況であるとハーヴェイ氏は述べる。こうして「自己欺瞞」概念と現実的な状況を照らし合わせて見えてくるのは、「政治的判断の可能性の条件」という問題だった。すなわち、自らに嘘をつくことで、結果として他者への責任から逃れるということだ。しかし、だからといって「自己欺瞞」が私たちを存在論的に規定しているわけではないことをハーヴェイ氏は強調する。そこで今一度サルトル自身の「自己欺瞞」の例が取り上げられ、再検討された。
 そこから引き出されたのは、自分に対する嘘についていかにして意識的であるか、という逆説的な問いである。ハーヴェイ氏は、現代社会の政治リーダーのうちに、自己欺瞞の痕跡が見出されると述べるものの、彼らは自己欺瞞の例としてふさわしくないと断言する。というのも、彼らは自らの嘘に対して意識的だからだ。ハーヴェイ氏自身が自己欺瞞の例としてあげるのは、意外にも『タルチュフ』の登場人物オルゴンだった。彼は、好きな人には騙され、自惚れが強く、盲目的であり、政治的判断能力を奪われたものとして描かれているとハーヴェイ氏は指摘する。
 最後にハーヴェイ氏は、このオルゴンのような「自己欺瞞」の現代的な形を見出すことができるのは、平気で嘘をつくことのできる現代の政治的独裁者ではなく、SNS等を通じて他者の仮面をかぶって生き、政治的判断能力を奪われた現代人であると述べて締めくくった。
 以上のように、本講演は、概念とアクチュアルな問題を往還するようにして、概念が刷新される一方で、現状に対しても鋭い分析が加えられ、ダイナミックなものだった。じっさい、質疑の際には、自己欺瞞と無意識をめぐる精緻な質問が上がった一方で、アクチュアルな問題への哲学的アプローチに刺激を受けたという声が上がった。(黒木秀房)


サルトル関連文献
・植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編著、富山豊・森功次著『ワードマップ現代現象学 : 経験から始める哲学入門』新曜社、2017年
・水野浩二「サルトルにおける「非-知」の問題とその射程 : 一九六一年の講演をめぐって」『札幌国際大学紀要』 (48), 2017年, pp. 15-20.
・高橋由貴「大江健三郎「死者の奢り」におけるサルトル受容 : 粘つく死者の修辞」『昭和文学研究』(74), 2017年, pp. 102-115.
・梅﨑透「新左翼とサルトル/ニューレフトとカミュ : 日米の「一九六〇年代」と実存主義」『社会文学』(45), 2017年, pp. 78-90.
・伊藤氏貴「文学の敵たちをめぐる一考察 : 漱石、サルトルに抗して」『文芸研究 : 明治大学文学部紀要』(132), 2017年, pp. 11-18.
・竹本 研史「サディズムとマゾヒズム : ジャン=ポール・サルトルにおける性的態度について」『人間環境論集』17(1), 2016年, pp. 1-42.

次回例会のお知らせ
 次回の例会は12月9日(土)に大阪で開催の予定です。
 日時:12月9日(土)13:00 - 17:00

場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

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8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」開催 [サルトル関連情報]

このたび、新しい現象学の教科書
  植村玄輝・八重樫 徹・吉川 孝 編著
  富山 豊・森 功次 著
  『ワードマップ 現代現象学――経験から始める哲学入門』
  新曜社、2017年8月
  http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1532-1.htm
が刊行されました。

これを記念し、8/14(月)より紀伊国屋書店新宿本店にて「現象学ブックフェア」を開催します。
フェアでは、総勢14名の選書者により、
 ・本書で紹介されている現代現象学の方向性に即した書籍
 ・それとゆるやかに共鳴する現象学の現代的な展開を体現する書籍
 ・本書で紹介されている様々な事柄・論題に対する現象学的なアプローチを示す書籍
 ・20世紀において現象学と並行に展開してきた分析哲学の伝統に属し、現代現象学にインスピレーションを与えたり、現代現象学のライヴァルとなりうる書籍200点以上を取り上げ、17項目にわたる解説文を加えました。

フェア会場では、これを掲載した36頁のブックレットも配布いたします。
以下に開催概要を記しますので、開催期間中に ぜひご訪問いただければ幸いです。
またお知り合いで興味関心を持たれそうな方がいらっしゃったら
フェア案内ページのURL(http://bit.ly/201708fair)をご紹介ください。

酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ!──現象学からはじめる書棚散策」紀伊國屋書店新宿本店ブックフェア(2017年8月14日~)
bit.ly


┌───────────────────────────────────────────

  『ワードマップ 現代現象学』刊行記念ブックフェア
  いまこそ事象そのものへ!─現象学からはじめる書棚散策

・開催期間: 2017年8月14日(月)から一か月ほど
・開催会場: 紀伊國屋書店新宿本店 3階人文書レジ前
・選書と解説:
  植村玄輝、八重樫 徹、吉川 孝、富山 豊、森 功次、村田憲郎、小手川正二郎、
  佐藤 駿、武内 大、宮原克典、新川拓哉、池田 喬、前田泰樹、葛谷 潤
・企 画 : 酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)
・協 力 : 新曜社

※その他詳細はフェア紹介ページをご覧ください: http://bit.ly/201708fair
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